第3話

「おい、あれ人だぞ。走って逃げて来てる」


 明るいキャラ代表のようなクラスメート、山中 翔が学校の敷地外を走る男性を見つけて叫んだ。それを聞いた何人かが、すぐに窓際に駆け寄る。都会のど真ん中とはいえ、最上階の四階の教室からなら、それなりに周囲が見渡せる。

 自席で立ち上がったヒロの目にも、路地を走るスーツ姿の男性が見えた。その後を数人が追いかけるようにしていったが、すぐに建物の陰に隠れて見えなくなってしまった。


「なんかみんな必死に走ってってたぞ」

「何してたんだあれ? よく分かんねぇけど、やっぱり相当やばいんじゃねーの」

「先生! 俺たち、本当にまだここで待ってないといけないのかよ」


 鈴木も慌てて窓際に駆け寄る。窓際の人だかりの向こう、先程の路地を黒い大きな塊が素早く走っていくのが見えた。

「なんだよ、アレ……」それを見た全員が瞬く間に固まった。


 それからは全てがあっという間だった。恐いような楽しいような、ただ待つだけの時間。日常の延長の非日常。ちょっとしたエンターテインメントな大事件。傍観者でいるうちは楽しめるそれも、一度当事者になってしまえば残されるのは恐怖のみだ。

 上空を飛んでいたヘリコプターも先程の黒い塊を目撃したのか、それが向かった方へと飛んで行く。

 近くだとこんなにうるさいのか。ヒロは外を見ながら、ついあまり関係ないこと考えてしまっていた。

 黒い塊が向かっていった方の空に一つ、赤い炎のような塊が見えた。赤い塊はヘリコプターの側面にぶつかった。バンと大きな音がして、ヘリコプターはバランスを崩した。それでも、どうにか体制を持ち直せそうだとヒロは思った。

 直後、二つ目の赤い塊が飛んできて、再びヘリコプターにぶつかると、瞬く間にその内側が炎で埋め尽くされた。もくもくと黒い煙を上げながら、学校のすぐ傍の住宅地に落ちていった。


 それは叫び声が上がってしかるべき状況なのだろう。ドラマなんかであれば、きっとそうならなければいけないのだろう。だが、そうはならなかった。ヒロもクラスメートも、ヘリコプターがゆっくりと、実際には彼らの体感程ゆっくりではなかったけれども、落ちていく様子をただ呆然と眺めた。

 ヘリコプターが落ちて、少しの振動を感じ、大きな衝突音を聞いた。一呼吸遅れて、もう一度、今度はより大きな爆発音がした。どこかの教室の窓ガラスだろうか、ガラスの割れる音がした。

 何が起きたのか、あまりの現実離れした出来事に、状況を正しく理解できた者はいなかったが、ガラスの割れる音をきっかけに周囲が一斉に騒ぎ始めた。

 近くの生徒同士が、お互いに今起きたことを確認し合いだした。あんな状況でも、端末で撮影していた生徒もいて、アップしたらバズるぞ、などと興奮している。

 そんなことしてる場合か? これは、もう普通にヒーローとか巨大ロボが出てくるような場面だろ? いや、その普通ってなんだよ、などとヒロがどうでもいい考えを巡らせていると、逃げた方が良いんじゃない、と話す女子の声が耳に入った。

 それに答えるように、逃げるったって、さっき通り過ぎていった黒い塊はなんだあれ? 大丈夫なのか? こういう時は落ち着いた方が良いんじゃないか? という声も聞こえた。

 あちこちで上がる答えのない、議論未満の混乱した大声だけが教室を満たした。そのまま全員が教室に留まっていると、窓の向こうの新宿の高層ビルを背景にタワーマンションの隙間を縫って、唐突に大きく翼を広げた黒いドラゴンのような造形をした飛行物体が現れて、炎の塊を吐いた。

 炎の塊は校舎にぶつかったのか、教室が揺れた。大きな衝突音に混じって、悲鳴が聞こえたような気がした。

 ヒロは、呆気にとられた。

 ――なんだよ、どういう原理で火を吐くんだよ。ていうか、なんであんなのが飛べるんだ。でも、翼竜も飛んでたらしいから、あのサイズでもいけるのかな。てことはあれは恐竜的な何かか。翼竜って恐竜じゃないんだっけ。まあそれはそれとして、とにかく古代生物が現代テクノロジーで蘇ったのか。でも、火は吐かないよな、そういう類のやつは。

 ヒロが、ぐるぐると無駄な思考を巡らせていると、そう遠くないどこかで叫び声が上がった。その叫び声を聞いた生徒たちは、我慢の限界に達したのか、我先にと廊下へと走り出した。

 ヒロは、右隣に座るミクを見た。ミクもヒロを見ていた。一緒に逃げる、アイコンタクトでそういうことになったような気がして、ミクの左手を取った。初めてヒロは、ミクと手を繋いだ。ミクも自然と手を握り返してきたのだから、目と目だけで以心伝心できたのだろう。こんな時なのに、ヒロの口元は緩んだ。

 だが、逃げると言ったところで、一体どこに逃げれば良いのだろうか。家だろうか? 地震ならば、外を無闇にウロウロしない方が良かった筈だが、ここにこのまま居続けることはできないだろう。ただの高校生でしかないヒロには、正解が分からなかった。

 教室で唯一の成人である鈴木は、生徒たちに向かって慌てるな、落ち着けと言っている。しかし、恐慌状態に陥った生徒たちの耳に、その声は全く届かない。やがて鈴木も生徒を引率する体を装いながら、廊下へと消えていった。

 女の子の手って柔らかいんだな、付き合いたいな、付き合ってくれるんじゃないかな、ここを切り抜けられたら。これがフラグってヤツか。いや、生きろ自分、生きるんだ。と、ヒロは初めて触れた意中の女の子の手の感触に、一人舞い上がっていた。逃げるという意味では、完全に出遅れていた。

 彼はそんな浮かれた頭でも、とにかく家に帰ることに決めた。ミクの家も同じ鉄道路線なのは聞いている。降車駅はヒロの降りる駅の三つ手前だから、帰る途中で送っていけるだろう。都内の道に詳しいというわけではないが、線路と並行して道路が走っている場所も多いし、四谷くらいまでなら道も分かる。途中、コンビニだっていくらでもあるだろうし、何とかなるはずだ。

 ただ問題は、学校の周囲の状況が分からないことだった。昼休みに公園の方から聞こえた音や煙の匂いは、すでに異変が起きていたことの証拠だろう。公園を少し迂回する程度の道は分かるが、大きく迂回するとなると迷う可能性もある。いつものように端末を使えればいいが、この後もずっと電波は繋がり続けてくれるのか、バッテリーは持つのか、不安の種は尽きなかった。

 ヒロが左のポケットから端末を出して確認すると、まだ電波は生きていた。さっきまで無駄にいじっていたのが悔やまれる、バッテリーはすでに半分しかなかった。


「ミク、家に帰ろう。方向一緒だし、送ってくよ」

「道分かるの? 電車動いてると良いけど」

「道は正直、俺もよく分かんない。けど、お堀のあたりは線路沿いにずっと道あるでしょ。電車の中から車走ってるの結構見えるし。だから歩いて帰れると思う」

「そっか。じゃあ、一緒に帰ろ。良かった、ヒロと帰り道が同じ方向で」


 ちょっと待ってね、とミクが一度手を放して、端末も見れる、お菓子も飲み物もあると言いながら、カバンの中身をチェックしている。あまり慌てた様子を見せないミクに、割と頼もしいところもあるんだな、などと思いながら、ヒロも机の脇に掛けていたカバンを背負った。

 二人はもう一度、手を繋いだ。教室を出る前にちらりと振り返ったヒロの目に入ってきたのは、いつもと大して変わらない光景だった。

 廊下に出て、二人は右手にある階段に向かった。そのフロアにはもうヒロたち二人しか残っていないようだった。階段と反対方向、廊下の奥の教室からはモクモクと煙が溢れ出してきていた。二人は歩を早めた。

 逃げるのが遅れたのが幸いしたのか、玄関で混雑に巻き込まれることもなく、学校からはすんなり脱出できた。

 そのまま大通りに出ると、二人は手を取り合い、早足で歩き始めた。

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