第4話
『今夜、20時にパスレルホテルで。貴女とお話ししたい』
意味を理解するのに、10回は読み直した。
いや、理解できてない。
なぜ私が公爵閣下に呼ばれているのだろう。
………。
軽い女だと思われている?
いや、公爵閣下ほどの人が異国の、しかも貴族に手を出すとは考えにくい。
そんな軽率な行動はしないだろう。
でも旅のかき捨てとも言うし、男性はオオカミだとも言うし。
それに今回の提携からして、公爵閣下をもてなすために望むことはある程度なんでもしそうだ。
………。
私も貴族のはしくれとして、覚悟を決めよう。
この国ため。民のため。
きれいな下着をつけていこう。
こういう作法も習ってきてはいる。
支度を整え終わったところで、ノックが鳴った。
「お嬢様、いらっしゃいますか?」
ユゼフの声が扉の向こうから聞こえた。
ここで住み込みで働いている8歳の少年だ。
「ユゼフ、どうしたの?」
「お嬢様がここを解雇されたと聞いて……、来てしまいました。ごめんなさい」
泣きそうな細い声が聞こえてくる。
「そうなの? ありがとう」
「本当なんですか? なぜ、なんですか?」
心配しにきてくれたんだ。
「私も信じられないけど、本当みたい。理由は、私に創造的な仕事は無理だって、私の仕事は遊びだって、言われちゃった」
あらためて口にすると、涙ぐみそうになる。
子ども相手に恥ずかしいな。
「そんな……」
ユゼフの声から、私をいたわる気持ちが伝わってくる。
まだ、出かけるのに時間がある。
今後、もう会うことはないかもしれない。
「廊下は寒いでしょう。中にお入りなさい」
「いいえ、ここで大丈夫です」
8歳とはいえ男の子だ。
恥ずかしがっているのだろうか。
「遠慮しないで。風邪をひいたら大変だから」
扉が開ける。
涙でくしゃくしゃに目をはらしたヨゼフがいた。
両手で顔を隠し、きれてない。
これを見られたくなかったのか。
プライドを傷つけてしまっただろうか。
「泣いてるの?」
膝をついて、金色の髪をなでる。
「男なのに泣いてごめんなさい、悲しくて……」
ヨゼフが涙声で口を開いた。
「悲しい? 私がいなくなることが?」
ヨゼフがうなづく。
「きつくてやめたくなるときも、僕よりもっとがんばってて、目をきらきらしてるお嬢様がいるから、がんばれて。今は掃除しかさせてもらえないけど、いつかお嬢様のような仕事をしたいって、ずっと思って」
もうダメだった。
急にまぶたが熱くなり、涙がボロボロと止まらなくなった。
「ありがとう、ヨゼフ、ありがとう」
ようやくお互いに涙が止まったころには、もう出かけなければいけない時間になっていた。
「ごめんなさい。お別れする前にいろいろお話したかったのだけど、これから会わないといけない人がいるの」
「え? 今からですか? まさか、一人で?」
「まさか、誰か男性の職員に付き添いをお願いしようと思ってるよ」
このへんは治安がいいほうだと言っても、さすがにこの時間に一人で出歩く不用心ではない。
「じゃあ、僕が! ランプ持ってきます!」
「え?」
私の返事も待たず、ヨゼフは飛び出していった。
「お待たせしました! 行きましょう!」
1分もかからずに戻ってきた。
私の手を引く。
断る言葉が思い浮かばない。
まあいいか。
自分を差し出せば、ヨゼフのことは守れるだろう。
そもそも歩いて10分の距離だ。
玄関を出ると、馬車が止まっていた。
スーツの男性が丁寧にお辞儀をする。
「マリお嬢様、お迎えにあがりました」
公爵閣下の護衛の方だ。
閣下は、歩いて10分の距離に馬車を用意してくださるのか。
「その少年は?」
護衛の人が、ヨゼフに気づいて尋ねる。
「マリお嬢様の護衛です!」
ヨゼフが声を震えながら、声を張り上げる。
護衛の人がにこっと笑う。
「これはこれは
パスレルホテルに到着した。
異国の要人のためのホテル。
バラの庭園に囲まれ、神々の像があしらわれた、
今は暗くて見えないのが残念だ。
護衛の人にうながされて、中に入る。
「ヨゼフ様はここでお待ちください」
当然だけど、ヨゼフは入室をとめられた。
悲しそうな目で見上げてくる。
「だいじょうぶよ。待っててね」
にこっと笑って、胸に手を当てる。
外が絢爛なら中はそれ以上だった。
護衛の人の後ろにつきながら、灯りに照らされた赤いじゅうたんの上を歩く。
ちょっと怖いな。
ヨゼフにいてほしかったと思ってしまう。
護衛の人が扉の前に立つ。
「閣下はお待ちです。どうぞ」
「はい」
息を吸う。ノックをする。
「お招きにあずかりました、マリ・ラ・ジョリオです。入室しても」
「ようこそ。はるばるよくぞいらっしゃいました」
扉が急に開き、目の前に少年のように笑う公爵閣下が現れた。
腰をつきそうになった。
公爵閣下が扉を開けて出迎えるなんてことがあるの?
フランク過ぎる。
こんな人だったっけ?
「どうぞどうぞ、お座りください。ダージリンティーでよろしいですか?」
公爵閣下に座ってと言われて、簡単に座れない。
え、もしかして閣下自らがお茶をいれるつもりなの?
「こ、公爵閣下、ご用件はなんでしょうか?」
用件がわからないと緊張でお茶の味もしない。
座ることすら無理だ。
「無理に呼んでしまいましたか?」
お茶をいれる手をとめ、こちらに向き直る。
「……そうですよね、貴族の貴女に断るという選択肢はない。嫌でしたよね。俺一人で舞い上がってしまい、申し訳ありません」
「いえ、違うんです!」
つくづく、なんて私は会話が下手なんだ。
「呼ばれたこと、心の底から本当に嬉しかったのです。でも、同時に不安でした」
「不安? なぜです?」
「なぜ呼ばれたのかと。夜伽の相手ではないかと」
「夜伽……? YOTOGI……?」
閣下が口に手を当てた。
考え込む。
思い出したかのように、手をたたく。
そして、驚いた顔をした。
「まさか! 俺が、そのようなことを要求する男に見えましたか?」
暗いからわからないが、顔が赤いように見える。
「ご、ごめんなさい! わからないのでそれくらいしか思い当たらなくて」
「そうでしたか、伝えたつもりだったんですが……、”もっと貴女の話を聞きたい”と」
本当に?
社交辞令ではなくて?
じっと私の目を見る。
「こんな夜に説明もなく呼び出したこと、お詫びします。心から、貴女の話を聞きたいと思ってお呼びした次第です。俺の都合で恐縮ですが、明日にはここを発たなければなりません。貴女の時間が許す限り、お話しませんか?」
「わ、私の話のどこを気に入ってくださったんでしょうか?」
思い出しただけで死にたくなるような話しか思い出せない。
「錬鉄や錬金の話ですよ。貴女の研究について、全然聞けずに終わってしまいましたからね」
「そんな! 述べたとおり、まったく成果があがっていないんですよ。聞くに値しないと思います!」
「私が聞きたいんです。お茶をどうぞ」
美しいカップに注がれた、ダージリンの
顔をあげると、閣下の顔がランプの優しい灯りに照らされる。
座って紅茶をいただくものだと習ってきた私は、生まれて初めて、立ちながらカップを受けとった。
自分の研究を、なるべく簡潔に話そうとした。
要点だけを伝えるつもりだったが、閣下に掘り下げられて、気づいたら5時間も経っていた。
どんな興味がある話でも、5時間も経てば疲れる。
でも閣下は、そんな素振りどころか、ますます目をらんらんとして相づちを打つ。
私は私の研究を、こんなに話をできたことがない。
こんなに言葉を交わしたことがない。
楽しかった。
外が白んだ。
白い光が閣下の端正な横顔を照らす。
変わらず、優しい顔で私を見つめてくる。
そして、ぽつりとこう言った。
「貴女をこのまま帰すのは惜しい」
閣下が椅子から立ち上がって、ひざをついた。
「錬金術職員として、どうか我が国に来ていただけませんか」
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