第5話 戦いの準備

 雨戸の隙間からうっすらと優しい日が差し込み、室内の埃が光の帯の中をふわふわ漂っている。川の流れる音と鳥のさえずりが絶え間なく聞こえ、恋音れおんは心地好い朝を迎ていた。


 ゆっくりと恋音れおんは体を起こし周りを見渡す。ここは、必要な物しか置かれていない質素で簡素な部屋だった。生活感がまるで感じられない。


左文字さもんじ……?」


 昨夜左文字さもんじは、「若い女子おなごと枕を並べて寝るわけにはいかねー」と言い、部屋の端と端に布団を敷き、その間に仕切り代わりにちゃぶ台を立てかけた。

 何とも律儀だ。


 夜中は、左文字さもんじのイビキが酷くて何度も恋音れおんは目覚めることになったのだが、今はとても静かだ。


 恋音れおんはそっととこを出て、左文字さもんじのいる場所をちゃぶ台の縁から覗き込む。だがそこはもぬけの殻だった。


―― まさかっ!?


 恋音れおんは咄嗟に刀を置いた枕元を確認する。左文字さもんじが刀を盗んだと思ったのだ。

 しかし、それは昨夜と同じ場所に立て掛けられていた。何も変わったところはない。


―― 私は左文字さもんじを疑ってるのか? こんなに良くしてくれているのに……。


 自己嫌悪に落ち込みながらも、恋音れおんは囲炉裏のある部屋へ向かった。

 板張りの床がキシキシ軋む音が懐かしく、足の裏がひんやりしていて気持ちがいい。


 囲炉裏には昨日の味噌汁が暖められていた。左文字さもんじ恋音れおんのために用意したものに違いない。いい匂いが部屋中に充満していた。


 だが……ここにも左文字さもんじの姿はなかった。


左文字さもんじ? いないのか?」


 もちろん、朔太郎さくたろうしずの姿も見当たらない。とても静かな空気が流れていた。

 ふと恋音れおんは気づく。昨夜恋音れおんが座っていた場所に手紙が置かれていた。ただの紙切れに、飛ばないように石ころが置かれている。


―― 部屋の中に石?


「なんだ? 汚い字だな……」


 紙切れには汚い文字でこう書かれていた。


『でかけてくる。おとなしくまってろ』


 恋音れおんは昨日外に干しておいた着物に着替え大人しく待つことにした。 

 米くらい炊く方法は知っている。でも人ん家の物をいろいろあさるのはどうかと思う。左文字さもんじが大人しく待ってろと書き残しているじゃないか。そう言い聞かせて左文字さもんじの帰りを待つ。


「暇だな」


「もうすぐ、あの人が帰って来ますよ」


 急に後ろから話しかけられて、恋音れおんは飛び上がって驚いた。急に湧いて出てきたのはしずだった。

 続いて、小さな子どもの、パタパタパタパタっと言う足音が聞こえてきた。


恋音れおん~!」

「さ、朔太郎さくたろう?」

「ほ~ら。朔太郎さくたろう……もうすぐとと様がお帰りですよ。大人しゅうしときなさい」


 しずは穏やかにそう言った。近くで見ると、とても気立てのよさそうな綺麗な女性だ。亡くなっているとは思えない。火も起こせるし調理まで器用に行っている。


恋音れおんさん? 不思議だって思ってますよね」


 手を止めて、エプロンのような腰巻きで手を拭きながらしずは微笑んだ。


「あ……。えっと……」

「クスっ。良いのですよ。私たちも何故未だにあの人が戻ってくるのを待ていられるのか、わからないのです。でも、戻ってくるあの人を迎えることができて……私は本当に幸せ」


 しずは本当に幸せそうにそう言った。あまりにも幸せそうなので、恋音れおんは誰もが不思議に思うことを聞いてみた。


「ここに戻って来るまでは、どこで何をしてるの?」


 しずは少し寂しそうに微笑みながらこう答えた。


「難しい質問だわ。あの人にも聞かれたことがあったけれど……、基本的には眠っているような感覚に近いと思うんですよ。暗闇の中で水の中を漂っているような。そして、目が覚めると……ここであの人の帰りを待っている。そんな感じ」


 しずの寂しそうな笑顔に、恋音れおんは亡き母の面影を重ねてみる。確か……母もいつも寂しそうにしていた。あやかしでもいい、側にいてくれたらもっといろいろなことを話せたのだろうか。自分の母への想いは左文字さもんじたちのそれとは違うということなのだろうか。


 そんなことを考えていると、少し遠くから大きな声が聞こえてきた。


「帰ったぞ」

「とーたんっ!」


 左文字さもんじの声だった。

 左文字さもんじは両手いっぱいに米や炭、酒などを抱えて帰って来た。先日のあやかしを退治した報酬と引き換えに里で食料を調達してきたようだ。


「お帰りなさい。あなた」

しず、今日は豪勢に食事をしよう。朔太郎さくたろう、後で一緒に風呂に入ろうな」

「うん!」


 元気な朔太郎さくたろうの声が聞こえる。

 恋音れおんには分からなかった。亡くなった者を現世に留めさせ、あやかしの様になってまで側においておくことが果たして正しいことなのか。

 でも一つだけ言える。左文字さもんじにとって二人の存在は大きく、失うことなどできないモノなのだと。


「お、恋音れおんも大人しくしてたか? これはお前にだ」

「えっ?」


 左文字さもんじ恋音れおんに向かって風呂敷に包んだつつみを投げ渡した。


「お前も、その……。年頃の娘だしな。あ~深い意味はないぞ」


 左文字さもんじの顔が不必要に赤くなっている。訳がわからないと思いながらも恋音れおんつつみほどいてみる。

 そこには真っ白な木綿の薄手の布が包まれていた。


「これは……?」

「それはだな……」

「これは、”さらし” ですね」

「さらし?」


 恋音れおんにとって初めて見るものだった。しずの説明を聞くに、これは女性用の下着の様なものだという。一般的なものではなく、どうやら胸を押さえ込み支える役割を果たすらしい。ということが分かった。


「何度も言うようだがな~、深い意味はないからな。これから鍛えていく上で胸はやっぱり固定されていた方がいいだろうと。そう……、そう! 親心だ!」


 左文字さもんじは顔を真っ赤にして話すから、恋音れおんしずも笑いが込み上げてきた。


「あははは。左文字さもんじ、ありがとう」

「あなた。笑わせないでくださいませ。あ~お腹が痛い」

「い、いや。な~朔太郎さくたろう


 朔太郎さくたろうに救いを求めても無理な話だ。朔太郎さくたろうはきょとんとして、照れている左文字さもんじを見ていた。


恋音れおんさん、後ほどつけ方をお教えいたしますね。きつく、とてもきつく結んでおかないとほどけてしまいますから」

しずさん、ありがとう」

「おーそうしてやれ」


 こうして左文字さもんじ家族との新しい生活が始まったのだ。


 恋音れおんしずからいろいろなことを学んだ。女性として必要なことも、母と過ごした記憶が薄い恋音れおんにとってしずは母親のような存在になっていった。


 しかし……しずたちが現れるのは、左文字さもんじが外出して戻ってくる数時間と決まっていた。まるで最期の時に左文字さもんじを出迎えたかった二人の想いを叶えるかのように、許された時間はとても短いものだった。


 それは左文字さもんじが望んでいることであり、またしずも望んだこと。あやかしさえ現れなければ……この家族は穏やかな時間を過ごしていたに違いない。悔やんでも悔やみきれない。




左文字さもんじ、何をしているのだ?」


 恋音れおん左文字さもんじの家に住むようになってしばらくした夜のことだ。

 左文字さもんじはガラクタの山からいくつかの鎧を取り出し、裁縫もどきを始めたのだ。


「あ~これか? これは戦場いくさばから拝借してきたものだ。あやかしが後生大事に持っていることもある。あやかしを祓った後に頂戴することもあるかな」

「ふ~ん」

「ほら、これをお前にやる」


 ガシャガシャと音を立てながら、左文字さもんじが用意をしてくれたのは、軽装備の軽鎧けいがいだった。

 脛当すねあてと草履、はちがねまで用意してくれている。


「鍛えているうちは、必要ないがな。実践になった時少しは防御できるものがあった方が安心だ。そんな裸同然の着物一枚であやかしと戦うのは死に行く様なものだからな」

左文字さもんじ……」


「そんな目で見るな。照れるじゃねーか」


 左文字さもんじは照れながら酒を飲む。


「ま、そのうちお前が気に入った防具に出会うだろう。それまでそれで我慢しろや」

「あ、ありがとう」


 じゃ~そろそろ寝るか。などと話をしていた矢先、戸を叩く音が聞こえた。

 咄嗟に刀を構え、部屋の中に緊張が走る。


 ドンドン。ドンドン。


左文字さもんじさん、あたし。開けておくれ」


 若そうな女の声が聞こえてきた。どうやら左文字さもんじの知っている人物らしい。左文字さもんじは「大丈夫だ」と言い、恋音れおんに片手をあげる。


「今開ける」


 戸が開くと、そこには遊女のような恰好をした女性が立っていた。


「中に入っても?」

「あぁ。どうした? こんな時間に」


 女は恋音れおんを見て驚いている。声もでないくらい驚いているようだ。


「あ、あんた……。とうとうあやかしを囲うようになったのかい? しかもこんなに発展途上の子を。男やもめが泣けるね」

れん、よせやい。冗談も休み休みいいやがれ」

「でも……。どう見たって」


 れんと呼ばれた女は、左文字さもんじの知り合いの様だ。首元をがっつり開けた色鮮やかな着物をまとっている。太ももから下の足が見え隠れしているのは歩きやすさを追求した為か、それとも……。


「こいつは俺の相棒の恋音れおんだ。一言でも変なことを言いやがったら、許さねえからな」

「わかった、わかったわよ。そんなに怒らないでよ」


 れんは、ずかずかと部屋に上がり込み囲炉裏の一番良い場所に座り込む。そしてここにいる誰よりもくつろぎ始めた。

 この部屋に不釣り合いのれんは黒髪を高い位置で結び、金魚の形の飾りが付いた曼殊沙華まんじゅしゃげかたどった朱色のかんざしを挿している。首筋から肩にかけてのラインがとても妖しく美しかった。恋音れおんですられんの魅力に吸い込まれそうだ。


 そしてれんは、真っ赤な唇でこう告げた。


「仕事だよ」


 その一言で、左文字さもんじの顔がぎゅっと引き締まった。

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