第9話
トン……ト……ト……トン………
耳が外の音を拾う、誰かが歩いているような音だ。音をなるだけ出さないように、忍んでいるような音。
矢井田隈(やいだ くま)は息苦しさを覚えて目が覚めた。
壁にもたれかかって頭をがくんと前に垂れた状態で寝ていたようだ。喉の肉がつかえたせいで苦しかったんだ。あまりいい目覚めではなかったことは間違いない。加えて床に直接座っているのも、嫌な気分に拍車をかける。
これでも綺麗好きなほうなんだ。
隈は床の前方に投げ出している両足を見る。いつも着ているおきにのジャージだ。動きやすくて丈夫、文句のつけどころがない。買ってから数年経つけど、飽きない。スニーカーもいつも散歩の時に履くおきにだ。でも、今日はまだどこにも出かけていないような。
上半身は七分袖のシャツを着ている。このシャツとジャージは隈の部屋着だ。やっぱり自宅にいたと思うんだが…ふむ、と隈は頭に手をやって撫でる。
ト……ト…
先ほど聞いた足音はさらに遠ざかっていったようだ。
「なんだ、これ」
シャツの裾に黒いすすがついている。立ち上がって確認してみると、ジャージにも焼け焦げたような箇所が数カ所あった。
「まじかよ、これ一張羅なのに」
誰に言いたいわけではないが、不満はしっかりと声になり小さいが口から声が出た。そして慌てて口を押さえる。
「……
………」
人の話し声が聞こえる。部屋の扉に目をやる。扉は閉まっているのに、外の音が聞こえるなんて、あちこち隙間だらけじゃないかと隈は毒づき、また滅入る。
たくさんの外敵をシャットアウトしてくれる壁が何よりも頼もしいと思って毎日暮らしている。自室は両親に頼んで完全防音にしてもらった。
クラリネット奏者になるというのが隈の建前の夢だ。クラリネットをやるためには防音がいい、練習は24時間やりたいからという理由で両親を説得した。
家は音楽一家で、両親ともに隈には素晴らしい奏者になってほしいと願っている。だから利用した。
もちろんクラリネットの練習なんてしていない。が、隈には両親に愛されている自信があった。嘘がばれる時なんて来ないだろう。
自分の世界に浸るためには、外の音が入らないほうがいいんだ。いや、内の音が外に出て行かないという方が重要かもしれない。
それでも隈の耳が良いことは、事実だった。石壁の隙間から音が漏れてきているのは確かだが、それでも隈の耳のレベルだからなんの音か判断出来ている。音自体を捉えている。
自分以外にも人がいるというのは確定したが、果たしてその人物が自分の味方か、敵かはまだ分からない。その時、急に隈は思い出す。
「そうだ、気を失ったんだ。風がふいてきて、顔がぼぉっと熱くって。
逃げてたんだ、誰かに追われて、殺されるって思ったんだ、そうだ、そうだよ」
段々と思い出すほどに恐怖もよみがえり、四肢の末端が驚くほど震える。
どうして忘れてたんだ。
手に、なにか凶器を持ってた奴が真っ直ぐ隈に向かっていた。木がはぜる音がすぐ横からしてきてびびる。かっこよくびびりたいのに。
一瞬でも躊躇している間に、奴と隈との距離は縮んでいく。
すぐに山の上に向かって駆け出す。土地勘がないからどこに逃げたって勝算はほとんどかわらない。それなら、ただがむしゃらに奴から距離を稼ぐのが一番だ。
燃えている山の中ダッシュで、服が汚れたんだ。そこまで思い出すが、そのあとの記憶がごっそりと行方不明だ。
隈は不甲斐なさに、力なく笑う。
「誰が、おれをこんなところへ?」
改めてぐるりと室内を見渡す。燃えていたあの場所よりは、過ごしやすいと言えるかもしれないが、こんな狭い部屋にいると自分が収監されているような気がしてくる。決していい気持ちはしない。
まずは、ここから出よう。でもさっき聞こえた音、声。そいつには警戒をした方がいい。もしかしたら、さっき自分を追ってきた奴かもしれない。油断してはいけない。
でも、味方の可能性も捨ててはいけない。猜疑心をもって接すると、向こうにも良くない空気が伝わる。お互い緊張状態だと、無駄に悪い方に向かってしまうことがあるから。出方を間違えてはいけない。
そっと扉を押す、なるだけ音をたてないように。まずは状況把握しなければ。
金属と石が触れて、どうしても多少の音をたててしまう。
キュ…ギ…キュキュ…
それでも、少しずつ扉の隙間を広げていく。投げやりになってはいけない。
やっと片目が覗けるくらいになった。隈の右目が捉えたのは、あごのラインまでの黒髪を心許なさそうに整えている少女の姿だった。
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