第2話喪失と彼方





ハーメルンの笛吹き男と子供たち

喪失と彼方


人が天から心を授かっているのは、人を愛するためである。


bボワロー










 「カトレア、ご飯よ」


 「はーい」


 「落とさないように、気をつけてね」


 「わかってるよ」


 両親に名前を呼ばれ、食卓へと座ろうとする少年、カトレア。


 カトレアの前に運ばれてきた食事は温かいスープと、カリカリに焼けたパンがあった。


 ごく普通の家庭に産まれ、育ってきたかのように思われるだろうが、カトレアには通常ついているはずのものがない。


 「スプーンはここに置いておくわよ」


 「うん」


 カトレアには、両腕がなかった。


 産まれたその時から両腕がついておらず、両親はなんとか腕に代わるものはないかと探したようだ。


 しかし、カトレアは、腕がないなら足があると良言いだし、全てのことを足中心で行っている。


 そこまで器用に物事をこなすのは、当たり前だが、簡単なことではなかった。


 何度もくじけそうにはなるし、村中にカトレアのことは広まって、同情する視線から見せ物のように見てくる視線まであった。


 「家にずっといてもいいのよ?無理に人付き合いしなくても・・・・・・」


 回りから、怪奇なものを見るような眼差しを向けられていることを知っている母親は、カトレアにそう言ったことがあった。


 カトレアはニッコリと笑い、こう返した。


 「無理なんてしてないよ。僕はみんなと一緒に遊ぶことだって出来るんだから!」


 村に一つしかない学校に通う事になったカトレアだが、帰ってくる度に怪我をしていた。


 誰かにやられたのかと聞いても、転んだと言うだけ。


 「あの子が楽しくいられるなら、いいんだけど・・・・・・」








 「なんか、小さな村だな」


 ライアは、冷たい風だけが虚しく吹く、こじんまりとした村に着いていた。


 「?あれは・・・・・・」


 まるで、カメをいじめている子供を見つけた浦島太郎の気分だ。


 数人の子供たちに囲まれた中心に、身体を丸めこんだようにして縮こまっている姿が見えた。


 「お前さー!なんで腕ないんだよー!!!」


 「ハハハハ!!だっせーの!」


 「ほら、早く立てよ!!」


 「君たち、何してるのかな」


 出来るだけ優しく、声をかけたつもりだったのだ。


 だが、ライアの悪いところは、端正な顔立ちと並行して、目つきが悪いと言うことだ。


 「・・・・・・」


 「?」


 子供たちは元気に動かしていた手足を一斉に止めて、ライアを見ながら何も言わなくなってしまった。


 「えっと、君たち・・・・・・」


 「逃げろ―!!!」


 「え?」


 わーっと勢いよくその場から逃げ出してしまった子供たちの後姿を、ただ茫然とライアは見ていた。


 まあいいかと小さく息を吐き、未だ倒れたままの子供に目を向ける。


 「!」


 その子供は、どこをどう探しても腕がなかった。それも両方。


 仕事中の作業ミスで指を失ったり、片足を落とした大人たちは見てきたが、子供のそんな痛々しい姿を見たのは初めてだった。


 「大丈夫か?」


 「うん・・・・・・へへ」


 腕がないから起き上がる事さえままならないその子供に手を貸そうとすると、子供は自力で立とうとしていた。


 膝を使ってなんとか立ち上がれた子供は、ライアに向かって笑っていた。


 「怪我してるじゃないか。・・・・・・いじめにでもあってるのか?」


 考えなくてもわかる。きっと、この身体のせいだろう。


 「違うよ」


 「本人が違うと言い張っても、傍から見ていじめだと感じればいじめだぞ」


 それでも、笑っていた。


 「お兄ちゃん、ありがとう」


 「・・・ああ、いや、いいんだ」


 子供の名を聞き、家まで送ると言うと、またニコッと笑った。


 「お兄ちゃん、旅の人?」


 「ああ」


 「やっぱり!この村は小さいから、すぐにわかるんだ!旅の人が来るなんて、何年ぶりだろう・・・・・・。この前来た時は、僕が産まれる前だって父さんが言ってた!」


 「そうか。親とは仲良いのか?」


 「うん!僕、父さんも母さんも大好き!僕に腕がないから、父さんたちは他の大人に変なことを言われてるんだ・・・・・・」


 「そうか。まあ、気にしないのが一番だな」


 「うん!そうだよね!ねえ、お兄ちゃん、何処へ行くの?」


 「どこって・・・・・・特に目的はないな」


 「ねえ、この村って、他の村から見ると、やっぱり小さいのかな?僕はいつかこの村を出て、大きな家を作るんだ!そこに父さんと母さんと一緒に住むんだ!」


 未来を夢みて楽しそうに話すカトレアの笑顔を見て、ライアも小さく笑った。


 そんな話をしているうちに、小さな村のため、すぐにカトレアの家に着いてしまった。


 「お兄ちゃん、ありがとう!」


 「気をつけてな」


 「あら、カトレア、おかえりなさい。そちらは?」


 カトレアの家に着いてさっさと次の大きめの街にでも行こうとしていたライアだったが、カトレアの母親に呼びとめられ、お茶を飲んで行くことになった。


 紅茶のことに詳しくはないが、爽やかで柑橘類の味がする。


 「ありがとうございます」


 「いいえ、たまたま通っただけですから」


 「あの子、やっぱりいじめられてましたか?」


 カトレアはいつも怪我をして帰ってくるが、決していじめられたと言わないことを聞き、ライアは横目でカトレアを見る。


 両親としてはやはり心配なのだろうが、カトレアは踏ん張っているのだ。


 子供同士のいざこざがあるのは、親同士がカトレアの腕のことを何か言っているのだろう。


 「御両親が気にしていると、それはカトレアにまで伝わってしまいます。まずは御両親がカトレアの腕がないことを自分達のせいだと思わないことでしょう。無事に産まれてきたことに感謝すべきです」


 なにせ、あんなに素敵に笑うのだから、と付け加えると、母親は鼻を啜った。


 カトレアの家を後にして、とりあえず暗くなってきたので宿の一つでもないかと探しはじめた。


 やっと見つけたその宿は、小さい村に比例して小さいが、それ以前に営業しているのかが不安だった。


 数回戸を叩くと、中から腰の曲がったお婆さんが出てきた。


 「すみません、今日一日、泊めていただきたいのですが」


 そう言うと、お婆さんは首を横に振った。


 「旅人様、今日の宿泊は止めなされ」


 「なぜです?」


 「災いが起こるやもしれぬぞ」


 「災い?」


 そのまま有無を言わさず、ピシャ、と戸が止められてしまったため、ライアは諦めて少し離れた街まで歩くことにした。


 何キロ先かなんて知らないが、歩くしかなかった。


 先程のお婆さんが言っていたことも気になるが、それよりも自分のことの方が大事だ。


 「ない」


 歩いても歩いても、街らしきものが見えなかった。


 適当な場所にあった岩に横たわり、そこで夜を過ごすことにした。


 寝ていたはずだったのだが、背中がドドドドドドド・・・・・・となにか地響きのような動きを感じた。


 夜空はいつも通り、月も星も雲も見えているほど明るい。


 「なんだ?」


 ゆっくりと欠伸をしながら立ち上がり、東西南北全ての方向に意識を集中させた。


 すると、歩いてきた方向から、物凄い勢いで何かが来た。


 「?」


 じーっとそれを見ていると、ライアは本能的に走りだした。


 それは、人なんて簡単に飲みこめるほどの洪水だった。


 あっと言う間に水に追いつかれてしまったライアだが、とりあえず水の流れに抗わずにしようと身を任せていた。


 すると、流されていく人や建物、動物が見えた。


 プカプカとくらげのように浮いているライアは、一つの人影に目を細めた。


 「まさか!」


 大きめの木の幹が折れたのか、その幹に仰向けになってなんとか浮いていた人影は、確かにカトレアのものだった。


 辺りを見渡すと、高さ五〇メートル、幅も二〇メートル以上あるだろう岩を見つけたライアは、そこを目指して浮かぶことにした。


 岩の壁はぼこぼこしていたため、手をかけるところが幾つもあった。


 カトレアを右側の肩に担ぎ、左手と足の力でなんとか岩の上に避難することが出来た。


 かろうじて息をしていたカトレアにほっと一安心しつつも、カトレアの両親や他の村人はどうしてしまったのかと、流れゆく水を眺めるしか出来なかった。


 太陽が昇るにつれて水も引いていき、カトレアの意識も戻った。


 「また会ったな」


 「あれ?僕・・・・・・」


 「洪水だ。災難だったな」


 なんとか岩を下りた二人は、村へと急いで戻ることにした。


 「寝てたら急に、苦しくなって」


 「村もダメだろうな」


 あれだけの洪水が起こったのだから、生きているだけで奇跡といってもいいだろうが、カトレアはそうはいかない。


 村に着くと、そこには多くの盛られた土があった。


 土の上には指でなぞられた名前が掘ってあった。


 そこには、カトレアの両親のものもあった。


 なにかしてあげたいが、何も出来ないのだと、ライアはカトレアに言葉一つかけることなく村を去っていくことにした。


 だから、カトレアがそれからしばらく、どんな生活をしていたのかは知らない。








 「カトレアくーん、どーこだー」


 「・・・!!!」


 男たちがカトレアを呼ぶのは、働かせるためではない。


 それよりも酷かもしれない。


 「おーい、優しくしてやるからー」


 「ヘヘヘ、お前が一番乱暴だろうが」


 「んなことねーって」


 両親が洪水で亡くなってからというもの、周りの大人たちは急激にカトレアに対して冷たい態度を取る様になった。


 当然のように住む場所もなく、食べるものもなく、頼れる人もいなく、乞食となっている。


 そんなとき、男たちがカトレアに声をかけてきた。


 どこから来たのかなんて知らないし、知りたくもないが、どうしてこうなってしまったのかは知りたい。


 食べ物をくれると言った。寝る場所をくれると言った。着るものをくれると言った。だから着いてきてしまった。


 連れて来られた場所はカビ臭く、暗くも明るくもない。


 しばらくの間は、男たちも何もしてこなかったし、どちらかと言うと優しく接してもらったという記憶がカトレアにはある。


 どこからこうなってしまったのだろう。


 男たちは急にカトレアを押し倒し、身体を触ったり、舐めたりしてきた。


 ―気持ち悪い。


 カトレアの態度によっては、殴る蹴るの行為に急変する。


 今までにも何度か思ったことがあるが、こうして今のように強く願ったことは一度だってなかった。


 ―腕があったら、なんて。


 「カトレア―!おらあ!さっさと出てこいよ!」


 逃げて逃げて、逃げ切れないことは嫌というほど分かっているのに、身体は勝手に動いてしまう。


 「みィ~つけた」


 逃げなきゃと、思ってしまうのだ。


 腕がないため、髪の毛を引っ張られるかお腹を抱えられるかで、またいつもの部屋へと連れて行かれる。


 重苦しいドアの先には、カトレアと同じような目をした子供から大人まで座っている。


 カトレアくらいの男の子も女の子もいれば、年上の女性、男たちと同じくらいかもしれない男性の姿もある。


 「おい、もう一人はまだ見つかんねえのか」


 カトレアよりも二つ年上だと言っていた女の子が、いない。


 逃げられるような場所もないはずなのに、どこに消えてしまったんだろうと思ってると、一人の男が慌てた様子で駆けつけてきた。


 「どうした」


 「や、やべえ!」


 「だからなんだ」


 「し、死んでた!あのガキ、自分で舌噛んでいやがった!!!!」


 ざわついた。凍りついた。


 「そうか。・・・・・・遺体はあの教会にでも置いておけ。処分してくれるだろ」


 「わかりました」


 その時初めて、近くに教会があるのだと知った。


 しかし、その少女の死などまるでなかったかのように、男たちはいつものようにカトレアに触れてきた。


 ざらついたその肌に触れられるだけで、カトレアの身体はガタガタ小刻みに震えだす。


 「へへ、やっぱりお前は肌が綺麗だなー」


 「お前、変態」


 「傷ものだぜ?」


 「でもその辺の女よりもすべすべだ」


 肌と肌がぶつかり、毎日のように流していた涙は、まるで事務的業務のように出る。


 髪の毛も切ることなんてないため、カトレアはまるで女性のように綺麗に伸びた髪を触られ、白い肌は男たちによって良い材料にしかならない。


 腕があれば、抵抗の一つでも出来たのだろうかと聞かれても、答えはわからない。






 「このところ、また例の輩が出てるんだろ?」


 立ち寄った酒場での会話が聞こえてきた。


 「ああ、無法者どもかい。また何処かの子供が攫われたってな」


 「可哀そうなこったな。ま、だからといって助けにはいけねえけど」


 「連中の溜まり場と言われてる場所、あそこは誰にも手出しは出来んさ。近くの教会から向こう側に一歩でも足を踏み入れちまうと、誘拐されても文句も言えねえってよ」


 「おっかねえなぁ」


 男たちは、酒を煽りながら話していた。


 「女は玩具に、男は働かされ、だろ?」


 「いや?俺の聞いた話じゃぁ、男も女も玩具にされるってよ。なんでも、連中の中に男色の奴が数人いるみてえでな。綺麗な男なら、そこらへんの女よりも相手にさせられるって話だぜ」


 「っかー。たまったもんじゃねえな」


 「死んだ奴は教会に置き去りにしていくっていうしよ」


 「なんでまた?」


 「死体なんてあったら臭くてかなわんだろ。そしたら、アレが機能しないんだとか」


 「はあ?なんだそれ。てか、おやっさんもそんな話、どっから聞いたんだよ」


 「俺だって噂でしか聞かねえさ。だが、奇跡も奇跡。あそこから逃げてきたガキが一匹だけ、いるんだとよ。そいつが今どこでなにをしてるのかは知らねえが、そいつからの話じゃねえか?」


 「それ本当か?逃げ切れねえって聞いたぜ」


 「まあ、噂は噂だ。次何飲む?」


 「もう一杯同じやつ」


 最初は興味なく聞いていたが、なんとなく気になっただけかもしれない。


 「御馳走さま」


 金を払うと、ライアは店を出て、棺だらけのとある村へと向かった。


 カトレアの住んでいた家は壊されているというよりも、誰も住んでいなかったからか、崩れかかっていた。


 生き残った村人は違う街へと向かったようで、誰とも会う事が出来そうになかった。


 再び、ライアは歩き出した。








 「はぁっ、はぁッ・・・!!!!!」


 カトレアは、今日も逃げていた。


 男たちのお気に入りになってしまったのか、カトレアは男たちの相手をすることが、他の人よりも多い気がする。


 だからといって、それは逃げ切れる理由にはならないが。


 「いーかげんにしてくれよー」


 気だるげな声を出しながら、男はいとも簡単にカトレアの腰に腕を回し、カトレアが逃げられないようにする。


 身体を大きく揺さぶってみるが、大の男の力には敵わない。


 ましてや、男たちを振り解ける腕なんて、カトレアにはないのだから。


 「いつもいつもこの調子じゃぁ、本当に監禁しちまうぜ?今以上に自由がきかなくなるのは嫌だろ?」


 冗談っぽく言ってはいるが、男の目は本気だ。


 実際にそんなことをされた人がいるのかなんてわからないというか、他の人と話す機会や時間などないのだ。


 個室を用意されていて、自分の部屋以外は行けないし、周りも自分の身を守ることで精一杯なため、他人になど関心を示さない。


 男に連れられ個室に押し込められ、またしばらくは一人で飢えに耐えるだけの時間。


 そう思っていたのだが、今日は男が一緒に入ってきた。


 「あの、なんですか?」


 「なんですか、じゃねえよ」


 男は、ごそごそとズボンのポケットを漁ると、カトレアに近寄っていく。


 何をされるかなどわからないが、きっと碌なことではないと確信しているカトレアは、狭い部屋で早々と追い込まれてしまった。


 「それは、なんですか?」


 「ん?ああ、大丈夫だ。別に痛くねえよ。あ、でも腕ねえからな」


 最初は注射器も出していた男だが、カトレアの身体を見て注射器をポケットに戻すと、白い粉を差し出してきた。


 「?」


 どうすれば良いのかわからずにいると、男はもうひとつ白い粉が入った小さな袋を取り出し、粉を口に含むと酒を飲んだ。


 ぐびぐびと豪快に飲むと、口の端から酒が零れている。


 「飲みこめ」


 そう言われ、カトレアは恐る恐る粉を口に入れると、薬の要領でソレを流し込んで行った。


 男はそれを見ると満足そうに部屋から出て行き、残りの白い粉と飲み物がカトレアの隣に残された。


 少しして、頭がクラクラと浮遊感のようなものを感じた。


 疲れているのだろうかと、カトレアは飲み物だけを口にしてみるが、それだけでは足りない何かを感じた。


 そして、また白い粉を少しだけ舐めた。


 すうっと、心なしか落ち着いた気がした。


 何かの薬だったのだろうかと、カトレアは夜、また男たちに呼ばれるまではそう思っていた。


 「あれれー?今日はカトレアちゃん、大人しくしてるじゃーん」


 「本当だ。いつもなら逃げ出してる頃なのにな」


 「お前、またアレ使ったのか?」


 「あ?いいだろ?俺のお気に入りだからな。探す手間が省けるだろ」


 「まじかよ」


 その日、カトレアは日課とも言える逃避という手段を取っていなかった。


 男たちに身体を触られるよりも、カトレアの脳内を占拠していたのは、先程も舐めた白い粉のこと。


 喉をごくり、と鳴らす度、欲求は高まる。


 「な、これが欲しいんだろ?」


 そう言われ、男の方を見てみると、男の手には白い粉の入った袋が沢山あった。


 「ガキの頃からやってれば、常習になるだろ?どうせこのガキたちには、行くあても帰る場所も無いんだ。薬漬けにしたって誰も止めやしねえよ」


 「まあな。大人しく遊ばせてくれるなら、こしたことねぇし」


 「俺のお陰で、見ろよ。抵抗する気もなくなってるってよ」


 男たちの話はよくわからなかったカトレアだが、今の自分がどこかおかしくなっていることは理解出来た。


 思い通りにならない身体も、思考がままならないのも、あの粉のせいだということくらい、なんとなくわかっていた。


 それでも、カトレアの身体は蝕まれていくのみ。


 「さーてカトレア。今日はいつもよりたっぷり可愛がってやるからな」








 あれからどのくらい経ったのだろうか。


 カトレアは部屋に戻されると、ぼーっと床を眺めていた。


 ゆっくりと立ち上がって鍵のかかっていない部屋を出ると、決して逃げ出すことが出来ないこの建物の上部へと続く階段を上っていく。


 ロープでも無い限りは下りられないし、腕の無いカトレアにはロープがあっても下りられない高さだ。


 もっとも、一度ここから逃げ出して助けを求めに行こうものなら、男たちに血眼になって探され、酷い仕打ちをされることなど目に見えている。


 それにしても、とても月が綺麗で明るかった。


 カトレアはバランスを上手くとりながら胡坐をかくと、空一面が月色に灯る空を仰いだ。


 建物の中にいるときとは違う、心地良い風や空気。


 全てを忘れさせてくれる気もした。


 ―全てを忘れたいなら、簡単な方法があるよ。


 「?」


 何か聞こえた気もするが、今この場にはカトレア以外誰もいないはずだと、カトレアは思わず首を動かした。


 ―死を選ぶか、死を求めるか。


 「誰?」


 足を動かして立ち上がり、もう一度辺りをぐるぐる回って探してみるが、やはり誰もいないようだ。


 ふと、何かの気配を感じ、月が泳ぐ空のある方へと視線を向けると、そこには手も足もなく地を這うものが。


 確か、自分の生まれ育った村にもいた。


 「蛇・・・・・・?」


 確かに蛇だ。しかし、蛇が話などするわけないと、カトレアは自嘲気味に笑う。


 ―君たちをここから逃がしてあげよう。


 「ここから?・・・・・・それは無理だよ。あいつら、どこでも見張ってるんだ」


 ―もうすぐ、君を地獄にも天国にも導ける音色が届く。男たちは眠り、唯一の出口も開く。そこからみんな逃げ出す。さあ、いつまでもこんなところにいたくはないだろう?


 それは勿論で、それがもしも実現するのであれば、逃げ出したいに決まっている。


 「でも、何処に逃げればいいのか・・・・・・」


 男たちから逃げられたとして、そこからどう生きて行けば良いのかなんて、知る術はないのだ。


 ―それなら、一度教会に行くと良い。


 「教会?」


 ―教会に行き、問えば良い。罪を認め乞い、己の信ずるものは何か、綴れば良い。


 教会にずっと居座れば、起きた男たちが探しに来ることも有り得るというか、きっと一番最初に探しに来るだろう。


 しかし、なぜかカトレアの心の中には、教会に留まるという選択肢が大半を占めていた。


 そんなことを考えていると、ふいに、何かの音が聴こえてきた。


 それはまるで風の囁きのようで、それはまるで月の子守唄のようで、それはまるで希望の舟のようだ。


 「もしかしてこれが・・・」


 そういって蛇を見てみると、もうそこに蛇の姿はなかった。


 カトレアは思いっきり、走った。


 今まで感じたことのない気持ちの高揚を抱えながら、きっと誰も知らないであろう抜け道を通って出口まで向かうと、一目散に駆け抜けた。


 なぜ抜け道などというものを知っているかというと、カトレアは誰よりも男たちから日々逃げていたため、ある日偶然見つけたのだ。


 その道は男たちさえ知っているわけではないようだ。


 一体誰が自分達を助けてくれるのだろうかと、カトレアはそんなことに思考を巡らせるより先に、教会へと向かっていた。


 その頃、男たちを眠らせて、建物の至るところ人探しをしていた男、ライア。


 鍵は開いていたため、男たちが眠っていることを知ると、捕まっていたのであろう男女は、ライアに構うこと無く走って逃げていた。


 「・・・・・・カトレアはいないのか?」


 ここにはいなかったのだろうか、酒場で名指しで聞いたわけではないし、ここにいなかったのならそれで良かったと、カトレアは建物から出た。


 来る時には後回しにしていた教会が目に入ったが、少しでもここから早く遠ざかりたかったため、ライアは教会に向かう足を別の方向へと向けた。


 「・・・・・・」


 しかし、なぜか気になった。


 こういった神聖な場所とは縁がなく、避けて通ってきたのだが、その教会はライアを呼んでいるようだった。


 はっきりとは言えないが、なんとなく。


 教会に近づくにつれて不気味なほどの寒気を感じたライア。


 足取りは重く、足枷でもつけられているのではというほどで、空気も澱んでいて呼吸も息苦しい。


 「(ここが教会?)」


 それはイメージしていた教会の空気とはまるで違っていた。


 そして教会の中に入って行ったライアは、教会の真ん中奥の正面に誰かが膝をついているのが見えた。


 両腕がないのが見てとれ、それがカトレアだと認識するまでにそこまで時間はかからなかった。


 カトレアに声をかけようとすると、何やらお祈りをしている声が聞こえた。


 「主よ、私は貴方を恨みます。世界には何億という人間が生きているのに、なぜ私には両腕がないのでしょう。村も洪水に襲われ、両親を失いました。男たちには玩具として遊ばれ、身も心も汚れきってしまいました。私は、以前学校で学びました。神は懸命に生きている人間には平等に接してくださると。しかし、主よ。貴方は私を他の人間同様にはしてくださらなかった。人間以下の扱いを受け、人間としての存在を欠けた生活を強いられました。どうしてこれが平等だと言えるでしょうか。貴方に罰を与えくとも、与えられません。私は貴方を決して赦しません」


 祈るために指を絡めることに出来ないまま、カトレアはただ目の前の大きな十字架と、そこに張り付けられている人物を恨む。


 ―恨め。憎め。悪いのは全て神だ。


 この声は、とライアは耳を澄ましてその声を聞く。


 ―神など存在そのものさえ疑うべきもの。それを崇め称えるなど、愚行以外のなんであろうか。例えいたとして、神は生を与えるのみ。道を示すことも正すこともしないのだ。即ち、死を決める権利もない。


 瞬間、これは現実かと思うほど、大蛇が姿を現した。


 それはカトレアの身体にゆっくりゆっくり巻きついていき、愛を囁くように抱きしめ、憎しみに狂うかのような力を込める。


 「カトレア!」


 叫んでみたが、カトレアは特に助けてと命を乞うわけでもなく、大人しく大蛇に巻かれていた。


 ―無駄だ。


 「カトレアを放すんだ」


 大蛇へとライアは近づいていくが、思わず、大蛇の足下にあったものに目を丸くする。


 それは、幾重にも重なった、人間の亡骸―・・・・・・


 すでに骨になっているものの上に積み重なっているそれらは、小さな子供から十代くらいの子供のものまであった。


 「これは・・・・・・?」


 ライアの問いに、大蛇がニヤリと笑った気がした。


 ―すでに廃墟と化したこの教会に置いていかれた、哀れな人間たちだ。神に何度も何度も乞いていた。だが神はこ奴らを身捨てた。屍を喰らう獣さえ、可愛く思えてくるほど、神は残酷に人間を産み出す。


 「・・・・・・教会はすでに怨念の墓場か。どんな理由があっても、お前が今カトレアを絞め殺す言い訳にはならない」


 ―このガキが望んでいるのだ。


 「カトレアが?」


 大蛇に巻きつかれて苦しいはずのカトレアだが、その表情はどこか穏やかで、きっとライアたちの会話さえ耳に届いてはいない。


 ―両腕もなく、両親もなく、男どもに犯され、薬まで打たれたガキが、この先生きて行こうという気力を持つことさえ困難だろうな。


 「・・・・・・」


 大蛇の言葉に、ライアはカトレアがあの場所でどのようなことをされていたのかを把握した。


 「お、お兄ちゃん」


 「!カトレア!」


 まだ意識があったのか、カトレアの口からライアの名前が出た。


 「僕、もう嫌なんだ」


 ゆっくりと、なんとか話し出したカトレア。


 「早く、母さんと父さんに会いたいよ・・・・・・」


 ふいにカトレアの瞳の隙間から出てきたその涙は、大蛇に巻きつかれている苦しみからなのか、それともまた別のものから出ているのか。


 まるで、小さい頃の自分を見ているようだと、ライアは感じた。


 奴隷となってから、この世に存在している意味さえもわからなくなっていたライアだが、何度か自ら命を絶とうと考えたことがあった。


 ナイフを手首に当てようか、舌を噛んでしもうか、餓死でもしてみようかと、模索してた時期もあった。


 だが、ライアは誰よりも自分に無関心だった。


 自分が死んでも悲しむ人もいないだろうし、奴隷としての代わりなんて幾らでもいるのだろうと。


 自分の方が優れているのだと鞭を打ってくる男たちも、そんな男たちを手玉にとる女たちも、金に目が眩んだ信者も、命を乞う赤子も、全てが茶番だと思っていた。


 生きることには価値がなくても、生き続けることに価値がある。


 そんなことを言っていたのは、男だったか女だったか、子供だったが老人だったかさえも覚えてはいないが。


 「確かに、生きるのは苦しいな」


 ライアは、呟くようにボソッと言う。


 「でも、ここでお前が死ぬのを黙って見てるわけにはいかないんだ、カトレア」


 ―一丁前に正義感か。だが、手遅れだ。


 一気に力を込め始めた大蛇に、カトレアは本能的に抵抗を見せる。


 ―神を恨み俺に助けを求めた以上、もう逃げられやしないさ。


 軌道を確保しようにも、動かせる腕さえカトレアにはないため、直接首へと圧迫していく。


 ライアが助けに行こうとすると、大蛇は顔をライアに向け、舌をチロチロ出しながら審判の二択を出す。


 ―このまま俺に絞め殺されるのを見ているか、それとも貴様の笛で安楽死させるか、貴様が決めろ。


 大蛇を睨んでも、まるでそれを楽しむかのようにさらに力を強める。


 何とかカトレアを助け出す方法は無いかと考えていたライアだったが、ふとカトレアと目が合うと、カトレアはニコリと笑った。


 「おにいちゃん、ありがとう。でも、もういいんだ」


 ―さあ、裁け。


 握っていた笛に力を入れると、ライアは一度だけ深く息を吐いた。


 教会に響いた音色は、讃美歌よりも美しく、輝きを放っているように見える。


 ―優しさと残酷さは紙一重だな。


 大蛇の言葉など聴こえないほど、その音色は一筋の光を放っていた。








 カトレアの身体と、教会内にあった全ての亡骸を埋め終えると、地面に力強く咲いていたたんぽぽを抜き、土にさした。


 生温い風を受けながら、ライアの髪は少しだけ揺らいだ。


 しばらくそこでぼーっとしていると、背後から足音が聞こえた。


 「?」


 こんなところに誰だろうか、もしかして男たちがようやく起きてきたのかと思ったライアだったが、違ったようだ。


 はっきりとした顔までは見えないが、男のように思う。


 ポンチョのようなもので身体を包み、頭にもすっぽりと被っていしまっているし、大きめなショルダーバッグには何が入っているのだろう。


 その男は、ライアの前に並んでいる簡易的な墓場を見て、特に驚いた様子もなく佇んでいた。


 「戦争でもあったのか?」


 「え?」


 急に、男が口を開いた。


 「いや、これほどの墓場で、しかもきちんとした墓場が造れない状況となると、戦争でもあったのかと思っただけだ」


 「・・・・・・いや、戦争じゃないんだ。この子たちを殺したのは、そんなものじゃない」


 「そうか」


 深く聞いてくるわけでもなく、男はしばらくそこに立っていた。


 少しして何も言わず去っていくと、またライアだけがそこに残された。


 「誰だったんだ?」


 男の正体を知ることなく、ライアは再び笛を持って旅に出る。








 街に着いたライアは、捨てられていた新聞を拾う。


 酒場を見つけるとそこに入って行き、隅の方に座ってその新聞を広げた。


 見出しには、こう書かれていた。


 『謎の笛の音!ハーメルンの悲劇、再来か!?』


 「・・・・・・」


 『奴隷の解放を宣言していた革命軍の仕業か!?』


 「・・・・・・」


 『ハーメルン男に懸賞金か!?政府も慎重に捜査中!』


 「・・・・・・」


 そんなに大きく取り上げることではないと思いつつ、ライアは隠した笛のことがバレないように動こうと思うのだった。


 「兄ちゃん、懸賞金狙ってんのか?」


 「え?いえ、そういうわけでは」


 見知らぬ親父が酒瓶片手にライアの隣に座ってきた。


 「幾らつくと思う?俺はなー、かの有名な人斬りジョーズよりも高い額じゃねえかと思ってんだ!」


 「それは、なぜですか?」


 というか、それは誰だとも思ったライアだが、親父はニヤニヤと酒臭いし、面倒なことにならないようにした。


 「あのハーメルン男の子孫かもしれねえって話だろ?まあ、俺は実在したなんて信じちゃいねえけどな。けどよ、世界中を恐怖に陥れたあのハーメルンの血を受け継いでるとすりゃあ、そりゃ、それなりの価値があるだろ?へたすりゃ、億以上の値がつくぜ!」


 「なるほど」


 「それより、兄ちゃん、もっと飲めよ!ここは酒場だぜ!?」


 絡んでほしくないと願っていると、マスターに引っ張られて親父はカウンター席に連れて行かれた。


 ふう、とため息を吐き、何よりも今日の寝床を探そうと思うライアであった。


 見たところ大きな街なので、簡単に見つかるだろうと思っていたライアだが、その考えは甘かった。


 なかなか宿が見つからず、最悪野宿なことを覚悟していると、少女にぶつかった。


 「あ、ごめん。怪我はないか?」


 コクコクと頷いた少女は、ライアの腰より少し高いくらいの背で、髪型はおかっぱだった。


 クンクンとライアの匂いを嗅ぐ仕草をしたあと、少女はライアを手探りで触ってきた。


 「お兄ちゃん、この街初めての人?」


 「そうだけど、どうして分かった?」


 少女の視線が自分に向いていないこと、そして目を合わせようと屈んでみても視点がおかしいことに気付いた。


 「もしかして、目が見えないのか?」


 「うん。だから、鼻とか耳がすごく良いの」


 「そうか。この辺に宿があるかなんてわかるか?なかなか空いて無くて」


 「あるよ!とっておきの隠れ宿!着いてきて!」


 「!!!」


 まるで目が見えているかのように歩き出す少女だが、壁を触りながら歩いているのをみると、目印かなにかを探しながら歩いているんだろう。


 目的地に着くと、少女は「ここだよ」と言って、大きな声で主人を呼んだ。


 「ダリアちゃんかい、こんな時間にどうした」


 「おじちゃん、お客さんだよ!泊まりたいんだって!」


 「あ、夜分にすみません。空いてる宿が見つからなくて、案内してもらいました」


 「ああ、そうかいそうかい。どうぞ入っておくれ」


 主人はにこにこ笑ってライアを通すと、少女にパンとキャンディーを渡した。


 いつも貰っているのだろうか、少女は嬉しそうに笑うと、また壁を触り始めた。


 「ダリアちゃん、ありがとう。俺はライア。今度会った時、御礼させてほしい」


 「わかった!お兄ちゃんも、お宿見つかって良かったね!」


 にっこりと満面の笑みを浮かべると、ダリアは壁を伝っててててっと走って行ってしまった。


 「可哀そうに。あんなに健気な子を、目が見えないってだけで捨てるんだから」


 そう主人が呟いた言葉を、ライアは気付かないフリをした。


 「さ、どうぞあがってください。お部屋に案内します」





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