02

「        」

「ん?」

 普段聞き慣れない音が聞こえたような気がして、導は無意識に振り返る。

 家のある方角とは反対の方向。その道沿いには自動車などの部品製造をしている町工場があり、更にその奥に新興住宅地へと向かう坂道が続いている。普段なら用がない限りその場所に興味を抱く事はしない。それなのに、何故かこの時はとても気になって仕方なかった。

 早く帰りたいという気持ちと、なんだか分からないけれどそこに行かなければならないという気持ち。

 両方を天秤に掛けどちらの選択肢を選ぶかを頭では考えていたはずだ。しかし、足は自然と家とは逆方向へ向かって歩き出してしまう。こんなことならコンビニでお湯を貰って、適当な場所を探してカップラーメンを啜れば良かったと思いはしたが引き返してまで食べる気にはなれず、買っておいたホットスナックのチキンを囓りつつ取りあえず歩き続ける事にして移動していく。

 町工場からは金属同士が触れあう音が一定のリズムで外へと漏れている。時々聞こえる従業員の大声と機械の稼働音。それを通り過ぎれば、なだらかな上り坂が始まる。歩道に近い車道には、自転車に乗って坂を登る男性の姿。自転車で来れば帰りは早いだろうなぁと考えた時には後の祭りで。坂を登り切った頃にはすっかり息が上がってしまっていた。

「……暑ちぃ……」

 上がった体温を更に上げる原因の一つは、耳に届いた蝉の声だった。暦の上では既に本格的な夏が去りつつあるとは言え、夏を忘れたくないと広がる青い空から降り注ぐ光は思った以上に眩しい。日差しを遮る木々が足りない道路では、熱を吸収して溜め込んだアスファルトが陽炎を生み出し、境界を曖昧なものに変えてしまっている。

 そんな車道とは打って変わり、歩道は幾分か涼しさがある。その涼しさの正体は、道沿いに等間隔で植えられている街路樹で。それらの創り出す影は決して広い範囲を確保出来るものでは無いのだが、それでも色の濃くなるモルタルの上まで移動出来れば、頬を撫でる風は随分と涼しく感じられるものだ。手に持ったコンビニのロゴが印刷されたレジ袋は、足を動かす度に乾いた音を立てて前後に揺れる。やっと坂の一番上まで辿り着いたところで、導は一度足を止め大きく息を吐き出した。

「……あ」

 高台にあるその位置から見える町並み。決して栄えているとは言えないこの小さな町は、こうしてみると随分と面積があるのだなと感じてしまう。今よりももっと幼い頃には社会見学の一環としてこの場所に、クラスメイトや先生達と訪れた事が有る事を思い出し和らげる表情。こうやって景色を楽しむなんてことをしなくなって随分と立つ事に自分でも呆れて笑ってしまう。

「偶には散歩も悪くないな」

 ポケットから携帯端末を取り出し電源ボタンを押すと、ディスプレイからカメラアプリをタップし起動させる。背面にあるレンズを町の方へと向け画面を叩き切るシャッター。これも何かのネタに使えるかもなんて。撮ったばかりの写真をスライドしながらそんな事を呟くと、導は再び歩き出した。

 のんびりと普段歩かないエリアを探索していると、次第に傾いていく太陽の位置。少しずつ青が失われる空は、塗り替えられるように赤が混ざり景色に赤みが差し始める。

「そろそろ帰るか」

 携帯端末のディスプレイに表示されたデジタル表記の数字は一と七と三と八。あと二十分少々で帰宅を促す町内放送が流れると言った時刻になってしまっていた。

 帰り道は短縮ルートでと選んだのは長い階段があるエリア。この階段は小学生の頃同級生に教えてもらったものである。

「やっぱ、いつ見ても長げぇや」

 大人の足でも結構苦労する段数があるそれは、子供の足だと途中で必ず立ち止まってしまうような長さで、傾斜角度も結構あるから注意して降りなければ安全とは言えない造りになっていた。登りが右、降りが左。その中央に黒くなった手すりが設置されている階段は、生活圏内から離れた場所に在ることと、頻繁に利用する気にもならないこととで次第に足が遠のいてしまった状態で。そんな階段の前に久しぶりに立つと、覚悟を決めるように大きく息を吸い込み前を見据える。

「よし」

 気が付けば、背後から聞こえてくる男女が喧嘩している声。その距離が近づいてきているのは分かったが、振り返ってまで確認しようとは思えず無視を決め込む。

「帰ろう」

 吸い込んだ息を一気に吐き出してから階段を降りるべく足を動かした瞬間だ。

「何よ! バカっっっ!!」

「うわっ!? 何すんだよ!?」

「あ」

 全てがゆっくりと流れていく感覚に導は大きく目を見開き手を伸ばす。

「ちょっ……」

 背中に感じた強い衝撃。それにより失われたバランスで身体は前に大きく傾く。

「ちょっとっっ!!」

 後ろでは女性が大きな声で何か言葉を叫んでいるのは分かる。

「おいっっ!!」

 階段状に固められたセメントから両足が浮き、ゆっくりと降下し始める身体。前に伸ばした右手は掴む物を失い空を切るだけで、後ろに投げ出された左手の指に触れた温もりは直ぐに離れていってしまう。

「危ねぇっ!!」

 その言葉と同時に天地が逆転。完全に宙に浮いた身体が重力に引っ張られるようにして、長い階段を転がり落ち始めた。

「おいっ!!」

 段上からは男性の焦るような声と、女性の狂ったような叫び声。

「がっ……はっっ……」 

 容赦なく打ち付けられるセメントの塊が近づいたり離れたりする度に、身体に与えられる圧力が強い衝撃を生み、全身に鈍い痛みを走らせる。どうにかして体制を立て直そうと藻掻きはするのだが、痛みが走る身体は自分の思った通りには動いてくれず、受け身を取るので精一杯だ。

『いつになったらおわるんだろう』

 何となく分かる事は、最下層まで落ちれば意識を失うのだという事。

『こんなところでおわるなんて』

 結局、この人生、何もないまま終わりがやってくる。そう思うととても悔しくて仕方ないと感じる。

「くっ……」

 それでも、一方的な状況に抗う術を見つける事は難しく。

『こんな展開望んでねぇんだよ!!』

 声にならない声で大きく叫ぶように口を開けると、導は強く瞼を伏せ視界を閉ざす。黒く塗りつぶされる周りの景色。


 そこで一度、彼の記憶はブツリと途切れた。


 気が付けば何もない空間。どこまでも広がる黒い闇は、足が触れる場所だけ薄ぼんやりと光っている。

「ここは……どこ……だ……?」

 そこに自分が立っている事に漸く気が付き、導は慌てて周りを見回す。前後左右にあるのは真っ黒な闇だけだ。

 頭上にも同じように黒く塗りつぶされた空間だけが存在していて、場所を把握出来るようなものは一切見当たらない。唯一異なるのは足下だけで、試しに右足を上げると、触れる物が無くなった部分が黒く塗りつぶされ明るい範囲が狭くなる。もう一度足を下ろすと、触れた部分が弱く発光し僅かに明るい範囲が広がっていく。

「俺、どうしたんだっけ?」

 何が起こっているのか理解出来ず辿り始めた自分の記憶。最後に見た光景を思い出した瞬間、背筋に怖気が走り全身に鳥肌が立った。

「俺……死んだ?」

 言い終わったと同時に自分の身体を確認するように全身を手で触りまくる。痛みはない。濡れた感触も伝わってこない。骨が折れたや激しい頭痛も感じられない事に胸を撫で下ろしはするが、己に起こった状況を考えると身体が無事な状態の方が異常だという事は直ぐに分かってしまう。

「なんでっ……」

 確かに、自分の人生は大して面白味もないものだったのだろう。それでも、自分が生きてきた時間を否定したいわけでは無いし、もしかしたら生きている間に良い事があったかも知れない。その可能性を見る事も無く突然やってきた人生の終わり。電源を入れればリブート出来るなんてそんな都合の良い事もありはしない。思ったよりも呆気ない。現実なんてそんなもの。それがとても悲しくて仕方が無かった。

「俺の人生って、結局何だったんだよ」

 強く握り込んだ拳が小さく震えてしまう。切り忘れて僅かに伸びた爪が、柔らかい皮膚に食い込み小さな痛みを訴える。

「やりたい事、一杯あったのに……」

 終わってしまったと分かると気付く様々な思い。普段は気することがない些細な事ですら、強く後悔を感じてやるせなくて仕方が無い。やりかけの事、やろうと思って居た事、やってみたいと願った事。生きていればいつかは実現出来たかもしれない事が、次々と頭に浮かんでは消えていく。いつの間にか溢れ出した涙は頬を伝い、シャツの上に落ちて小さな染みを作っていた。

「……っくしょうっ」

 出来ることならば今ここで、人生のリセットボタンを押したいと切に願う。

 それが叶わないと分かっていても、無意識にそれを願わずには居られない。何もない空間で一人きり。声を殺して潰されそうな程強い悲しみを堪えていると、手の中に感じた違和感に気付き瞼を開いた。

「…………これ……」

 握られた両方の手。二つの内、右の内側に感じる堅い感触。それが何であるのかを確認すべくゆっくりと指を開くと、開かれた手の平の上に一本の鍵が現れる。

「か……ぎ……?」

 この鍵に見覚えはない。持っていた記憶も無いし、さっきまでは確かに手の中に存在しなかったはずだ。それなのにそのアイテムは今、確かに導の手の中に存在している。

「夢でも見てんのかな?」

 もしそうだったら良いなんて、何となくそう思い鼻を啜る。現実の自分は病院のベッドの上で、色んな管を付けられた状態で眠っていて。意識を取り戻したら病院の白い天井が目の前にある。普通に生きていれば喜べない状況だとは思うが、今はその光景を見たいと強く感じてしまう。

 神様どうか、僕を生き返らせて下さい。

 信じた事もない神に向かってそう祈ってしまうのは、生きているかも知れないという可能性を捨てたくないと強く願ってしまうからだ。

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