第6話暗闇の道しるべ
菩提樹
暗闇の道しるべ
傷ついたのは、生きたからである。
高見順
人生は退屈すれば長く、充実すれば短い。 シラー
第六護 【 暗闇の道標 】
「今日は、五万円。」
夜の繁華街を歩きながら、少女は手にしたお金を何度も数える。
まだ十五という、年端もいかない少女は、大人に子供であるとバレないように、精一杯に化粧をして、髪の毛も大人っぽくカールを巻いて、大人のお店で洋服も買い、ブーツなどを履いて、背丈も誤魔化している。
補導されていく、同じくらいの少女たちに比べ、厚く施した化粧。
すれ違う大人たちさえも、誰もこの少女を十代のまだ幼い子供だなんて、思っていないことだろう。
毎日夜になると出掛ける狩人のように、毎日少女はやってきた。
そして、見ず知らずの男、それも、同じ十代の少年から、上は四十や五十といったおじさんまで、少女は違う男性と遊んだ。
遊ぶだけで数万円貰える時代は、とても恐ろしいものだ。
今日の稼ぎを握りしめながら、少女が向かったのは、どこにでもあるカラオケ店だった。
目がチカチカするほどに光っているカラオケ店に入ると、店員の人と少し話をし、部屋の一室へと案内される。
「やっと来た~!」
「ごめんなさ~い。」
待ち合わせをしていた、二十代と思われる少年の隣に迷わず座ると、明け方五時までずっと歌い続けた。
「眠い・・・。」
「十二時間以上寝てた奴の台詞とは思えないな。」
テーブルの上に出された朝食を口に入れながら、なんともごにょごにょとした口調で、床宮が半分寝そうになる。
「はぁ・・・。」
新聞を読んでいた立花が、先程から、何回目になるか分からないほど、ため息をしているため、門倉が聞いてみる。
「おやじ、どうかしましたか。」
「いや、最近の若者は、よくわからんな。」
「・・・凜のことですか?」
床宮のことをちらっと見ながら門倉が言うと、立花は首を横に振って否定を示し、読んでいた新聞のとある記事を見せる。
小さな記事だった為、門倉は身体を前に出して、食い入るような形で見る。
その記事は、非行にはしる少年・少女が、年々増加傾向にある、という内容の記事であった。
しかも、未成年だと知っていながらも、お金を払ってまで連れ歩く大人もまた、増えているらしい。
「なんていうか、大人も大人ですね。」
記事を一通り簡単に読み終えると、門倉は身体の位置を戻し、朝食を取るのを再開する。
「安心して、おじちゃん。私はしないからね!」
珍しく、ものすごく真面目な顔つきで話始めたあゆみだったが、食後のモンブランの頂上にフォークを突き刺して、それを一口で食べようとしだした。
それを見ていた立花は、呆れたように、深いため息を吐く。
「安心も何も、心配すらしてないが・・・。」
「えー、酷いよ、おじちゃん!こんなに可愛い子が、夜中にウロウロしてたら、変なおじさんとタップダンスを踊らされちゃうよ!」
「勝手に踊ってろよ。」
「リンリンまで!酷い!泣いちゃうから!!!」
泣き真似をしながらも、モンブランを丸ごと入れた口からは、とても甘い匂いを漂わせ、なんとも幸せそうに頬を膨らませている。
立花は腕組をし、目を瞑って、しばらくじっと何かを考えていた。
そして、城田がコーヒーのおかわりを持っていき、テーブルの上のカップと交換すると、立花はバッと目を開き、ソファから立ち上がる。
「どうしました?」
驚いた城田が立花に声をかけると、門倉と床宮を見て、叫んだ。
「修司、凜!今夜から、夜の街の警備をするぞ!」
「「・・・・・・・は?」」
突然の立花の提案に、反対することも出来ずに、夜の繁華街を見回ることになってしまった。
「いいか、少しでも怪しいと思ったら、声をかけるんだぞ。」
「おっさん、俺、イイ子だから帰りたい。」
「おやじ、俺も真面目だから帰りたいです。」
「よし、じゃあ、此処の通りから行くぞ。」
「「聞いてねぇよ。」」
仕方なく、適当に辺りを見渡して、明らかに未成年のだと思われる少年、少女には声をかけて、補導してもらうことになった。
だが、化粧されてしまうと、なかなか見分けはつかないもので、大人と子供の境目の年代の子ほど、難しい。
顔のパーツの位置や、全体的なバランス、指の太さや服装、色々な視点から見てみると、意外と未成年がふらついていることが分かる。
幾ら大人の真似をしたところで、やはり子供なのだ。
途中、どこかの学校の生活指導の先生と会って、『最近の未成年』をテーマにしたと思われる話題で、立花たちは盛り上がっていた。
ため息を吐きながら、ゲーセンの中や路地裏まで見ていると、何処からか、カラン、と聞き覚えのある音が耳に届いた。
「あ。」
「お。」
反対側の道から現れたのは、下駄とタレ目が特徴的な、磯貝だった。
「和さん、こんな時間に、どうしたんですか。」
「お前らこそ、何してんだ。あ?立花は誰と話してんだ?」
「ええとですね。」
簡単に事情を話すと、磯貝は、門倉や床宮と同じように、面倒臭そうな反応を見せ、熱心に語り合っている立花を見て、ため息を吐いた。
「で?和さんは?」
「ああ、俺は煙草買って来たんだ。」
「昼間に買えばいいじゃないですか。」
「昼間は仕事だろ。」
「仕事?」
「大工の仕事だ。」
沈黙が訪れた・・・。
なぜなら、今、門倉の頭の中では、情報処理が行われているからである。
そして、情報処理を妨げたのは、磯貝の口から発せられた、“仕事”と、“大工”という、二つの言葉である。
磯貝の仕事、イコール、情報収集、という方程式が崩されてしまい、門倉の脳内では、プチパニックが起こっている。
何の反応も返って来ない門倉を不審に思い、磯貝は手を出し、門倉の顔の前で数回往復させてみるが、完全にフリーズしてしまっている。
そこへ、立花たちの会話から逃げてきた床宮が合流する。
「おお!磯貝のおっちゃん!どうしたんだ・・・って、修さん、なんで固まってるんだ?」
床宮が、門倉の頭を一回、パシンッ、と良い音をたてて叩くと、やっと回線が繋がったパソコンのように、復活した。
「だ、大工って・・・。初耳です。」
「ああ、そうだったか?でもよ、キャバ嬢だって、別に仕事してるだろ?」
「ああ、そうですね。」
「え、おっちゃん、大工なのか!?すげーな!」
十分ほど話していると、立花が戻ってきた。
「じゃあ、俺は帰るぜ。」
下駄を鳴らしながら、先に帰ろうとした磯貝だったが、床宮に袖を引っ張られたため、帰るに帰れなくなってしまった。
「離せ、凜。おっちゃんは疲れてんだよ。」
「俺だって、昨日はスケボーの修理が徹夜だったから、疲れてんだよ!」
「それは、お前が・・・。」
いつまでも離さない床宮に、参った、というふうに顎鬚を摩っていると、立花が未成年を見つけたようで、一人の少女を捕まえていた。
「離してよ!私、未成年じゃないわ!」
「歳は?」
「・・・二十歳よ。」
「干支は?」
「み、巳年・・・。」
嘘をついていることが分かり、立花は少女に、被っている帽子を取るようにと指示をするが、取らない、の一点張り。
門倉も、下から顔を覗きこむようにして見てみると、確かに、化粧で誤魔化してはいるが、顔つきが未成年っぽい。
まだ中学生くらいだろうか、一万円くらいする洋服を着て、なんとか大人に見せようとしている。
「君、名前は?家まで送って行こう。」
立花が、出来るだけ優しく言ってはみたものの、プイッと顔を逸らされる。
だが、次の瞬間、少女の目つきが変わったと思い、視線の先を追って行ってみると、下駄を履いたやる気のない男、磯貝であった。
磯貝の方も、その少女に見覚えがあるらしく、パチクリと目を動かしている。
「愛実・・・。」
「あんたに、愛実なんて呼ばれる筋合いないわ。」
「なんだ、知り合いか?」
棘棘しい言葉を、磯貝に突きつけた少女は、愛実というらしい。
「ああ、なんだ。」
髪の毛をポリポリとかきながら、下駄で地面をいじり、大きなため息を吐いて、首をコキコキと鳴らしながら答える。
「こいつ、俺の娘。」
「娘・・・!?磯貝、お前、結婚・・・え?」
「いや、十年前に離婚したからな。愛実が当時、確か五歳だったか。ああ、今十五か。通りで、デカクなったな。」
「奥さんは?」
「死んだわ。」
キッと、磯貝を睨みつけながら、愛実が答えた。
「今は叔父さんとこにいるんだろ?」
「・・・。あんな家、二度と帰らないわ!!あんたにも、もう二度と会いたくない!」
そう叫んで、愛実は走って何処かへと行ってしまった。
離婚してからというもの、碌に連絡も取っていなく、数年前に、死亡したという連絡だけが届いたそうだ。
磯貝が愛実を引き取っても良かったのだが、母親の家の近くに住んでいた叔父さんが引き取ると言いだし、金銭的にも余裕があったため、頼んだのだった。
何があったのかは知らないが、愛実はあの家が好きではないようだ。
磯貝を見てみたが、いつもと変わらぬ表情のまま、頭をかいていた。
「磯貝。」
詳しい話を聞こうとした立花だったが、立花の方を見た磯貝の目が、何も聞くな、と言っているように冷めていたため、言葉を飲んだ。
「またな。」
手を軽く振りながら、磯貝はアパートへと帰って行った。
「・・・おやじ。」
「まあ、今日はもう帰ろう。」
心の中に残った突っかかりが解決しないまま、立花たちは事務所に帰った。
翌日、立花に言われて、門倉とあゆみで買い物に出かけていた。
買い物と言っても、書類をまとめるファイルやペン、他にも、湯のみや洗剤、無線の調子を見てもらうために、立花が昔から頼りにしている工場へ行ったりしているだけだ。
洗剤だけを買うつもりが、あゆみがカゴを持ってきて、お菓子を次から次へと入れて行ったため、当初の予定よりも大幅な金額を提示された。
気付くと、昨晩、磯貝の娘である愛実と出会った場所に来ていた。
同じ場所にいるはずは無いと思いながらも、若者が屯しているところを、重点的に探してみる。
夜だけ出かけているのかもしれないと思い、門倉は事務所に向かって歩き出す。
「・・・。」
ふと、目の前のコンビニの前に、一人の少女が座っていた。
スカートを穿いているというのに、足を大きく広げて座っており、手にはコンビニで買ってと思われる何かを持っていた。
一歩一歩近づいていくと、あゆみも自然に着いてくる。
「倉ちゃん、何処行くの?」
「・・・。」
愛実の前に立ち、愛実を見下す様にして立っていると、大きな陰に覆われたためか、愛実が顔を上に上げた。
そして、そこにいるのが門倉だと気付くや否や、明らかに嫌そうな顔をし、立ち去ろうとした。
愛実の腕を素早く掴み、逃がさないようにする。
「ちょっと!離してよ!」
キャンキャン喚く愛実の声に、五月蠅いのか、眉間にシワを寄せて、目を細めながら愛実を睨む。
「倉ちゃん、ナンパ!?キャッ☆」
昨日とは違い、昼間のせいか、化粧もそれほど濃くは無く、服も派手ではない。
いや、昼間だからこそ、学校に行く時間であって、此処にいるのはおかしな事なのだが、それを言ってしまうと、あゆみも補導されてしまう。
門倉は、しばらくの間、愛実をどうするべきか考え、その結果、事務所へ強制的に連れて行くことにした。
事務所に行けば、城田もいるし、杏樹も呼ぶ気なら呼べるだろうと判断したからだ。
掴まれた腕を解こうと、今ある力を全て出して振り切ろうとするが、門倉の力は、その表情からは想像出来ないほど強かったため、そのままズルズルと連れて行かれた。
「倉ちゃんって、結構、『俺に黙ってついてこい!』っていうタイプなの??」
親指を突き出して、冗談のような本気のボケをかますあゆみを無視し、門倉は強引に愛実を引きずる。
「あゆみ。」
「なぁに?倉ちゃん。」
「・・・少し黙ってろ。」
「ラジャ☆」
事務所に着くと、立花と床宮が同時に目を見開いた。
買って来たものをテーブルの上に置くと、愛実をソファに座らせる。
「誘拐。警察に言うわ。」
「誘拐じゃない。保護だ。」
「何が保護よ。強引に力づくで連れてきた癖に。」
「青少年健全育成条例違反。」
「昨日はしなかった癖に。」
「逃げたんだろう。」
無理矢理事務所に連れて来られて、苛立ちを隠せない愛実に対し、淡々と答えるだけの門倉。
立花が、磯貝に連絡を取ろうと携帯を開き、電話をし始めた。
だが、立花の電話の相手が磯貝だと分かると、愛実はまた脱走しようとしたため、門倉が腕を掴み、あゆみがドアのカギを締め、床宮はボーッとしていた。
「嫌よ!絶対に嫌!呼ばないで!!!」
愛実の必死の否定の言葉が、携帯から、向こう側にいる磯貝にも聞こえたようで、磯貝は愛実を今日だけ置いてくれと頼んできた。
仕方なくOKした立花だが、携帯を切った後も、しばらく愛実は荒荒しく呼吸をする。
そこへ、飲み物とお茶菓子を持ってきた城田が来て、愛実の前にそっと置いていく。
お盆をソファの横に置き、城田が愛実の正面に座ると、愛実の顔をじっと観察し、自分のお茶を口にする。
「どうして、そんなにお父さんの事を嫌うの?」
「・・・あんたに関係ないでしょ。」
「まあ、そうね。」
しばしの沈黙が続き、城田がひとつ、ため息を吐く。
「年頃の女の子なら、父親を嫌うなんて、ザラにあるわ。」
「・・・。」
「でもね、もっと大きくなって、私くらいになると、父親にも感謝するようになって、酷いこと言ったこととか、後悔するのよ?」
「・・・。感謝?」
「そうよ。いつか、愛情を貰っていたことにも気付くわ。だから・・・。」
「何も知らない癖に。」
短いスカートから出ている足を綺麗に組んでいたが、城田の方に顔を向けると、睨みつけながら、ドスのきいた声を出す。
「何もしらない癖に。勝手な事言わないで。」
愛実の言葉に、何かを言いかけた城田だったが、今は何を言っても聞き入れてくれないと思い、それ以上、何も言わなかった。
腕を組みながら、二人の会話を聞いていた門倉は、立花を見る。
立花も門倉と床宮の方を見ると、奥の部屋に行ってしまった。
午後五時過ぎの頃、事務所に磯貝が仕事着のままやってきたて、ソファに座って大人しくしているのを見ると、一回ため息を吐く。
「立花。」
「おお、磯貝。来たのか。」
「悪かったな。色々と面倒かけて。門倉も。」
「俺は別に。」
「愛実、帰るぞ。」
いつもの下駄ではなく、大工専用の靴を履いていて、汚れた靴で愛実の許まで向かう。
手を軽く差し出して、帰るように目で訴えるが、ちらっと磯貝を睨みつけるように見ると、愛実は、磯貝の手を、パシンッと、思いっきり弾き返した。
「勝手に帰ればいいじゃない。」
「・・・はぁ・・・。」
跳ね除けされた手を、そのまま自分の髪の毛に持って行き、ポリポリと頭をかく。
困ったように愛実を見ていても、愛実は磯貝の方を見ようともせず、ソッポを向いて、床を睨みつけている。
「愛実。」
「気安く呼ばないで!!」
磯貝に名前を呼ばれると、愛実は勢いよくソファから立ち上がって、そのままの勢いで、事務所から出て行ってしまった。
「・・・世話になったな。」
そう言って、磯貝も事務所から出て行ってしまった。
磯貝と愛実が出ていったそのすぐ後、立花は携帯を取り出して、どこかに電話をかける。
「ああ、杏樹か。ちと、頼みたい事があってな。」
「ママ、ごめんなさい。今夜、予定が入っちゃったの。明日うんと働くから、今日はお休み貰ってもいい?」
「いいわよ。杏ちゃんはいつもサービス面でも頑張ってくれてるし、売り上げにも貢献してくれてるし。いつも言ってるでしょ?たまには我儘言いなさいって。」
「ありがとう、ママ。」
一旦はお店に入り、スリットの入ったドレスにも着替えた杏樹だったが、立花からの連絡を受けて、ドタキャンしてしまった。
私服に着替えると、杏樹は夜の街へと消えて行った。
立花から指示された場所を歩き回り、しばらく目的の人物が見当たらなかったため、付近も捜索することにした。
その途中で、ナンパされたり、スカウトされたりと、杏樹からしてみれば仕事の邪魔になることばかりが身に起こる。
フラフラ歩いて、やはりいなく、立花に連絡を入れようとした時、喉が渇いていたことを思いだす。
コンビニに立ちよって、アーモンド味の豆乳を買って、数秒で飲み干す。
ゴミ箱にゴミを捨てて、鞄から携帯を取り出し、立花に連絡を入れようとすると、近くの広場で、女の子が男に声をかけられているのを見つけた。
女の子の背後に近づき、ポンポン、と肩を叩く。
「ちゃお♪」
誰だ、こいつ、という視線を向けてきたその女の子に、なおも杏樹は続ける。
「ごめんね、待った?さ、早く行こう!」
男から女の子を引き離すと、数百メートルを休まずに早歩きで駆け抜け、とある肉まんやの前で止まり、くるり、と振り向く。
「あんた、誰?」
「私?私は、女の子が知らない男に着いていって、ホテルに行こうって誘われて、それを拒めないでいる女の子になっていたであろう女の子、つまり貴方を助けた、ただの通りすがりよ?」
「・・・何、それ。馬鹿?」
「確かに、頭は良く無いわね。」
女の子の馬鹿発言にも、フフフ、と笑って、大人の余裕を見せる杏樹は、目の前にいる女の子と、立花から連絡を受けた女の子が、同一人物であるかを確かめていた。
化粧もばっちりで、洋服も大人向けのセクシーな感じではあるが、どうみても子供だ。
何よりも、決め手となったのは、“磯貝の娘”という点であった。
全体的なパーツは、母親似か父親似かなんて知らないが、パッと見た感じ、目のタレ具合や、鼻の線など、磯貝を思い出させる要素が幾つかあったのだ。
「・・・貴方、愛実ちゃん?」
「!?」
「私、和夫さんの知り合いなの。一応、仕事仲間の部類に入るのかしらね?杏樹っていうの。よりしくね?」
「ふーん・・・。あの人、あんたみたいな派手な人、好きだったんだ。」
「・・・プッ・・・。」
杏樹のことを、上から下まで舐めるように見たかと思うと、予想外のことを言われた為、杏樹は吹き出してしまった。
「アハハハハハハハハハ!!!!私と、和夫さんが?無いわ。無い無い。」
「あんたも、説教しに来たの?」
「説教出来るほど、私は立派な大人じゃないの。ね、肉まん好き?」
「は?」
肉まんを二つ買って、ひとつは自分で、もうひとつは愛実に渡して、ゲーセンの階段に座って食べていた。
「ねーえ?」
「・・・なんですか。」
「聞いた話だと、叔父さんのところに引き取られたんでしょ?毎日毎日昼間も夜中もこんなところに来てて、叔父さん、何も言わないの?心配しない?」
「その話はしたくない。」
口の中に、少しずつ肉まんを頬張り、愛実は小動物のように咀嚼していく。
半分ほど食べ終えた肉まんを手に持ったまま、杏樹は愛実の顔をじっと見ていたが、視線に気吹いた愛実に嫌がられた為、また肉まんを食べ始める。
午後十二時を過ぎようと、時計の針が動いているのを見て、杏樹は愛実を叔父さんの家まで送ろうとする。
「愛実ちゃん、送っていってあげるから、お家に帰りましょ?ね?」
「嫌よ。あんな家には戻らない。」
「じゃ、和夫さんのとこに帰りましょ?」
「嫌よ。」
何を言っても、首を縦には振ろうとしない愛実に、杏樹はどうしたものかと頭を抱える。
しばらく考えた後、ひとつの決断をする。
「なら、私のとこに来なさい。ね?和夫さんには連絡しないわ。約束する。明日の朝、勝手に出て行けばいいわ。どう?」
「・・・。」
杏樹の表情、顔色を見ながら、どうしようかと少し悩んでいる様子だったため、杏樹は愛実の手を引いて、自分のマンションまで連れて行く。
部屋に入り、ベッドを愛実に貸して、寝るように言うと、愛実は大人しく横になった。
軽くシャワーを浴びて、ベッドのすぐ横にあるソファに横になり、杏樹も就寝した。
「・・・。」
「ちゃお♪ごめんね、ワッフルしかないの。それでいい?」
朝早く起きて、勝手に出て行っていいと言われたのにも係わらず、愛実よりも早く起きて、朝食を食べさせようと準備がされていた。
ソファの前にある、透明の丸い形のテーブルの上に、小さなお皿を二つ並べて、コーヒーを淹れたカップも二つ横に置く。
杏樹はブラックで飲めるが、愛実の好みは分からないので、ミルクと砂糖も並べる。
愛実の横に座ると、杏樹はワッフルを食べ始めた。
「このワッフル、裏道にある、隠れ有名店のワッフルなのよ。」
杏樹につられて、愛実もワッフルを口へ運ぶと、程よい甘さで、外側は少しカリッと、中はふわっとしていて、口の中には紅茶味が広がる。
「美味しいでしょ。」
コクン、と頷くだけだったが、愛実はお腹が空いていたのか、どんどん口の中に入れていった。
朝食を食べ終えると、約束通りに愛実を解放しようと、昨日見つけた繁華街の方まで一緒に歩いていく。
自分の携帯番号を差し出すと、なかなか受け取らなかったため、杏樹は愛実の手の中に無理矢理収め、手を振って分かれた。
その足で、とあるビルの前まで向かった杏樹。
古びたビルの階段を上がり、目の前に現れたドアを勝手に開ける。
「ちゃお♪龍平さんいるかしら?」
「杏樹か。入れ。」
ソファに座り、いつものように新聞を読んでいる立花の前に座ると、昨日のことを報告する。
「それ、和さんには言わなくていいんですか?」
二人の会話を聞いていた門倉が、磯貝の名前を持ち出すと、立花も困ったようにため息を吐き、頭をかく。
城田がお茶を運んできて、杏樹は礼を言いながら、立花の答えを待つ。
「・・・修司、凜。」
「御守りならやらねぇよ。」
まだ何も言われていないのに、立花から言われようとしていることを先読みした床宮が、スケボーをいじっている手を動かしたまま、即答する。
「凜。」
床宮の性格上、嫌がる可能性が高いと分かっていた立花だったが、ここで引き下がるわけにはいかない。
立花の呼びかけにも、無反応になった床宮に呆れ、門倉の方を見て、話を進める。
「接近はしなくていい。とにかく、事件や何かに巻き込まれないよう、見張っていてくれ。杏樹は自分の仕事をしていて構わないが、街で見掛けたときは、一応連絡をくれ。」
「分かりました。」
「OKよ。」
スッとその場から立ち上がり、杏樹は手を振って事務所から出て行った。
一方、スケボーの修理など終わっている癖に、なかなか動き出そうとしない床宮に門倉は近づき、首根っこを掴んでスケボーから離す。
「何すんだよ!修さん!」
「仕事だ。行くぞ。」
「俺はやらねぇって!絶対嫌だ!」
「おやじ、行ってきます。」
「お、おう・・・。」
「いやだあああああぁぁぁぁ・・・・・・・・・・・・・・・・。」
一気に走って行ったのか、小さくなっていく床宮の声を聞きながら、立花はコーヒーを啜った。
「・・・。」
「いつまでブ―垂れてんだ。」
繁華街に着いて、杏樹と分かれた場所を歩いていると、簡単に愛実を見つけることが出来、門倉は愛実を尾行していた。
その隣で、門倉に未だ引きずられながら、唇を尖らせ、不満オーラ全開の床宮。
「頭を切り替えろ。」
「分かってるよ。」
「分かってねえよ。」
「分かってるよ。ただ嫌なだけだ。」
「それを分かってねえって言うんだ。」
愛実に気付かれないように、一定の距離を保つ。
不機嫌なままの床宮が、急に身体を動かして、愛実の行動を観察し始め、横にいる門倉に話しかけた。
「だって、あいつ、さっきから会ってるの男ばっかじゃねぇか。男依存が激しい女は、何かと面倒臭ぇと俺は思う。」
「だからおやじは、心配してるんだ。」
床宮の言うとおり、愛実を見つけてからというもの、愛実が会って話したり、遊びに行くのは、ほとんど、というよりも全員が男なのだ。
まだ十五の少女だと知らないのか、それとも知っていて声をかけているのかは判断しかねるが、きっと分かっていて声をかけているのだろう。
子供は騙しやすい、それは単に人生経験が浅いからとか、そういうことではなく、好奇心や、大人に近づきたいという願望から、巧みな言葉の餌食になってしまうことは、少なくは無い。
何もないのが一番良いのだが、そうは問屋が卸さない。
太陽も完全に沈みきり、腕時計で時間を確認してみれば、すでに十時を回っていた、そんな時、本日何人目になるか分からない男が、愛実に近づいて、話しかけた。
門倉たちのいる場所からでは、男が愛実に何を話しかけ、愛実が男に何と答えているのか、全く聞きとれない。
様子を窺っていると、愛実が男の誘いをOKしたらしく、男と一緒に歩き出してしまった。
すぐさま無線で立花に連絡を入れる。
「おやじ。和さんの娘が、男と一緒に何処かに向かいます。」
《わかった。そのまま後をつけてくれ。》
「はい。」
門倉から連絡を受けた立花は、吸っていた煙草を灰皿に押しつけながら、ポケットから携帯を取り出して電話をかける。
「ああ、磯貝か。仕事は?もう終わったのか?」
立花が電話をしている間、というよりも、ずっと前から、暇で暇で仕方の無いあゆみは、城田とオセロをしたり、トランプをしたり、出来もしない囲碁をやっていた。
手の届く場所には、深皿一杯に盛り付けられたお菓子の山。
手探りでお菓子の場所へと手を伸ばし、そこから適当に選んだお菓子を口に入れ、カスを落とさないように気をつけて食べる。
磯貝に連絡をしている立花は、窓際に移動して、新しい煙草を吸い始めた。
《愛実が?》
「ああ。今、一応修司と凜が尾行してる。場所は・・・。」
部屋の隅で話をしている立花を見ずに、あゆみは城田に話しかける。
「ねぇねぇ直たん。」
「何?」
「なんかさ、最近、私たちの扱いが適当な気がするんだけど、気のせいだよね??」
「・・・。多分ね。ていうか、そう望みましょう。」
「そうだね☆二人でお菓子パーティーでも開こうよッ☆」
「それは嫌。昨日久しぶりに体重計乗ったら、結構イッてたの・・・。」
「あれま。残念。」
二人がそういう、どうでもいい話をしている間に、立花はとっくに磯貝に連絡を終えていて、立花本人も出かける準備を始めていた。
それに気付いた城田が、腰をあげてコートを持ってこようとしたが、すでに立花が自分で持ってきていたため、お見送りだけすることにした。
事務所のドアが少し開いただけなのに、外からは肌寒い風が入って来る。
門倉も床宮も、コートなど持っていっていないのを思い出したが、あゆみに囲碁、ではなく、五目並べの勝負を挑まれたので、そちらに付き合う事にした。
「寒い。いや、寒くねぇ。これは寒くはねぇ。寒いと思うのは、きっと俺の心の中が、てか、財布の中身が寒いからだ。そうだ。別に体感温度が寒いとか、それに耐えられないとか、そういうことじゃねぇはずだ。洗脳だ。こういう時こそ洗脳するんだ。言い聞かせるんだ。自分に言い聞かせろ!それでこそ俺!それでこそ日本男児!」
「五月蠅い。黙れ。」
愛実と男を尾行している門倉と床宮。
いつになく冷えだした空気に、徐々に身体が震えていくのが分かるが、何処かで上着を買う事も出来ず、奥歯を噛みしめて我慢している。
身体だけではなく、脳まで対応しきれなくなりそうだ。
こういう状況のため、いつにも増して集中力を高めなければいけないというのに、門倉の隣にいる床宮は、一人でぶつぶつと防衛行動に出ていた。
自分の腕同士を組ませて、肩を耳の近くまで持ち上げ、足を小刻みに動かす。
「修さん、これは俺の勘違いなんかじゃねぇ。今、すごく寒いぞ。」
「知ってる。お前が気付く前から俺は知ってた。」
「ちょッ・・・。そこは否定してくれよ。寒いって思ったら、寒くなっちまうんだよ!俺はな、寒くないっていう誤った情報を脳に流して、『あ、寒くないんだ』って脳に思わせれば、身体が温かくなるんじゃねぇかって、そういうことを願っていたんだよ!」
「頭寒足熱。間違ってはいねぇな。ま、今の状況は、頭寒足寒だけどな。」
寒さにやられたのか、段々と門倉の発言にも締まりが無くなり、しまいには、「変温動物になりたい」とまで言いだした。
寒がりなのか、自分の両手を合わせて、ものすごい勢いで擦り合わせる。
そして、若干温かくなった掌を、冷たくなって乾燥した肌にくっつけると、お風呂に入った親父のような声を出す。
「修さん、なんかいつもと違う。いつもの修さんに戻ってほしいと俺は願う。」
「理想は捨てろ。崩れた時が面倒だ。」
「いや、理想とかは言ってねぇんだけど。キャラ的な問題のことを言っただけで・・・。」
ふと、愛実と男がホテル街の方へと向かって歩き出した。
さっきまでは、ゲーセンやら映画館やら、カラオケやらファミレスやら、百均やらボーリングなど、久々に一緒に出かけた親子が行くような場所ばかりだった。
嫌な予感しかしない二人は、急いで立花に連絡を入れる。
「おやじ、危険な臭いがします。」
《?何だ?》
「和さんの娘が、男と、ホテル街の方に向かって歩いています。どうします?今すぐに止めに行きますか?」
《・・・。まぁ、待ってろ。もしもそういう行動に出た時には、そんときゃあ、修司と凜でとめてくれ。》
「はい。」
無線を切り、前にいる愛実と男の行き先を心配する。
チカチカするライトで、二人の背中が見えなくなってしまいそうだが、距離を少しずつ詰めて行き、見失わないようにする。
「修さん、これ、超ピンチじゃねぇ?」
「・・・。すぐに反応出来るようにしておけよ。」
とあるホテルの前で、愛実と男は一旦止まる。
そして、少しだけ警戒するように周りをキョロキョロと見渡すと、男は愛実の肩を組んで、ホテルの中へと入って行った。
瞬間、バッと飛び出して、愛実の許に行こうとした門倉と床宮だった。
・・・だったのだが、曲がり角にある居酒屋から出てきた、男女を乗せたタクシーが走ってきたため、怯む形になってしまった。
そのあと、すぐに二人の入ったホテルに行ったが、すでに部屋の方に行ってしまったらしく、受付の人がいるだけだった。
受付の人と目が合い、愛実たちが何処に行ったのかを聞くが、答えてもらう事は出来なかった。
「お願いします!教えてください!」
事情を説明してはみたが、証明するものも何も無い。
「修さん、どうする?」
「・・・。」
「ヘヘヘ・・・。お譲ちゃん。幾ら欲しいんだっけ?」
「・・・そうね。幾ら持ってるの?」
男は、自分の財布を開いて、中に入っているお札を数えはじめた。
親指をペロッと舐めて、一枚一枚をきちんと剥がしながら数えているのを見て、愛実は心底、大人は汚い、と感じた。
気付かれないようにため息を吐き、部屋の中を適当に見ていると、数え終えた男が、下卑た口と舌を使って答えた。
「今手持ちは三万円だよ。」
「三万・・・?割に合わないんじゃない?それとも、私のこと馬鹿にしてるの?」
ベッドの隅に座って、男に見せるように足を組みかえると、男は食い入るように見る。
ゴクリ、と唾を飲んだのを確認すると、愛実は男に手を差し出して、財布を出せ、と無言で伝える。
手渡された財布の中を見ると、確かに現金は三万円しか入っていなかったのだが、カードが数枚入っていることに気付く。
このカードでも貰おうか、と穢れた考えを、頭の中で巡らせていると、いきなり男が押し倒してきた。
「・・・!?」
突然の行為と、恐怖に、愛実は声が出なくなってしまう。
―嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。
目の前が、スローモーションのように動いて見える。
背中に感じるベッドの柔らかい感覚に加え、自分の目に確かに映っている、薄汚い男の笑み、そして耳障りな声。
愛実の手首を掴み、顔を近づけてくる。
自然と涙が溢れ出し、自分の軽はずみな行動を後悔するが、時間は戻らない。
これから起こることを脳裏に映し出し、それを覚悟すると、目をギュッと思い切り瞑り、唇を噛みしめる。
―ごめん。お母さん。
「痛ぇえええええぇぇえええぇ!!!!?」
耳を貫くような男の悲鳴に、愛実が目を開くと、目の前で気持ち悪い笑みを愛実に向けていた男が、宙に舞っていた。
床にドスン、と音をたてて倒れると、男は苛立ったように鼻息を荒くする。
「大丈夫ですか?」
愛実の背後に立っていたのは、スーツをビシッと着こなし、黒の短髪、切れ長の目、そして向かって右側の目の下に泣きボクロのある男、門倉だ。
愛実の無事を確認すると、部屋の入り口にまで誘導し、床宮と挟むようにして男を見る。
後ろには床宮、前には門倉といるが、苛立った男が声を張り上げた相手は、愛実を挟んでいるどちらにでも無く、門倉の背によって、愛実の目にはまだ映っていなかった人物のようだ。
顔だけをちょっと動かして見ようとしたが、思ったよりも広い門倉の背に邪魔され、なかなか見えなかった。
今度は、身体を全体的に横に移動させてみる。
すると、愛実の視界のど真ん中に、自分を押し倒した男と、その男を見下ろしている、見覚えのある背中が見えた。
「和さん。あまり、無茶はしないでくださいよ。」
「わーってるよ。ったく・・・。門倉、お前、だんだん立花に似てきたな。」
下駄を履き、ボサボサの髪、後頭部をカリカリとかいている男は、間違いなく、いや、間違えようの無い、愛実の父、磯貝だった。
倒れていた男が立ち上がり、磯貝に向かって何かを言おうとしたが、威嚇するだけで精一杯のようだ。
すると、一歩、一歩と、ゆっくりと、ダルそうに男に近づいた磯貝は、男の目の前まで来ると、ガッ、と男の胸倉を掴みあげ、表情を変えぬまま呟く。
「ほんじゃ、ま、警察にでも行くか?」
「そ、その女が誘ってきたんだぞ!!俺じゃない!俺はただ、その女に着いてきただけでッ・・・!!!」
「言い訳はいい。ええと・・・あれ?門倉、何だっけか?」
「売春防止法違反、児童ポルノ禁止法違反など。」
「・・・だ。腹括れよ。俺の娘に手ぇ出したんだからな。」
最後の言葉は、男に顔をグッと近づけて話したため、門倉たちにも聞こえなかった。
言いたい事を言い終えた磯貝は、ふぅ、と一息ついて、後から来た城田と立花に男を渡し、愛実を門倉と床宮に頼んで、帰ろうとした。
だが、磯貝の足下を狙って、床宮が自分の足を置いたため、転びそうになったが、なんとかバランスを保つ。
タレ目のくせに、迫力のある磯貝の眼差しに、床宮は一瞬、怯みそうになる。
なるべく視線を逸らさずに、磯貝と睨みあうようにして互いを見る。
「何の心算だ?床宮。」
「おっちゃん。おっちゃんこそ、腹括れよ。」
「あ?何をだ?」
「・・・。」
あくまでも惚ける磯貝に、床宮は不機嫌そうに顔を顰める。
「和さん。」
「なんだ、お前まで。」
「俺も、凛と同じ意見です。」
「そりゃ、俺に喧嘩売ってんのか?」
「いいえ。今の和さんに喧嘩を売っても、負ける要素が見当たりません。よって、無駄な体力を使うだけになりますので。」
「それを喧嘩売ってるって言うんだ・・・。」
はぁ、と大きくため息を吐くと、磯貝は面倒そうに歩き出す。
それを見て、門倉も床宮も、愛実に磯貝の後を着いていくように伝えるが、愛実はなかなか動こうとしない。
意地を張っているのか、磯貝の背中を睨んでいるだけだ。
仕方なく、門倉たちが腕を掴み、引っ張っていく形をとる。
繁華街を抜けて、人通りが少なくなってきたころ、磯貝が歩くのを止めた。
愛実の腕を掴んでいた門倉が、腕を離して、愛実の背中を押して磯貝の近くまで向かわせる。
「嫌。あの人と話すことなんか無いもの。」
足に力を入れて、進まないように踏ん張っている愛実に、欠伸をした床宮が、愛実の頭を軽く叩く。
「いいから、行け。おっちゃんだって、本当は逃げたいんだぞ。文句があんなら、全部言えばいいだろ?言いたい事、言って来いよ。・・・折角、家族なんだからよ。」
両親のことを知らない床宮が、寂しげな顔を下に向けながら話すと、最後のひと押しと、門倉が床宮を連れて、その場から素早く去って行った。
突然二人きりになり、余計に空気が重くなる。
「愛実。」
「気安く呼ばないで。」
「・・・悪い。」
名前で呼ぶなと言われても、どう呼んだらいいのか分からない。
愛実は今、母方の姓を名乗っているとはいえ、実の娘を名字で呼ぶのも違和感があり、というより、明らかにおかしい。
色々考えてはみたものの、しっくりくるものが無い。
「愛実。」
「だから!」
呼ばないで、そう言おうとした愛実の頭を、磯貝の大きな手が包み込み、重心を変えて撫でられる。
「あんな真似、もうするなよ。」
自分の頭を撫でている磯貝の手を、愛実は力いっぱい振り払う。
小さな身体から振り絞った小さな力では、磯貝の許から、少しだけ離れるだけが精一杯であった。
「自分の身体よ。売ろうがどうしようが、私の勝手でしょ!あんたには、これっぽっちも関係ない!!」
声を枯らして叫びながら、愛実は走って逃げようとしたが、走りだした瞬間、腕を強く掴まれた。
痛いと感じるほどに、強く腕を掴まれたまま、磯貝の方に引き寄せられた。
ボスン、と磯貝のお腹あたりに顔がぶつかり、逃げられないように、背中に腕を回される。
「離してよ!私は今、磯貝じゃないの!高木愛実なの!あんたとは、赤の他人なの!」
「・・・ん。」
「なんで・・・なんでよぉっ・・・。」
何に対しての「なんで」なのか、愛実の涙を見ても正確な答えは見つからず、ただ愛実の頭を見ていた。
抵抗はしなくなったが、今度は磯貝のお腹を殴り始めた。
「なんでっ・・・なんでっ・・・。あのときは、助けてくれなかったのに・・・。」
「?あの時?」
あの時、とはいつのことだろうと、愛実といた五年間の思い出を思い出してみるが、思い当たる節が無い。
泣きじゃくる愛実の背中をポンポン叩き、咽び泣くのを止めようとするが、止まらない。
もう一度愛実に聞こうとしたとき、愛実はゆっくりと顔を上げ、磯貝を泣きながら睨みつける。
「あの時っ・・・!叔父さんに、暴行・・・された時っ・・・!!!っく・・・。」
「!」
愛実の突然の告白に、一瞬だけ目を見開いた磯貝は、また赤子をあやす様に背中をポンポンと叩く。
後悔は、人生の醍醐味である。
だがそれは、その後悔をバネにして、次に進むステップとなり得る場合に、言えることであり、未来への妨げとなり得る場合、その後悔は、無駄なものとされる。
女性であれ、男性であれ、未来に希望を持てない過去など、現在など、本人にとっては必要無いものに分類されてしまう。
磯貝のお腹を弱弱しく叩きながら、愛実は縋るものもないまま、脱力していく。
「今更っ・・・父親面、しないでよぉっ・・・!!!なにも、して、くれなかったくせに・・・!」
「愛実。ごめん・・・。ごめんな・・・。」
愛実が九歳の頃、母親でもある高木憲子が死亡し、憲子の弟、つまり叔父さんのところに引き取られた。
いつもは優しい叔父さんなのだが、お酒が入ると性格が一変。
一度だけだが、愛実に暴行をした。
その一度の過ちが、愛実にとって一生の、癒すことの出来ない傷になってしまった。
いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった愛実を抱っこして、磯貝は自分のアパートへと戻ろうとしたが、ふと足を止めて、声を出す。
「門倉、床宮、いるんだろ。」
「「・・・はい。」」
磯貝に呼ばれ、気まずそうに顔を出すと、磯貝に愛実を渡される。
「和さん・・・。」
「今日は、事務所に連れて行ってくれ。明日、迎えに行く。」
「それは構いませんが・・・。これから、どうするんですか?」
門倉の問いかけに、磯貝はちらっと愛実の顔を見て、その後夜空を見ながら首を回す。
「愛実は、俺といたらダメになる。叔父さんには断って、他の親戚に頼んでみる。」
「一緒に暮らせばいいじゃねえか。」
「・・・床宮、大人にはな、色々とあるんだ。」
「・・・。前にも聞いた気がする・・・。」
カランカラン、と下駄を鳴らして、磯貝はアパートへと帰って行った。
その、今まで寂しい思いをさせてきた後悔や、本当は手放したくない愛おしさ、様々な感情が漂う背中を見つめて、門倉と床宮は事務所へと向かって歩き出す。
「・・・そうか。」
磯貝の決断を立花に報告すると、立花は深いため息を吐き、目頭を押さえる。
きっと、事務所にいるメンバーの中では、磯貝と接してきた時間が一番長く、歳は十ほど離れてはいるものの、少し歳の離れた兄弟のような感覚で、何でも言い合ってきた相手だろう。
立花にも迷いはあったのだろうが、非難も何も言う事は無かった。
次の日の朝、九時頃に事務所に顔を出した磯貝は、愛実に自分の考えを説明していた。
愛実の表情は暗く、膝の上に乗せている手をギュッと握りしめて拳をつくり、自分の感情をそこに濃縮させているようだ。
「城田、一緒に着いていってやれ。」
「はい。」
磯貝が一通りの説明を終えると、愛実を連れて事務所から出ていこうとしたため、立花は城田に同行を指示する。
「立花。」
「なんだ。」
「・・・面倒かけたな。」
「慣れない事言うな。俺たちの仕事に、面倒事は付き物だしな。」
くるり、と方向転換した磯貝の背中に、立花が声を投げかける。
「磯貝。」
ピタ、と足を止めて、振り返らずにその場で立花の言葉を待つ。
「お前が決めたことに、俺は口出しはしない。お前の決断が正しいとは言わんが、間違いだとも思っちゃいない。だから、そんな自信無さそうに背中丸めて歩くな。しゃんと胸ぇ張れ。」
ため息を吐いたのか、肩が小さく上下に動いたかと思うと、後頭部に手を伸ばして、髪の毛をカリカリとかく。
ポケットに手を入れると、すぅっと息を吸い込み、その分、背筋が伸びたように見える。
「あんたにゃ敵わねぇな。」
「ほう。敵うと思ったことがあるのか?」
「フッ・・・。無いな。」
二人の中で、会話以上の何かが解決したらしく、磯貝は城田と共に、愛実を連れて事務所から出て行った。
パタン、とドアを閉まると、立花は窓際に向かい、煙草を一本出す。
それを口に咥えはしたが、出したライターの蓋をカチカチといじっているだけで、一向に吸う気配は無い。
床宮は自分の椅子に座り、スケボーの剥がれた色を見て愕然としていて、あゆみはお菓子の袋に手を伸ばした。
「修司。」
「はい、何ですか。」
「・・・。」
立花に呼ばれた為、門倉は立花のいる窓際にまで近づいていくと、無言で煙草の箱を向けられる。
そこから、また無言で一本煙草を取り出すと、立花が火を点けてきた。
その後に自分の煙草に火を点けて、身体の中を巡り巡った副流煙を、ため息交じりに思いっきり吐き出した。
しばらく沈黙が続き、吸っていた煙草もどんどん短くなっていく。
朝から、美味しくもない味覚のものを口にし、そこから広がる苦くて淀んだ空気を吸い、吐いて、苛立つほど照っている太陽を見ながら、煙草を灰皿に置く。
「煙草、止めた方がいいと思うか?」
ふいに聞かれた質問に、門倉は冷静に答える。
「まあ、身体の事を心配するのであれば、今すぐにでも止めた方がいいとは思いますが、それによって身体や精神にストレスを与えるのであれば、止めればいいというわけでも無いと思います。そもそも、煙草も依存症の一種、ニコチン中毒ですからね。麻薬と同様の依存力を持っていると思います。」
門倉の淡々とした答えに、立花は少しだけ表情を歪めると、胸ポケットに入っている煙草の箱を取り出し、しばらく眺めていた。
そして、何かを決意したのか、箱をぐしゃり、と握り潰す。
「修司。まだ引きずってるのか?」
「・・・何のことですか。」
「・・・まあ、いい。」
何やら怪しい空気が、二人の周りに纏わりついてきた頃、事務所のドアを乱暴に叩く音が響いた。
「騒がしくなりそうだな・・・。」
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