第5話愛と哀







菩提樹

愛と哀


   世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。 シェークスピア






































  第五護 【 愛と哀 】




























  日常は、突然壊れてしまう。


  そう、現に今も。








  「あゆみん・・・。俺のスケボー、壊したな・・・?」


  「てへッ☆」


  「てへッ☆・・・じゃねえだろ・・・!!どうしてくれんだよ!」


  「リンリンが悪いんだよ?その辺に置いておくから~。」


  「その辺って・・・抱き枕代わりに抱いて寝てたのに、何がその辺だ~!!」


  朝から騒々しい立花事務所だったが、かかってきた一本の電話によって、静寂という雑音が、事務所内に響き渡る。


  電話を切ると、立花が半ば叫びながら、名前を呼ぶ。


  「修司、凜、行くぞ。」


  「はい。」


  「えッ?は?ちょ、待って。」


  壊れたスケボーをソファにもたれかかるように置き、床宮は二人に着いていく。


  「誰から電話だったんです?」


  「磯貝だ。」








  磯貝に指定されたファミレスに着くと、隅っこの席の方から、カラン、という下駄の音が聞こえてきたため、そちらに歩いていく。


  禁煙席の一席に座っていた磯貝は、頬杖をつきながら立花たちに向かって、軽く手を上げる。


  磯貝の向かいの席に腰かけると、その流れで、門倉、床宮も磯貝の向かいの席に座った。


  だが、一対三という座り方は、傍から見ても酷くおかしいもので、座っている本人達も、それに気付き始める。


  「・・・気持ち悪ィな。」


  見たままの感想を、磯貝がぽつり、と呟く。


  仕方なく、一番端に座っていた床宮が移動を始め、磯貝の隣に腰かける。


  「で?何の用だ?」


  「ちょっと、気になる事があってよ。」


  「気になる事?」


  聞けば、磯貝はアパートの一階に住んでいるらしいのだが、磯貝の上の部屋の住人が、頻繁に大きな物音をたてたり、ドタドタと走りまわっている音をたてるのだそうだ。


  それだけを聞けば、単に騒々しい人が住んでいるのかとも思えるが、そうではないらしい。


  一度、様子を見に行った事があるらしく、その時、部屋から出てきた男がいたというのだ。


  その部屋に住んでいるのは女性だと、大家さんも言っていてし、干している洗濯物も女性物の下着や洋服だけだったという。


  いや、故意的に見ているのではなく、たまたま視界に入っただけだ。


  男が出ていったあとも、部屋には人の気配はあり、静かではあるのだが、そこで人が生活している音は聞こえてくるのだとか。


  不思議に思ってはいるのだが、わざわざ話を聞くほど親密なわけではないし、だからといって、夜中に五月蠅いのも勘弁してほしいという磯貝。


  「だからよ、なんとかしてくれや。」


  欠伸をしながら、ふてぶてしい態度の磯貝だが、立花は承諾した。


  そして、ポケットから携帯を取り出して、どこかに連絡をし始めた。








  「ちゃお♪」


  「なんでキャバ嬢が?」


  立花が呼び出したのは、杏樹だった。


  いつもよりは地味な気はするが、スタイルが良いせいか、なぜだか派手な格好をしているように見えてしまう。


  栗色の髪の毛は後ろで一つに縛っていて、胸元の大きく開いた、身体のラインがはっきりと出るシャツを着て、ピッチリのパンツを穿いている。


  携帯と財布くらいしか入っていない小さな鞄を持ち、立花たちのいるファミレスに現れた。


  磯貝と床宮の座っている席と、立花と門倉の座っている席を交互に見た後、門倉の隣に、半ば強引にお尻を押し込みながら座り込む。


  「和夫さんの依頼なの?珍しいこともあるのね。」


  「依頼ってほどのことじゃない。」


  「それで?龍平さん?私は何をしたらいいの?」


  門倉の前に置いてある、水の入ったコップを手に取り、当たり前のように自分の口へと運んでいく。


  軽く一口飲むと、髪の毛をいじりながら、枝毛探しを始めた。


  「杏樹には、磯貝の上の部屋の住人と接してもらう。女性だとしたら、俺達が行くよりも、杏樹の方が警戒心も薄れるだろうしな。」


  「そういうことね。分かったわ。」


  そう言うと、杏樹は早速立ち上がり、それにつられて立花たちも立ち上がると、一旦磯貝の部屋に行くことにした。


  アパートに着く頃、外からベランダを見る事が出来た。


  確かに、磯貝の言っていた通り、女性物の下着や洋服などが干されており、男ものは一切ない。


  殺風景な磯貝の部屋に入るなり、杏樹は動き出す。


  「作戦は?立てなくて平気か?」


  まだ何も決めていないのに、杏樹が部屋から出て行こうとしたため、立花が杏樹の背中に向かって声をかける。


  「龍平さん。あんまり計画を立てちゃうと、臨機応変に動けなくなっちゃうわ。」


  ニッコリと微笑みながら、パタリ、と閉めたれたドアにより、磯貝の部屋に男が四人もいるという、なんとも暑苦しい図が出来上がってしまった。


  カツカツ、と杏樹のヒールの音と思われる音の動きだけが聞こえてくる。


  そして、ドアの前に立ったのであろう、一旦音が止まる。


  「・・・坂本さん、大丈夫ですかね?」


  「まあ、度胸はあるからな。」








  ピンポーン、と長い指でチャイムを鳴らすが、なかなか住人は出てこない。


  普通であれば、ここで出て来ないのなら、出かけているのだろうと考え、その場から立ち去るのだろうが、杏樹は違っていた。


  そっとドアに耳を当てると、微かではあるが、カタッ、という物音が聞こえてきた。


  居留守を使っていることが分かると、杏樹は少しの間、玄関の前に突っ立っていて、二、三分後にまたチャイムを鳴らす。


  それを繰り返しているうちに、相手はなかなか我慢強いことを悟り、一度磯貝の部屋に戻る振りをした。


  階段の下の死角になるであろう場所に留まり、一時間以上、住人が出てくるのを待っていた。


  お昼も過ぎ、立花に言われて買い物をしてきた床宮に渡された、なぜかあんぱんを、杏樹は黙々と食べていた。


  午後の二時を過ぎた頃、部屋から女性が出てきたのを確認した。


  そして、階段を下りてどこかに出かけようとしたところを、杏樹が後ろから声をかける。


  「ちゃお♪」


  「え?」


  突然、見知らぬ人に挨拶されたため、住人の女性は驚いた顔を杏樹に向けた。


  「私、坂本杏樹。よろしくね?」


  「は、い?」


  何かの勧誘かと思っているのか、女性は警戒心を弱めるどころか、杏樹の髪の先から足の先までをじっと観察する。


  「そんなに怪しまないでよ。私、ただのキャバ嬢だから。」


  「キャバ・・・嬢?」


  「そう。別に貴方を取って喰おうなんて思って無いわ。」


  ケラケラと笑いながら、女性との距離を確実に詰めていく杏樹は、いきなり女性の手を両手で握りしめ、逃げられないようにする。


  見た目以上に力のある杏樹に、女性は戸惑っている。


  ニコニコとお客さん向けの笑顔を向けながら、杏樹は女性の視線の動きなどを観察し、優しくこう言う。


  「よろしかったら、お友達にならない?」


  「・・・は?」


  いきなり友達にさせられ、買い物まで一緒にすることになった女性は、杏樹のペースについていくのにやっとだった。


  買い物が終わった後は、歩きながら色々と他愛も無い会話をしていた。


  「ね、夕飯だけ、食べていっていいかしら?」


  「え?ええ。構わないけど・・・。」


  「良かった~。ありがとう!あ、そういえば、貴方の名前、まだ聞いて無かったわね。」


  「あ、私?唯です。平永唯。」


  「唯ちゃんね。よろしく。」








  唯の部屋に入る事が出来た杏樹は、ます玄関の靴のチェックを行った。


  幾つもの靴が散乱しているものの、男物の靴は一足も見当たらなかった。


  部屋の中に入ると、唯は袋を台所に持って行き、野菜や肉を次々に出していき、冷蔵庫に入れていく。


  女性の部屋にしては少し物が少ない気もしたが、無駄な物を買わない性格なのかもしれない。


  ふと、ベッドの上に目を向けると、普通であればあまり見ることの無い、救急箱が置いてあることに、杏樹は気付いた。


  料理を始めた女性の手伝いをしながら、杏樹は横目で女性を観察する。


  水仕事のため、少しではあるが腕捲りをしている女性の肌に、不自然な青痣が数か所見つかった。


  「唯ちゃん、どこかにぶつけたの?」


  「え?」


  「青痣、出来ちゃってるわよ?痛くない?」


  何気なく指でさしながら聞いてみると、唯は隠す様に痣の部分を摩り、転んでつくったものだと言ってきた。


  「・・・そう。気をつけてね。」


  気付かないフリをして、その場では深く追究しなかった杏樹だが、その痣が転んで出来たものではないことくらい、容易に判断出来る。


  良く見てみると、髪の毛で隠れていて見え難いが、顔にも痣があった。


  夕飯を食べて、杏樹は唯の部屋を出ると、立花たちのいる磯貝の部屋へと向かう。








  「杏樹。どうだった?」


  静かにドアを閉め、ヒールを脱いで部屋にあがると、磯貝の冷蔵庫を漁ってお酒やビールを探すが、一本も見当たらなかった。


  「悪いな。俺、酒呑まないんだ。」


  「・・・そう。」


  ため息をつきながら、立花と磯貝の間あたりに適当に座ると、疲れたのか、額に手を当てながら、またため息を吐いた。


  「?どうした?」


  いつもの杏樹とは違うため、心配した立花が声をかけるが、首を横に振るばかり。


  「確証は無いの。でも、多分・・・そう。」


  曖昧な言い方に、立花だけでなく、門倉も床宮も、磯貝までもが皆一様に杏樹を見て、次の言葉を待つ。


  しばらく頭を抱えていた杏樹は、立花たちに提案をする。


  「龍平さん。今夜、此処に泊まってもらってもいいかしら。」


  「それはいいが、説明してくれ。」


  「俺の部屋の許可を、なんで立花に取るんだよ。」


  磯貝のささやかな抵抗は、虚しくも、立花にも杏樹にもスル―されてしまい、近くにいた床宮に励まされる。


  「平永唯っていうんだけど、唯ちゃん、DVに合ってるんじゃないかと思うの。」


  「DV・・・。どうしてそう思うんだ?」


  「身体の不自然か箇所にあった痣、それに傷、割れたガラスとか食器。必要以上に物が少なかったのは、物を投げられないようにするための対策かと思ったの。毎回片づけるのも大変だから、殺風景な、和夫さんみたいな部屋になったんじゃないかしら。」


  「おい、キャバ嬢。さらっと失礼な事言うんじゃねえ。」


  またもや無視されたため、不憫に思った門倉が、磯貝に煙草を差し出す。


  「・・・私も前に、されたことがあるから・・・。」


  か細く、消えそうなほどに小さい杏樹の言葉は、立花以外の門倉たちの耳にも、空気を振動させながら、確かに届いた。


  両手で自分の顔を隠し、杏樹はさらに続ける。


  「龍平さんに、情報を提供してほしい、仕事の手伝いをしてほしいって言われる前なんだけど、当時付き合ってた彼氏にね。彼、すごく嫉妬深くて、しかも勘違いも激しくて、毎日毎日暴力を振るわれていたの。別れたいって言っても、しつこく電話してくるし、仕事場にも押しかけてくるようになって、警察に届け出を出したこともあったわ。でも、彼はITの会社で、幹部として真面目に働いていたから、信じてもらえなくて・・・。」


  いつもはハキハキと物事を話す杏樹だが、今はどうだろう。


  ぽつり、ぽつり、と何とか言葉を紡いでいる状態だ。


  「もう、いっそのこと我慢しようって、諦めかけた時、直子ちゃんに会ったの。」


  「ポリ城に?」


  当時、すでに立花の許で働いていた城田は、身体に痣を作った杏樹を街で見かけ、声をかけたのだそうだ。


  顔をぐしゃぐしゃにしながら、杏樹は城田に泣きつき、事情を説明したという。


  城田の方から、警察の同僚に話をして、杏樹に近づかないよう警告し、さらに、もし近づいたり恐怖を与えたら、逮捕すると忠告したそうだ。


  毎日のように城田が送り迎えをしていたが、ある日、事務所の方に連れて行った時、流石プロと言うべきか、話し方が上手い杏樹を、立花がスカウトした形なのだとか。


  ちなみに、当時門倉はすでにいたが、風邪をひいていたとか。


  「だから私、もし唯ちゃんがDVに合ってるなら、助けてあげたいの。」








  杏樹の切実な言葉に、みなは一斉に首を縦に振った。


  そして、杏樹に言われたとおりだと、きっと男は定期的に、それもほぼ毎日のように、同じ行為を繰り返すだろうと予測し、磯貝の部屋で待機することになった。


  全員で待っていても非効率的なため、二、三人に分かれて、交互に睡眠を取りながら、唯の部屋に出入りする男がいないかを調べる。


  午前二時を回ったとき、ガタッ、と二階の唯の部屋から、物音が聞こえてきた。


  ドタドタ・・・バタンッ・・・ドスンッ・・・―


  こんな夜中に、磯貝の部屋に響く激しい物音に、寝ていた磯貝と床宮までもが起きだしてきて、何事かと辺りを見渡す。


  「二階よ。」


  冷静に判断した杏樹は、急いで二階へと駆け上って行った。


  だが、当然のように鍵はかかっていて、中の様子を窺うことは出来ない。


  しばらくすると、急にシーン、となり、今までの騒音が嘘のように静かになっていた。


  門倉が、そっとドアに耳を近づけて、中の様子をなんとか知ろうとするが、ボソボソと、人の声が僅かに漏れてくるだけだ。


  会話の内容までは、聞き取ることは出来ない。


  今度は、杏樹がドアノブに手をかけ、回そうとした時、バッとその手を門倉に掴まれ、非常口の方に引き寄せられながら走ると、目の前には門倉のスーツがあった。


  ガチャ、バタバタ・・・―


  どうやら、中から男が出てきたようで、それを察知した門倉が、杏樹と隠れる為に走り、杏樹の顔を自分の胸元に押し付けたようだ。


  完全に男が去って行ったのを確認すると、再び唯の部屋に向かう。


  コンコン・・・


  なるべく優しく、唯が怖がらないようにドアを叩き、そっと声をかける。


  「唯ちゃん?私、杏樹。こんな時間にごめんね。」


  出てこない唯が気になり、杏樹はドアノブに手をかけて、回しながらそっとドアを開けてみると、暗い部屋の中に、人影を確認した。


  「唯ちゃん・・・?」


  門倉は中に入らず、外で待つことにした。


  ゆっくりと、足下を確認しながら人影に近づいていくと、そこには、身体を丸めて怯えている、唯の姿があった。


  「・・・っく・・・。」








  唯の肩に軽く触れると、ビクッと、大きく肩を揺らした。


  カーテンが開いているため、月明かりだけでも十分に唯の表情を読み取ることが出来、嗚咽交じりに泣き、真新しい痣が出来ていることに気付く。


  杏樹は、そっと唯の頭を撫でながら、耳元で囁くように問いかける。


  「唯ちゃん・・・。さっきの人に、暴力、振るわれてるの?」


  力無く、コクッと頷く唯を、杏樹はギュッと抱きしめる。


  「そう・・・。」


  それから、朝日が昇るまでずっと、杏樹は唯を抱きしめていて、ドアの外では門倉が待機していた。


  朝になり、唯はスヤスヤ眠ってしまっていて、杏樹は門倉を呼ぶ。


  唯を抱っこし、ベッドに寝かせると、門倉は杏樹にこれからどうするのかと訊ねる。


  「言ったでしょ?助けるのよ。」


  一旦磯貝の部屋に行くと、城田とあゆみに連絡を入れてもらい、磯貝のアパートまで来てもらうように言った。


  そして、唯の部屋での会話が、立花たちにも聞こえるように、杏樹たちに無線をつけて、唯の部屋に向かわせる。


  八時過ぎくらいに、やっと唯は目を覚ました。


  「ちゃお♪お邪魔してるわよ。」


  「あ、杏樹、さん。」


  城田とあゆみを紹介し、唯に、色々と聞いてみる。


  「唯ちゃん、昨日の人は、彼氏?」


  「いえ、元、旦那です。」


  「旦那・・・!?唯ちゃん、結婚してたの?」


  「あ、はい。」


  唯の口から出た言葉に、城田やあゆみは目をギョッと大きく開いて驚いていたが、杏樹は、出来るだけ冷静に話を続ける。


  「付き合ってた頃は、すごく優しくて、料理も美味しいって食べてくれたんです・・・。でも、結婚してみたら、暴力がすごくて・・・。」


  「元、ってことは、離婚したのよね?」


  「はい。知り合いの弁護士の人に頼んで、なんとか離婚は出来たんです・・・。でも、それからも続いて・・・。」


  離婚して安心したのも束の間、元夫は、未だに納得しないようで、仕事が終わって帰って来ると、わざわざ唯のアパートまで来て、暴力を振るうのだそうだ。


  いつの間にか合鍵を作っていて、いくら鍵を閉めても無駄だという。


  以前のアパートの時に鍵を替えたのだが、夜中ずっとドアを叩き続けていて、周りの人に迷惑をかけてしまったため、今のアパートに越してきたようだ。


  城田とあゆみは、自分自身を抱きしめる様にして話す唯に、同情の目だけを向けていたのだが、杏樹だけは違った。


  「・・・それだけ?」


  「え?」


  「唯ちゃん自身、まだ、待ってるんでしょ?」


  「・・・。」


  杏樹の言葉の深意が分からない二人は、互いに顔を見合わせて、首を傾げる。


  「昔の旦那さんに戻ってくれるって、思ってるんでしょ?」








  口を噤んでしまった唯に、杏樹は優しい言葉ではなく、唯本人を追いこむような言葉を投げかける。


  それを聞いている男性陣は、なんとも肩身が狭い。


  「おやじ、坂本さん、大丈夫ですか?」


  「杏樹なら、なんとかしてくれるだろう。それに、いざとなったら、直子もあゆみもいる。暴走しても止められる。」


  「・・・そんな冷静な判断、いらねぇんだけど。」


  門倉と床宮に挟まれながら、立花はただ真剣に、無線から聞こえてくる、杏樹たちの会話に意識を集中させる。


  「・・・酷く殴った後に、優しく抱きしめてくれるのよね。『ごめんね』って。『赦してくれ』って。それ言われちゃうと、たった今つけられた痣さえ、愛しく感じてしまう・・・。」


  杏樹の過去を知っている城田は、やっと杏樹の言葉の奥に潜む感情に気付き、膝の腕で拳を作る。


  杏樹に言われたことが、自分の中にある感情と一致したのか、唯は、出てきそうになる涙を、なんとか掌で押さえつける。


  その手をそっと掴み、唯の顔を覗きこみ、穏やかに微笑む。


  すると、唯の額に、杏樹自身の額をくっつけ、互いの体温を感じ取る。


  「でもね、唯ちゃん。昔みたいな優しい旦那さんは、戻って来ないの。・・・こんな痣まで作って・・・。まだ、彼に未練があるの?まだ、好きなの?」


  フルフルと首を横にふりながら、溢れ出す涙を必死に両手で受け止める。


  「わかっ・・・ない・・・。」


  唯の背中をポンポンと叩き、杏樹が泣きやませようとしていると、ふと、暇そうに身体を揺らしていたあゆみが、口を開いた。


  「例え好きだったとしても、ちゃんと縁を切った方がいいんじゃないの?」


  ナンパでもしているかのように、軽い感じで話に入ったあゆみの言葉に、キョトンと、唯も泣きやんでしまった。


  それは、無線で聞いている立花たちも同じで、立花はため息を吐きながら、額に手を置く。


  「だって、そんなの、幸せじゃないじゃん。」








  「幸せ・・・?」


  あゆみが当たり前のように言った言葉に、唯は少し首を傾げながら、聞き返した。


  「そうだよ☆人生は笑ってなんぼだって、偉い人が言ってたような、言って無かったような。まあ、それは置いといて~。結局のところさ、そんな精神的に不安定な人と一緒にいたら、こっちが参っちゃうでしょ?主婦が日常を嘆いてるのとはワケが違うよ。」


  一番年下のわりに、この場においては一番の人生の先輩のようなお言葉を降らせると、またフラフラと身体を動かす。


  「・・・そうね。でも、最終的には唯ちゃんが決めることよ。」


  唯に向けて笑顔を作ると、今度は無線の向こうにいる、立花たちに向かって話始める。


  「和夫さん、というわけで、唯ちゃんの元旦那さんのこと、調べてほしいの。」


  《・・・はぁ・・・。しょうがねぇな。》


  《なら、修司と凜は平永唯の警護にあたれ。城田は警察の方に行って、事情を説明してきてくれ。あゆみは・・・大人しく事務所に帰ってろ。》


  「えー?嫌だよ☆直たんと一緒に動きますー。」


  《あゆみ、言う事聞きなさい。》


  「却下―。」


  「いいわ、私と一緒に行きましょ。」








  杏樹は唯の仕事場に行き、元夫のことを知っている人から話を聞いて周り、夫の仕事場の人からも、人当たりなどを聞いていった。


  同様に、磯貝も元夫のことを調べ始め、電話やメールの履歴、学生時代のことを知っている人からも話を聞いていく。


  門倉と床宮からしてみると、通常の仕事に戻っただけのため、こちらの方が気が楽だ。


  唯は中小企業で働いており、朝の八時に出勤し、六時か七時には帰って来る、というサイクルなため、さらに付け加えると、勝手に動いたりしないため、非常に守り易かった。


  「修さん、知ってたか?」


  「何をだ?」


  「杏樹だよ。意外だよな、吃驚したよ。」


  「・・・まぁ、人には色々あるだろうな。」


  そんな会話をしていると、ふと、アパートの傍にある電信柱の陰に、誰かの気配を感じる。


  そちらの方に視線を向けてみるが、気のせいだったようで、誰もいなかったのだが、念の為確認しに行ってみるが、何も見つからなかった。


  聞いておいた唯の携帯番号にかけてみると、五回目に電話に出た。


  「あ、平永さんですか?」


  《あ、はい。》


  「何か変わったことはありましたか?」


  《いえ、無いですけど・・・。何か?》


  「無いならいいんです。すみません。失礼します。」


  電話を切ると、また、誰かの視線を感じた。


  殺気を孕んだような、恐怖を植え付けるには十分すぎるほどの、ナイフよりも鋭く尖ったもので、心臓を鷲掴みされたような感覚になる。


  門倉は、床宮にも十分注意するように伝え、唯のベランダ側と、ドア側で、静かに待機する。


  何かあったら、すぐに連絡を入れるように唯に言ってはあるものの、きっと実際にそういう状況に陥ったら、そんな余裕は無いだろう。


  そういう事態にならないように、神経を全身に張り巡らせていた。


  唯の下に住んでいる磯貝にも、おかしな物音がしたら無線に連絡を入れるように頼んではあるが、時間は深夜を回ろうとしているため、寝ている可能性が高い。


  ただ、何も無い事だけを願う・・・―








  翌日も、唯はいつものように八時に出勤する。


  仕事場に着けば、真面目に働き始め、昼食は午後二時ごろに取り、また仕事場に戻る。


  六時には帰り支度を始めるため、更衣室へと向かった。


  待っている間に、携帯に連絡が入った。


  《修司くん?凜ちゃん?聞こえる?》


  「坂本さん。どうかしましたか?」


  《和夫さんにも会って、色々と元夫について分かったの。》


  杏樹と磯貝は、互いの情報を教えあって、そこから唯の元夫の性格や、小さい頃のこと、近所からの評判などが分かったようだ。


  《元夫の名前は、吉村司。吉村のマンションに住んでる人は、みな一様に、吉村は真面目で、穏やかな人だって言ってるわ。唯ちゃんと一緒に暮らしてた時も、ゴミ出ししたり、二人で買い物に行ったりしてて、本当に仲が良かったって・・・。》


  資料を捲ったのか、ペラッという紙の音が聞こえてきた。


  《でも、地元での評判は、真逆だったの。》


  「真逆、ですか?」


  《そう。ちょっとしたことで、すぐにカッとなる性格で、小学生のころから、何度か友人に怪我させてるの。中学生時代には、カッタ―を振り回して、補導されたこともあるらしいわ。吉村の御両親にも会えたんだけど・・・。》


  「?何かあったんですか?」


  途中で、突然黙り込んでしまった杏樹に、門倉も少し黙って、杏樹が話出すのを待っていると、ゴクリ、と息を飲んだ音が聞こえた。


  《吉村がまだ小学校に入る前、母親が、父親に暴力を振るわれていたみたい。段々と父親に顔が似てきた吉村に、今度は母親が暴力を振るった・・・。》


  「・・・そういうことですか。」


  《それから、吉村はすごく執念深くて、もしかしたら、唯ちゃんの仕事場にも行ってるんじゃないかと思って・・・。》


  「いえ、今のところ、見かけてはいませんけど・・・。」


  その時、ふと壁にかけてあった時計が目に入り、門倉は険しい表情になる。


  唯が更衣室に入ってから、すでに二十分が経とうとしていた。


  いつもなら、五分か十分で着替えを終えて出てくるのだが、その倍もの時間がかかっている。


  もちろん、吉村が更衣室に入りこんでいる可能性は、それほど高くは無いし、先輩やバイトの人と喋っているのかもしれない。


  だが、門倉の心中には、何かモヤモヤしたものが蠢く。


  《どうかした?》


  「・・・坂本さん、ちょっとすみません。」


  そう言って、携帯をポケットの中にしまいこみ、無線で床宮に連絡を入れ始める。


  「凜、今すぐ更衣室まで来てくれ。」


  《は?覗きならやらねぇぞ。》


  「馬鹿か。冗談言ってる場合じゃねぇんだ。」


  怪しいとは思いながらも、女子更衣室のドアに耳を近づけてみる。


  誰かと喋っている、楽しそうな談笑が聞こえてきてくれれば、と思ってはみたが、残念ながら、何も聞こえては来なかった。


  その代わりに聞こえてきたのは、女性のくぐもった声と、女性にしては低すぎる、明らかに男性と思われる声だった。


  ―不味いな。








  「唯・・・お前、俺を裏切ったのか?あ?いつからそんなに偉くなった?俺が、お前のために、必死に働いてきたっていうのに、この仕打ちは何だ?ええ?唯・・・!!!唯!!」


  大声ではなく、唯の耳元に自分の口を近づけて、言葉を無理矢理届かせようとしている男と、それから逃れるように、身体を精一杯捩っている唯。


  男の言葉に、唯はひたすら首を横にふり、否定を続ける。


  口元は、男の大きな手で覆われており、声を出そうものなら、首に巻かれているもう片方の手によって、思いっきり絞られてしまうだろう。


  なんとか、外にいる門倉に気付いてもらおうと、キョロキョロと辺りを見渡し、大きな音がしそうなものを探すが、何も無い。


  唯の動きを封じているのは、何も上半身だけではない。


  下半身も、唯の足の間に、自分の足を挟むことによって、床にも座れない状況になっている。


  「唯、俺、言ったよな?俺は、お前を愛してるんだ。こんなに、愛してるんだ・・・。なのに、お前はなんでそれを嫌がる?なんでいつも泣く?いつも喚く?助けを求める?赦しを乞う?なぁ・・・唯?なんでだ?」


  悲しそうな表情になったかと思ったら、男は唯の首を締めあげる。


  必死に抵抗を試みる唯だが、男の力に敵うわけがなく、徐々に意識が遠のいていくのだけがわかった。


  「そこまでだ。」








  半分、意識が朦朧としている中、唯の瞳に映ったのは、自分の首を絞めている男に鋭い視線を向けている、門倉の姿だった。


  「誰だ?お前・・・。」


  「その手を離せ。吉村司。」


  「ああ?お前、何の権限があって言ってんだ!!」


  吉村が、荒荒しい口調で門倉に喧嘩を売るが、それと同時に、掴んでいる唯の首にまで、力が込められてしまう。


  余計に苦しさが増すと、唯はギュッと目を瞑る。


  「吉村司、平永唯への接近を禁止する。」


  「うるせぇ・・・。唯は、俺の妻なんだよ。どうしようが、俺の勝手だろ?お前には関係ない!」


  「離婚したと聞いている。離婚した人を妻とは言わない。同様に、離婚した相手を夫とも言わない。よって、今の二人の関係は、“他人”だ。」


  「うるせぇ・・・。うるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇ!!!!!!」


  「五月蠅いのはお前だ。」


  門倉の後ろから、ひょっこり顔を出した床宮は、耳を指で押させ付けて、眉間にシワを寄せながら近づく。


  床宮の登場によって、自分が不利な状況になったことが理解出来たのか、吉村は唯を床に投げ捨て、更衣室にあったベンチを振り回す。


  逃げているはずが、なぜか当たっている床宮に対し、門倉は冷静に避けている。


  唯は気絶しているのかと思っていると、ピクッと肩を揺らして目を半分ほど開いたため、気絶していないと分かった。


  《修司、聞こえるか。》


  「おやじ、今結構暇じゃ無いんですが。」


  《わーってる。杏樹からなんかあったかもって、連絡来たからな。今警察がそっちに向かってるから、なんとか持ちこたえろよ。》


  「・・・簡単に言ってくれますね。」


  吉村は我を失い、更衣室のロッカーにもボコスカとベンチを当てているため、ロッカーが次から次へと半壊していく。


  《なんだ、出来ないのか?》


  立花のその言葉に、少しだけ、ほんの少しだけ、ピクッと反応した門倉は、スーツの上着を脱いで床宮に渡し、羊を狙う狼のような空気を纏う。


  「やってやりましょう。」


  そう言った途端、門倉は吉村に突っ込んでいき、吉村の顔面を思いっきり殴りつけた。


  バタン、と倒れた吉村は、鼻血を出してピクピクと小刻みに身体を動かしている。


  あまりに一瞬の出来事だったため、床宮は目が飛び出そうなほどに見開き、口も、言葉通り、顎が外れたように大きく開いたままだ。


  床宮の手から上着を取って、軽やかに着ながら、唯の許に急ぐ。


  「大丈夫ですか?」


  「は、はい。なんとか・・・。」


  「一応、病院に行きましょう。」


  「いえ、平気ですよ。」


  まだ少し首が傷むものの、少し酸欠状態になっただけだと、唯はなかなか病院に行こうとしない。


  だが、更衣室をちゃんと調べておかなかったこともあり、門倉はちゃんと検査を受ける様にと、何度も説得をした。


  それでも、唯は首を縦に振らない。


  どうしようかと思っていると、息を切らしながら、杏樹が到着した。


  「唯ちゃん・・・!」








  ずっと走ってきたのか、随分と髪の毛も乱れてる杏樹に、門倉は経緯を話す。


  「唯ちゃん、検査してもらった方がいいわ。脳の方に何かあっても、大変よ?後々症状が現れる人もいるんだし・・・。」


  だが、その時、唯を見て違和感を感じた杏樹は、その違和感にすぐ気付く。


  「唯ちゃん・・・もしかして・・・。」


  先程から、ずっとお腹を抱えている唯に、門倉と床宮も何事かと思っていると、ファンファンと警察のサイレンが聞こえてきた。


  同時に、救急車も到着したようだ。


  吉村が警察に連れて行かれた事を確認した立花の許に、門倉と床宮、杏樹と唯が更衣室からやってきた。


  そして、救急隊員の許に行くと、杏樹は伝える。


  「この子、妊娠してるんです。そっちの検査も、してあげてください。」


  「わかりました。では、どうぞ。」


  救急車には杏樹も一緒に乗り、唯自身の検査と、お腹の子供の検査も行われることになった。


  「・・・赤ちゃん?」


  あゆみが、隣に立っている立花に聞くと、「そうだ」とだけ答えが返ってきた。


  「おっさん、ずっと何してたんだよ。」


  床宮が、一人だけしらっとしている立花に、ガルルル、と仔犬が牙を剥く程度の睨みをきかせると、大欠伸をしながら、面倒そうに答える。


  「ほら、これ。」


  そう言って、床宮にではなく、門倉にとある資料を手渡して、磯貝の待っている車へと足を進めた。


  その資料に書かれていたのは、吉村から発信された電話の履歴、メールの履歴だった。


  その頻度は、ストーカーのように多く、一日に十件以上かけている時もあったのだ。


  「よくこんなもの、入手出来ましたね。」


  警察でも無い立花が、こういうものを手に入れるなど、至難の業であることは、床宮にもわかることだ。


  城田かとも思ったが、城田だって、現職では無いのだ。


  「俺だって、この歳だ。コネの一つや二つ、あるんだよ。」


  「・・・コネでどうにかなるんですか?」


  「そう深く突っ込むな。」


  磯貝の車に乗り込むと、胸ポケットから煙草を取り出し、一本口に咥えてライターも出すと、蓋をカチカチといじりだす。


  走りださない車を見ていると、磯貝が門倉達を見る。


  「乗らねぇのか?置いてくぞ。」


  「何処に行くんだよ?」


  床宮の質問に、あゆみが車に乗り込みながら答える。


  「赤ちゃんとこだよ☆」


  「・・・ああ。」








  病院に着くと、検査室の前に杏樹が座っていた。


  「どうだ?様子は?」


  立花の声に、ハッと顔を上げた杏樹の顔色は、いつになく白いように感じる。


  「唯ちゃんは大丈夫みたい。一応、一週間後に、もう一度検査するって。お腹の子の方は・・・まだ・・・。」


  「そうか。」


  杏樹の隣に座って、杏樹を落ち着かせようと、頭を数回叩く。


  「やっぱり、吉村の子、なんですか?」


  聞き難そうに、門倉が杏樹に聞くと、杏樹は黙ってコクン、と頷いてみせた。


  産むのか、産まないのかは、唯次第ではあっても、その子供の事を、歪んだ目で見ずに育てることは出来るのだろうか。


  以前は愛し合っていたとはいえ、一方的で強暴な愛を植え付けられたことを、唯は受け入れられるのだろうか。


  そして、子供にはどう伝えるのだろうか。


  そんな、考えても仕方の無い事を考えていると、検査室から唯が出てきた。


  「唯ちゃん・・・。どう、だった?」


  「・・・大丈夫です。なんともないそうです。」


  「そう。」


  唯と杏樹の二人の雰囲気を感じ取り、立花は二人を残して、他の人達を連れて病院の外へと向かって歩いた。


  自動ドアを通り抜けると、新鮮な空気が肺へと入って来る。


  その空気を吸い込みながら、磯貝は本日最後となる煙草に手を伸ばす。


  新鮮な空気を吸った矢先、早速肺に悪影響な煙を吸うなど、どういう奴が吸うんだと思いながら、それが目の前に二人もいることに脱力する。


  「なんだ、修司も吸うか?」


  「いえ、結構です。」


  警察署の前を散歩している犬を見つけ、あゆみが後を追おうとしたため、床宮は必死になってそれを阻止する。


  門倉は空を見上げて、ため息を吐く。








  「唯ちゃん、お腹の子、どうする心算?」


  「・・・。」


  「産むの?それとも・・・。」


  まだ決めかねているのか、唯はギュッと唇を噛みしめて、洋服を握りしめた。


  杏樹は、唯の背中からそっと手を伸ばし、肩を掴んで、自分の方へと寄りかからせる。


  しばらく、そのままの格好で過ごしていると、二人の周りの時間だけが止まっているような、反対に、速く進んでしまっているような、変な感覚になる。


  「私・・・。」


  ほんの少しだけ、唇を震わせた唯の口から出た言葉は、杏樹の身体へと、直に伝わってきた。


  「産みたい・・・。」


  今、少しでも力を入れて抱きしめようものなら、きっと唯の身体は、ガラスよりも簡単に壊れてしまうだろう。


  自分に全体重を寄りかからせたまま、会話を続ける。


  「そう。」


  「変・・・ですよね。」


  「?何が?」


  「だって、暴力を振るってきた男の子供ですよ?普通、産まないって言うんじゃないですか?」


  自嘲気味に笑う唯に、杏樹は自分のことを思い出す様に話す。


  「でも、子供は悪くないもの。でしょ?それに、きっと可愛いわよ。唯ちゃんの子供だもの。産みたいって思うなら、産みなさい。」


  「杏樹さん・・・。」


  身体を離して、ニッコリと微笑むと、唯は安心したのか泣きだしてしまい、杏樹はずっと傍で肩を抱いていた。


  どれほど時間が経った頃だろうか。


  唯は産む事を杏樹に約束し、アパートへと帰って行った。


  送っていくと言ったのだが、これから母親になるのに、甘えたばかりはいられないと言って、一回り大きくなって歩いていった。


  「子供か・・・。」


  ぽつり、と呟いた言葉は、夕方の冷たい風に乗って、どこかに消えてしまえば良かったのだが、気配もなく現れた人影により、それは叶わなかった。


  「欲しいのか?」


  「・・・龍平さん。やだ、聞いてたの?」


  まだ立花たちが帰っていなかったことに、杏樹は多少驚いた。


  「母性本能でも刺激されたか。」


  「それ以上言ったら、セクハラで訴えるわよ?」


  立花の鼻先を、指でチョンッと押すと、クスクス笑いながら、車の方へと歩いていった。


  「・・・最近じゃ、あれでもセクハラになるのか?」








  唯は引っ越し、磯貝の上の部屋には誰もいなくなった。


  引っ越す前に、事務所に来て御礼を言い、お金を置いていこうとした唯を止めると、立花はお金を返した。


  「これから、二人で生きて行くんだろ?だったら、この金は、君が大事に使いなさい。」


  唯は、何度も何度も御礼を言って、泣き続けながら御礼を言って、引っ越しの車に乗って行ってしまった。


  何処に引っ越したのかは、杏樹も知らない。


  「ちゃお♪」


  仕事の帰りなのか、ウェーブのかかった長い髪の毛、太ももが思いっきり見えている短いスカート、踵の高いヒール、胸元がいつも以上に開いているピンクの服、幾らするのか想像もつかないほどに、キラキラ光っている鞄・・・。


  つけまつげにグロス、ネイルに、肌につけるラメをチラつかせて、杏樹が事務所にやってきた。


  門倉の頬は引き攣り、床宮のスケボーは床に落下し、立花はコーヒーを零し、城田はお茶菓子を落とす。


  そんな中、あゆみだけは興味津津に杏樹に近づき、じろじろ見ている。


  「あら、仕事服で来たのって、初めてだったかしら?」


  「・・・まあ、いい。何の用だ?」


  零れたところを布巾で拭きながら、杏樹をソファに誘導するが、すぐに用は済むと言って、一枚のはがきを立花に差し出してきた。


  「お。」


  「何何??おじちゃん、私も見たい!!」


  バッと、あゆみは立花の顔の横から顔を覗かせる。


  「元気にしてるみたいだな。」


  「そうね。」


  はがきには、笑顔の唯と、その腕に抱かれている、小さな小さな命があった。


  「あ、じゃあ私、帰るわ。アディオス♪」


  杏樹が事務所から出て行くと、立花は部屋の隅にあるコルクボードにまで行き、そこにはがきを画鋲で刺した。


  自分の机からもはがきが見えるようになり、門倉と床宮、城田がそこへ視線を移すと、自然と頬が緩んだ。


  「あ、そういやさ、俺思ったんだけど。」


  「なんだ?」


  「修さん。」


  「俺かよ。」


  「修さんをさ、敵に回さなくて良かったなって、この間思った。」


  「・・・なんだそりゃ。」








  「ねぇーえ、君、可愛いじゃん♪」


  「一人なの~???こんな夜中に一人で歩いてたら~、危ないよ??」


  「俺達が送って行ってあげるよ!!ねっ!!」


  今の世の中、一体どうなっているのだろうか。


  若者は夜遅くまで街をふらつき、他人との係わりを面倒臭がりながらも、誰かと繋がっていたいと、心のどこかで思っている。


  言葉の羅列だけでは、人の心は動かせないのだろうか。


  大人が興味を示さなくなり、恐怖を感じるようになり、自分の事だけを考えるようになってしまった。


  本当は、誰しも、誰かに愛されたいと願い、誰かを愛したいと願っている。


  だがそれさえも、今の世の中、“綺麗事”に分類されてしまうだろう。


  「・・・いいわよ。」







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