第四show【身近に落ちてる不幸にまやかしの幸せを】




真夜中のサーカス団~不幸な貴方へ~

第四show 【 身近に落ちてる不幸にまやかしの幸せを 】



    人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。 ベーコン








































































       第四show 【 身近に落ちてる不幸にまやかしの幸せを 】










































  川凪琢史、今年で三十一になる会社員の普通の男。


  細い目にツンツンした短い黒髪は、一見、スポーツマンにも見える。


  「川凪くん、一昨日渡した資料は直しておいた?」


  「あ、す、すみません。まだです」


  「頼むよ。先月だけでどれだけ相手を待たせたと思ってるんだ」


  「すみません!すぐにやります!」


  「もういいよ。違う人に頼むから。檜山くん、これ頼むね」


  「わかりました」


  なかなかの大手の会社に勤めて早九年。


  川凪は仕事一筋で今まで頑張ってきたのだが、もともと不器用なのか、会社が合わないのか、どっちもなのか。


  同期が次々に昇進して給料も上がっていくにも係わらず、川凪は入った当初とほとんど変わらない階級と給料であった。


  それでも、転職するにはすでに難しい年齢になっているし、家族にも迷惑がかかるため、なんとか今の位置で必死にやっている。


  真面目だが不器用。気合いは空回り。努力はだいたい無駄になる。


  先程のように、仕事に失敗して、部下や同僚から冷ややかな目で見られることも多々あるのであった。


  今の心の支えといえば、家族であろうか。


  仕事も一段落終えて家に帰ると、温かい料理が並び、家族が「おかえり」と優しく声をかけてくれていた。以前は。


  唯一の心の支えでもある家族でさえ、今となっては会話がほぼない。


  土日は休日、祝日や年末年始も基本的には休みであるため、家族との時間は大切にしてきたつもりだ。


  子供が小さい頃は、よく一緒に遊んだり買い物に行ったりしたが、今は口さえまともに聞いてくれない。


  寂しいやら悲しいやらの毎日だが、川凪にとって、そんな日々も決して最悪ではなかった。


  「ただいま」


  控えめの声で呟いた言葉は、誰に向けて言ったものか。


  しーん、静まり返った家の中には、決して誰もいないわけではなく、きっとすでに皆寝てしまっているのだろう。


  案の定、妻までもが、子供達と一緒にパジャマを着て寝ていた。


  そっと歩いてリビングに到着すると、残された自分用の夕ご飯を見て、嬉しいやら悲しいやら。


  簡単にラップがかけられているおかずは、子供の好きなものだ。


  上着を脱いでネクタイを外し、ワイシャツも脱いでパパッと寝巻に着替えると、椅子に座って一人寂しくご飯を食べる。


  冷え切ったご飯、温めればいいのだが、その気力さえない。


  さっさと食べて風呂に入り、子供達とは別の部屋に一人で横になって朝を待った。








  「行ってくる」


  「行ってらっしゃい」


  眠そうにしながらも、妻は毎日朝ご飯を用意してくれている。


  子供たちはまだベッドで寝ているため、起こさないように顔だけ見て家を出ていく。


  仕事に向かうときは、いつも身体が重くてだるい。


  何の為に働いているのかと聞かれたら、迷わずに出てくる答えはきっと「お金のため」となってしまう。


  勿論、それは結果的には家族の為でもあり、自分のためでもあるが、それは建前でしかない。


  生きるために必要最低限のお金を得るために、辛くてもなんでも働かねばならないのだ。


  「おはようございます」


  「ああ。おはよう」


  同期の友人に声をかけられた。


  同期とは言っても、すでに川凪よりもずっと上の階級となっていて、部下からも上司からも慕われ信頼されている。


  会社に入った当初は、自分も早く上に行こうと希望や夢を描いていた川凪だったが、実際そう上手くはいかなかった。


  自分だけが取り残されているような感覚、というよりも事実取り残されてはいるが、だからといって仕事を投げ出すわけにはいかない。


  同期に頭を下げることもあり、同期から呆れられることもあった。


  「川凪さん、ここ、あってますか?」


  「え?ああ、ここね。うん。大丈夫だよ」


  新入社員の子には多少教えられる部分があるが、そこは分かっているのか、川凪に聞くところと聞けないところと、分けてくるようだ。


  ため息を吐いている川凪を、遠巻きから眺めている一つの影があった。








  「ふんふん。次はあそこ辺りかなー」


  紫のグラデーションのかかった長い髪の毛、左目下には涙の形の模様、右側首には星型の模様のついている、傍から見れば完全な不審者。


  クロワッサンを片手に持ってモサモサ食べながら、もう片方の手で牛乳を飲んでいた。


  「それにしても、最近ジャックは人使い荒くなってきたよね。もとからだけど、ここ最近は本当に酷いよ。俺だってピエロの練習あるのに」


  夜な夜な現れるという噂のサーカス団のピエロ兼マジック担当でもあるジョーカーは、団長のジャックに不満を持っているようだ。


  ジャックは責任者でもあるため、みなに注意を払い、残業の毎日だった。


  一方で、サーカス団を守る為にも、不幸を抱えた人間は必要不可欠だった。


  初めのころは、ジャックがその人間の捜索をしていたのだが、面倒になってきたのか、ジョーカーを信頼してくれているのか、最近は動かなくなった。


  ポンッと、クロワッサンを食べ終えた手から造花を出すと、次いでクルッと手首を捻って本物の薔薇にする。


  「人探しくらいなら、ケントにだってマトンにだって出来ると思うけどな」


  「俺が何」


  「だから、不幸な人間探しくらいなら、ケントにだってマトンにだって出来る・・・あれ?空耳かな?」


  いきなり背後に現れたのは、黒髪で無表情のマトンだった。


  「なんでここに?」


  「ジャックに言われた。『ジョーカーがさぼってないか見てこい』って」


  「酷いね」


  ケラケラ笑ってマトンの言葉を流したジョーカーだが、緑色の髪の毛を靡かせながら眉間にシワを寄せているジャックの顔が頭に浮かぶ。


  「けど、『もうなんか眠いから、適当に選んで来い』とも言ってた」


  「なにそれ。一旦やる気なくすとそれだね」


  「よっと」


  ジョーカーの隣に腰かけて、川凪を見る。


  「自殺者も増えてるし、どうでもいいことで物議を醸すし、産まれながらに人生決まってるって言っても過言ではないし。何が愉しいのかな」


  「楽しいのなんて、ひと時だよ。他人の苦労なんて知らないから、すれ違う人みんな楽しそうに見えるだろうし、幸せそうにも見えるもんだよ」


  「へー。そうなんだ」


  「知らないけど。ジャックがそんなこと言ってた気がするような、しないような」


  しばらく二人はずっと黙っていて、時にジョーカーが牛乳を啜る音だけが小さく響いた。


  そよそよと風が心地よく流れてきて、二人の髪の毛を躍らせている。


  どのくらい時間が経ったころか、マトンがふとジョーカーに話しかけた。


  「サーカス団を立ち上げたのってジャックなの?」


  「さあ?どうなんだろうね。そうだと思ってはいるけど、確実なことは何とも言えないかな」


  「・・・・・・そうなの?ジョーカー役に立たない」


  「泣いていい?」


  「ピエロでしょ」


  そこでふと、ジョーカーもジャックのことをほとんど知らないことに気付いた。


  当たり前のように毎日一緒にいて、団長ということもあって慕ってきたが、ジャックは一体なんなのか。


  「てゆーかさ、正直、ジャックとジョーカーって、一緒にサーカス団始めたんだと思ってたけど、違うんだ?」


  「違うね。ジャックとケントがいたから」


  「ケントも?何で?ライオン?何で?」


  「・・・・・・ライオンっていう質問は無視していいのかな。ケントはいたね。ライオン引き攣れた優男がいるのは覚えているから」


  「てっきりジョーカーがジャックの次に入ったんだと思ってた」


  「よく言われる」


  「誰に」


  「嘘ついた。言われたこと無い」


  何のメリットもない会話を続けていると、ターゲットである川凪が動き出した。


  どうやら、今から昼食を取りに行くようだ。


  小さな財布の中身を確認している姿から察するに、きっと小遣いも少なく、その中からランチも出さねばならないのだろう。


  「じゃあ、俺戻るよ」


  「ああ。気を付けて」


  マトンを見送ると言うよりは、その場からあっと言う間に消えてしまったマトンを見て、また川凪に視線を戻す。


  「えーっと、今日のランチは」


  会社から近くて安いお店を探した結果、川凪は穴場を発見した。


  通常であれば、同期にも教えて一緒に食べに行きたいところだが、仕事も違えば階級も異なる同期を誘うには勇気がいる。


  そのため、一人の方が楽だろうと判断した。


  焼肉定食やチキン南蛮定食、ラーメンのランチセットに大盛ナポリタンと、どれもが美味しそうで格安だった。


  一見、古びていて営業しているのかも怪しいお店に入ると、涼しい風と共に低い店の主人の声が聞こえてくる。


  「いらっしゃい。今日は何にする?」


  「今日はカツ丼と餃子のセットで」


  「あいよ」


  客は、川凪以外に一人、それも毎日いる老人だけだった。


  「この店ね、来週でおわりなんだよ」


  「え!?そうなんですか?安くておいしいから、助かってたんですけど。残念です」


  「見たとおり、お客さんがてんで入らないからね。最近は、洒落た店とかファストフード?とかいうとこに行くみたいでね」


  確かに、川凪が入社してから、すさまじく街は発展していった。


  老舗が潰れて新しい店が作られるなんて多々見てきたし、入社直後は街を見て進歩していると驚いたというのに、今ではそれ以上に進歩していても気にもならない。


  人も多くなった。三十代からの大人が多かったこの街にも、若者がどんどん集まる様になってきて、若者向けのお店の方が多いだろう。


  そのせいか、昔ながら、というものは少なくなってきたような気がする。


  「寂しいですね」


  「まあ、時代にゃ逆らえないからな」


  ため息交じりに、諦めを含めた口調でそう言いながら運ばれてきたカツ丼と餃子は、川凪にはもったいないくらいの御馳走だ。


  「いただきます」


  一口、二口、運んでいくご飯は温かく、交互に喉に入れる水は相反する。


  川凪がご飯を食べ終えて会社に戻ろうとしたときにも、まだその老人は座っていた。


  「あの、あの人は?」


  勘定のときに小声で聞いてみると、主人は「ああ」と目を細めた。


  「開店のときからの馴染みなんだ。ここが閉まるってきいて、一日中いるんだよ」


  「そうでしたか」


  なんとなく、その老人の気持ちが分かる川凪は、主人に御礼を言って会社へと戻った。


  仕事場に戻ると、残っている計算式の載った資料に目を通した。


  夜、八時過ぎになってやっと仕事を終え、家に戻って子供たちの寝ているであろう部屋をのぞいてみると、そこには誰もいなかった。


  「あれ?」


  どこだろうと思って探して見るが、川凪の部屋にもどこにもいなかった。


  リビングに戻って水でも飲もうかとしたとき、小さなメモが残されていることに気付いた。


  ―貴方へ


   ごめんなさい。少し家を出ていきます。貴方の頼りなさに不安を覚えました。


   通帳と印鑑をおいていきます。                        美和子―


  脱力、喪失感、無気力、まさしく今の川凪に纏わりついた言葉である。


  「っく・・・・・・なんなんだよ」


  冷蔵庫から取り出してきた缶ビールを開けて五本目、川凪は頬を赤く染めながら、ワイシャツも着替えずに飲んでいた。


  ピンポーン・・・・・・


  玄関のチャイムが鳴るが、時計を見ると十時過ぎていたため、川凪は居留守を使う事にした。


  チャイムは一度鳴ったきり鳴らなかったため、川凪は気を抜いて再びビールを煽ることにしたが、少ししてまたチャイムが鳴る。


  その後も数分間隔で鳴るチャイムに苛立ち、川凪はダンダンと足音を大きく立てながら玄関に向かった。


  「どちら様ですか」


  乱暴に開けた先には、緑色の着ぐるみを着た人が立っていた。


  最初、男か女かの判別が出来なかったのは、きっと髪の毛が長くて着ぐるみの隙間から伸びていたからだ。


  何の着ぐるみかと思っていると、ご丁寧に足の方に「カメレオン」とマジックで書かれていた。


  「何ですか?貴方は」


  「何だと思います?」


  「不審者ですよね。警察に通報しますよ」


  酔っているからなのか、苛立ちが募りに募ってなのか、川凪は普段の姿からは考えられないほど棘のある口調だった。


  着ぐるみの男は、そんな川凪を見てもたじろぐことなく、むしろ面白がっていた。


  クスクスと子馬鹿にしたように笑う男に、川凪は胸倉を掴みあげた。


  「何笑ってるんだ!?さっさとどっかに行け!」


  被っていたフードの部分から僅かに見えた男の瞳は、不気味なほどに川凪を捉え、目の下にある涙の形のタトゥーが気味悪さを増していた。


  「川凪琢史様でいらっしゃいますね?今宵、貴方様に一時の幸せをお運びしたく、参上仕りました。私、ジョーカーと呼ばれております」


  「ジョーカー?俺はババを引いちまったってことか」


  「ババは時に、最強の手札となります」


  「そうとは思えないけどな」


  ジョーカーのなりを見てそういう川凪だが、酔っているからか、最初のように強く追い出そうとはしなかった。


  自嘲気味に笑い始めたかと思うと、次には深いため息を吐いた。


  土足で川凪の家に入りこむジョーカーを見て、川凪は一瞬だけ頭が起きる。


  「おい!何人ん家に勝手に入ろうとしてんだよ!」


  「まあまあ。折角の御縁じゃありませんか。少し、お話でも聞いてさし上げましょう」


  ジョーカーの腕を引っ張って止めようとした川凪だが、ニコニコと笑みを失わずに、川凪よりも強い力で中へと入ってしまう。


  すぐにジョーカーを追いかけるべく、玄関と鍵を閉めて後を追いかけていく。


  それほど広い家ではないはずなのだが、すでにジョーカーは一人でゆっくりと紅茶をたしなんでいた。


  ポカン、と見ていた川凪は、自分も椅子に座る。


  飲んでいた缶ビールを再び手に持ち、ちょびちょびと飲みを再開する。


  「それで、貴方様にふりかかった不幸は一体どんなものでございますか」


  唐突に話だしたジョーカーの方を凝視する川凪は、きっとなぜジョーカーが知っている風なのか、と思っていることだろう。


  そんな思考が表情に出ているのか、それを見てジョーカーは肩を揺らして笑った。


  「な、なんでそんな家庭の事情を他人のお前に話さないといけないんだ!今から俺は警察に不法侵入で警察に連絡したっていいんだぞ!」


  強気に言ってはいるものの、不敵に笑う着ぐるみを着たわけの分からない男、ジョーカーにはなぜか勝ち目はないと判断している。


  おどおどとしながらも、若干鼻息を荒くして睨みつけるが、効果はない。


  「どうやら、奥様がお子さまを連れてどこかへ行ってしまった御様子。いえ、それだけではございませんね。仕事の方も順調とは言えず、いつまで下っぱで働いていればよいのか、判断しかねていると。しかも、自分と同じくらいの歳の人達は皆出世し、自分よりも良い生活を送っているというのに・・・・・・。なんとも嘆かわしいことでございます。会社のため、家族のために働いているというにも係わらず、誰も認めてはくれない」


  「!!?なぜ知ってる!?誰から聞いたんだ!?いや、まだ妻の事は俺だってさっき知ったんだ・・・なんでお前が!?」


  ジョーカーはその場にスッと立ち上がり、着ていた着ぐるみを脱ぎ出した。


  今まで暑くはなかったのか、着ぐるみの中にはスーツを着ていたようだ。


  一気にセールスマンのような雰囲気になったジョーカーに、川凪は意味も無くゴクリと唾を飲み込んだ。


  またゆっくりと椅子に座ると、ポケットから白い手袋を取り出し、着け始めた。


  まるで、執事のようだ。


  「不幸だと感じていらっしゃる川凪様に、僅かながら、幸せを提供させていただこうと思っております。一つ、お聞きしたいことがあるのですが、川凪様は女性がお好きですか?」


  「え?・・・あ、ええ、まあ。嫌いではないですが」


  「なるほど。では、少々お待ち下さい」


  「は?」


  さっきまでいたはずのジョーカーがいきなりいなくなり、キョトンとする川凪。


  やはり、夢であったのか、それにしてははっきりしすぎているし、ジョーカーが飲んでいた紅茶も残っている。








  「と、いうのはどうだろう」


  一旦、川凪の前から姿を消したジョーカーが現れたのは、サーカス団の団長でもあるジャックの部屋であった。


  「俺は構いやしないが、それは女共に聞くんだな」


  「じゃあ、ジャックからの許可は下りたってことでいいのかな」


  「好きに解釈しろ」


  ジャックの言葉にニコッと笑い、ジョーカーが向かった次なる場所には、女性陣の部屋があった。


  コンコン、と強めでも控えめでもないノックを叩き、返事も聞かずにドアを開けると、いきなり枕が飛んできた。


  それをヒラリとかわすと、投げてきた当人をニコニコを見る。


  「何してんのよ。変態。しかもルンルンした顔してんじゃないわよ。今着替えようとしてたのよ」


  「ごめんね、エリア。でも、エリアの着替えシーンに興味はないから、安心して」


  「ムカつくわね。ちょっとは興味持ちなさいよ」


  「ルージュもいるし、キ―ラとアイーダもいるよね?」


  「いちいち癪に触るわね」


  エリアの部屋に、ルージュとキ―ラ、アヌース付きのアイーダをなんとか宥めると、ジョーカーはこう言い放った。


  「みんなには、これから来る川凪様のお相手をお願いするよ」


  「「「「は?」」」」


  綺麗に皆がはもったところで、一人だけ、顔を青ざめた者がいた。


  「え?俺も?」


  アイーダが一時も離れようとはしないアヌースが、頬を引き攣らせながらそう言うと、ジョーカーは鼻で笑った。


  「そんなわけないでしょ。女の子だけ。なんでもいいから褒めるだけでいいよ。ショ―の方は全部男陣でやるから。ジャックからもOK出てるし」


  「・・・それは、拒否する権利がないってことでしょうか」


  大人しいながらも毒舌なルージュが口を開くと、エリアが髪をかきあげながら足を組む。


  「あたしはそういうの慣れてるわよ?なんてったって、寄ってくる男は大勢いるし?褒めることが出来ない女なんて、この世にいるのかしら?ね~?ルージュ?」


  喧嘩腰に言ったエリアだったが、そのことを知ってか知らすか、いや、きっと知っているが相手にするのが面倒なルージュは、「はぁ」とだけ返す。


  肩身の狭いキ―ラは、「頑張ります」と小声で言うが、きっとジョーカーにしか聞こえていない。


  「あたしは御免だわ。絶対にね。なぜならあたしには・・・アヌースがいるからよ!!!浮気なんて出来ないわ!!!アヌースのことなら、幾らでも褒め称えて愛を囁くことも愛とは何ぞやと語り合う事も出来るけどっ、他の男のことは無理よ!断じて無理よ!絶対無理よ!あたしが愛してるのはアヌースだけなの!!!!」


  「・・・貴方も大変ね、アヌース」


  「同情してくれてありがとう、エリア」


  面倒臭い姉に呆れてため息を吐くと、アイーダはそれを、二人の愛を確認した安堵のため息だと勘違いした。


  余計にきつく抱きしめてきたアイーダに、アヌースは眉のシワをより濃くした。


  口元を緩めずに、ジョーカーはちらりと横目でアヌースを見ると、何かを感じ取ったアヌースは、両手でアイーダの肩を掴み、自分の方を向かせた。


  何事かと、アイーダは目をキラキラ輝かせて頬を染めている。


  しまいには、うっとりとした目つきになり、自分の両手を絡めてアヌースの言葉を待つ。


  いつもは下手物を見る様な目で見られているが、今はそれとは全く異なり、真剣な視線でアイーダを見つめている。


  「アイーダ・・・・・・」


  静かに口を開いたアヌースの言葉の続きを、アイーダは大人しく聞く。


  「俺の為に、やってくれるよな?」


  「はい!」


  他の人が、どんな言葉を並べても、ちっともちっともちっとも、これっぽっちも頷こうとも同意しようとも賛成しようとも首を縦に振ろうとも、ましてや聞こうともしないアイーダ。


  だが、即答だった。


  真剣な眼差しで言われたあと、にこりと笑って「ありがとう」と言われたからか、アイーダはクラリと目まいを起こし、息を荒げた。


  「ど、どうしました?」


  心配したキ―ラが駆け寄り、背中を摩ろうとしたが、ルージュに止められた。


  「ァ、ァ、アヌースからの愛のメッセージ・・・・・・!!!!しかと受け取ったわ!!!任せなさい!このアイーダ、その男がどんな駄目男だろうとも、褒めて褒めて褒めまくってやるわ!」


  「頼もしいね」


  蔑んだ気持ちを隠して何とか言うジョーカーは、その後ジャックの部屋に戻って打ち合わせを簡単に済ませた。


  「じゃあ、連れてくるからー」


  「ああ」


  首を左右にコキコキ動かしながら適当に返事をするジャック。


  その傍らで、自らの洋服を飼いライオンに噛まれながらも微笑んでいるケントがいたが、ジョーカーはあえて絡まない。


  スーツ姿のまま、また川凪の家に向かった。








  「大変お待たせいたしました」


  未だに缶ビールを飲んでいた川凪に挨拶を済ませると、ジョーカーは手を振り上げた。


  すると、思わず目を瞑り、次に目を開いたときには知らない場所に立っていた。


  どことも分からないところに立っていて、しかしそこは外であって真っ暗。周りには何もなく、本当に自分だけがポツンと立っている。


  少しだけ歩いて回りをクルクル回っていると、いつの間には視界にはテントが一つあった。


  「?こんなとこにテント?」


  誰かいるだろうかと思い、川凪はテントの方へと近づいていった。


  思ったよりも遠い場所にあったのか、遠くから見たときにはそれほどの大きさでは無いと思っていたテントは、一軒家よりも大きかった。


  中を覗こうと試みたが、入口らしきものも見当たらず、とりあえずテントの周りをぐるっと一周した。


  やはりない入口に、川凪は諦めて元来た道を戻ろうとする。


  「川凪様、御案内いたします」


  「?!!!?お、お前!!!」


  これまたいつの間に現れたのか、あの着ぐるみで登場して今はスーツ姿になってるジョーカーがいた。


  腰あたりまで伸びている髪の毛がゆっくりと靡き、ジョーカーがお辞儀をしていることに気付く。


  「これより、ひとときの夢を御堪能下さいませ」


  ジョーカーに誘われてテントに近づくと、入口の無かったテント内になぜか入ることが出来た。


  テント内に入ると、外から見ていたよりも広く感じ、川凪は初めて都会に来た田舎者のように上を見て口を開いた。


  その様子にクスクス笑われていることに気付くと、ジョーカーは「失礼」と小さく謝罪した。


  「ここに腰をかけてお待ちくださいませ」


  そう言われ、おずおずと腰を下ろす。


  真ん中には広いスペースがあり、そこには何やら道具が置いてある。


  そのスペースを取り囲むように並んでいる幾つもの椅子があるが、そこに座っているのは川凪ただ一人。


  数分経ったころ、数人の女性達がやってきた。


  一人はおでこを出して肩あたりまでの綺麗な黒髪に、切れ長の目をしている。


  一人はとても大人しそうで眉を下げており、茶色の長い髪の毛を緩く一つに縛っている。


  一人は左分けの短めの橙の髪がさっぱりしており、首には火傷か何かの痕が見え、表情は見るからに無い。


  最後の一人は黒いサラサラの髪の毛を靡かせて、怖いくらいにニコニコしている。


  何が起こるのかと思っていると、女性たちは川凪の周りを取り囲んできて、首に巻きついたりボディタッチをしてきた。


  「あら、とっても素敵な殿方じゃない」


  おでこを出した女性が言い始めるや否や、一番ニコニコしている女性が顔をグイッと近づけてきた。


  急な出来事に、川凪は思わず仰け反ってしまう。


  「琢史さんって、目が綺麗なのね!モテるんでしょう?」


  「い、いえ、そんなことは全く」


  「じゃあ、周りにいる女性の目が節穴なのね・・・。でも、私達はわかってますからね!」


  「あ、あの・・・・・・」


  「何でしょう」


  何か言いたげな川凪にルージュが対応すると、川凪は自分を取り囲む女性陣を一瞥し、頬をカリカリかく。


  「何か、新しいホステスみたいなもんですか?」


  こんな場所でホステスなど有り得るだろうかと、四人は互いの顔を見合わせてキョトンとするが、川凪は至って真面目に聞いているようだ。


  そういうことではないと伝えようとしたキ―ラだったが、その時、川凪の背後には一人の男が立っていた。


  耳を緑色の髪の毛で隠した、紫色の瞳の男は、川凪の前にゆっくりと向かった。


  ニコリと笑みを見せてお辞儀をすると、さらりと髪の毛は同時に地面を向く。


  「川凪様。この度は、わざわざおいで頂き、ありがとうございます。私ども一同、川凪様に御満足いただけるよう、精一杯務めさせていただきますので、どうぞ、御安心してください」


  「えっと、あなたは?俺が会ったあのジョーカーとかいう男は?」


  「ジョーカーでしたら、ショーの準備をしております。決してホステスではございませんし、料金もいただきません」


  「タダ・・・?タダより高いものは無いっていうけど。あとでぼったくるとか・・・・・・」


  「いえいえ、私ども、人々に喜んでいただけるよう努力しておりますだけ。後後請求、ということもございません。そんなに御心配なさるのでしたら、誓約書でもお書きいたしますが、いかがなさいますか?」


  ジョーカーよりも信頼出来る、となぜか思ってしまったその男に、川凪はただただ茫然としてしまう。


  「い、いえ、そこまでは・・・」


  「でしたら、どうぞご堪能くださいませ」


  極上の笑みを見せた後、男は去って行った。


  「彼は?」


  周りにいる女性に聞いてみると、首に痣のある橙の髪の女性が答えた。


  「あれは私達の団長です。ジャックと申します。とても優秀で、尊敬に値する人物であると皆が一様に思っています」


  「そうですか。羨ましいな」


  そういう川凪の横顔はなんとなく切ないものだと、四人は気付いたのだが、気付かぬふりをして会話を続けた。


  そのうち、会話の内容は川凪の仕事のことへとなる。


  「川凪さん、お仕事は何されてるんです?」


  「つまらない仕事ですよ。それに、全然上には行けないままですし」


  「でも、好きなんですよね?続けてるんですから」


  「いえ、好きだから仕事を続けているとは限りませんよ。嫌いだって、お金の為、家族の為だと思えば、続けなければいけないんです。それに、今は転職だけじゃなく、就職するのだって一苦労する時代です。簡単に辞められませんよ。耐えて耐えて、なんとかやってます」


  ハハハ、と笑いながらも時折ため息を零す川凪は、自分で自分のことを話しているうちに、惨めさを改めて感じてしまっているようだ。


  真っ直ぐに前を見ることも出来ず、川凪は自分の足元を見る。


  両手を握って唇を噛みしめているその様子は、明らかに何かを思い出して悔しがっているようだ。


  この話題を避けた方がいいのでは、とも思った四人だが、あえてその話を続けた。


  「夢を追いかけることも素敵ですけど、多少夢を諦めて今を耐え抜いている姿も、とても素敵だと思います」


  そう言ったのは、一番言いそうにないエリアだった。


  「誰かが夢を叶えようと、何かを犠牲にしてまで達成しているのであれば、一方で、夢を犠牲にして、別の何か、新しい何かを守ろうとしている人もいます。あなたは家族を第一に考えただけ。出世するために他人を蹴落としもせず、反発もせず、周りのために頑張ってきた。そんな貴方を見て笑う人がいるのなら、笑わせておけばいいんです」


  ニコリと、決してサーカス団の仲間には見せない笑みを照らすと、川凪の瞳が潤む。


  一方、普段見られないエリアの表情を見てしまった三人は、エリアにバレないように顔を見合わせ、笑いを堪えた。


  それに気付いたエリアは、川凪に見えないように、迷わずアイーダの頭を叩いた。


  「なんで私なのよ!(ヒソヒソ)」


  「あんたの笑い方が一番ムカついたのよ(ヒソヒソ)」


  「ひどい!こんなキュートな笑顔、アヌースが見たら惚れちゃってたわよ!(ヒソヒソ)」


  「ハッ。それは無いわね。あんた、可能性ゼロっていう現実をちゃんと捉えなさい(ヒソヒソ)」


  「うるさい」


  どこまで本当にヒソヒソで話しているのか分からない二人の会話に、無遠慮に割って入ったのは、無表情ながらも機嫌が悪そうなルージュ。


  「ど、どうかしましたか?」


  いきなりルージュが言った言葉に反応した川凪だが、口元と目元をほんの少しだけ緩め、ルージュは一応微笑んだ。


  「いいえ、何でもありません」


  「そ、そうですか?」


  落ち着きと取り戻せないエリアとアイーダは、睨みあう。


  しかし、周りがパアッ、と明るくなってきて、川凪は何事かとキョロキョロし始める。


  「きっと、サーカスが始まるんです」


  ふんわりと柔らかい口調で言うキ―ラは、きっと一番年下なのだろうが、一番大人びている。


  コツ、と後ろから靴のものと思われる音が聞こえてきて、川凪と周りの四人は一緒に振り向いた。


  「団長」


  「川凪様、お待たせいたしました。準備が出来ましたので、御堪能下さいませ」


  「はい、ありがとうございます」


  そう言いに来たのはジャックで、いつものラフな格好ではなく、動きやすいように黒いブイネックに黒のパンツを穿いていた。


  だが、立ち去る時にジョーカーが着る様な派手な上着か何かを持っていたのを、川凪以外の四人は見ていないことにした。


  ジャックがいなくなってからすぐ、舞台にはライオンを引き連れたケントが現れた。


  いつもは火の輪くぐりをするだけなのだが、今日は調子がいいのか、それとも調子に乗っているのか、三mほどの高さの台にライオンを乗せた。


  何をするのかと思っていると、ライオンのいる台に火がついた。


  ライオンが下りられるような着地場所はなく、ただその台からは一本の綱が、空中ブランコの台まで続いているだけ。


  空中ブランコからは人間が下りられる階段はあるものの、その階段を下りられるとしても、まずは第一段階を突破しなければいけない。


  「憐れなライオン」と思ってのは、きっと頬杖をついているエリアだけではないだろう。


  裏で待機しているエリザベス溺愛のバウラも、口を開けて眉間にシワを寄せていた。


  「エリザベス、俺はあんなことさせないからな」


  「くぅん」


  みなが大丈夫かと心配そうにしていると、ケントが空中ブランコの台の方に移動し、ライオンを呼ぶ。


  ケントの姿を見て少し尻尾を振ると、前足を一歩、綱へと伸ばした。


  ライオンの体重を感じ取ると、綱は左右に揺れはじめ、それにさらにライオンも出した足を引っこめた。


  「大丈夫だ、おいで」


  声をかけると、ライオンは自らの重さに耐えきれずに切れてしまいそうな綱に再び足を乗せた。


  ミシ、ミシ、と音を立てる綱だが、ライオンはケントを目指しバランスをとる。


  その様子を見ていたアヌースが、ぽつりと言う。


  「生まれ変わったら百獣の王になりたいと思ったけど、やっぱ嫌だな」


  それは誰の耳にも届いてはいないだろうが、一人、心に決めたアヌースはウンウンとひたすら頷いていた。


  ライオンが無事にケントのいる台にまで到着すると、川凪は思わず拍手をする。


  ケントがペコリとお辞儀をすると、ライオンを連れて階段を下りて行った。


  入れ替わりにやってきたのはバウラで、愛犬エリザベスと玉乗りを開始した。


  さきほどの言葉は何だったのか、バウラはいつもよりも大きな玉を用意していて、大きさをバラバラにして並べた。


  階段のようにすれば簡単に飛べるエリザベスだが、交互に並ぶ大きさの異なる玉を見て、不安そうにバウラを見た。


  その姿も可愛らしく、バウラは思わずエリザベスを強く抱きしめた。


  傍から見れば、ただの馬鹿飼い主。決してエリザベスは悪くは無い。バウラが馬鹿なのだ。


  「エリザベス、きっとお前なら出来る。出来ないと思ったら無理にやらなくていいんだ」


  その場でクルクルと何回転かしたあと、エリザベスは勢いよく走りはじめ、その後一番小さい玉に乗っかった。


  足で器用にコロコロと動かすと、次に大きい玉のところまで向かい、ジャンプした。


  それを繰り返していき、今まで乗った事の無い一番大きな玉の前にまで来た。


  クンクン鳴きながらも、行ったり来たりして乗り移るタイミングを窺っているようで、なぜかバウラが泣きそうな顔をしている。


  「そんなことならさせなければいいじゃない」


  川凪には聞こえないように、小声で呆れたように言うエリア。


  最後の難関もクリアすると、エリザベスは次々と小さな玉にピョンピョン飛び跳ねながらバウラの胸に帰っていく。


  軽くペコッとだけお辞儀をして、エリザベスを撫で撫でし始めたバウラを見て、今度はルージュがぽつり。


  「ケントとは違ってまだ子供」


  バウラが消え、次はきっとアヌースかマトンあたりが組んで、綱渡りやジャグリングをするのだろうと思っていた。


  しかし、マトンと現れたのは、先程こちらに来たジャックだった。


  マトンと一緒に綱渡りをしたかと思うと、連続でアヌースとジャグリングをする。


  なんでも出来るからこそ団長をしているのだろうが、ジャックが実際にサーカスをしているところを見たことが無かった。


  そのため、下手したら専門の自分たちよりも器用に綺麗に華やかにやっているジャックは、ライバル以前に敵わない相手だ。


  ジョーカーのような派手な羽根のついた衣装を着ている姿は、多少滑稽でもあったが。


  そこで、ふとエリアとルージュは思った。


  「空中ブランコはどうするのだろうか」と。


  いつもはエリアとルージュの二人で行っている空中ブランコだが、ジャックは何でも出来るとして、あとは誰がやるのか。


  思った通り、空中ブランコの台に乗ったジャックと、もう一人。


  存在を忘れかけていた、ピエロのイメージが強かった、もっと言うなら、優男にも見え、何を考えているか分からない男、ジョーカーだった。


  ツナギの格好をしたジョーカーと、上着を脱いで真っ黒一色になったジャック。


  女性の空中ブランコは繊細で優しく、蝶の舞う姿にも見えなくもないが、この二人がやると全く違う。


  それぞれの個性が強く、多少荒いところもあるが、力強く、引き込まれてしまう。


  一旦舞台が暗くなり、もう終わってしまったのかと思っていた川凪だが、再び舞台が明るくなると、また目を輝かせた。


  ぽつん、と舞台の真中に立っていたのは、ついさっきまで空中ブランコをしていたジョーカーだ。


  いつの間に着替えたのか、ピエロの格好をしており、鼻先には赤い大きな丸いものをつけていた。


  首を左に傾けると、右手を前に差し出した。


  モゾモゾと指を動かすと、そこからは造花の薔薇が現れ、それに対してまた逆に首を傾けると、今度は本物の薔薇が数十本出てきた。


  首を戻し、両手に溢れんばかりの薔薇を持って天井に向かってなげると、薔薇は青く染まり、雨のようにジョーカーに振り注いだ。


  だが、床に落ちる直前、その青いバラの花びらは急に鷹に姿を変えた。


  床スレスレを飛んで天井をクルクル回ると、今度は身体がググッと大きくなり、龍の形へとなる。


  それは川凪の方にも近づいてきて、反射的に身体を仰け反らせてしまう。


  顔の近くまでくると、次の瞬間には可愛らしいウサギに変貌した。


  「きゃー!かわいいー!!!」


  「本当ですね!」


  はしゃぐアイーダに相槌を打つキ―ラ。


  しかし、うさぎはピョンッ、と跳ねて遠ざかっていくと、煙となって消えてしまった。


  続いて、ジョーカーがホースを持ってきて、水を放出しようとした。


  しただけで、水が出て来なく、ジョーカーはまた首を傾げる仕草をしてホースの穴を覗き込んだ。


  すると、ホースからは大量の水が噴き出してきた。


  演出だと分かっていても、それがなぜか面白く魅力的に感じていると、水は徐々に形を変えて手錠になる。


  テレビの刑事ドラマなどで見る様な、銀色に光る手錠は、ジョーカーの両腕両足に一つずつかかっただけではなく、ジャラジャラと手首から肩にかけて、足首からふとももにかけて、かかっていた。


  さらに、大きめの錠は首にも胴体にも繋がっている。


  両手首は一つの手錠で繋がっているため、自由に動かすことも出来ない。


  そんな中、最初は慌てふためいた演技をしていたジョーカーだが、ふと数十秒間動きをピタリと止める。


  次の瞬間には、ニッコリと笑って、どこから出してきたのか、手の中からマッチを一本取り出した。


  マッチはジョーカーが息を吹きかけただけで炎を灯し、床に落とした。


  すると、火のついているマッチは、ボウッと一瞬だけ大きな炎となり、すぐに消えた。


  ジョーカー自身をも囲んでしまうほどの大きな炎に、川凪は思わず目を閉じてしまったが、目を開けたときには、手錠は全て外されていた。


  ほんの、ニ、三秒の間の出来事だ。


  呆気に取られて口を開けていると、クスクスと笑う声が背後から聞こえてきた。


  「川凪さま、気に入っていただけましたか?」


  「勿論です!とても感激しました!!」


  薄い紫色のワイシャツに身を包んだジャックが、疲れを見せない笑顔でやってきていた。


  「では、出口まで御案内いたします」


  「あの、お金払います。こんなに素晴らしいものを見せていただいたのに、このまま帰るわけにはいきません」


  「いえ、お気になさらず。私達は、川凪さまに幸せになっていただきたく、わざわざ出向いていただいたので。お気持ちだけ、頂戴いたします」


  丁寧に腰を折って頭を下げるジャックに、川凪は頭をかく。


  「そ、そうですか?じゃあ・・・。本当に、ありがとうございました」


  広い様な狭いようなテントの中を歩き、出口まで案内され外に出てもう一度御礼をしようと振り返ると、そこにはもうテントは無かった。


  周りは森でもなく、自分が住んでいる住宅街だった。


  「あれ?」


  一瞬で夢から覚めた感覚になった川凪は、目にしたことを胸にしまいながら、眠りにつくことにした。


  次の日、会社に行って、夜の出来事を少し自慢しようとした。


  「ちょっと聞いてくれよ」


  自分よりも年下の、隣のデスクに座っている同僚に話しかけた。


  だが、内容を話そうとしても、口が動かないというか、頭が働かないというか、声が出ないと言うか・・・・・・。


  とにかく、教えることが出来なかった。


  まあいいかと、また同じような毎日、同じような会話、同じような時間を過ごしていく。


  ただ違う事といえば、家に帰っても誰もいないということだけ。


  それだけなのに、無性に悲しくて虚しくて、静かさがチクチクと胸に刺さってくる。


  「川凪くん。また資料に手違いがあったよ」


  「はい、すみません」








  「アヌース!!!聞いてくれるわよね???頑張ったでしょう!?本当は、アヌース以外の男なんかクソなのよ!!!どうでもいいのよ!!!でも、団長の命令だったし、仕方なくなの・・・!本当よ!?私が想っているのは、いつだって何処だって地球が滅んだってアヌースだけなの!!!だから私を優しく強く抱きしめて、さらには頭を撫でて頂戴!!!!き、キスもしてほしいけど、それは人前だし、その、は、恥ずかしいから、また今度にしましょう!!」


  「・・・・・・」


  「!!!そんな熱い眼差しで見つめられたら、私・・・・・・とろけちゃうッッッ!!!もしかしたら、一線を越える日もそう遠くないのかしら・・・。キャー!!!!いやーーー!!!ドキドキして眠れなくなっちゃうじゃなーい!!!」


  「・・・・・・」


  「そうよね、アヌースも恥ずかしがり屋さんだから、人前じゃ、愛を囁くことも出来ないのよね・・・。じゃあ、今から部屋に行きましょうか!そして、ゆっくりじっくり二人で愛を語りましょう!!!」


  ガバッ、と勢いよくアヌースに抱きつこうとしたアイーダだったが、顔面に靴裏が当たったことにより、制止させられた。


  誰が、というのは皆が分かっていることだが、当然、アヌースだ。


  棒のついた飴を舐めて表情変えずに、自分に迫りくる危機を回避していた。


  ジャックの部屋に持ってきた自分の椅子に腰かけ、足を組んで悠々と姉を蹴り飛ばすと、アイーダを無視してジャックに話しかける。


  「碌な人間がいないね」


  「だから俺達は助かってる」


  いつものように、眼鏡をかけて勘定をしているジャックの傍らには、ぼーっとジャックの仕事を見ているマトンがいた。


  「ひどい・・・!!!『俺の為に』って言ったじゃない!!!だから頑張ったのに・・・。そういうことなら、無理矢理にでもチューしてやるわ!!!!」


  蹴られても尚、諦めない姿勢は素晴らしい。


  だが、アヌースにとっては迷惑以外の何ものでもなく、床にペタリと倒れたかと思いきや、飛びかかってきたアイーダに驚いて目を見開く。


  「ゲッ」とだけ言うと、椅子から身軽にジャンプしてジャックの背後に隠れた。


  椅子に突進していったアイーダは、顔をあげると、ぶつけたのか、多少赤くなった鼻を摩っていた。


  そして、恨めしそうにジャックを睨みつけた。


  「アヌース、俺の後ろに隠れるな」


  「この状況で隠れるなっていう方が無理っしょ。家庭内ストーカーだろ、ありゃ。てか、なんで部屋が隣なわけ?そろそろ離してくれてもいいのに」


  「なら、一番離れているエリアにでも頼んでみろ」


  「やだね。面白がって断られるのは目に見えてる」


  「私のアヌースーーーーーー!!!!!!」


  叫び出し、ジャックが仕事をしている方へと向かってきたため、アヌースは再び回避しようとし、ジャックは視線だけチラリと上げた。


  ぶつかる、そう思ったとき、ぼーっと立っていただけのマトンが、アイーダの背後に回り、首根っこを掴んだ。


  「ちょっと!何すんのよ!!!」


  特に何を言うわけでもなく、マトンはアイーダを部屋の外へと放り投げた。


  「アヌースも部屋に戻れ。もしもドア壊してアイーダが入ってきたら、お前が直すんだからな」


  「めんどくさいな。わかったよ」


  渋々帰っていくと、入れ違いにジョーカーが入っていく。


  ジョーカーが入ってくると、マトンは眠そうな目のまま、アヌースと同じように部屋を出ていった。


  「なんだ」


  「なんだはないでしょ。今回は、結構取れたと思うんだけど、どう?」


  「・・・・・・十三年だな」


  「ってことは、プラマイが八年?たった?もっと取ってもいいんじゃないの?マイナス具合だって五とか六とか・・・。プラスだって、あんなに感激してたんだから、五、六、もっといけば七くらいとってもいいと思うけど」


  眼鏡を取り、ギシ、と椅子を軋ませて背もたれに体重をかけると、ジャックは目を固く閉じて天井に顔を向けた。


  「思ったよりもマイナスにはなって無かった。今までの人生、沢山の苦難も不幸もあったにも関わらず、それほどネガティブには捉えていなかった。感情の起伏が激しい奴ならともかく、どちらかといえばそうでもなかったからだ」


  「残念だなー」


  そう口では言いながらも、肩を揺らして笑うジョーカー。


  だが、すぐにその笑いは終わり、部屋の中は沈黙に包まれる。


  「なあ、ジャック」


  「なんだ」


  「・・・・・・いや、いい。それにしても、見事だったね。もうすでに身体が鈍ってるんじゃないかって思ってたんだけど、意外と平気だったね」


  「当然だ。あれくらい出来なきゃ、あいつらに何も言えないからな」


  「おー。上司の鏡だね」


  「馬鹿にしてるのか」


  「褒めてるのにー」


  間延びした返事をしながら、ジョーカーは部屋のドアノブを握った。


  ケラケラ笑いながら出ていくと、ぽつんと残されたジャックはひとまず仕事を終えたため息を吐いた。


  それから、寝付こうとしてもなかなか寝られず、ため息ばかりが出てくる。


  ふと、聞いたことがあるような無い様な、記憶の奥底にあったメロディーを口ずさむ。






  ―時を刻んだ影法師 夜が落ち行く砂時計


   生と死を結ぶ糸は細く 短く 儚く 脆く けれど愛しい―






  ガタン、と聞こえたドアの向こう側の物音に、ピタッ、と歌うのを止め、気配も足音も消してドアに近づいていく。


  そして一気に開けると、そこには寝たと思っていたマトンがいた。


  「どうした、こんな時間に」


  「・・・・・・」


  「まあいい。入れ」


  何も言わないマトンを部屋に入れ、椅子にアヌースがおいていった椅子に座らせると、どこから出してきたのか、ホットココアを差し出す。


  自分用のコーヒーを淹れて、自分の定位置の椅子に座ると、一口。


  目の前にあるココアを両手に持ち、フーフー、と五回ほど息を吹きかけたあと、ちょびちょび飲み始めた。


  しばらく何も言わずにいたジャックだが、コーヒーを飲み干すと口を開いた。


  「なんで俺の部屋の前にいた」


  「・・・・・・」


  無口だ無口だとは思っていたし、無口であっても気にしたことは無かった。


  だが、ジャックもそう饒舌に話す方ではないため、気まずくはないが、沈黙が続く。


  無理に話をさせる心算も無いジャックは、飲み干したコーヒーカップを眺め、もう一杯飲もうかと腰を上げる。


  コーヒーは好きだがこだわりは特に無いため、インスタントも豆挽きも置いてある。


  歩きながら一口飲もうとするが、熱くて顔を顰める。


  椅子に座ってカップをテーブルに置くと、目を瞑って規則的な呼吸をする。


  「寝る」


  ジャックが目を瞑って一分ほどした時、ココアを飲み終えたマトンがようやく口を開いた。


  トコトコとドアに向かって歩いていくと、ジャックの方を見るわけでもなく、静かに出て行こうとした。


  「いつでも来ていいぞ」


  目を合わせず、少し冷めたであろうコーヒーを口に含むジャック。


  「うん」


  そっけない返事をするマトンだが、コクン、と小さく頷いて部屋から出ていった。


  ジャックの部屋を出ていき、自分の部屋へと戻ろうとしていたマトンだが、部屋を開けようとした時、声をかけられた。


  「あ、こ、これから就寝ですか?」


  「・・・うん」


  一緒に綱渡りをしているキ―ラが、練習をしていたのか、それともトイレにでも行っていたのか、どこからか戻ってきたところだった。


  心を一つにして演技が出来るようにと、マトンとキ―ラは隣の部屋になっている。


  口を開かずに声だけを出して返事をするマトンに、キ―ラは眉毛を下げて小さく笑う事しか出来なかった。


  そのままマトンは部屋に入ってしまい、キ―ラも部屋に入っていった。








  「ねえママ、パパはどこ?」


  「パパはね、遠くにお仕事に行ってるのよ。だから会えないけど、我慢するのよ?」


  「わかった」






  諦めなければ夢は叶うのか。それは叶った者だけが言える台詞だ。


  夢はあれども未来を持てども、多くの人は挫折と断念を繰り返す。


  夢を叶えられたとしても叶えられなかったとしても、人は誰かによって支えられている。


  何処かの見知らぬ人に、常に支えられている。


  その支えている人もきっと、本当の夢を隠していることだろう。








  「川凪くん、これも頼むよ」


  「はい、わかりました」


  「ああ、そうだ。今度のプロジェクトに、川凪くんも参加してもらいたいんだが、良いだろう?」


  「!!はい!よろしくお願いします!!!」








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