第二show【孤独を愛する不幸にささやかな幸せを】
真夜中のサーカス団~不幸な貴方へ~
第二show 【 孤独を愛する不幸にささやかな幸せを 】
人は誰しも、一人で生き、一人で死ぬものである。 ヤコブセン
第二show 【 孤独を愛する不幸にささやかな幸せを 】
とあるビジネスビルの一室、一組の男女がいた。
男のほうは五十代後半か六十代にも見えるが、女のほうはまだ若そうで、二十代後半といったところだろうか。
女は左分けの真っ黒な艶やかな髪の毛を胸あたりまで伸ばし、耳にかけており、透明な縁の眼鏡をかけている。
真面目そうなキリッとした顔立ちだが、タレ目が幼さを感じさせる。
水色のブラウスにカーキ色のデニムを穿き、二人の間にあるテーブルの上に資料の束を置く。
一方、男はシワ一つないスーツを着こなし、一見爽やかな印象も見せるが、女の置いた資料には興味が無い様だ。
先程から、男の視線は女の顔と身体にばかり行っている。
それに気付いている女は、表情一つ変えずに、資料を開いて男に見せて説明もする。
三十分ほど経ったころだろうか、痺れを切らした男が、女の方に顔をぐいっと近づけて、資料を閉じた。
鼻息も聞こえるその距離感に、女は明らかに拒絶を覚える。
男が立ち上がろうとする前に女が立ち上がり、男にテキパキと事務的に言葉を伝えると、さっさと部屋を出ようと扉にまで向かう。
男が急いで女の腕を掴むと、女は男に聞こえないように舌打ちをする。
顔を出口に向けたまま、女は男にこう告げた。
「セクハラが取り柄だけのようなので、この話は無かったことにします」
その言葉に腹を立てた男は、自分の腕を払って部屋から出て行く女に、何やら罵声を浴びせたが、女の耳には入らなかった。
「なんで私が、あんなクズ相手に・・・」
会社に戻った女は、上司に挨拶をすると、デスクに携帯を放り投げた。
「永峯さん、お疲れさまです。どうでしたか?」
「最悪。うちの会社も、よくあんな低能な男のいるグループと手を組もうとしたわね。理解に苦しむわ」
「そうですか」、と苦笑いをしてパソコンに目を戻す同僚に、一度も視線を合わせずに話した女。
女の首からかけてある会社用のカードには、「永峯 翔子」と書かれている。
少し離れたデスクでは、他の女性たちが翔子の方を見てなにやらコソコソと話している。
その話の内容に興味がない翔子に、上司が声をかける。
「なんでしょう」
淡々と返事をする翔子に、上司は大きめの紙袋を一つ取り出し、中身を出すと翔子に向かって差し出した。
何だろうと思い、差し出されたものを凝視する。
これは、見るからにお見合い写真であろうことは分かったが、受け取るべきか受け取らざるべきか、それを迷っていた。
上からの指示とあれば会っても良いのだが、何分、翔子は愛想が悪い。
「これを、私にですか」
「そうだ。今度の日曜日、是非どうかね。一度会うだけでも」
「まあ、会うだけならいいですけど」
仕方なく写真を受け取り、自分のデスクに戻ると、写真を見ずに下のほうの使っていない引き出しの奥にしまう。
その様子を見ていた他の女性たちは、陰でこんなことを言っていた。
「永峯の奴、お見合いだって」
「扱うの難しいから、寿退社でもさせようとしてんじゃない?」
「そうかも!でも、あの性格じゃあ、結婚もどうかってとこよね」
一方、資料を片手にパソコンを打ち続けている翔子は、皆が次々に帰っていく中、ついに部屋に一人になってしまった。
仕事が好きなわけではないが、仕事しかすることがない。
田舎から上京してきて、大学からずっと一人暮らしを始めた翔子。田んぼしかない自分の故郷は好きではなく、出来れば一生帰りたくないとさえ思っていた。
仕事を始めてからも、ずっとその想いは変わらない。
親元を離れることは小さい頃からの一つの夢であり、実力社会で頂点まで上がって、お金に不自由しない生活を送ろうと考えていた。
小学校の文集にも、“私の夢は、誰よりもお金持ちになることです”と書いてあったくらいだ。
きっと、当時の先生や親は、翔子の夢をつまらないと思ったことだろう。冗談が書ける子なのか、と思った人もいるかもしれないが、きっと皆前者だ。
聞きたくなくてもお金の話は聞こえてきていたし、生きて行く為にはお金は何よりも大切で、信頼出来るものだ。
「ふう。やっと終わった」
午後九時過ぎに仕事が終わり、アパートに帰って冷蔵庫を開けると、箱ごと入っている栄養剤を2本喉に流しこんだ。
「っかー」
風呂上がりのビールを呑んだ親父のような声を出すと、翔子はブラウスから脱ぎ始めた。
シャワーだけ浴びて簡単に洗って出てくると、翔子は鞄に入れたファイルの中の資料を取り出してベッドの上に広げた。
髪の毛から滴る水で濡れないように注意しつつ、眼鏡無しであまりよく見えないため、目を細めて、資料に顔を近づける。
夕飯に、冷蔵庫の隅の方に入っていたワッフルを頬張ると、欠片がパラパラと資料の上に落ちた。
ベッド横に置いてあるゴミ箱を、手を伸ばしてなんとか近づけると、資料を持って、資料に乗っているクズを捨てた。
しばらく眺めたあと、これまたベッドの頭の方にある低めの机を近くに移動させ、そこにあるパソコンを開いてUSBを差し込む。
フォルダを開き、資料と照らし合わせながら、せっせと夜中まで仕事に没頭していた。
数日後の日曜日。
翔子は、上司から言われたお見合いの為、朝早くから美容院に通い、また、着物で会う為に、着付けも行っていた。
普段はラフな格好しかしない翔子にとって、着物はなんとも動き難い。
眼鏡もかけて行こうとしたが、コンタクトにしろと、これまた上司命令だったため、数日前に眼科まで行って来て、人生初のコンタクトをした。
目に異常が無いかを調べるために、一週間くらいは試しのものを装着している。
が、正直、きっとこれっきりコンタクトにはしないだろうと思っている翔子には、試しだけでもあれば十分だった。
ピシッと決めると、呼んでいたタクシーでお見合いの場所まで向かった。
「おお、永峯くん。やっと来たか」
「申し訳ございません。何分、不慣れなもので」
「すみませんな。こちらが、うちの永峯です」
翔子と上司の前には、見た目は良い人そうな男の人と、その付き人と思われる男が立っていた。
簡単に挨拶を済ませると、上司と男性の付き人はさっさとどこかへ消えてしまった。
取り残された翔子と男性は、互いに顔を見合わせると、軽く笑った。
「写真よりも、綺麗な方ですね。永峯さんは、とても優秀で気が利くとか。趣味はなんですか?」
優男のような、たんに口が上手いのか、男は翔子との距離を近づけると、ニコニコと話しかけてくる。
出来る限りの笑顔を作ると、翔子はそれに答える。
「趣味は、今は仕事です。それ以外のことは考えられないので」
「そうですか。私もですよ」
生け花とか、書道だとかピアノだとか、そういうものを答えた方が良かったとは思うが、言ったところですぐにバレテしまう。
どうせ会社側で勝手に決めたお見合いなのだからと、翔子は正直に話す。
―へー。つまんねー女。
多分、男はそんなことを心の中では思ってるのだろうが、翔子の会社の方が多少規模が大きいため、男は翔子の言葉を受け入れて行く。
翔子に興味が無いのを示す様に、男は携帯電話の電源を切っておらず、お見合いの最中、何度も音が鳴っていた。
気付かないふりをしたが、時々携帯をチャックしていたことも翔子は知っている。
会社のためのお見合いならば、断られても態度が悪くても気にはしない。こんな話、こっちからお断りなのだから。
それから少し、翔子たちは他愛も無い話を、お互い興味ありげに聞きていた。
社交辞令でも、あまり自分のことを話したことのない翔子にとっては、気恥かしやら面倒臭いやら。
「では、そろそろ」
何時間経ったのかさえ分からなかったが、上司たちが翔子らを呼びに来た。
丁寧に、出来る限り愛想よく挨拶をすると、男たちはそのまま車で会社へと帰って行ったと思われ、翔子はひとまず着替えにいく。
朝早く起きて折角着替えたが、お腹が苦しくて仕方なかった。
まだお昼すぎのため、会社に戻って仕事に取りかかろうとしたが、着替え終わったときに丁度、携帯に電話が入った。
「はい。永峯です」
電話に出てみると、自分より先に会社に向かっているはずの上司からであった。
『永峯、今日はそのままあがってくれ。いつもと違う気を遣っただろうからな。今日はゆっくり休んで、明日またいつも通り頼む』
「え、でも、まだ仕事が残ってますし。そんなに疲れていません」
『そう言うな。これは上司命令だ、いいな』
「・・・はい。わかりました。では、今日はお先に」
『ああ。お疲れさん』
携帯を切ると、いきなり休めと言われて何をしていいのかを分からなくなってしまった翔子は、何度かため息を吐いた。
特に親しい友人がいるわけでもなく、休日も一人で過ごすことが多かった。
財布を覗いてみると、簡単に買い物を出来るくらいは入っているが、嗜好品を買うには足りないだろうくらいだった。
生活必需品でも買いに行こうと決めた翔子は、いつも行っているスーパーまで行くことにした。
―その頃、会社
「永峯のお見合い、どうでした?」
「ああ、駄目だな。というより、もとから会社同士の出方を見るのが目的だったからな」
「永峯の奴、本気になったり?」
「それは無いだろう」
翔子のお見合いは、嫌でも会社中に広まっていた。
あること無いこと言う人がほとんどで、それが瞬く間に噂となって更に広まり、悪循環を生みだしていた。
寿退社させるためのお見合い、邪魔な永峯を男に夢中にさせるため、会社が本気で永峯を追い出そうとした、などだ。
特にひどかったのは、女性の社員たちによる、男にまつわる噂であった。
男がいないふりをしているが、実は数人の男と付き合っているとか、未だに会社にいられるのは、上の方に男がいるからだとか。
噂だと知りながらも、誰もが全否定をすることはなかった。
というよりも、翔子の男事情にそれほど興味などなく、ただいつも自分の言う事が正論だと言い張る翔子が気に入らないため、嘘でも噂なのだからいいか、と面白がっていた。
上司も何も言わず、翔子の仕事ぶりに文句はないので、そのままにしておいた。
「ねぇねぇ、永峯ってさ、男出来無くてずーっと、定年になってもここにいるんじゃない?」
「ハハハハ!!そうかも!まず相手がいないしね」
「あいつのこと好きになる男なんて、よほどの物好きなんじゃない?」
好き勝手言っていても、誰も止めることはなく、それを唯一否定出来る当人もいないため、彼女たちは思う存分話していた。
―一方、男の会社
「相手の永峯さん、だっけ?綺麗な人だっただろう?」
「ええ、まあ。綺麗っちゃあ綺麗でしたけど、女としてどうでしょうって感じでしたよ。趣味は?って聞いた時、嘘でも『お茶』とか『花』とか『料理』とか言えないなんて。『仕事』って言ったんですよ?し・ご・と!言ったとしても、普通男でしょ」
「実際、仕事一筋の人のようだからな」
「俺は無理ですよ。あんな女。つまんねーし、冗談言っても通じ無さそうで」
休憩室で煙草をふかしながら、腰かけ用の椅子にふんぞりかえっている男と、男と一緒にいた付き人の男。
お見合いをした時の格好のまま、吸い終わった煙草を灰皿に押しつけた。
中身の無くなった煙草の箱をぐしゃりと潰すと、胸ポケットに入っている二箱目を開ける。
「吸い過ぎだ」
「いーじゃねーか。ストレス溜まっちまったよ。あんな正義感満載の女の話相手になったんだ。何が愉しいのかね、あんな生き方で」
男は口に咥えた部分の煙草を噛んで、歯を見せて笑う。
「昔から、女は愛橋って言うだろ。愛想も無けりゃ、可愛げもねぇ。俺は御免だね、あんな女。絶対にな。大人しく男の言う事聞く様なタマでもねぇだろし、扱い難くてかなわねぇ」
「仕事場でも毛嫌いされてるらしいからな。お、それより、お前これから会議あるだろ。着替えておけよ」
「はいはい」
まだ半分も吸っていない火のついた煙草を、灰皿にグッグッと押し付けると、男はだるそうに休憩室を出て行った。
その後を追うように着いていく男によって、扉は閉められた。
デパートに着いた翔子は、シャンプーを始め、洗剤や生理用品などをまとめて買い、両手が塞がっていた。
重い、というよりはかさ張っていて持つことが面倒なそれらに、翔子はやってしまったと後悔する。
ふと、入口付近の本屋に気がつく。
―そういえば、最近、忙しくて本なんて読んでないわ。
荷物を持ったまま入ると、最新の本から児童書、専門書までもが揃っていた。
学生時代は多少読んでいたが、仕事を始めてからというもの、なかなか読む機会がなかった。なかったというか、読もうとしなかった。
荷物を床に置き、とある本を手に取ってみた。
―女の幸せ
なんという響きだろう。良くも悪くも。
縁遠い話とは思いつつ、翔子は暇を持て余しているため、立ち読みをすることにした。
結婚だの仕事だの趣味だのと、色んな女性に“幸せとは”という題でインタビューをしていたその本に、こんな言葉があった。
『幸せは金で買えるか』
「馬鹿馬鹿しい」
世の中は目で見え金で買えるものと、目では見えず金で買えないものがある。
幾ら異性関係や自分の幸せに対して疎い翔子でも、幸せが金で買えないものだと思っている。
金で全てがなんとかなるものなら、自分だって今、こんなことにはなっていないだろうし、皆一様に幸せだろう。
本を閉じて荷物をもち、アパートに帰った。
学生のカップルがすれ違い、二人とも手にはタイ焼きを持っていた。きっと近くの美味しいと噂のところで買ったのだろう。
あんな青春時代さえ、送ったことが無かった翔子。
荷物が重くて一旦地面に置き、グーパーグーパーしてからまた荷物を持った。
アパートの自分の家に着いて荷物を置いた時、家のチャイムが鳴った。
「・・・・・・」
誰だろう、何かの勧誘なら面倒だ。
物音を立てないようにゆっくりとドアに近づき、覗き穴から、向こう側にいる人物を探す。
「何か御用ですか」
そこにいたのは、大学時代の同級生の男だった。確か、名前は“稲川”。
「久しぶりじゃん。ここに住んでんだ?」
「・・・なんで知ってるのよ。警察に連絡するわよ」
「ハハハ、それは勘弁。なんか似てるなーと思って、本屋から着いてきた」
特に親しかったわけではない。ただ、同じグループで分かれて課題を解くときに、同じグループになってしまったことがあるだけ。
稲川は茶髪の髪で、耳にはピアスをしている。チャラ男だチャラ男だ、と友人が言っていたのを思い出した。
決して相性が良いとは言えない稲川に、翔子は言う。
「で?何しに?」
「けっこーデカイ会社で働いてんだろ?すげーな。でも、やっぱり今も彼氏とかいねぇんだろ?永峯って、ツンデレ?」
「馬鹿言わないで。暇じゃないの。帰って」
そう言って、稲川を睨みつけてドアを閉めようとしたとき、稲川の足がドアの隙間に入ってきてしまったため、翔子は思わず力を緩めた。
「やっさし~」
調子よさそうに言う稲川に苛立ちながらも、強引に翔子の部屋に入ってきてしまった稲川に、成す術なし。
「いきなり女性の部屋にはいるもんじゃないわ。失礼にもほどがある。それに、不法侵入よ」
「俺今ホストやってんだけどさ~、そろそろ本気で彼女欲しいな~って思ってたんだよね」
「あら、良かったわね」
「でさ、永峯俺の彼女になんない?」
「は?」
あーだこーだ、嫌だ嫌だ、有り得ない、嫌いだ。
思い付く限りの罵声を浴びせてみた。これくらいなら平気だろうと、翔子は次々に出てくる言葉を止めることはなかった。
だが、稲川はそれを悲しそうに聞いていることに気付いた。
―え?傷付けた?
そんなヤワな心の持ち主ではないはず。防弾ガラスのようなハートのはず。
しかし、今翔子の目の前にいる稲川は、確かに悲しそうな顔をしてた。
「冗談はやめてほしいの。ただでさえ、今日お見合いしてきて、嫌になってるの」
「お見合い?」
ため息を吐いて、水でも飲もうかと冷蔵庫に向かうと、いきなり後ろから抱きつかれてしまった。
「!!??」
ドキッとしたのか、ゾクッとしたのか、翔子にも分からないが、背後に感じる温もりに落ち付きを感じたのは確かだ。
「俺、本気だから」
何度も何度も耳元で囁かれ、翔子は渋々付き合う事を承諾した。
その日から、翔子は多少、化粧や髪型、服装にも気を使う様になっていた。
携帯には朝から稲川のメールが入っており、初めてのその感覚に、嬉しいのやら面倒臭いのやら。
悪い気はしなかった翔子は、次の休みの日に、稲川と会うと約束した。
翔子の豹変ぶりはすぐさま会社中に広まり、上司までもが翔子をマジマジと観察する日々が続いていた。
―休日
「悪い、遅れた」
「本当ね。遅刻だわ」
「へへへへ。で、何処行く?永峯なら、美術館とか?」
「何処でもいいわ。あんまり出歩かないの」
「まじ?じゃあ・・・・・・」
デートスポットではないが、街中を適当に歩いていき、気になる店があったら入る、そんな感じだった。
それが嫌では無かった翔子には、どちらかというと気が楽だった。
その日は、買い物で終わった。
「ここでいいわ。送ってくれてありがと」
「御礼なんて言えんだ。感激だな」
悪ガキのように笑う稲川に、翔子はハッと鼻で笑ってしまう。
翔子よりも幾分か背の高い稲川を見上げて最後にもう一度挨拶をしようとすると、目の前に稲川の顔のアップがあった。
それは、男と女の愛情表現。
ゆっくりと離れた唇に呆然としていると、悪戯な笑みを見せた稲川が、颯爽と帰っていく。
人生できっと小さい頃に父親としただけであろうソレは、今の翔子にとって頭を鈍器で叩かれたような衝撃を受けた。
次の休みにも会う約束をした。
あの事件以来、翔子は徐々に仕事にも身が入らなくなっていた。
なぜかは、翔子自身にもわかっているようで、わかっていなかった。
恋愛事などで、仕事が手に着かなくなるはずなどない。きっと少し疲れているだけだ。またすぐに調子が戻る。
そう一度は簡単に考えた翔子だが、やはり原因はソレしかない。
仕事を趣味にし、仕事で一生を終えると決めた翔子だったが、これはまさに千載一遇のチャンスやもしれないのだ。
「永峯くん」
「はい」
上司に呼ばれて現実に戻り、頭を軽く左右に振って上司のもとへと行く。
「なんでしょうか」
「先日のお見合いの件だが、どうかね?お付き合いはしてみる気あるか?」
「いいえ。お断りさせていただきます」
「・・・君にもそろそろ浮いた話の一つでもあればいいんだが、この先ずっと仕事一筋というわけにもいかんだろう?」
何が言いたいのだろうか。結局、私を辞めさせるためだけのお見合いだったのか。
「私、今お付き合いしている方がいますので」
「ええ!?」
その瞬間、ザワザワとざわめきだした。最近翔子が変わった気がしたのは、気のせいでは無かったのだと、職場の誰もが思ったことだろう。
翔子は一礼をすると、さっさと自分の椅子に座った。
仕事が終わったのはいつも通り、夜八時すぎだったのだが、今日は帰り道に変化があった。
「おー。おかえりー」
「あんた、仕事これからでしょ。早く行きなさいよ」
帰り道の途中で、稲川が待っていた。
手を繋ぐわけでもないし、いちゃいちゃするわけでもないが、そんな空気があまりにも落ち着く。
稲川が饒舌に話を進めて行くため、翔子はそれを軽く聞いていればいい。
アパートまで着いたときに、稲川は「じゃあ仕事行ってくる」と言って、またもや翔子にキスをして去って行った。
男なんて、と思っていた翔子だが、ここまで振り回されてはどうしようもない。
なぜ自分なのだろうか、不思議に思った翔子は、携帯を取り出して稲川に連絡を取ろうとも思った。
しかし、そんなことで電話をするのはどうなのだろうと、携帯をしまった。
昼に働いている自分と、主に夜働いている稲川は、休みの日に会うと言っても時間が限られているし、遠くまでは行けない。
月日の流れには逆らえず、翔子たちは土曜日の夕方にまた会った。
これから何処かに出かけるということではなく、稲川にその時間でいいかと言われたため、時間のある翔子はそれを許可した。
「どこいくの?」
「いいところ」
それだけを言うと、稲川は翔子を連れてドンドン人を押しのけて行った。
だんだんと妖しい雰囲気の場所に行くと、翔子は不安なような怖い様な、これから何が起ころうとしているのか、理解しそうになっていた。
思った通り、ホテル街に着くと、稲川は迷わずに一つのホテルに入っていく。
部屋を適当に指定すると翔子の腕を引っ張っていくが、翔子は思わずその腕を払いのけようとした。
「ちょっと待ってよ!
「なに?」
「なに、じゃないでしょ!あんた、何考えてんのよ!?こんなところに連れてきて!」
「何って・・・言って欲しいの?」
頭に血が昇りそうになった翔子だが、ここで怒り狂ってしまっては、大人としていかなるものかと、深呼吸をした。
その間も、稲川はエレベーターに乗って部屋まで止まることはなく、あっという間に部屋の中に二人きりになってしまった。
ベッドに翔子を腰掛けさせると、稲川はニッコリ笑う。
「ありえないわ!出会って数日でホテル・・・!?馬鹿にしないでよ!あんたはそういうことしてきたかもしれないけど、私はそんなの嫌!だいたい、キスだってそうよ!いきなりしないのよ、そういうことは!」
「キャンキャン喚かないの。お堅い考えなんだな、相変わらず」
精一杯叫んでみたが、さすがホテル。
髪の毛を掴んで苛立ちを隠せないでいる翔子に、稲川はそっと頭を撫でながら何かを取り出した。
それは小さな小箱であり、パカッと開けられた中には、女性が憧れるシルバーリング。
「そういうつもりで、俺は永峯と付き合ったの。だからキスもした。ね、これ貰ってよ」
ゆっくりと近づいてきた稲川の片手によって、翔子がいつもかけている眼鏡が外されてしまった。
「やっぱり。外すともっと美人だな」
人生初の“ドキッ”がきた翔子は、稲川のもう片方の手に握られている指輪を見つめると、自然と涙が溢れ出してきた。
喜んでいいのか、それさえ分からない翔子に、指輪を取り出して翔子の指につけた稲川は、そっと唇をつけた。
数回交わしたあと、そのまま身体がベッドに沈んだ。
結婚の予定を立てた翔子たちは、式場からなにから決め始めていた。
会社にも報告をしたところ、思った通りの反応だが、とても驚かれただけではなく、「永峯くんも冗談が言えるようになったか」とまで言われてしまった。
まさか自分にこんな日が来るとは思っていなかった翔子は、浮かれていた。
お金は折半にしようと話していたのだが、互いの貯金をみてみると、どう考えても翔子が多く出さねば足りなかった。
仕方ないので翔子が七割ほど出すことにした。
ドレスは一緒に決めようと思っていたのだが、稲川がなかなか仕事の都合がつかず、翔子一人で決めていた。
昼間は仕事が入っている翔子に代わり、お金を稲川に預け、支払ってもらうことにもした。
「ねえ、御両親には挨拶に行かなくていいの?」
「ああ。また今度にしよう。それより、今日は式場見に行くんだろ?まあ、俺は海外でもいいけどね。ハワイとか?」
「交通費はどうするのよ。ゲストみんなの分払うとなると、結構かかるわよ」
「そっか。じゃ、近くにしよう」
こういうときもチャラチャラしたのは変わらなかったが、決めている時間もなぜか愉しかった。
「それよか、俺がもっと貯金してればよかったな」
「気にしないで。後で払ってもらうわ」
冗談交じりに話を進めていると、稲川の携帯に電話があり、申し訳なさそうにしながらも電話に出る為に一旦外へと行った。
ハワイは大変だと言ったが、新婚旅行ならいいのでは。だが、ヨーロッパにも一度は行ってみたいと思っていた。
何処にしようか、誰を呼ぼうか、面倒だと思っていたのに・・・・・・。
しばらくして稲川が戻ってくると、仕事が入ってしまったという。
「いいわ。行ってらっしゃい」
「悪い。またな」
「あ、そうだ」
鞄から式場代などのお金の入った封筒を取ると、稲川に手渡し、明日にでも払っておくように頼んだ。
稲川が行ってしまったため、一人になった翔子。
これからどうしようかと、会社の人には決して見られたくない、可愛らしい服装で、街を歩くことにした。
しかし、その日から、稲川との連絡が少なくなった。
もとから仕事の関係で会えなかったものの、稲川からの連絡が毎日のようにあったため、さほど気にすることはなかった。
仕事が忙しいのだろうか。昼間は寝ているのかもしれない。
それでも一度、他人の温もりを知ってしまった翔子にとって、寂しいような、物足りない様な感覚だ。
携帯をデスクの上に置き、鳴ってもいないのに着信の確認を何度もしてしまう。
数週間経ったころ、やっと稲川と連絡が取れた。
「最近、忙しいの?連絡取れなかったけど」
『ああ・・・・・・。あのさ・・・』
歯切れの悪い稲川の返事に、翔子は苛立つ。
「結婚式の準備だってあるのよ?少し会えないの?」
『・・・そのことなんだけど』
声のトーンが低くなり、やる気の無い稲川の話し方にもイラッとし、翔子は携帯を握る手に力を入れる。
向こう側に聞こえないように静かに深く息を吐くと、「なに」と聞く。
『やっぱ辞めよ。結婚』
「何言ってるの!?」
『なーんかさ、永峯って、どう考えても俺の好みじゃねぇんだよなー。俺、もっと甘えてくる子が好きなわけ。わかる?』
「式場とか、招待状とか、どうするのよ!?」
『大丈夫。俺がキャンセルしといたから』
「は!?何を勝手に・・・」
思わず叫んでしまった翔子は、今が仕事場の休憩室の中だという事に気付き、音量を小さくする。
窓側に立って壁に寄りかかると、額に手を当てる。
『ま、そーゆーわけ』
「お金は!?私が渡したお金!あれは返してよ!?そっちが勝手に辞めるんだから、あんたがキャンセル料も全部払ってよね!?」
『あー・・・あの金?ハハハハ。あれね、もう使っちった』
「使ったって?」
きっと今、稲川は仕事場にでもいるのだろう。後ろの方から、よくテレビで見るホストの掛け声が聞こえてくるし、女性の声も聞こえてくる。
『実はさー、永峯に近づいたのって、金借りるためだったんだよなー。でも永峯、金の貸し借りは嫌いそうじゃん?だから、冗談で指輪用意したりとかとかキスとかもしたけど、まさか結婚の話まですんなり進むとは思ってなかったよ!!!でもま、当初の目的は果たせたから、もう俺達の関係は終わり。ジ・エンド。OK?』
「・・・・・・あんた・・・」
『ねー、ユウくんもー、飲もうよー!!』
『待―って。もう切るから』
聞こえてきた会話も、稲川の声も言葉も内容も、どれに対してどのくらいの怒りを表現したらよいのか、翔子は冷静に考えていた。
頭では現状を把握出来ているし、すでに現時点で稲川に対する愛情など一気に吹き飛んだ。
未練があるわけでもなし、詐欺のように取られたお金をグダグダいうつもりもない。
だが、なんだろうか。一言いってやらないと気が済まなくなり、会社に“退職願”まで出してきたのに、この仕打ち。
すう、と息を吸って吐くと、翔子は心を落ち着かせた。
「そうね。いいわ。あんたとの縁が切れるなら問題ないの。でもね、これはいわば結婚詐欺よ。私は事情を説明して警察に被害届を出してもいいの。だけど、私はあんたとは違って人間が出来てるから、あえてしないわ」
『おー!さっすが永峯じゃーん!サンキュー!』
ブツッ、と切れた、何の罪の無い携帯に舌打ちをすると、翔子は項垂れた。
―どうしよう。退職願を今からでも取り消せないかな。
上司にはありのままを報告すべきか、しかしきっとまた自分に注がれる視線の棘は、今までよりも多いことだろう。
男に騙されたなんて悔しいし、またきっと会社中にすぐ広まってしまう。
あることないこと言われるのはいいのだが、本当のことをチクチク言われるのは、なんとなく嫌なものだ。
「しょうがない。転職ってことね」
お金を取られてしまった以上、またお金を稼いで貯蓄をしておかねばならない。
大学時代も軽そうで信用ならないと思っていた男に、こうも簡単に騙されてしまうなんて、それほどまで自分は人恋しかったのかと、翔子はがっかりと肩を落とす。
親に連絡していなかったのが、せめてもの救いだろうか。
―だから、互いの両親に会うのを拒んでたってわけね。
きっと、あの時用意してくれた指輪も、そうとう安いものだったのだろう。
「やんなっちゃう」
翔子が会社を辞めると言う話は、誰からともなく流れて行き、みなその話で持ち切りだった。
「永峯、会社辞めるんだって!」
「あたしも聞いたー!!!それって、マジなの!?」
「仕事無くなったら、あいつどうすんの?何も残んないじゃん」
いつものように、女性社員たちは翔子のことを噂していた。
だが、それだけではなく、翔子が街中で男といたことや、その男と会う時にはスカートをはいていたこも噂として広まっていた。
誰かがその様子を見ていたようで、翔子にとっては誤算。
やっと、今日でこの会社ともお別れ、という日、翔子はいつもと変わらず仕事をし、上司に挨拶をして職場を立ち去った。
これで、息苦しかった職場とおさらば出来た。
すぐに次の職場を見つけることが出来た翔子は、新しい仕事に励んでいた。
だが、そこでも翔子の正義感っぷりは妬まれることの方が多く、同僚だけではなく、上司にまで小言を言われる毎日だった。
―どこにいっても、いる人間の質は同じね。
徐々に仕事に慣れて行くある日、翔子は夜、一人で駅前のベンチに座っていた。
周りの人達は皆、傘をさしている。それもそのはず。今は大雨が降っていて、傘をささずにのんびりベンチに座っている人などいない。
傘をもっていない人も、どこか屋根のある場所へと避難しているのだが、翔子はベンチに座ったままだ。
それを人はおかしいと思い、じろじろと見てくる。
雨に濡れている理由が無いとは言わないが、なにもそんな目で見なくてもいいだろうと、居心地の悪さを感じた翔子は、アパートへと歩き始めた。
鞄を頭に乗せて走るサラリーマンや、手を頭に置いて走る女子高生。
その中、平然と身体中濡れながらも歩いていた翔子の前に、何かが立ちふさがった。
「?」
何だろうと思って上を向くと、着物を着た見知らぬ男が立っていた。
「あの・・・?」
その男は、流し目で左目の下に翠の涙のシールか何か、首元にも赤い星がついていた。
さらに、前で分けられた髪の毛は翔子よりも長く、紫色のグラデーションとなって、冷たい雨に打たれていた。
「お初にお目にかかります。私、名をジョーカーと申します。以後、お見知りおきを」
「ジョーカー・・・?外国の方ですか?」
翔子の言葉にニコリと笑うと、ジョーカーという男はずぶ濡れの翔子の手を取った。
「それより、永峯翔子様ですね?」
「え?はい・・・。あ、もしかして、あなた稲川の知り合いとか?もう茶化すのは止めてくださいね。もうこりごりなんです」
雨に濡れたせいで眼鏡も濡れてしまい、翔子は仕方なく眼鏡を取っていったんふいた。
かけなおそうとしたところで、腕をジョーカーに掴まれてしまい、睨もうとしたら、至近距離にぼやけたジョーカーがいることが分かった。
「いえいえ。そんな方存じ上げません。私、永峯様をご招待したく、参上させていただきました」
昔からの性格なのか、それとも、稲川によってそうさせられたのか、定かではないが、翔子は今までになく人間不信に陥っていた。
今目の前に現れた男さえ、ニコニコと笑っているのは表だけで、心の中ではきっと自分をどうやって騙そうか考えているのだと思っていた。
そんな翔子の心情を知ってか知らずか、男は続ける。
「永峯さまは、少々お心に疲労が溜まっているご様子。私は、そんな永峯さまの心に、癒しと安らぎを与えようと思い、失礼とは承知ですが、ご招待いたしたく参上いたしました。ああ、お金の方で心配がありましたら、心配ありません。お代は必要ありませんので。御心配なさらず、どうぞお越しくださいませ」
「は?お金がいらない?尚更、怪しいじゃない!そんなもの、私がホイホイ着いていくとでも思ってるの?逆に、そんな馬鹿がいたらここに連れてきてほしいわ」
なかなか首を縦に振らない翔子に、ジョーカーは思わず眉を潜めて笑う。
ジョーカーが力を抜いたため、翔子はすぐにジョーカーの腕を払って眼鏡をケースにしまった。
鞄の中にまで入ってしまった雨水をどうしようともせず、翔子はただ苛立ったまま、ジョーカーを睨んだ。
今にも襲いかかってきそうな野良犬。
その表現がきっと一番似合うと思っているジョーカーと、今すぐに家に帰ってシャワーを浴びたい翔子。
「では、失礼します」
棘棘しい言葉と声をジョーカーに向けると、翔子はよく見えていない視界の中、歩いていく。
少し歩いて、やっと一人になれた解放感に浸ろうとした翔子だったが、冷たくなった身体に何かが触れたことに気付く。
何だろうと思って立ち止まると、後ろに、傘を持ったジョーカーがいた。
「あなた、よっぽど暇なのね。そんなに私をおちょくりたいの?」
クスクスと笑うジョーカーは、余裕そうに翔子に傘を差し出し、自身が濡れながらも、棘さえ拭う強い声で、柔らかく告げた。
「永峯様は、よほどこの世界に嫌気がさしているご様子ですね。今までに何人もの方とお会いしてきましたが、永峯様ほど、人をお疑いになる方は初めてです」
笑われている感覚が堪らなく癪に障った翔子が、文句の一つでも言おうとジョーカーに牙を向けた。
その時、いきなり目の前に白い光が差し込んできて、目がくらんだ。
ジェットコースターに乗って落ちる時の様な、胃や腸がグッとくるような、浮遊感に襲われた翔子は、なんとか息をしようと必死に唇を開ける。
微かに肺へと送られる酸素を確かめていると、徐々に気持ち悪さが無くなった。
「・・・・・・?」
何も言ってこないジョーカーが気になり、翔子はゆっくりと目を開ける。
「どこ?ここは?」
はっきりとしない視界に、翔子はすぐに鞄からケースを取り出し、雨で濡れた眼鏡を拭いて再び顔に引っかけた。
派手ではなく、地味でもない、電飾の並ぶ小さめのテントが目に入る。
テントというもの自体にあまり出会ったことのない翔子だが、なんとなく感じる不可思議な感覚は、きっとテント以外の風景からだろう。
天高く聳え立つビルにばかり挟まれた生活を続けていたせいか、こうも田舎のような、何もない、自然に囲まれた場所は、翔子にとって貴重な体験だ。
田んぼどころか、獣道一つさえも見えない場所に、ぽつんと立つテント。
翔子がそのテントへと足を運ぼうとすると、どこからともなく聞き覚えのある声が聞こえてきて、翔子の腕を引っ張っていく。
「!あの、ここは一体どこです?あのテントは?」
ズンズンと進んで行く、少し強引なジョーカーに訊ねると、またニッコリと笑って言われた。
「御心配なく。永峯様は、思うがまま、楽しんでくだされば良いのです」
―タダより高いものはない。
そんな言葉を聞いたことのある翔子は、頭の中で財布の中身を思い出していた。
「ほら、またお客がきたよ」
「本当ね。今度は綺麗な女の人よ」
「女?」
「アヌースにはお姉ちゃんがいるでしょ」
「まあまあ、みんなそんながっつかないで。ほら、ジャックがこっち睨んでるよ」
ガルルル、とどこかにいる獣の唸り声が響くと、その部屋にいた人影たちは一斉に散らばって行った。
その中心にゆっくりと現れた人物は、ジョーカーの連れてきた客人の値踏みを始める。
その間も、男の周りの影たちはコソコソと翔子についての話をしていた。
「バウラ、今日はお前から行け。その後はケントからいつも通りの順番でいけ。いいな。それから、あの客人から幸福度を得るのは困難かもしれない。だから、ショ―の時だけでいい。ショーに集中させてなんとか搾りとるぞ」
見た目の若い、中心に立ってテキパキと指示を出している男。
紫の目に緑色の髪の毛をしたその長身の男に、無表情に近づいていく、同じく緑の髪の毛に漆黒の目を持った、少し低めの男。
「ジャック、ケントがライオンに噛まれてるけど」
いつも周囲の喧嘩を止めに入ったり、なにかと世話係を引き受けてしまう、ライオン飼育員でもある男、ケント。
青い髪の毛をしているのか、ライオンに顔半分を呑まれそうになってもなお、笑ってライオンに話しかけている。
その様子を、呆れたように目を細めて見ていたジャックは、ため息を吐く。
前髪を掻き分けながらライオンに近づくと、殺気の孕んだ気配を纏わせる。
動物の本能として気付いたのか、それとも誰にでも分かる様な殺気を出していたのか、ライオンはジャックを見やる。
睨みながら首を横に小さく動かせば、ライオンは観念したようにケントの顔半分を出した。
もはやライオンの涎まみれになっていたケントだが、相変わらず肩で大袈裟に笑いながら、ジャックに御礼を言った。
「いや~、まさか喰われるとは思わなかったよ。まいったね。ありがとな、ジャック」
「飼い主ならしっかり躾もしておけ。今度お前が喰われてるの見つけても、助けてやらないからな」
「わかったわかった。ちゃんと言っておくよ。“俺を食べないように”って」
シャワーを浴びに部屋から出ていくケント。
傍らでは、とある男女がいちゃいちゃしていた。いちゃいちゃしていた、という表現は適切ではないだろう。
女性が一方的に男性に絡みついて、纏わりついて、邪魔をしていた。
女は綺麗な艶のある黒髪を靡かせながら男に擦り寄っており、男は女と似た顔で、純白の眩しい白髪をしていた。
「アイーダ、ブラコンも大概にしないと、本気でアヌースに嫌われるわよ」
多少不憫に思ったのか、おでこを出した長めの黒髪をした女、エリアがアイーダに警告を促すが、アイーダは聞こうとしない。
大好きな、双子の弟、アヌースの腰や首に腕を絡めてはじいーっと顔を見つめる。
「嫉妬?エリアには男が近づかないからって、醜いわよ。まあ、私とアヌースの仲が良いこと・・・いいえ、家族以上の仲が羨ましいのは分かるけど、生憎、アヌースはあんたみたいな男みたいな女、好みじゃないのよ!」
「・・・誰があんたの弟が好きだって言ったのよ。あたしにだってタイプってもんがあるわ」
静かにアイーダに反論したエリアだが、自分の話など聞かずにアヌースにくっつき続ける様子に、もはや呆れのため息しか出なかった。
アイーダの愛の猛攻撃にも耐えているアヌースの耳には、声が聞こえてこないようにするためなのか、外からの全てをシャットダウンするためなのか、耳せんで塞がれていた。
だが、それでも恐れ多き団長、ジャックの声は耳に入ってくるようで、ジャックの方を見て小さく頷いていたのは見えた。
それを確認出来れば、ジャックも特に文句は言わない。
部屋から出ていくと、本日一発目となるバウラが準備を始める為に愛犬のエリザベスを呼ぶ。
顎の下を撫でれば、気持ちよさそうに目を細めてバウラに身を委ねる。
そのころ、テントの中へと誘導された翔子は、あまりにも殺風景なテントの中と、誰も観客がいないことに、さらなる不安が押し寄せていた。
だが、翔子が言葉を発するよりも先に、誰かによって声が掻き消されてしまった。
「永峯翔子様でいらっしゃいますね?」
「はい」
髪の毛が長く、グラデーションのかかっていたジョーカーに比べると、いたって普通にみえる男。
だが、翔子との距離が近づくにつれて色もはっきりとしてきて、“普通”の部類にいれてはいけないとすぐさま判断出来た。
身長はジョーカーよりも高く、瞳の色も髪の毛の色も、翔子とは相反するものだった。
だが、ジョーカーよりも多少良い印象を受けたとするのならば、髪の毛が短く、耳にかかってはいるもののさっぱりとしている点であろうか。
「本日はようこそ。お忙しい中、よくいらして下さいました」
「あの、この人に、お金はいらないっていわれたんですけど、本当に無料なんですか?」
ちらっとジャックがジョーカーの方を見ると、ジョーカーは眉毛をハの字にして、参ったとばかりに両手をあげて降参の形をとっていた。
口元を弧にしたままのジャックは、翔子が抱いている疑念を全て拭い去る様に伝える。
「慈善事業ではありませんし、こちらにも生活があります。ですが、金銭的なものは一切頂きません。誓約書を書かせていただいても構いません。いかがなさいますか?」
宗教的な、洗脳的な何かで結局お金取るのかよ、という展開だと思っていた翔子は、“誓約書”という言葉の登場に、若干落ち着きを取り戻した。
何より、ジョーカーより信頼出来そうな男だ。
ふとジョーカーを見てみると、いつの間に着替えてきたのか、着物姿から、本物のピエロの格好へと変わっていた。
―やっぱりこいつは不審者だった。
そう心の中では思ったが、何かあったら訴えてやる、くらいの覚悟で足を進めた。
「それでは、この席で少しお待ちください。しばらくしたら、ショ―を始めさせていただきます」
「わかったわ」
「では、しばしの夢をご堪能下さいませ」
フッと一瞬で暗くなった会場に視線を向けていると、少しして灯りがぽつりと浮かんだ。
やっと始まるのか。そう思った翔子は、足を組んで、ショ―を見下ろす形で腕も組む。
最初は犬と男が出てきて、なにやら玉乗りを始めた。
可愛らしい女の子の反応であれば、“キャー“だの”可愛い“だの“すごーい”だのと言うのだろうけど、翔子は違う。
確かに犬は可愛いが、男に向かって可愛いとはおかしいのでは、と考えていた。
そういう邪念や思考を無にして見なければいけないのだが、備え持ってしまったこの性格はどうすることも出来ない。
アップテンポの曲が流れてきたかと思うと、犬の玉乗りが終わり、続いて、先程の男よりも少しだけ大きい年上と思われる男が出来てた。
その横には、翔子を見てグルルル、と鳴いているライオンがいた。
ライオンの火の輪くぐり、空中ブランコ、綱渡り、一輪車とジャグリング、手品、アクロバットな演劇が続いていく。
何も考えずに見ることの出来た時間もあった。
そんな翔子を、物陰から見ている人影が複数存在していた。
「ちょっと、なんで私の華麗な演技を見ても、感動の一つしないのよ」
「それは私の台詞」
「ルージュの演技は淡白だからともかく、私の情熱的な演技がなんでかしら」
誰がショーに出てこようとも、眉ひとつ動かさずに見ている翔子に、不思議がっている、もしくは理解不能を示しているのは、この二人だけではない。
「きっとあれだ。バウラの犬の玉乗りから始まった意味がわからないんだ。いつもは俺からだから」
「それはあの客人は知らないだろう。だいたい、ケントさんのライオンの輪くぐりだって、俺とエリザベスに比べたら、華がないし」
「どっちもどっち」
「なんだと、マトン」
「あ、あの、団長にそ、相談してみますか」
「ねー、アヌース、私の演技、完璧だったでしょ!褒めて褒めて!あ、頑張りすぎた私に、栄養補給として、チューしてくれてもいいわよ!キャー!いーやーだー!!」
「うるさい」
みながギャーギャーボソボソと非難しているとき、ドアをノックもせずに入ってきた気配に誰も気付かなかった。
しばらくそのままにしておいたようだが、五分経っても誰も気付かないため、ドアを強くバンッ、と叩いて存在を強調した。
一斉にそちらに目を向けると、同時に冷や汗を流す。
ニッコリと効果音の聞こえそうな笑顔を見せた男、ジャック。
「二度と口の聞けない身体にしてやろうか」
その言葉に、反射的に首を横にふって否定を繰り返す。
誰も口を開く勇気の無かった空気の中、最年長と思われる男、ケントが若干引き攣った笑みでジャックに問いかける。
「あの客人、満足してないんじゃないのか?ジョーカーの選別は正しかったのか?」
人間を連れてくる役割のジョーカー。その人間が幸福になったかどうかが、彼らが生き延びるための重要項目。
常に幸福を感じている人間もいれば、今回のように感情をあまり出さない人間もいる。
ジョーカーの今回の無作為抽出は失敗だったのでは、と誰もが思っていたのだが、ジャックはしれっとした顔で告げる。
「その心配は無い。幸福になったかどうかは、精神的・身体的機能・そのほかのものから総合的に判断している。ま、今回良くも悪くもタイミングが合った」
また翔子に視線を移そうとした団員たちだが、すでにそこに翔子の姿はなかった。
「あれ?」
「もう帰った。『予想以上に楽しませてもらった』と言われた」
「なによ、その上から目線。ムカつく」
眼鏡をかけて何やら計算を始めたジャックの邪魔にならぬよう、みなは部屋から出ていく。
「このへんでいいわ。送ってもらってありがとう。なかなか楽しかったわ。サーカスなんて産まれた初めて見たわ」
「それはそれは。こちらとしても、永峯さまをご招待出来て満足でございます」
「じゃあ、私はこれで」
「お気をつけて。お幸せに」
最後の方は何と言ったか分からないくらい、小さな声で呟いたジョーカーに、翔子は気付かずに家へと向かって歩き出した。
途中、仕事場の人とばったり会ってしまい、何をしているのかと聞かれた。
今まで自分が見ていたものを話そうとした翔子だが、口が重くて動かず、それと同時に頭も鈍くなってきて、吐き気もしてきた。
「ごめんなさい。ちょっと体調が悪くて」
そう誤魔化して家に帰ると、どっと押し寄せてきた疲労感を、身体とともにベッドに沈めた。
お金のかからない、そして不快でもない、あんな時間は久しぶりだったと思う反面、やはり気がかりなのは、本当に無償なのか。
それを確認しようにも、あの男に会う方法はない。
毎日のように銀行へと行ってお金が減っていないかを確認してみたが、一週間経っても、一か月経っても、お金が減ることはなかった。
疑ってしまった申し訳ない、とまで思うようになった翔子。
彼女は知らない。目には見えないところで、目には見えない大切なものが奪われてしまったことを。
「ジャック、今回は何年?」
「・・・大したことはない。十年だ」
「えーっと?基本五年と、プラマイで五年ってこと?」
「ああ。どん底にまで叩き落とされていた後だったのが幸いして、少しだがプラマイ料金が上がった。だが、それでも五年が精一杯だったな」
栄養補助食品を頬張りながら、青色の短い髪を揺らすケント。
そこに、着物姿のジョーカーが現れ、ケントのライオンに遊び半分で乗ってみると、ライオンは機嫌を損ねて首を大きく振っていた。
ケントはそれを見て面白そうに嗤っており、ジャックはだるそうに眼鏡を外した。
「それにしても、人間の傾向が変わってきたな。昔と今じゃ、同じ人間か疑わしいくらいだ」
「以前の人間は、小さなことでも幸福を想えていたが、ここ数十年の人間は違う。贅沢になって欲も深まり、他人との壁を作って殻に籠る。それだけじゃない。生死に関して関心が低く、自分達の弱さや脆さについては知識も認識も最低だ」
身体をゆっくり起こすと、ジャックはふう、と静かに息を出した。
「機械化が進んで、人間が不要な存在となったとき、果たして生きる価値や意味を見出せる人間が何人いると思う?」
「さあ?俺、人間には興味ないから」
ジャックの言葉に、適当に応えたのはケントだ。
天井を見ながら未だに口をモゴモゴしていて、ジョーカーに邪魔されながらも、定位置をキープしている。
二人の会話に割って入ったのは、他に一人しかいない。
「俺はねー、幾ら機械化が進んで幾ら便利な世の中になっても、人間が不要になる時代は来ないと思うな」
「なんで?」
ケントが首を傾げる。
「機械が壊れたら?直すのも機械?その機械も壊れたら?結局、根本に立っていなければいけないのは人間でしょ。価値や意味が無くても、いつの時代でも人間は必要なんだよ」
「・・・お前にしては、随分“人間らしい”解答だな」
「それは褒め言葉だよね?ありがとー」
闇夜のサーカス団は、また別の闇へと消えていく。
誰にも知られずに灯り続けるその灯台は、自分の足下だけは照らすことが出来ないでいるが、遠くのどこかならきっと照らしだせる。
今日も小さな幸せが降っている。
今宵、貴方の元へと幸せを届けに参ります。
お代?いいえ、お代はいりません。
頂くのは・・・・・・。
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