僭越ながら、秘めたる願いがございます

 ———刻は過ぎ、レティシア・マクレーン二十六歳。


 ……貴族社会における行き遅れ……。……とうが立った……。……婚期を逃したと悪口陰口陰口陰口陰……を叩かれる歳になったレティシアは、周囲の蔑むような視線や嫌味に苦言なんのその!日々の生活を穏やかに謳歌していた。


 遥か二十数年前のハプニングは衝撃過ぎて、未だしっかりくっきり脳裏に焼き付いてるが、思い返せば、初めての遠出を終えて戻ってからは、父とその跡を継ぐ嫡子である兄が、家令をも巻き込んで長期に渡り右往左往騒がしく走り回って、凡例に無いレティシアの暴挙の尻拭いをしてくれたことに感謝の念しか湧いてこない。


 二男三女の第四子レティシア。


 第一子が男児嫡男ですごいぞえらい!と喜んでたのに、予備の次男がなかなか産まれなくて、気が付けば女児が三人も産まれてた…。

 第五子が男児とわかったときには、夫婦のみならず、関係者全員が胸を撫で下ろしたとか何とか…。


 マクレーン家の爵位が『子爵』でしか無いこともあり、貴族としてのプライドと、それに伴う金銭消費も馬鹿にならない。

 誰がどう見たところで大した価値のない三女を愛してくれる家族であったことは、金を食うばかりで政略結婚の駒としても微妙な立ち位置の子どもに声をかけることすらしない当主も珍しくない中、本当に幸運であった。

 三姉妹を挟んで長男次男が産まれたことを鑑みれば、レティシアの類稀なる幸運度が理解できることだろう。


 連鎖的に次々と増えていく領地浄化計画()のための事業によって輝きを取り戻していく領地と、衛生概念というものに目覚めた領民による領主・マクレーン子爵への支持が鰻上りに跳ね上がったせいで更に激務が激務を呼んで草れていく父と兄……。

 元凶レティシアは無邪気さを装って功労者たちへ尊敬の眼差しと声援を送り、……事実、聞くだけで嫌になる激務を投げ出さずに全うする父と兄を尊敬し、メイドによって磨きに磨かれた愛らしさをフルに使って『もうひと声応援♡』。

 ……疲れきった身体をムチ打たせて精力的に働くよう誘導した鬼畜である。


 ……大丈夫。レティシアは前世でかなりのブラック労働を経験した。

 徹夜は三日を越えると感覚がおかしくなってきて、五日もすると幻覚が見えたり幻聴が聞こえたりする。

 先輩は六日目の朝にスポドリを飲みながら自分は海亀だと言い張って『たまごー!たまごー!』と叫びながら踊り狂った。……それでも半日寝かせたら元に戻った。

 書類仕事だけなら平均睡眠二時間で二ヶ月いけたし、一時間になると三日目から一日一回の食事で、温野菜とホットミルクをくらいしか食べられなくなり、十日間で体重が十キロ落ちたけど、それも半日寝て、起きてから食べたいだけ食べたら落ち着いたし満足した。……体重も三日で戻った。

 もっと大変な人はたくさんいると言われればそれまでだが、身体を壊すか否かの見極めができるようになったのは、嬉しくない自慢だ……。

 ……遺憾の意。


 体力は父を注視し、精神の方は兄を注意深く観察した。……大丈夫。まだ『激務』で済んでいる。


 ……そんなこんなで、いつかのレティシアの暴挙を、領主とその後継者の功績だとみんなが勘違いしたまま頭に認識定着させた後、彼女は引っ込み思案を装って魑魅魍魎の跋扈する貴族社会に滑り込み、前世で培われた社会性や社交性、本場の貴婦人の皆様には遥かに劣るものの、社交辞令の崩れぬ作り笑顔で武装し、時には言葉を濁して逃げ……、と。ありとあらゆる経験をフル活用!あっちにフラフラこっちにフラフラ面倒事を回避しながら、同年代の貴族の子息子女の大半が通う学園に入学〜〜〜そして卒業。

 ……多少の騒動や揉め事を幾つか回避するのに失敗したりもしたものの、爵位の高いお家の方々から悪い意味で睨まれることなく、何とか穏便に軽挙な思惑渦巻く貴族小社会を乗り切った。


 ……数年の学園生活を振り返り、レティシアが致命的に失敗したと嘆いたことは、とっても親しい友人……、もとい『生涯の友』らしき人物ができてしまったこと。

 ……しかもその親友は、お世辞でも振りでも無く、レティシアにとって大切な相手になってしまっていた。

 ちょっとした幾つもの偶然が奇跡的に列を成し、取るに足らない誰かとして埋もれる気満々だったレティシアは、子爵令嬢でありながら、侯爵令嬢の命の恩人であり、清き乙女の恩人として、感謝と友情、そして友愛を受けるという、真逆の未来を強制されることとなった。

 ……貴族。特に高位貴族の子ともなると、家族仲が良かろうがどうだろうが、男は家を繁栄させるための駒。女なら家の権力や勢力なんかを良いように調整する政略結婚の駒としての役割りを求められる。

 それを滞りなく遂行するなら、女の“処女性”は絶対外せない要素であり、必然に駆られ、結果的にとはいえ、儚く散らされそうになっていた侯爵令嬢の青い果実を死守したレティシアは、彼女の名誉を護った、ウェスパエ侯爵家の恩人。

 ……件の侯爵令嬢。アウリーディアことリディーが末っ子で、レティシアと同じく、親兄弟にとても可愛がられていたこともあり、分不相応にも大恩人扱いされて困ってしまったくらいである。


 誰とも当たり障りなく、世界の片隅で気楽に余生を過ごす夢は、好意全開の侯爵令嬢と、恩人への好意の他に、娘の受けた恩をそのままにしては家名に傷が付くという、高位貴族特有の面倒臭いプライドに全力で蹴っ飛ばされ、蜃気楼の向こうへ消えてしまった。

 直接礼が言いたいと呼びつけられた先の侯爵家の本邸で、彼女の家族と初めて対面。

 リディーと少し年の離れた彼女の兄二人はまだまだ修行が足りていないらしく、この恩を笠にきて自分達に迫ってくるんじゃねぇか?みたいな疑惑が、隠してるつもりの柔和な笑みから滲み出ていたので、心の中で失笑しておいた。

 そして、思い上がりも大概にしろ!とこちらも心の中だけで悪態を吐きつつ、お二人には微塵も興味が湧かないので早めに視界から消えてくださらない?とばかりに、その存在を総無視してリディーと二人の世界を作り上げてやった。

 リディーの母である侯爵夫人と、父であり当主でもある侯爵は流石で、あからさまな感情を見せない口元の微笑からは、決してそれ以上の期待を抱かせない形式的な礼の言葉が紡がれ、しかしながら、


お礼にお宅の娘さんの良い嫁ぎ先を世話してやろうか?


というようなことを、冷ややかな視線と共に、回りくどくも平然と投げかけてきたので、考えていることは同じなのだろう……。


 何処かの世界線では、その微笑みのことを“アルカイック・スマイル”と呼んでいたりする。


 ……だけどその用心深さ、嫌いじゃない。


 貴族なのだ。それも高位の貴族。

 清濁を呑み込めない輩は、そもそもその場所に立つべきではない!

 ……清いばかりでは立ち行かないことはわかっていても、ウェスパエ侯爵家自体に悪い噂は聞かないし、リディーとその兄二人も貴族の子息子女としては善良な方。

 しかしながら、大衆受けするような“善良”さは、貴族からすれば時に害悪になりかねない。

 陰謀詭計は貴族の嗜みとほぼ同義みたいものなので、ただの善良なお人好しは、よってたかって食い散らかされるだけ。

 野心の足りない我が家のお父さまでさえ、誰かに足元を掬われないよう、あらぬ噂で貶められることのないよう、油断無く周囲を見渡し、日々の情報収集に精を出しているのだ。

 ウェスパエ侯爵家の真綿で包み込むようなその気高き傲慢さは、寧ろもっと称賛されるべきだと思っている。


 ……と、侯爵夫妻以上に回りくどく包み込んだ言葉で大絶賛したら、侯爵は少しだけど目を見開いた後に、心底楽しそうに声まで出して笑ってくださったので、お気に召していただけたようだ。

 レティシアにとっては、侯爵よりも社交界に広い人脈を持っているだろう夫人の方がよほど怖かったのだが……。

 己が女で、その存在を認識されてしまった以上、どうしたところで注視されるのは覚悟せねばならないからだ。

 ……これまで歯牙にも掛けていなかった子爵家の小娘が、何の因果か、自身の娘の親友ともいえる立場に突然躍り出てきたのである。

 ……いくら恩人だと言っても、そんなポッとでの人物を、心から信用信頼できるかと問われれば、答えは否。

 娘のそばにいることを許すなら、自然と見方は厳しくなる。

 だからこそレティシアは、侯爵夫妻に己は無能ではなく、最低でもくだらないことで御息女、並びに侯爵家へ不利益をもたらす存在ではないと証明する必要があった。

 ……仮にもアウリーディアの恩人だ。不合格をいただいたところで物理的に排除されることは無いと思いたいが、余計なことをしでかさないようにと、管理されてしまう可能性は高い。

 ……そうなってしまえば、何もなくとも常に監視され、長期間に渡って窮屈な思いをしなければならなくなる。

 末端に近くとも、“貴族”というだけで息苦しさのなくならない生活をしているというのに、それに輪をかけて締めつけが増えるのはごめん被りたかったのである。

 そこまで考えて思いついた手っ取り早い証明方法が話術だったのだが、侯爵だけでなく、夫人の方も楽しそうにしているのを見て、ホッと胸を撫で下ろすことができた。


 まあ、暫くは疑惑を纏った監視の目に晒されるだろうが……。


 精神的な意味で参考にしたのは前世の『京ことば』。

 如何なるときも裏を読まねばならない、今世貴族の心のバイブルとして、非常に重宝している一品である。


『私に気を使っていただいてありがとうございます。ですがお忙しいのではございませんか?』

 ※訳 こっち見んな。そしてこっちくんな。


 ……そう、レティシアに言われたリディーの兄二人は、どちらも『妹の恩人なのだから当然だ。』と返してきたけれど、侯爵夫妻は裏の意味に気づいてくれたようで、興味津々といった様子で笑みを深めていた。

 ……妹と同い年でかつ、家格の低い子爵家の娘との問答を、問答と気づきもせずに見当違いの答えを返してしまった彼女の兄二人には、当主から後で山と課題が出されることだろう。……ご愁傷様。

 大抵の場合、貴族は世間話に偽装された会話の中で、うっかり言動を取られて足元を掬われるのだ。

 当主としては見過ごせなかった筈である。

 しかし、レティシアに侯爵家へ取り入る気が無いことは理解してもらえただろうし、これからの関わりを考えて、夫妻の評価を上げておいても損は無い。

 レティシアの目論みは、しっかりと成功したことだろう。


 リディーは始終にこやかに微笑んでいて、侯爵の御子息二人は自身の両親と妹の友人のやり取りに唖然とし、お父さまは突然の娘の暴挙にぴるぴると震えていたが……、思い出して欲しい。


 ……レティシアは、からこういう娘であった。


 ……かくして、侯爵夫妻から及第点を勝ち取ったレティシアはかなり気に入られてしまったらしく、『うちと血続きになる気はなぁい?』というちょっぴり真面目なお誘いを躱しつつ、それを逆手に取ってどう回避しようか真剣に悩んでいた、貴族の義務である“婚姻”の放棄を父親に認めさせた。

 リディーの危機回避に役立ったアイテム関連の研究をしたいな〜っと、心の声をわざとぽろりしたところ、行儀見習いの名目で、ウェスパエ侯爵がパトロンになってくれることになったのである。

 給与もいいし、万々歳!

 婚姻より好きなことをしたい!


 マクレーン子爵家には、レティシアの他に姉が二人いて、上の姉は既に見初められて伯爵家へ嫁いでいる。

 下の姉はまだで、父と兄がお相手探しに奔走中。

野心の無い子爵三女のレティシアの嫁ぎ先は、このままいけば恐らく平民になるだろう予定だったので、それなら侯爵家に雇われれば箔もついてそっちの方が良いよね♡と、リディーの兄二人は勝手に納得していた。……が、父と侯爵夫妻がそれに異議を唱えてきて、父はともかく、侯爵夫妻がそれならうちが世話を…と言い始めたので、懇切丁寧に結婚興味ねえ、野心ねえ、だから家にも影響ねえむしろ面倒かけるだけ!と説得し、ならばうちで働いてくれれば面倒みるし後ろ盾にもなれるから変なとこと関わらなくて済むよ?となり、どうせなら成果を出して還元します!という利害の一致によりスピード就職が決定した次第である。

 父は何とかして娘を思い留まらせようとしたが、侯爵夫妻がレティシアの味方についてはなすすべなく、泣く泣く首を縦に振るしかなくなって、言動も取られたので、決定を覆そうにも苦労することだろう。


 ……家庭の苦労など、前世の一生で十分だ。

 なのに、前世より難解で七面倒なお貴族さまの婚姻事情など、考えるまでもなく全力で願い下げである。

 証人はウェスパエ侯爵家の皆々さま♡

 撤回させようにも、かかる労力が大きすぎて諦めるしかないのが実にいい!

 今世のお父さまの狼狽えっぷりにはほんの少しだけ心が痛んだけれど、野心の無い子爵家の三女が使いものにならなくても、大した影響は無い。

 そんなことに罪悪感を感じてくれる父母はとっても良い親だが、貴族的には微妙……。親不孝者でごめんなさいね。


 愛する娘の未来に放心してしまったマクレーン子爵は放っておいて、侯爵家訪問は和やかなまま幕を閉じたのである。


 ……そうして、誰の目から見ても行き遅れの烙印を押されるようになるまでの数年間。

 レティシアにとっては気楽な労働の節目節目に、何故かちょいちょい顔を出しては、恐れ多くも言葉をかけてくださる侯爵夫妻からの、遠回しな縁談のお誘いを曖昧な笑顔で躱し続け、いつからか、本当にレティシアが貴族にとっての良い婚姻などの見返りを、これっぽっちも望んでいない変わり者だということを理解してくれたのか、娘の良い友人としてのみ接してくれるようになった。

 それは、リディーが他家に嫁いでからも変わらず、彼女の嫁ぎ先の公爵家の次期当主である男性も同様で、比較的居心地の良い環境での生活を送れるようになったレティシアとしても、願ったり叶ったりだったのである。


 ……レティシアの実家、子爵家はどうだったのか?というと。


 最初のうちは親兄弟姉妹全員があーだこーだと考え直すよう、行儀見習いの名目で侯爵家へ半分居を移したレティシアへ懇願していたが、家と侯爵家を往復する生活送るようになったレティシアが、みるみる生き生きと輝いていくのを目の当たりにし続けるうちに何も言わなくなり、諦めたような、呆れたような目でその姿を追うようになっただけであった。

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