幼い日の憧れ、そして

 


 きらびやかな白亜の宮殿の一角。


 サラサラと衣擦れの音があちらこちらから聞こえてきます。

 そして小さな声でささやきあう、おしゃべりの声。


 子どもの頃に一度だけ、こんなきらびやかな場に足を踏み入れたことがありました。

 それはまだ私が男性恐怖症になる前の、恐怖とは無縁の大人の華やかな世界に憧れを抱いていた頃のお話。


『さぁ、私と踊っていただけますかな? そこの美しいレディ』


 お父様の手に小さな手を乗せ、気取った仕草で片足を引き、お辞儀をして。


 軽やかな調べに乗って、お父様のリードでくるりくるりと踊り出るのです。


 そんな遠い日の記憶が、ふとよみがえります。



 けれど今日、私の隣りにいるのはお父様ではなく――。




「大丈夫? 緊張している? もし気分が悪いのなら、無理をしなくてもいいんだよ。ミュリル」


 こちらを心配そうにうかがう、きれいな青緑色の目。


 まるで新緑の季節の澄んだ湖面のような、とてもきれいなきれいなその目にのぞきこまれ、首を振ります。


「平気です。練習もたっぷりしましたし、こんなに素敵なドレスまで用意してくださったんですもの。ちゃんとお役目を務めさせていただきます。宰相の妻として、恥ずかしくないように」


 そう微笑むと、ジルベルト様はふわりと表情をやわらかく崩します。


「ならいいんだけど。もうだめだと思ったら、いつでも言ってほしい。後のことは私に任せてくれていいから」

「心配性ね。ジルベルト様。本当に大丈夫です。だって……だってジルベルト様がずっと隣にいてくれるもの」


 

 そう。

 今日は、国王主催の夜会の日。


 先日の誘拐事件のことは公にはされていませんが、二国間に起きたとある困りごとを我が国が助けたことへの礼という形で、アリシア王女殿下をお招きして改めて友好を深める目的でこの夜会は開かれるのです。


 アリシア様とお会いするのは、あのお屋敷に訪問してくださって以来はじめてです。つい先日までアリシア様は謹慎処分を受け、お部屋から一歩も出ることを禁じられていましたしね。



 そして今日は、私たち夫婦がはじめて公の席に姿を見せる初めての機会でもあるのです。


 あの氷の宰相を見事なまでに氷解させた噂の宰相夫婦、特に文字通り秘密のベールに隠された妻の姿をひと目見ようと、皆が今か今かと待ち構えているそうなのですが。


 正直私たち、いえ、主に私は生きた心地がせず――。

 なんといっても男性がうようよといる夜会会場なんて、私にとっては今すぐ回れ右したい空間なのですから。


 けれど。


「もし……もしどうしても怖くなったら、ジルベルト様のお袖を引っ張りますね」


 ジルベルト様が隣にいてくださったら、なんとか耐えられるとは思うのですが。

 でもやはり、開場時刻が近づいてくると不安が高まります。


「わかった。その時はすぐに控室に連れて行くよ。心配いらない。私が必ず守るから」

 

 頼もしいジルベルト様の言葉に、ふわりと緊張が解けていきます。



 ジルベルト様の目の色をイメージした、白から青緑色のグラデーションで彩られたふんわりとしたドレスに身を包み、ジルベルト様の髪色と同じ色の首飾りと耳飾りをつけ。

 そして、顔には表情もほぼ見えない程度の上質な濃紺のベールをつけ。


 そっと、片手をジルベルト様の腕にからませます。

 その背中を、そっと優しくジルベルト様が支えてくださいます。そのあたたかさと頼もしさに、こくり、とうなずき。


「では、行こうか」

「……はい。行きましょう」


 ギイイィ、と音を立てて開く大きな扉の中へと、私たちは足を踏み入れたのでした。






 ざわり、ざわり……。

 ひそひそ……、ひそひそ……。


 目がくらむような華やかな光の中に足を踏み入れた私たちを迎えたのは、一瞬のざわめきと時が止まったかのような静寂でした。


 先ほどまで衣擦れの音とおしゃべりの声とにあふれていた夜会会場が、嘘のように一瞬静まり返り。

 そして、驚きと困惑に満ちたざわめきとが広がったのです。


 まぁ、無理もありません。

 だって、私の顔は今夜もしっかりとベールで覆い隠されているのですから。


「まぁ……。ベールでお顔を……」

「挙式ではベールを下ろしたままだったとは聞いていましたけど……。今夜も……?」

「一体なぜお顔を……?」


 ざわざわ、ざわざわ。


 明らかに落胆をにじませたそのざわめきは、波のように会場中をかけ巡ります。


 もちろんこの反応は想定内です。ええ。

 なにせ宰相の妻は、社交界で文字通りベールに包まれた存在なのです。どんな人物なのか、どんな顔をしているのか皆さん興味津々に決まっていますもの。


 なのにまさか、こんな華やかな場でもベールで顔を覆い隠しているとは思わなかったのでしょう。


 そもそも私は、男性恐怖症を抱える身の上になって以来人前に出ることもありませんでしたから、顔も存在もほぼ知られておりません。謎に満ちた存在ですからね。


 そんなざわめきも、たくさん居並んでいるはずの男性たちの姿も、このベールのおかげでそこまで怖くもなければ気にもならないのは幸いでした。

 これもすべて、アリシア様が贈ってくださったこの美しいベールのおかげです。


 なんでも陛下がアリシア様に、私が人前に出るのが苦手なために顔を隠すためのベールを欲しがっていると吹き込んだらしく。

 ならばこの度のお詫びに、とそれはそれは素晴らしいベールを贈ってくださったのです。


 ベールに使われている濃紺のレースは一流の職人が半年以上もかけて織り上げた名産品で、それを惜しげもなく幾重にも重ね合わせ、さらにそれに宝石を散りばめてあるのです。

 宝石がキラキラと光を反射して、まぶしいほどです。



「陛下のもとへ行こう。そうすれば余計な接触をせずに済むからな」


 そうして私たちは、陛下と王妃様が鎮座する玉座へと向かったのでした。





「おう、きたな。ようやく今日の主役のお目見えだ」


 相変わらずの口調で話しかける陛下と。


「主役など……。からかうのはおやめください。陛下。挨拶と約束のダンスが済んだらさっさと撤退しますからね」


 対するジルベルト様も、いつも通り遠慮のない物言いです。平常運転ですね。


 私は陛下に淑女らしく挨拶をし、王妃様にも顔を向ければ。


 そのいつにも増して華やかで気品溢れるお姿に、思わずうっとり見惚れてしまいます。


 相変わらずなんておかわいらしいのでしょうね、王妃様ったら。

 ぜひ作品のモチーフにしたいところですが、さすがにそんな不敬なお願いはできないので妄想だけにとどめます。


 が、そんな私の頭の中を透視するかのように、王妃様は。


「ふふっ。お元気そうで安心したわ。あ、そうそう。今のうちに言っておくわね。あなたの木彫り作品だけど、きっとこれから王都で大流行してよ? 忙しくなるはずだから、覚悟しておいてね。今夜だけで、相当数注文が入るはずだから」

「……はい? 木彫り作品?」


 一体何のお話でしょうか。

 木彫りの、注文?



 わけが分からずジルベルト様のほうをちらと向けば、ジルベルト様は何もご存知ない様子。

 一体何のお話かと王妃様に問いかけようとした、その時でした。


 ドスン。


 背中に何かやわらかな衝撃を感じて、振り向いたのでした。






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