月夜の下であなたと
そう。
もしあの日、王宮でジルベルト様に出会わなかったら。
求婚の申し入れを、断っていたら。
人気のない近くに民家もない人里離れた森のそばに小さな家を建てて、セリアンたちと一緒にひっそりと暮らしていたのでしょう。
誰とも関わりをできるだけ持たず、すべてをひとりでこなして。
そんな人生を思い描いていた頃が、今となっては遠い幻のように感じられます。
「ああ……そうだったな。……その、……君はまだひとりになりたいと思っているだろうか? こういう場所で、セリアンたちと静かにひっそりと暮らしたいと」
ジルベルト様の問いかけに、私はしばし黙り込みます。
こんな静かな森の中でこの子たちと一緒に、ひっそりと暮らす。愛する家族からも離れ、住み慣れた地も離れて。
あの時は、それが一番だと思っていました。それが、一番自分にも周囲にも良い生き方だろうと。
ひとりになれば、愛する家族にこれ以上心配をかけずに済み、恐怖からも解放されるかもしれない。そうすれば自分の存在が重荷になっているのではないか、苦しめているのではないかと心を痛める必要もない、と。
でも今は……。
「あのお屋敷での暮らしを知ってしまった今では、寂しくて泣きべそをかいてしまうかもしれませんね。あまりに静か過ぎて。だって、そこにはいないんですもの……。ラナもバルツも、屋敷の皆も。そして何よりも、ジルベルト様が……」
明るくおどけて見せたつもりでした。
でもあまりに寂しいその想像に、声が震えて。
ジルベルト様の青緑色の澄んだ目が、じっと静かに注がれていました。
「もう……ひとりで不安や恐怖を抱え込まなくていいんだ。怖さや不安を隠して、平気なふりをして笑わなくていい。ひとりになろうとしなくていいんだ。……私がいる。いつでも、君のそばにいる」
ふわり、と優しい風が、私とジルベルト様の間を吹き抜けていきました。
「……はい。もう、ひとりにはなりません。……ジルベルト様がいてくださる限り、決して。だって私はジルベルト様のお守りで、ジルベルト様のお守りは私なんですから」
きっとこのお守りは、どんな時も怖さに怯える時も不安な時もあたたかく照らしてくれるもの。
たとえ直接その肌に触れていても、触れていなくても。
そう思うだけで、胸があたたかくなりふわりと背中を押される気がするのです。
つ、とジルベルト様の手がこちらに伸びて、私の髪に触れました。
その不器用な手つきでそっと私の頭を優しくなでる感触に、目を閉じました。
もう、強いふりをする必要も。
平気なふりをして笑う必要もないのです。
お互いがそばにいれば、弱くても笑えなくてもいいのです。
これ以上ないほどに安らぎを与えてくれる存在を得た今、もう怯える必要などないのです。
「ジルベルト様?」
「ん?」
私には、ずっと考えていたことがありました。
それは、これからの私たちの暮らし方について。
「提案があるのです。中央棟のことなのですが、これまではお互いの共有部分として、今まではお互いがばったり顔を合わせることがないように使う場所や時間などを決めていましたよね? それを、少しだけ変えてはみませんか?」
「……?」
お互いに近づきたいと思いながらも、でも急に距離を詰めるのはなかなかに難しいものです。
ですから。
「たとえば図書室やホール、お庭に面したお部屋などをお互いが好きな時に好きなように立ち寄れるようにしませんか? そうすれば自然と顔を合わせる機会が増えて、もっと距離を縮めることができる気がするんです」
「なるほど……。そこに行けば君がいるかもしれないし、いないかもしれない。いたらふたりで過ごすもよし、ということか。確かにそれは自然だな」
自然と言えるのかどうかはわかりませんが、その方が常にジルベルト様を身近に感じて暮らせる気がします。
「もちろんいつかは東と西などに分かれずに普通に暮らせたらいいですけど、もしかしたらそこまでは改善しないかもしれませんし……」
こればっかりは、努力や気持ちでなんとかなるものではないので、仕方ありません。
でも、ふたりで過ごすことが自然に感じられるように少しずつ近づく工夫をしたいと思うのです。
「あのお屋敷のどこにいても、ジルベルト様の気配をいつも感じていたいのです。……一緒にいる時も、いない時も」
ジルベルト様はなるほどと考え込み、少し照れたように笑うと。
「それはいい案だな。それならお互いに負荷も大き過ぎないし、屋敷の中で君の気配を常に感じていられる気がする」
「はい。ならさっそくお屋敷に帰ったら、バルツたちとも相談してみましょう。少しずつ、いい方向へ変わっていけたらいいですね」
「ああ、そうだな。……ゆっくり、私たちらしく、な」
歩みはゆっくりでいいのです。
焦る必要など、ないのですから。
その幸せを噛み締めながら、私たちは見つめ合いました。
すると、ジルベルト様はふいに気取ったように片方の手を自分の胸に当て、もう一方の手を私に差し出したのです。
「こんなに月がきれいな晩です。……どうか、私と一曲踊っていただけませんか? ご令嬢」
その誘いに、私はもちろんそっと手を重ね。
「もちろん、喜んで」
微笑んで、ジルベルト様へと身を寄せたのでした。
柔らかな月の光を浴びながら、私たちは踊ります。
時々お互いの足を踏んづけたりよろめいたりしながら、けれど笑い声を上げながら。
いつまでもいつまでも、月に見守られるように静かな湖面を前にくるりくるり、と踊ったのでした。
私たちの新しい夫婦人生は、まだはじまったばかりです。
はじめてを、ひとつずつ積み重ねながら。
周りから見ればあきれるほどに、じりじりゆっくりと。
けれどきっと、積み上げたその先には私たちらしい幸せが待っているはずです。
皆と同じ形ではないかもしれないけれど、いつか心の深い場所で確かに繋がっている、そんなふたりになれるはず。
くるりくるり、といつまでも楽しげに踊り続ける私たちとセリアンたちを、月はいつまでも優しく見下ろしていたのでした。
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