妻の奪還 1

 


 ジルベルトは、足元に残る痕跡ににやりと薄い笑みを浮かべた。


 けれど冷たく光るその目は、もちろん笑ってなどいなかった。


「三種類の吸い殻に、足跡も三つ。賊は三人か……。この煙草の銘柄は、この国にはさほど流通していない。やはり隣国の手の者か……」


 ゾクリとするようなその冷たい声に、隣りにいた警邏隊の隊員が顔をひくつかせた。



 ミュリルが誘拐されたとの知らせを受け取ってすぐ、ジルベルトはまず国王に掛け合い、自分が先頭に立ち警邏隊とともに捜索を開始する許可をとった。


 そしてすぐに行動を開始したのだった。



 それからすでに、数刻の時が過ぎ――。

 続々と、情報は集まり始めていた。


「それらしき馬車が西へと走り去ったとの目撃情報です! おそらくは港へと向かっているのではないかと……」

「わかった。引き続き、馬車の情報を追ってくれ」

「宰相殿! 新たな知らせですっ。近隣の町で荷馬車を大金で買い上げた男の正体が分かりました。身なりとはめていた印章入りの指輪から、隣国の元貴族の男と判明しました」


 その男についての詳細がつづられた報告書に、ざっと目を通す。


「なるほど。動機は、自分を没落させた王家への恨みか……」


 じわりじわりと、ミュリルを連れ去った男たちの情報が集まり、その輪郭と目的とが見えてきた。

 

 誘拐した男たちはただの雇われたゴロツキで、黒幕は隣国の元貴族だった。

 半年ほど前に悪事が露見したことで爵位と領地を剥奪され、王家に恨みを募らせていたらしい。


 その腹いせに、国王が目に入れても痛くないほどかわいがっていた末娘のアリシアを誘拐し痛手を与え、ついでに莫大な金をせしめようとしたというところだろう。


 まさかそんなくだらない企みに、ミュリルが巻き込まれるとは。


「隣国へすぐに使者を。捕縛許可の依頼と、もし引き渡しの要求があれば死体でもいいかも確認しておいてくれ」


 命を受けた隊員は一瞬凍りつき、慌てて走り去っていく。


 ミュリルの身が危険にさらされている今、余裕をなくしたジルベルトは氷の宰相という名を体現するかのごとく、ブリザードをまき散らしていた。


 その迫力に、誰一人逆らえるものはなく。




 ジルベルトはそばで乾いた喉を潤していたセリアンの背を、そっと撫でた。


「セリアン、お前の主人は無事だろうか……。私がもっと屋敷の警護をしっかりと固めていれば、こんなことには……。今頃ミュリルはどんなに恐ろしい思いをしているかと思うと……」


 今さら悔やんでも仕方ないのは分かっている。


 でもミュリルがあの屋敷にきてくれて以来、女性たちの襲来がなくなったことですっかり油断していた。自分の留守中のミュリルの安全を考えれば、屋敷の警護を固めておくべきだったのに。


 安心しきっていたのだ。ミュリルがそばにいてくれる、あの平穏であたたかな暮らしに。




 ミュリルが誘拐されたとの知らせを受け、すぐ屋敷に戻ったジルベルトが見たものは。


 興奮して、今にも柵を蹴破ろうと前脚を高々と蹴り上げるセリアンの姿だった。

 その近くで、オーレリーもまた激しいうなり声を上げながら門の外をにらみつけていた。


 それを目にして、理解した。

 セリアンとオーレリーは自分の主人をさらった男たちを見ており、その後を追おうとしているのだと。


 だから、ミュリル捜索にセリアンとオーレリーも連れてきたのだ。


 そう言えばミュリルが言っていた。動物たちはボディガードでもあるのだと。その言葉は嘘でも大げさなどでもなかったらしい。


 だがそんな強力な助っ人がいてもなお、不安はよぎる。

 それでつい弱音を吐けば。


 セリアンの目が冷ややかに注がれ、そして。


「……セリアン、悪かった。分かったから、髪のリボンを食べるのはやめてくれ。なんでお前はいつもリボンを噛みたがるんだ」

 

 ジルベルトは、後ろ髪を束ねたリボンを鼻息荒くむしゃむしゃとかじる、いや、なんなら髪の毛ごとむしろうとするセリアンを制止した。


「必ずお前の主人を命に変えても助け出すから、もう弱音など吐かないと約束するから、リボンをよだれまみれにするのはやめてくれ。頼む」


 セリアンは、絶大な信頼を愛を寄せているミュリルには非常に従順で激甘対応だが、ジルベルトに対しては激塩対応である。


 なぜかバルツには、ミュリルに対するほどではないとはいえ微甘対応なのは解せないが。


 それでも屋敷にきた頃に比べれば、ミュリルをともに守り抜く同志としての信頼は得られた気もする。


 だが、なぜか銀髪を後ろでひとつしばりにしているリボンを食べるのが、セリアンの癖なのだ。

 しかもリボンが気に入っているというよりは、ストレス解消に噛まれている気がする。


 きっとセリアンは、ミュリル救出に弱気になった自分を叱咤激励するつもりでリボンを噛んできたのだろう。

 

 髪まで一緒にむしられたのは、勢い余ってのことだと思うことにする。



 休息してはいるが、セリアンの身体にはいつでも走り出せる緊張感が漂っていた。それは、足元にいるオーレリーも同じだ。


「セリアン、オーレリー。絶対に命に変えてもお前たちの主人を救い出す。だからお前たちも、頼んだぞ。ミュリルの奪還は、お前たちの記憶と嗅覚にかかっているんだからな」


 そう声をかけると、セリアンとオーレリーは鼻を鳴らして応えるのだった。






 そして日が沈み、夜の帳が下りはじめた頃。

 ジルベルトの元に一通の知らせが届いた。


 隣国の王家の紋が入ったその文に目を通したジルベルトの口元に、笑みが浮かんだ。


「隣国への引き渡し要求は、生死を問わないそうだ。ミュリルに手を出したことを、絶対に後悔させてやる」


 何かを察知したのか、セリアンも鼻息を荒く吐き出し、前脚で地面をかく仕草を繰り返している。



 ジルベルトの目が、ふと頭上にのぼった月に向いた。


 その月に願いをかけたのが、つい昨日のこと。

 あんなに女性を忌避していたはずだった。自分の仕事に害をなす、邪魔なだけの存在だと。

 でももう、違う。


『いってらっしゃいませ。ジルベルト様』


 朝ようやくミュリルに送り出される気恥ずかしさにも少し慣れ、心の中にほんの少し欲張りな気持ちがむくむくと沸き起こりはじめていたあの日。

 

 気のせいかと思った。風の音か鳥の声でも聞き違えたのかと。


 けれど声のしたほうを振り向いてみれば、そこにははにかんだように頬を上気させ、こちらをじっと見つめているミュリルがいて。


 その瞬間、全身を喜びが駆けめぐった。


 本当は自分から声をかけるつもりだった。でも、なんとなく気後れして言えないまま、明日こそはと思っていた。  

 なのにそんな臆病な心を軽々と超えてきたんだ。ミュリルは――。


『……いってくる、ミュリル』


 そう返すのが、やっとだった。



 ようやく、近づきはじめたところだった。精神的な意味の二人の距離が。

 なのに――。


「守ると決めた……。彼女の平穏な暮らしを。その約束を違えるわけにはいかない。絶対に救い出してみせる。たとえこの命と引換えでも――」



 やっと、自分自身の命よりも大事なものに気がついた氷の宰相は。

 その青緑の目をぎらりと熱く、と同時に絶対零度の冷たさをたたえ、ゆらめかせたのだった。



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