お飾りの妻、月に奮い立つ

 



 名前を口にした時、理解しました。



 胸の中を走り抜けた、言いようのない切なさと焦れるような思い。そしてそれは、恐怖に震えていた弱い私をふわりとあたたかくすくい上げてくれました。


 自分の中に芽生えたこの感情を、なんと呼ぶのかを私は知ったのです。


「この気持ちを……この感情を、恋と呼ぶのね……」


 きゅっと切なく胸をかきむしりたくなるようなもどかしく、焦れるような気持ち。


 けれど同時にそれは、灯火のように胸にあたたかく灯り、恐怖でこわばっていた身体と心をほぐしてくれました。


 そして、この煌々と照らす月のようなあの銀髪と、夜明けの色と混ざりあった夜の闇のような青緑の目を思い浮かべた私は。


「……私はもう、七才の子どもじゃない。……逃げ出すことも、戦うこともできる。そのために色々頑張ってきたはずじゃない」


 どうして忘れていたのでしょう。

 もう私は無力でちっぽけな子どもではないのです。


 あの頃よりずっと大きく、自活する日を目指して日々鍛錬に励んできたおかげでしなやかな筋肉も手に入れ、ありとあらゆるスキルを身に着けているはず。


「過ぎた恐怖に負けてなんていられないわ。そうよ……。私はもう、過去に負けたりしない……」


 どうやら過去の恐怖と現実とがごちゃまぜになって、混乱していたようです。

 でももう大丈夫。

 

「私には、できる……。きっとできるはず……。だって」


 ぐっと拳を握りしめ、夜空を見上げます。


「……だって、帰らなくちゃ。あのお屋敷に、……ジルベルト様と皆が待つあのお屋敷に、帰らなくちゃ」


 静かに空に浮かぶ月を見つめ、しっかりとうなずいたのでした。

  





 月に励まされ。

 私はようやく自分を取り戻しました。本来の、いえ今の私自身を。


 このままあんな卑劣な男たちにいいように扱われるのは癪ですし、とことん運命に抗うことにしました。



 月明かりがさし込む酒蔵の中を、ぐるりと見渡します。


 ここにあるのはたくさんの酒樽と木箱、それに古く薄汚れたロープが一本。他には――。


 ふとキラリ、と月明かりに反射して鈍く光るものを目にして、ずりずりと這い寄ってみれば。


「いいものがあったわ。少し石か金属で研げば、多少は使えるかも」


 それは、一本の錆びついたナイフでした。


 もう木でできた柄も朽ちていて、このままでは使うのは到底無理なように見えますが、加工はお手の物です。


 なにせ物資の少ない辺鄙な場所で、自活しようとしていたくらいですからね。このくらいなら、多少手を加えればまだ何かに使えるはず。


「あとは……、樽についている金具も使えそうね。でも外すには、ちょっと力がいりそうね……」


 ぐぎゅるるるるる……。


 その瞬間、私のお腹が元気な音を立てました。


「ふふっ……。こんな時でもちゃんとお腹はすくのね」


 小さく笑い、先ほど男たちが持ってきたパンと水の入った器に視線を移します。


 そして、あることを思いついたのです。


「……私のことを王女様だと思っているなら、それくらいは想定内、よね」


 にやりと口の端に笑みを浮かべると。

 すうっと大きく息を吸い込み。


「ちょっとっ!! 誰かいないのっ?」


 私は男たちに連れ出されてから初めて、酒蔵全体に響き渡るような大きな声を張り上げたのでした。

 




「何を騒いでやがるっ!! 殺されてえのかっ!」


 案の定、突然の大声に驚いた男たちが酒蔵の中に飛び込んできました。


 おそらくはリーダー格であろう大柄の男が、目をぎらつかせて詰め寄ります。


「大きな声を出すなと言ったはずだ。死にたいのか、王女様よぉ……」


 凄みを利かせてにらみつけられ、足から力が抜けそうになるも。けれど今ここで失神などしたら、相手の思うつぼです。


 強い意志の力で、なんとか遠のく意識を持ちこたえます。


「……こ、こんなパンと水だけなんて、とても食事とは呼べないわ。私が王女だと知っていて、こんなものしか出せないの? あなたたちの雇い主は、よほどお金がないとみえるわね」


 大柄な男が、鼻息を荒く吐き出しながらイライラとした様子でにらみつけてきます。

 もちろんそのくらいは想定内です。


 声が震えないように、ぐっとお腹に力を込め恐怖を押し隠して続けます。


「せめてスープを用意して。ちゃんとスプーンも忘れずにね。ああ、それと王女が這いつくばって食事なんてできないわ。手の縄だけでも解いてちょうだい」


 そうは啖呵を切ったものの、三人の屈強な男たちから注がれる視線があまりに恐ろしく、慌ててぷいっと生意気そうにそっぽを向いて見せれば。


「スープにスプーンだぁ? おいおい、王女様。あんた自分の立場を忘れてるんじゃないか? お前さんは人質なんだぜ? いいか、あんたはいつ殺されてもおかしくない身の上なんだぞ?」


 大男はおかしそうに腹を抱えて笑い声を上げたのでした。

 取り巻きたちもつられて、笑いだします。


「はっはっはっ! おいっ、聞いたか? 笑えるぜ。王女様はお上品にスープをお召し上がりだとよ?」

「こんなカビ臭い古い酒蔵で、ディナーかよ? お金持ちの考えることはわかんねえなぁ。まったくよぉ」


 大男はひとしきり笑った後、こちらをにやりと見つめ。


「まぁいい。どうせあと少しであんたともお別れだしな。スープくらいくれてやるさ。ちょうど俺たちが食い残した汁が残ってる。そうだな、野菜のかけらくらいは残ってるかもしれねえなぁ」


 そう言うと、大男は取り巻きに言う通りにしてやれ、と指示し、手首の紐を解いたのでした。


「ほらよ、これでじっくりひとりで豪華ディナーを楽しみな」


 そしてスープ皿とスプーン、下品な笑い声を残し、男たちは扉の向こうへと消えていったのでした。




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