壊れそうな心と月

 


 それからどのくらいの時間が過ぎたのか。


 気を失って床の上で丸くなっていた私は、男の汚れた靴で頭を小突かれ意識を取り戻しました。


「おら! 飯だ。食いな」


 そう言って薄汚れた床の上に置かれたのは、水が入った器がひとつと乾いてパサパサになったパンがひとつ。


 まだ朦朧としていた私は、ただ強い恐怖にかられて思わず後ずさります。


 けれどそれを粗末な食事への抗議とでも受け取ったのか、男はおもしろくなさそうに顔を歪め。


「けっ。王女様には乾いたパンなんてお口に合いませんってか。こちとらその日に食うもんにも困ってるってのによ。いいご身分だぜ」


 小狡そうな目つきのその男は、こちらをにらみつけるとぐい、と私の髪をつかみ上げ、つばを吐きかけてきたのです。


 とっさに顔をそむけたおかげで、つばは床に着地したものの、嫌な匂いが鼻をつきます。


「飯なんか食わせず飢え死寸前にしとけば、暴れる元気もなくなって扱いやすいってんのに。やっぱり貴族さんは、分かっちゃいねぇ」

「ま、どうだっていいさ。俺たちの酒と食い物さえ、たんと用意してくれりゃあな。……王女様よぉ、食うも食わねぇも勝手だが大人しくしてな。夜になればお貴族様がお迎えがきてくれるからよ」


 そう言うと、また男たちはにやにやと薄笑いを浮かべながら去っていきました。




 扉の向こうに気配が消えたのを確認し、やっと息を吐き出します。


 ようやく意識が覚醒してきた頭で、ゆっくりと辺りを見渡せば。

 鼻につくのは、すえたようなカビの匂いと薄っすらと残る酒の匂い。


 どうやらここは、石造りの古い酒蔵のようです。


 あちこちに蜘蛛の巣が張り、床の上にも古い酒樽の上にも分厚い埃が積もっているところをみると、長年誰も足を踏み入れていないのでしょう。


 けれど、造りは相当しっかりしているようです。

 こんなところでもし大声を出したとしても、分厚い石壁に阻まれてきっと外には何も聞こえないでしょう。



 どうしてこんなことになってしまったのか。

 そんな考えても仕方のないことを、それでも考えてしまいます。


 あの日の恐怖をたとえ克服はできなくても、なんとか乗り越えようと生きてきたこれまではなんだったのでしょうか。


 ひとりでも強く生き抜けるようにとさまざまな能力を磨き、ひとりで生きられるくらい強くなったはずなのに。


 自由の利かない縛られた手を持ち上げ、歯で紐を緩めようと試みます。

 けれど涙がにじんでよく見えず、うまくできず。


「ふっ……。うぅっ……」


 喉の奥から、くぐもった声がこぼれます。


 悔しい……。悔しい……。

 恐怖にただ震えるしかできない自分が、悔しくてなりません。


 男たちに囲まれただけでガタガタと震えだし、気が遠くなるこんな自分が情けなくて仕方なく。




 少しは強くなったつもりでした――。


 七才で男性恐怖症になり、弱い自分からなんとか脱却しようと自活目指して必死に生きてきたつもりでした。


 それもこれもすべては、強くなりたかったから。

 過去に屈して、人生を台無しにしたくなかった。たとえ普通の女性が歩む人生を歩めなくとも、私なりに胸をはって幸せに生きたかったのです。


 なのに。

 ただ恐怖に負けてうずくまり、悲鳴ひとつ上げられず、ただ震えて縮こまっているだけなんて。


 これでは、あの頃と何も変わりません。

 七才の無力な子どもと何も。



 あんなに頑張ってきたはずでした。決して楽なんかじゃなかった。


 いつだって必死に泣きたいのをこらえて、それでも負けたくなくて屈したくなくて前を向いてきたのです。

 なのに――。


 それでもなんとか泣くのをこらえようと、涙をぐいと手の甲で拭い息を整えようとしたら。 


「……っ! ……ごほっ、ごほっ!」


 埃と漂う匂いのせいで思わず咳き込み、荒い息を繰り返します。




 その時でした。


 ヒヒイイイインッ!


「……」


 かすかな馬のいななきが聞こえた気がして、私ははっと顔を上げたのでした。


 一瞬、セリアンかと思いました。

 もしや私を追ってきてくれたのかと。


 でも、そんなはずはありません。馬房で大人しくしているはずですし。

 

 私をここまで運んだ、馬車の馬がいなないたのかもしれません。

 長時間悪路を走らされて、苛立っているのでしょう。その声はどことなく、怒りがにじんでいて。

 

 そして、セリアンに思いをはせます。


「……あの子たちは、大丈夫かしら。乱暴されていないといいけど……」


 セリアンとオーレリーだけが、私がさらわれる一部始終を見ていました。

 途中で気を失ってしまったためによく覚えていないのですが、せめてあの子たちに危害が加えられていないといいと願います。


 私に危険が迫ると危険を省みずボディガードとして本領を発揮するあの子たちのことですから、下手をしたら男たちに飛びかかっていきかねませんし。




 あの子たちに思いをはせつつ、先ほど男たちが差し入れたパンと水には手を付ける気になれず、ずるずると酒蔵の奥へと這いずれば。


 頭上から月明かりが差し込んで、石を敷き詰めた埃だらけの床を優しく照らしていました。


 頭上にあったのは、小さな窓。


 おそらくは、空気の入れ替え用なのでしょう。やっと子どもの体が通り抜けられるくらいの、小さな窓です。


 ということは一日かけて馬車でここへ運び込まれ、今まさに夜を迎えようとしているということ。

 誘拐されてから、ゆうに半日以上は経過しているということになります。


 きっと皆心配しているはず。

 バルツも、ラナも、他の使用人の皆も。


 そして――。


「また迷惑をかけてしまったわ……。私って足を引っ張ってばかりのだめな妻ね……。お飾りだけど」


 自嘲するようにそうつぶやいて、ふと顔を上げてみれば。


「月……。きれい……」


 小窓からのぞく、白い月。

 

『いつかこの声が、あなたにちゃんと届けられますように』


 そう月に願ったのは、つい昨日のこと。

 月はあの夜と同じように、優しい顔で美しく浮かんでこちらを見下ろしていました。


「ジルベルト様……」


 気づけば、その名を呼んでいました。





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