セリアンと王女様

  


「この子がセリアンです。殿下」


 ゆっくりと馬房に近づくと、セリアンがこちらの気配をじっと静かに伺っているのがわかります。


「……はじめまして、セリアン。アリシアよ。……よ、よろしくね?」


 震える声でセリアンに挨拶をしながら、殿下はぎゅっと私の腕にしがみついています。


 ぶるるるっ。


 それに応えるように、セリアンが小さくいななきます。


「そ……それで、次はどうするの?」


 私の腕を掴む殿下の手が、ふるふると震えています。必死に恐怖と戦っているのでしょう。


「何もしません。ただこれから一緒にしばらく、セリアンとお庭で過ごすだけです」

「……それだけ? 乗る練習は? 国では恐怖に慣れるために、どんどん無理矢理にでも乗せようとするのだけど……」


 ただの好き嫌いならばそれも効果的かもしれませんが、恐怖症の場合はそれでは逆効果です。


「怖くないと少しでも思えるだけで充分です。恐怖というのは、そう簡単に払拭できるものではありませんから。だからまずは、一緒に過ごすだけ」

「一緒に……過ごす」

「はい。お互いに知り合うことが、第一歩です。……あ、それとこちらがうさぎのモンタンと犬のオーレリーです。いらっしゃい、モンタン! オーレリー!」


 声をかけると、モンタンはその長いお耳をぴょこん、と揺らしながら庭へと姿を現しました。そしてその後に続くように、ワオンッと元気に吠えながらオーレリーも走り寄ってきます。


「……かわいいっ!」


 殿下の口から、明るい声がこぼれました。


 オーレリーは人懐っこい犬ですから、すぐに殿下の足元へすり寄ってぶんぶんしっぽを振りながらご挨拶していますが、モンタンは警戒するように耳をそばだてたまま、殿下を観察しているようです。


 やっぱりこうして並ぶとぱっちりした目と気の強そうなお顔がそっくりですね。なんだか和みます。


「この子たちもセリアンも、群れとはぐれたり病気やけがで見放されそうになっていた子たちで、皆、大事な家族なんです」


 あの誘拐事件以来、男性恐怖症になった私はすっかり屋敷にひきこもるようになったのです。そんな時出会ったのが、セリアンでした。


「セリアンは、町でタダ同然に売りに出されていたんです。身体にもいくつも傷がありましたから、きっと元の飼い主が暴力を振るっていたのだと思います」

「まぁ……」


 傷だらけでやせ細り、まるで人間たちをにらみつけるように売られていたセリアンを見た時、自分と同じ孤独と怒りが心に渦巻いているのがわかりました。


 人を信じられず恐怖を感じながらも、それに屈したくない。でも怖い。そして寂しい。

 その頃私が抱えていたそんな感情が、ふとセリアンと重なった気がしたのです。


「当時私はちょっとあることで苦しんでいて……色々なことが怖くてたまらなかったんです。その時の私とセリアンが、どこか似ている気がして。だから引き取ったんです。この子となら、気持ちをわかり合える気がするって」

「そうなの……。あなたもセリアンも色々あったのね……。すぐに仲良くなれたの?」


 その問いに、私は首を振りました。


 だって、大変だったんです。私とセリアンが仲良くなるまで。

 何度も噛まれましたし、向き合うたびに威嚇されて。


 当時のことを思い出し、思わず苦笑します。


「大変でした、とっても。ちっとも心を開いてくれなくて」

「なら、どうやって仲良くなったの?」

「それは……」


 セリアンは人を信用することができず、最初は餌すら食べようとしなかったこと。近づく度に噛みつこうとして、唸るように鳴いて。決して身体に触らせようとしませんでした。


 こちらを見るその目には、ありありと猜疑心が浮かんでいて。


 けれど何度も繰り返し繰り返し話しかけ、餌を差し出し続けて、どんなに噛まれても危害を加えたりしないことをまずは理解してもらったのです。


 そうするうちに、セリアンはこれまでの飼い主と私とは違う人間だと気づいてくれたのです。


 そんなある日、うっかり脚を滑らせて川に落ちそうになった私をセリアンが助けてくれたのです。その口で私の服を噛んで引っ張り上げて。

 その時に、ようやく気持ちが通じ合えた気がしました。長い時間をかけて、ようやく。


 もちろんそれですべてが上手くいったわけではありません。

 そこからまた時間をかけて、私とセリアンは信頼を深め仲良くなっていったのです。


「セリアンは私に、信じることの難しさと心を通わすことの大切さと尊さを教えてくれたんです。簡単にあきらめてはいけないということも。その時からセリアンは、私の大切な家族なんです」 


 当時のことを思い出し、セリアンをじっと見つめれば。

 その視線に気がついているように、セリアンは耳をプルルと動かしこちらを見つめ返してくれました。


「そうだったの……。そんなことが……」


 殿下は、何か思うところがあったらしくしばし黙り込み。


「私、馬がどんな気持ちかなんて考えたことなかったわ。皆当たり前のように馬を従えているし、馬だってそれを受け入れているものだと勝手に思ってた。でも……馬だって、人を簡単に信用なんかできないわよね。好きになれなくても不思議じゃないんだわ」


 そうして、馬を恐れるようになった経緯について話してくれたのです。


「私の国の馬は、皆とても強いけれど気性が荒くて。初めて馬に乗った時に、思い切り振り落とされたことがあるの。その時上から見下ろされた目がすごく怖くて、それ以来馬なんて嫌いって……」


 戦闘用に鍛えられている馬ともなれば、当然気性も荒く厳しい訓練をする必要もあるでしょう。それに身体能力の高い大きな身体の馬をそろえているはず。となれば、幼かった殿下の目には相当怖く映ったに違いありません。


「嫌いって思って近づいたら、向こうだって心を許してくれなくて当然よね」


 最初の刷り込みは、強い印象を与えますからね。

 一度植え付けられた恐怖心というのは、なかなか払拭できないものです。


「馬ってこんなに優しい顔もするんだって初めて知ったわ。当然よね。私たち人間と同じように色々な感情を持っているんだもの。……ありがとう、ミュリル。知る機会を教えてくれて」


 のんびりと傍らで草を食むセリアンを見つめる殿下の表情が、いつしか柔らかく変化していました。この屋敷へ訪れた時とは比べようもないくらいに。


 どうやらセリアンも、殿下をそばにいても大丈夫な存在と認めたようでゆったりと落ち着いています。


「ねぇ、私の手からも餌を食べてくれるかしら? セリアン」

「えっ?」

「だめ? セリアンさえ嫌じゃなかったら、試してみたいの。セリアンと仲良くなれるかどうか」

 

 まさかの申し出でした。

 殿下自ら、セリアンに近づこうとするなんて。


「もちろん! でも、無理はなさらないでくださいね? 恐怖というのは努力でどうにかできるものではないので……無理をするとかえって逆効果だったりしますから」


 それは、自分自身で嫌になるほど学習済みです。


 けれど殿下は明るく微笑んで、首を振ったのです。


「大丈夫。セリアン相手なら、ほんの少しだけできそうな気がするの。だってミュリルの大切な家族なんでしょう? なら、信じられるわ」


 そう言われて、なんだか胸がきゅんとなりました。

 これはもしかして、殿下に少しは私自身のことも信用していただけているということでしょうか。



 新しく生まれた関係に、私と殿下はふと顔を見合わせふわりと微笑み合ったのでした。



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