夫の苦悩妻知らず
ミュリルがヒューイッド家の応接室でアリシア王女殿下と対峙している時、王宮では。
「困ったことになったわね。まさか王宮をひとり勝手に抜け出すなんて……。あの子を甘く見ていたわ」
王妃が眉間に皺を寄せて、ため息をつけば。
「すでに、ヒューイッド家の屋敷付近に馬車がとまっているのは確認済みです。御者によれば、言う通りに走らせないと僻地に飛ばすと脅されたそうです!」
急ぎ捜索に向かった近衛の報告に、国王もまたため息をついた。
「さすがに首根っこをつかまえて、無理矢理連れ戻すわけにもいかないしな……。まったく世話の焼けるじゃじゃ馬姫だな。アリシア王女は」
隣国の王族は皆強烈な個性の持ち主ばかりだが、その中でも末子であるアリシア王女はなかなかに個性が強い。がそれはどちらかといえば、小動物的なかわいらしさとおかしみを兼ね備えているふうでもあり。
上の兄弟姉妹と年が離れているせいもあり、一族でも特にかわいがられていると聞く。
国王も王妃もまた、実はそんな奔放で自由な性格のアリシア王女を気に入ってはいるのだが。
しかし、脱走ともなるとさすがに話は別である。
「まったく一歩間違えばとんだ外交問題だ。分かっているのかね、あの姫様は。まったく厄介な相手に好かれたものだな。うちの宰相は」
王女の姿が見えなくなったことに気がついた王宮は、蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
その上、やっと突き止めた行方が、ヒューイッド家の屋敷、つまり宰相の妻ミュリルの元だと分かってからはさらに。
「あああぁ……! ミュリル……」
国王と王妃が顔を見合わせアリシア王女の破天荒ぶりを嘆いている横で、ジルベルトは盛大に頭を抱えていた。
まさか女官たちの目が離れた隙に、一国の王女が単身王宮を飛び出すなど思いもしなかった。しかもよりにもよって、ミュリルのいるヒューイッド家に電撃訪問するなど。
結婚したことは丁重に気持ちに添えない旨とともに、手紙をしたためてある。
その後何も言ってこないところをみれば、あきらめてくれたのだと思っていた。
なのに――。
「普通乗り込むか? 仮にも一国の王女だぞ? いくら求婚をふいにされたのがおもしろくないからといって、その妻のいる屋敷に乗り込むなど……」
屋敷からの一報を受け、ジルベルトは苦悩していた。
いくらこれまで幾多の女性たちの来襲をうまくかわしてきたミュリルとはいえ、今回は王族が相手だ。
きっと困りきっているに決まっている。
ジルベルトの脳裏に、朝見送ってくれたミュリルの少しはにかんだような笑みがよみがえった。
「ミュリル……」
ようやく慣れてきたところなんだ。
朝の挨拶も、見送りも。
少し気恥ずかしく緊張感も漂うが、それを吹き飛ばすほどの喜びが胸を支配するんだ。
あのミュリルの微笑みを見ていると。
そして、無意識につい手を伸ばしたくなる。
触れることなんてできないくせに、触れたくなるのだ。
この焦れるような気持ちが一体何なのかはわからない。
けれどミュリルとのこのわずかな時間を、今は何より大切にしたい。そして、もう少しだけでいいから距離を縮めたい。
それが物理的な距離なのか、心理的な距離なのかはともかくとして――。
とにかく契約結婚とはいえ奇妙な縁で結ばれたミュリルとの関係を、ジルベルトはなんとかしてもっといい関係に変えたい、そう思っていた矢先だったのだ。
それなのに、どうしてこんな騒ぎに。
ジルベルトは、がばり、と顔を上げ立ち上がった。
「今すぐに屋敷に戻らないと……!」
焦れるジルベルトに、冷静な国王の声が飛ぶ。
「行ってどうする? 奥方と二人並んで、アリシア王女に仲睦まじいところでも見せつけるか?」
その声に、ジルベルトは肩を落としてずるずるとしゃがみ込んだ。
「確かに戻ったところで、まともに会話もできない私たちを見れば、これが偽りの結婚だと王女にバレてしまう……。かといってこのままミュリルにあの王女を任せきりにするわけにも……。あぁっ! もうっ一体どうすればっ!」
激しく苦悩しながら悶絶するジルベルトに、さらなる一報が届いた。
「お知らせいたしますっ! 現在アリシア王女殿下は、宰相殿の奥方様と屋敷の庭にて馬や犬たちと仲良くたわむれておいでとのことでございますっ!」
「は……? 馬と犬、だと?」
「……セリアンとオーレリーとたわむれて? なんでまた……?」
その新たな知らせに、その場にいた全員がぽかんと口を開いた。
「なお王女殿下はこれより、奥方様とともに馬との触れ合い方を学ばれるご予定をお決めになられたと……!」
「馬との触れ合い方……?」
「はぁ……。まったくアリシア王女ったら何をしにいったのかしら……?」
その意味不明な一報に、その場にいた全員が大きく首を傾げたのは言うまでもない。
そしてジルベルトはといえば。
何が起きているのかさっぱり分からない情報と、自身の無力さにその場に崩折れるのだった。
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