第17話 臨時のバイト
テスト期間が終わり、クラス内は明るい空気に包まれている。結果に自信があるのか満足気な表情を浮かべている人もいれば、もう全てを諦めたのか悟りを開いていそうな表情の人もいる。
そして俺の目の前にも、世界平和や人類愛でも説いていそうな仏の顔をした男がいる。
「なぁ和泉、クラスメイト達はテストが終わった解放感で浮かれてるな。どいつもこいつも嬉しそうだ。だけどアイツらは気付いてるのか? 終わったのは中間テストだぞ。つまり、これは序章に過ぎない」
仏の顔から一転して、悪鬼羅刹の様な顔になった稲葉はそう語った。中間テストで痛い目を見る事が確定している男はやはり面構えが違うな。希望なんて少しもないんだろう。
「そうだな、また一ヶ月くらいで期末テストだ。その前に補習、頑張れよ?」
稲葉はアイスクリームを落とした子供のように顔をくしゃくしゃに歪め、泣きそうな表情を浮かべた。
早く帰れる喜びと、早帰りが最終日という若干の気落ちを綯い交ぜにしながら家路を歩く。
街には浮かれ気分の同じ学校の生徒達で溢れている。彼等、彼女等はテスト終了の解放感と早帰りの合わせ技ではっちゃけるのだろう。
そんな姿を横目で見て歩いていると、液晶付き高級目覚まし時計と化しているスマホが胸ポケットで振動した。
ポケットから取り出すと、凛からのレインがきていた。
『今日私のバイト先で臨時のバイトを探してるんですけど、先輩は暇ですか?』
暇ではあるが、だからと言って喫茶店で働く気にはならん。そう心の中で返事をして、ポケットにスマホをしまうと再度スマホが振動した。
●
「先輩なら来てくれると思ってましたよ。更衣室に制服あるんで、それに着替えてくださいね」
更衣室兼、物置みたいになっている部屋で学生服から喫茶店の制服に着替える。
俺の様な学生は基本的に時間あたりの給料で働いている。つまり、俺は一時間当たりの労働力を販売しているわけだ。当然場所によって金額は変わってくる。大変な仕事であれば多少高く買い取ってくれるし、早く人手が欲しくても高くなる。
あの後凛から提示された金額には抗えない程の魅力があった。カラオケの1.5倍は貰える。
時間と労働力を売るというのは、寿命を売るのと一緒だ。それなら出来るだけ高く買い取って欲しいと思うのが心情だろう。
ワイシャツに黒のスラックス、サロンエプロンを付けてから予備の綺麗な手袋に変えてから更衣室を出た。
「お? 先輩似合いますね。でもカラオケで見たのとほとんど変わらないかも。それじゃあ今日は私が簡単な指示を出すんで、先輩はそれに従って下さいね」
更衣室の外で待っていた凛から説明を受ける。他のバイトの子はまだテスト期間中で出られず、頼りにしていたスタッフは体調を崩して出られなくなったらしい。
前回来た時は暇そうに見えたが、食事時は意外と繁盛していて、人手が足りなくなるのが目に見えているから臨時のバイトを探したそうだ。
今日の俺の仕事は片付けと配膳がメインになるから、メニューは無理して覚えなくていいそうだ。
「あと……凄く言い難いんですけど、出来ればその手袋を外して欲しいってオーナーが言ってました。あでも! 無理だったら私から言うから」
凛は気まずそうにそう言って、手をワタワタと動かした。
人前で手袋を外すのは避けたい。普段働いているカラオケだってそれが理由であの店で働いているくらいだ。
ただ、一度やると言ってしまった以上今更じゃあ辞めますとは言えないし、臨時で大して役に立たないのにそれなりの金額を貰うのだから礼を失する様な事も避けたい。
俺は飲み込んだ色んな葛藤を肺でろ過した後に、ゆっくりと吐き出し、手袋を外してからポケットにしまう。
「これでいいか?」
「うん、ごめんね……? もし無理そうだったら言って下さいね? 私がちゃんと説明するからさ」
凛は整った眉を八の字にして、申し訳なさそうな顔をした。
これは俺の体質で、俺の呪いで、俺のワガママで、俺の責任だ。他人の凛が気にする事では無い。
平気だと言ってしまえば嘘になるから、これくらいは平気なんだと誤解してくれる様に凛の肩をポンと叩いた。
「さっさと仕事するぞ、先輩」
「……そうですよ! 今日は私が先輩なんだから、ちゃんと敬って指示に従ってくださいね、後輩!」
凛は俺の叩いた肩をじっと見た後、自然と溢れた様な笑顔を浮かべてそう言った。
得意気に仕事内容を説明しながら歩く凛の後について行きながら、俺は込み上げる吐き気を抑え込むことに集中した。
●
業務自体は簡単だ。客の食べ終わった食器を一言言ってから下げたり、言われた通りにオーダーの品を運ぶだけ。
しかし、この簡単な仕事の中で他人の優しさや思いやりが俺を苦しめた。例えば食器を下げる時、人によっては手渡ししてくる事がある。そうすると、気を付けていたとしても食器の裏側で指先が触れてしまう事があった。
その瞬間、俺の頭の中には他人の気持ちが流れ込んでくる。仕事への不満、目の前の食事相手への不満や、優しい自分を演出できて悦に浸っている人など様々だ。
どんな感情、どんな内容であれ一方的に押し付けられる心の声は、まるで俺の神経をノコギリの山一つ一つでじっくりと削り取る様に苦しめた。
(私ももう少し若かったらアタックしたのに)とニコニコ視線を向けてくる老婆や、(なんでお前なんだ)と男の俺が配膳に来て不満そうな若い男、(自慢話ばっかでホントウザイ。金払い良くなかったら一秒たりとも一緒に居たくない)と目の前の男に笑顔を向けている若い女性……。
どいつもこいつも俺に聞かせるな、俺には関係ない、耳元で囁くな、頭を抱えて蹲りたくなる様な気持ちを誤魔化して笑顔で仕事を続ける。
「先輩……? ちょっと休憩してきて下さい」
「……ああ。じゃあちょっと休むわ。やっぱ慣れない仕事はなんだって大変だな」
凛は揺れる目に心配をのせてそう声を掛けてきた。俺が今、どんな顔色でどんな表情を浮かべているのかわからないができるだけ、なんて事は無いように振る舞いながら裏へと下がった。
そのままトイレへ入り、抑えきれなくなった不快感を、胃から何も出なくなるまで吐き続けた。
控え室に戻り、手袋をはめると少しだけ安心できた。今更手袋をした所で何の意味もないが、はめている間だけ自分も人で、他人の心が入ってくる余地はないと思い込める。まるで安全な場所に逃げ込めた様な気分だ。
普段は窮屈だと思っていた癖に、安心感を覚えるなんて変な話だと、苦笑いが出てしまった。
イスに座って、ひたすら床を見ているとドアがノックされた。
「先輩……? これ、水ですけどどうぞ」
「ん? ああ、悪いな」
「大丈夫ですか……?」
「何がだ?」
「いや、何がって……」
凛は当惑した重い表情を浮かべた。どうやら誤魔化しきれないほど俺の顔色は悪いらしい。一応強がって笑っては見たものの、凛の表情が晴れることは無かった。
高い給料貰ってこの体たらくっぷりとは、我ながら不甲斐ないばかりだ。
「ま、あと少しくらい何とかなるさ。手伝いに来たのにあまり力になれなくて悪かったな」
「いえ、そんな事はないですよ。一人だけ灼熱の砂漠にいるみたいに汗かいててヤバめでしたけど」
「マジか。それは知らんかった。んじゃまあそろそろ働きますか」
俺は気合いを入れるために、一度太ももを叩いてから立ち上がった。凛は何を思ったのかわからないが、今にも泣き出しそうな顔をして一度伸ばした手を引っ込めた。
「あと少しだけ、よろしくお願いしますね」
「あいよ」
●
なんとか仕事を終えた俺は気が付けば家の玄関に座り込んでいた。正直どう帰ってきたかも覚えていない。頭の芯が湯だったような、言葉にし難い虚脱感に苛まれ、自分の体が上手く動かせない。
自分自身を俯瞰しているような不思議な感覚に包まれたまま、俺はその場から動く事が出来ず、泥のように眠った。
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