第13話 家からの帰り道
「お邪魔しまーす」
「はぁ……」
家のドアを開け、ようやく帰ってこれたという気持ちと、余計な奴まで着いてきてしまったという残念な気持ちがせめぎ合っている。
結局時間もまだ早いし、宿題は早く終わらせるタイプというなんのこっちゃわからん理由に押し切られる形で家までやってきた。
凛は靴を脱いで上がるが、第一歩目でベチャっという嫌な音が聞こえた。そう言えばこいつは水溜まりを避ける事さえしていない時があったな。
「お前びちゃびちゃなまま家に上がるんじゃねーよ……。取り敢えずその汚ぇ靴下脱いでどっかに干しとけ」
「汚いとか言うなし。私の脱ぎたて靴下とか男子垂涎物の一品じゃん!」
仮に脱ぎたて靴下が男子にとって垂涎物だとしても、それは雨で濡れていないという前提はつくんじゃないかと思う。誰も好き好んで雨に濡れた布なんて欲しくはないだろう。
凛は水を吸って重そうな靴下を脱いでから親指と人差し指で摘むように持ってキョロキョロしている。どこに干せばいいか困っているんだろうが、俺だってそんな汚い物の干す場所なんて困るわ。
「向こうの風呂場にでも置いてこい。ついでに足も洗ってこい」
「はいはーい」と調子のいい返事をしながら、ヒタヒタと足音を立てて風呂場に向かった。
俺は使っていないのに、風呂場から音が聞こえてくる状況になんとも言えない違和感を覚える。
そもそもが一人暮らしで誰も家にあげたことがないのだから、自分が発する以外の音が聞こえること自体不慣れだ。
「棚にバスタオル入ってるからテキトーに使ってくれ」
「あざまーす」
洗面所に聞こえるように声を出してから凛のバッグと自分のバッグをリビングに持っていく。多少なり雨に濡れて体も冷えてるだろうし、招いてなくとも客は客だ。紅茶の一杯くらい出そう。
試しに買ったはいいものの、甘すぎて好みではなかったスティックタイプの紅茶を入れてリビングへ持っていくと、丁度凛もリビングへとやってきた。
靴下を脱いで素足になっている凛はヒタヒタとフローリングを歩いている。俺はスリッパを脱いで凛の方へと滑らせる。
「それでも履いておけ。素足じゃ冷えるだろ」
「ありがとー!」
前回と同じ場所へ紅茶を置いて、そこへ座れと目線で促す。靴下を脱いだ事で肌面積が増え、まるでスカートが短くなった様に見えた。流石にその状態は目に毒だから、毛布か何かを貸してやりたいがこの家にはそういう物の予備が基本的にない。
一人暮らしで、誰かを入れる事も想定していないから基本的に全部一人分しかないのだ。だからマグカップも一個しかないし、スリッパだって一足しかない。
仕方なく寝室に戻り、寝間着用のスウェットを持ってきて凛に渡す。
「これでも履いておけ」
「なんで? もしかして生脚にドキッとした? ほれほれー。……いやごめんて、だからそんな冷たい目で見ないでよ」
足をパタパタ動かした凛を、凄く冷めた目で見てしまった。人と触れ合う事ができない以上、恋愛などする気もなければ、人と怪物で成立するとも思っていない。
だからといって異性に対して関心や好みが全く無いわけじゃない。もっとこう恥じらいというのを持って欲しいものだ。
「はぁ……」
「わかったわかりました。履きますよ、履きます。……はい、履きましたよ! めっちゃダサくなりましたね」
凛は立ち上がってスウェットを履き始めた。確かに履けと言ったが、目の前で履くやつがあるか。ダサい云々言う前にもっと気にする事があると俺は思う。
「はぁ……。まぁ凛に恥じらいがない事は置いておくとして、さっさと宿題を終わらせよう」
●
画用紙に日付と枠を書き、そこに折り畳んだスカーフを並べて行く。隣にコンビニで買ってきた新聞を日付が見えるように広げてから写真を撮った。
後は凛が忘れずに毎日付け替えて、写真に写った姿から日付を割り出すだけだ。ストーカー行為が特定の曜日に集中していれば捕まえる事が可能かもしれない。解決に向けての第一歩だ。
「自室に広げておいて、忘れずに、且つ間違えない様に毎朝か毎晩付け替えろよ? データに信憑性がなくなったら無価値になるからな?」
「家に帰ったら付け替えるようにしますよ。それより少しだけ寝てもいいですか? 何か今なら寝れそうな気がします……」
凛はソファーの肘置きにもたれ掛かるように姿勢を崩した。自分の家ではないからこそ、ストーカーに覗かれる心配もないのかもしれない。なんてったってここは十二階だ、窓の隙間から覗くだとか出切っこないだろう。
「何時に起こせばいい?」
「八時……」
「随分遅いな。百合子に連絡はしておけよ」
凛は最後の力を振り絞るようにスマホを操作したあと、横になってすぐに寝息をたてはじめた。
●
夕飯の支度をしていると、スマホのアラームが鳴った。色々とやっていたらあっという間に八時になったらしい。
どうせ声を掛けても起きないだろうから、アラームを止めたついでにそのままキッチンから凛に電話をかけて起こす。静かだった家に着信音が鳴り響くと、ソファーの軋むような音が聞こえた。どうやら凛が起きた様だ。
「んーー! だから普通に起こせし。朝かと思って焦るじゃん。でもすっごいよく寝た気がする。私今日からここ住むわ」
「バカ言ってないでさっさと帰り支度しろ。百合子が待ってんぞ」
のそのそと帰り支度を始めたかと思えば、バッグから鏡を取り出して髪を整え始めた。もう帰るだけだというのに今更何を気にしているのか俺にはわからない。暫くすると風呂場に靴下を取りに行った凛が戻ってきた。
「先輩もしかして私の靴下洗って乾燥機かけてくれたの? なんか暖かいんだけど」
「あぁ、時間は十分あったからな」
「私の靴下で変なことしてない?」
「変なこと? ビニールで手を包んでから洗濯機に放り込んだだけだが?」
「散歩中の犬のうんちと同じ触り方じゃん!」
「あれは触ってるんじゃなくて片付けてるんだろう」
「どっちでもいいよそんなの……ありがとね。それじゃあ準備もできたんで申し訳ないけど駅まで送ってください」
丁寧に頭を下げた凛に肩をすくめる事で返した。財布とキーケースとスマホをポケットにねじ込んで、家の至る所の換気扇を付けて回ってから玄関へ向かう。
「先輩もしかして私の事嫌い? 臭いと思ってる?」
「臭いとは思ってないが、帰ってきた時に他人の匂いがするのは落ち着かないんだよ」
「そういうもんですか。お、靴も乾かしてくれたんですね。流石一人暮らし、抜かりない」
凛がスリッパからローファーに履き変えながら何気なくそう言った。
「……気付いてたのか」
「まぁねー。洗面も浴室も家族で暮らしてるとしたら物が少なすぎるし。さすがに気付くって」
別に嘘をついていた訳ではないが、黙っていたのは事実で、それがどうにもバツが悪く感じてしまう。何でも話すような間柄でもないし、話さなければならない理由もないがそれでも若干の居心地の悪さのようなものを感じて首の後ろら辺をさする。
「どうしたんですか? 早く行きましょうよ」
「ああ、そうだな」
「まさか一人暮らしだって事言わなかったのを気にしてるんですか? 別に気にしなくても良いのに」
「気にはしてないぞ。窓を開けなくても帰ってくるまでにしっかり換気できてるか気になっただけだ。痛っ、蹴るな蹴るな」
居心地が悪かっただけで気にはしていないから嘘では無い。スネを執拗に蹴ってくる凛から逃げる様に部屋を出た。
マンションを出ると、曇ってはいるが雨は上がっていた。それでも道路には水溜まりがたくさん残っていて、それを避けるように歩き始める。
少し湿度の高い、ジメジメとした空気を感じながら夜道を歩く。日中は暑く感じる時もあるが、日が落ちてしまえば肌寒い。今日は一日天気が悪かったから尚更だ。
「ねぇ白石先輩。今日結構色々お世話になったでしょう? 送ってもらうのもそうだし、買い物とか対策とかもそうだし、家でもそうだし」
少し後ろを歩いている凛が声をかけてきた。話している雰囲気からは真面目な様子がうかがえた。
「ああ、まぁそうだな。感謝しろよ?」
「うん、感謝してるよ。だからさ、お礼というか……。そだね、お礼だね。お礼に手を繋いであげる」
凛は俯きながらそんな事を言う。だが俺からすればそれはお礼でもなんでもなく、寧ろ嫌がらせの類だ。一般的な男ならそれはお礼になるのか? そうだとしたら、人の皮を被っている俺は喜んで受け入れるべきなのだろう。
しかしそう思ったところで俺には出来ないし、何より体を売るような礼の仕方は好ましくない。
もしくは今も誰かに付けられているような恐怖心から、誰かと手を繋ぎたいのをお礼と称して誤魔化しているのかもしれない。礼にしろ、恐怖心にしろ悪いが俺には出来ない。
後ろを歩く凛に見えるように腕を横に出してヒラヒラと手を揺らす。
「俺は体質で下手に触ったりすると手が痒くなったりする事があるんだ。だから悪いが手は繋げない。怖いなら後ろじゃなくて俺の前を歩け。それなら背中側を隠してやれるぞ」
凛は俺の言葉に従って早歩きになった。やはり後ろが気になっていたようだ。
「いった。何すんだよ」
「べつにー。何となく。それより言ったんだからちゃんと後ろ守ってよね」
役に立たない護衛が気に入らないのか、凛は俺を追い抜く際に背中を叩いてきた。
ピッタリとくっついている訳では無いが、俺が後ろに立っているだけで、背中側の視線は遮れるだろう。
睡眠が取れたからかさっきまで機嫌が良かったのに、今はどこかから視線を感じるのか不機嫌さを隠すことなく凛は歩いている。
学校帰りと言えるような時間でもないのに今もどこかから見ているのだとしたら、今日一日張り付いて見ていたんだろう。じゃなければたまたまマンションから出てくるタイミングに居合わせたことになってしまう。そんな偶然はそう起こらない。
ここまで執拗に付け回されてはノイローゼになるのも頷ける。肩で風をきって歩く不機嫌な凛が、今は可哀想に見えた。
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