第9話 凛の悩み

 百合子の娘は整った顔を歪め、マグカップを両手で持ちながら話始めた。

  

「土曜日にね、ミンスタのDMで知らないアカウントから一枚だけ写真が送られてきたの。一回見たらもう見られない様になってたからその写真は見せられないんだけど、写ってたのは学校帰りに一人で歩いてる私の後ろ姿だった。最初見た時は私じゃんとか、マジでキモイとかイライラしてたんだけどさ。夜寝る時になって、見られている様な感覚は本当に見られてて、本当に付け回されてたんだなって改めて認識したら怖くなっちゃった。きっと私の気付かない時だって見られてて、今もどこかで見てるんじゃないかーって思ったらどこに居ても怖くなって……それで……男子みんな怪しく見えて、学校でも見られてる気がして、家にいてもカーテンの隙間から覗かれてるんじゃないかって気になったりしてさ。まぁ……そんな感じ、です」


 百合子の娘は唇の端を犬歯で噛み、何かを堪える様な顔をしてから息を吐き、肩の力を抜いた。

 

 今までは勘違いや考え過ぎの可能性があったが、付け回されている証拠が出てしまった以上、視線を感じれば事実がどうであれ、百合子の娘にとっては紛う事なく事実になってしまうんだろう。

 それで常に誰かの視線を感じて、夜もまともに眠れなくなってきた、と。ほとんどノイローゼだな。


「家族には言ったのか?」


「言ってません。言ってませんけど、帰りは駅まで迎えに来てもらってます」


 何も考えてないで遊び歩いてると思っていたが、真っ直ぐ帰らなかったのは迎えの時間まで調整していたんだろう。家族にもしっかり言っておいた方がいいとは思うが、そこは他人の俺がとやかく言う事ではないか。

 

「聞いた感じだと、さっき言った通り一人の日は学校から駅まで送るって事でいいのか?」


 根本的な解決にはならないが、解決は警察にしかできない。友達と遊んで帰る日もあるだろうから毎日である必要も無いだろうし、要は臨時の助っ人か。


「そうですね、そうして貰えるとほんの少しだけ安心できます」


「ほんの少しだけかよ。難しいかもしれんが、必要な日は事前に言ってくれ。こっちにも都合があるからな。じゃあ週明けからはそんな感じでいくとして、今日はさっさと帰って寝ろ。ぶっちゃけひでえ顔してんぞ」


「はぁ? 酷い顔とか言うなし! これでももう高校入ってから何回か告白されてるんですよ」


 入学して一ヶ月くらいで告白するってのも何なんだ? 一体何を見て告白してるんだよ。未知の世界過ぎてわからんわ。


「それじゃあ自称モテモテの百合子の娘、送ってくからさっさと帰れ」


「まだ迎えの時間まであるんですぅ! というかもしかしてなんだけど、先輩私の名前覚えてない? 覚えてないっしょ!」


「んなわけないだろ。忘れただけだ。百合子の娘で舞奈の友達だろ? これだけ情報があれば、もう個人名みたいなもんだ。そうプリプリすんな」


 百合子の娘は立ち上がって怒りをあらわにしている。正直人の顔と名前を覚えるのは昔から苦手だったし、人との身体的接触を避けるようになってからは余計に苦手だ。挨拶の時は手袋について聞かれることや、握手をする事がある。それについての回答を頭に浮かべたりしてると顔と名前が全然入ってこなくなった。


「別の人の名前は二個も出るのに何で本人の名前が出ないんですか! もう一度言いますけど、芦屋凛あしやりんです! 好きに呼んで……はまた百合子の娘になるから凛って呼んでください」


「わかったわかった」


 俺が降参だと両手を上げると、百合子の娘改め、凛はソファに座り直して、足を組んでスマホをイジリ始めた。随分とお冠の様だな。名前なんて他人から勝手に付けられた識別番号みたいな物でしかないんだからなんだっていいじゃねぇか。まぁ別に困ることもないから怒らせておこう。

 

 何時になったら帰るのかわからないが、ほっといていいなら今のうちに夕飯の下拵えをしておく事にした。


 静かな部屋に包丁の音とスマホの通知音が響く。取り敢えず用意した漬けダレに豚肉と玉ねぎを漬けておいて、食べる直前に焼けばいいか。手抜きだが金曜くらい良いだろう。


「おかえり〜」

 

 手を拭いてからリビングへ戻ると、凛がソファに寝転がってスマホを弄っていた。そういえばコイツが居たんだと思い出し、玄関近くにある寝室で新しい手袋をはめてからリビングへ戻る。家の中で手袋をするのは約一年ぶりで、やたらと窮屈に感じた。


「先輩の親は何時頃帰ってきますか? 流石にそれまでにはここ出ないと気まずいですよね」


 逆に言えばコイツはそれまで居るつもりなのか?


「さぁな」


「いやさぁなて」


 ここには親は帰ってこないが、親がどこに住んでて何時に帰ってくるかなんて俺は知らないからな。答えようがないんだよ。


「それより普通男の家でそんな無防備に寛ぎ始めるか?」


「だってめっちゃ腹立つけど先輩は私に興味ないじゃん。私はそういうの敏感だからわかりますよ。それより誰か入ってきたら怖いから玄関ちゃんと閉めてきてよ」


 人の気遣いを何だと思ってんだと、内心不満を持ちながらも俺自身落ち着かないから玄関へ向かい鍵をしめた。

 帰る気になったら勝手に言うだろうと、もう放置する事に決め、少し溜まった家事を片付けることにした。


 いつも洗ったままになっている食器を棚に戻したり、普段は畳まない洗濯物を畳んだり、部屋の掃除に時間を費やした。

 日が暮れ始めた頃、妙に静かなことに気がついてソファの方を見る。すると凛はスマホを握りしめたまま、ソファで横になって眠っていた。

 

 目に隠しきれないクマが浮かぶ程眠れていないのだから、心情的にはもう少し寝かせてやっても良いのだが、親の迎えとやらが何時かわからないし、待たせている可能性がある以上そのまま放置という訳にもいくまい。


「凛、そろそろ起きろ。もう帰る時間じゃないか?」


 凛は本格的に眠ってしまったのか、声を掛けても言葉になっていない声を漏らすだけで起きなかった。体に触れるのも躊躇われるし、俺自身人に触れることへ強い抵抗がある。仕方なく、テーブルに置きっぱなしのスマホを取り、覚束無い操作でレインから電話をかける。

 静まり返った部屋に着信音が響き渡ると、凛は驚いたのか飛び起き、焦った顔で周りを見渡してから安堵の息を吐いた。


「一瞬ここがどこかわからなくてマジで焦ったー。というか、起こすなら普通に起こせし」


「普通に起こして起きねーから電話したんだよ。そろそろ帰る時間じゃねーのか?」


「え? やばっ!」


 凛は窓の外を見てからスマホの時間を確認した。どうやら想定より時間が経っていた様で、慌てた様子で荷物をまとめ始めるのだった。


 

 一度焦った様子は見せたものの、もうどうにもならないと諦めたのか、結局はゆっくり目に帰り支度を済ませてから家を出た。凛はエレベーターに乗ると同時に、壁の鏡を見ながら寝癖を直し始める。


「うぅ、髪ぐちゃぐちゃじゃん。最悪」


「どうせもう帰るだけなんだからいいじゃねーか」


「そういう問題じゃないんですよ。どうですか?」


 髪型に満足したのか、こっちを見て笑顔を向けてきた。どうだこれで可愛いだろうと、自信が透けて見える様な笑顔を向けられた俺は、ひねくれた性格故か、妙に腹が立ったので鼻で笑ってやった。


「うっざ。鼻で笑うな鼻で」

 

 

 マンションを出て、駅へ向かって歩く。よくよく考えれば家に人を上げたのは初めてで、更には駅まで送って行くことになろうとは何とも不思議な気分だった。

 繁華街は学生の数が減り、仕事帰りのスーツ姿の人達が増えた。今から金曜日に浮かれた人達が、夜の街で飲み歩くのだろう。

 

 並んで歩く凛は仮眠を取ったことで少し元気になったようで、まだ眠そうではあるもののその表情は、今日会った時よりも幾分明るく見えた。

 薄暗くなった街を約十分かけて歩き、特にトラブルもなく駅の改札に辿り着く。

 人通りの多い改札から少しズレた所で振り返った凛は丁寧に頭を下げた。


「今日はマジでありがとうございました。このご恩は忘れずに胸の内にそっとしまっておきますね!」


「しまってばっかいないでちゃんと返せ。しまうとこなくなんぞ」


「古い物から順に捨ててくんでだいじょぶでーす」


 凛はしなっしなでカッコつかない敬礼をして、おどける様に言った。人の恩を一体何だと思ってんだと、しかってやりたい気持ちもあるが、それ以上に面倒くささが勝る。

 

 駅まで送るという任務は完了した訳だし、これ以上帰りが遅くなっても困るだろう。何よりいい加減付き合ってられない。

 さっさと帰れと手で払うと、凛は再度丁寧に頭を下げてから改札を抜け、人混みの中へと消えていった。

 

 駅構内の人混みを抜け、一人家路につく。助けを求められれば誰だってできる範囲で人助けをするだろう。そう自分に言い聞かせて手を貸すことにしたが、今回の問題はどうなったら解決したと判断して手を引いていいのだろうか。 

 犯人を特定して捕まえる以外に終わりはあるのだろうか。それなら凛にはできるだけ付け回されている証拠は残してもらって、警察に動いてもらわなければならないが、そう簡単にいくとも思えない。

 

 何の解決もしないまま、もうやってられるかと無責任に放り投げる訳にもいかないが、解決の為の良い案が浮かぶ訳でもない。その場しのぎにはなってしまうが、やはり当面は駅まで送るメンバーの補欠として協力するとしよう。


 自宅に着き、リビングへ入ると部屋の中はバニラの様な甘い香水の匂いが漂っていた。いつもとは違う部屋の匂いに落ち着かず、舌打ちをこぼしてから窓を開けた。臭いという訳では無いが、自分の縄張りを荒らされた様な不快感を覚えずにはいられなかった。

 

 舌打ちをしては百合子に怒られると、ふと頭によぎったが、会うことも無いのだから怒られることもない。換気が終わるまでどっと疲れた精神を休ませようとソファにドンと座ると、そこからもまたバニラの匂いが香った。凛はもう出禁だ。

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