第281話 書けなかったことに立ち向かえるように

 彼はやっと、あまりに重いテーマに向き合えるようになった。

 推しの文学少女・一之瀬みのりの父親を名乗る割には、あまりにも時間をかけ過ぎたが。


 彼は38年前のこの日の夕方、正味10年にわたって事ある毎に世話になった短期里親宅を辞した。立寄ることはあっても、泊りに来ることはもうない。


 彼はその家に来ているときも、自転車に乗ってどこかに行って勉強していた。

 時間があれば、息抜きにメディアコムという場所に行って映画も観た。

 レーザーディスクで、イギリス映画を観たのだ。英語の字幕で。

 かの映画に出てきた、主人公の在籍するケンブリッジ大学の教授らは、

 いかにも年長者が若者に言う、典型的な言動をしていた。

 かの青年もまた、その映画の主人公と同じような局面に置かれていた。

 その頃の彼は、周囲の「大人」と言われる者たちを批判的に見ていた。

 それはやがて、冬至の周囲にいた大人たちとの縁にも、影響を与えた。


 彼は、かの職員の運転する公用車に乗せた自転車と手荷物とともに、とりあえず自由の森に戻った。

 そしてその年3月末、ついに彼はかつて住んでいた地域に戻ってきた。

 今や映画監督の同級生と別れて、7年後の春。

 今度は、下宿する大学生という立場で。

 入れ替わるように、かの同級生は京都の吉田山のふもとへと旅立っていた。


 あと3カ月後の彼がどうなっているか?

 まだ誰も知る由はない。自由の森の関係者は、右往左往していた。

 幹部職員らの彼の青年への対応は、すでに手詰まり状態であった。

 もう、流れに任せて何とかするしかない。

 家族だの家庭だのと話しかけておれば、彼も心穏やかになってくれるかも。


 だが、それはとてつもなく甘い見通しであった。

 丘の上の社会性の基盤のなさは、彼を心底、激怒させた。


 あれから36年後の2024年1月。

 彼は今、心を鬼にして書き刻んでいる。

 当時の自由の森で起きた、否、自由の森に怒ったことを。

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