スターラスター

 本来、お願い岩までは泳いで行かなくてはならない。

 少なくとも、今までのこの町のチャレンジャーは、みな、そうしていた。

 でもサトルは足が悪いので、ボートを使ってもお願い岩の神様は多目に見てくれるんじゃないか、とマックスは思った。

 そして、そのボートにはアテがあった。

 小学校から最寄りの港の、その近くのある場所にボートが係留してある。

 それは車道から海面へ下った所に隠してあって、草木の茂みが覆っているので、上の車道からは覗けないでいた。

 マックスたちの学校の、みんな知ってはいるけれど、大っぴらには語れない、つまり公然の秘密。

 そのボートはネッドの兄貴が使っていたモノで、最近その所有権は弟に移ったらしい事が、生徒たちの口の端に上っていた。

 

 2時間目と3時間目の間の休み時間、体を強張らせながら、でも固い決意で、マックスはネッドのいる教室へ向かった。

 何かあった時の為に、仲間の3人を巻き込みたくなかったので、そしてサトルとの事は、何故だか秘密にしておきたかったので、単身でその教室へと向かったのだった。

 休み時間で、教室の扉は開け放たれており、音を立てる事なく中に入れた。

 普段、見かけぬ闖入者に何人かの生徒が一瞥をくれたけれど、すぐにそれぞれの会話に戻っていった。

 それでもマックスがネッドの机の前に立った時、教室内の全員が目を見張り、一人が「まさかだろ・・」と小さく声をもらした。

 学校の聖母ローズも、マックスの顔を見つめ、〝大丈夫? トラブルになったりしない?〟と、その不安げな表情が訴えていた。

 机に座ったままのネッドが顔を上げ、ギロリと睨みつけられた時は、めまいがしそうだった。でも引き返す訳にはいかなかった。

「何しに来やがった?」

 威圧的な声が、教室全体に響いた。

 事の成り行きを見守る周囲の生徒たちは、2人に視線を据えたまま、言葉を発せられずにいた。

「ボートを貸して欲しいんだ。あの港の近くに繋いであるやつ」

 そう喉から言葉を絞り出した時、マックスは自分が不思議と落ち着いた気持ちでいる事に気付いた。

 当のネッドは座ったまま、マックスの顔から視線を外し、そして何も言わなかった。

 マックスも最初にそう言ったきり、やはり無言でネッドの前に立ち尽くした。

 ネッドは一度、鼻をフンッと鳴らして、尚も無言だった。

 教室に静寂が流れる中、ようやくネッドが口を開いた。

「そんな事、何でわざわざ言いに来たんだよ?」

 ぶっきらぼうな口調は、明らかに不愉快さを表わしていたけれど、それ以上の敵意はないようだった。

 そう指摘されて初めて、マックスは自分の行動の不可解さに気付いた。

〝確かにそうだ。頼んで断られたらそれまでなのに、どうしてボクは聞きにきたんだろう?〟

 ネッドのボートを拝借しようなんて命知らずな生徒は、この小学校にはいなかった。優しさの使命感に駆られた男の子を除いては。

 それでもこっそり使って、こっそり戻しておけば、バレない可能性もあったはずだ。

「あの・・、何だか、頼んだら貸してくれるんじゃないかって思ったから・・」

 素直な気持ちを語ると、フンッと、もう一度ネッドが鼻を鳴らした。

「好きにしろよ・・」

 そう一言言い放って、ネッドはマックスから視線を外し、教室の窓の外を見つめた。まるで、マックスなどその場にいないとでもいう風に。

「お前はバカなヤツだ」

 ネッドが視線を外に向けたまま、独り言のように言った。

「あの・・、ありがとう・・」

 いくら待っても返事が返ってこなかったので、踵を返してネッドの席を離れた。

「お前はバカなヤツだ」

 教室を出る前に、もう一度そんな呟きが聞こえた。

 扉の前で立ち止まって、振り向いたけれど、ネッドは相変わらず外を向いたままで、マックスを顧みることはなかった。

 しばらく立ち止まってネッドがこちらを振り返るか待ってみたけれど、学校の暴君は手をポケットに突っ込んで外に視線を向けたまま、微動だにしなかった。

 そんなネッドの姿を見届けて、そのまま、そっと教室を出た。

 

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 卒業までの間、午後の授業は行われなかったので、サトルが次に登校した日の午後が決行日となった。

 この日の計画をマックスは綿密に練っていた。

 まずは、普段スクールバスを利用しているマックスは、運転手に「今日は親が迎えに来るので、スクールバスには乗らない」と告げなくてはならない。

 これは他の子が時々、同じ事をやっているのを見た事があるので、不安はなかった。

 次に、サトルと2人で路線バスに乗り、3つ先の港の近くの停留所まで行かねばならない。

 これは、少し度胸が必要だった。

 一応「この子の付き添いで、港の近くの家まで送って行くんです」という言い訳を用意していたけれど、路線バスのスイングドアをくぐる時には、マックスもサトルも心臓がドキドキした。

 幸い運転手は、2人の顔と、サトルの足の装具をチラッと見ただけで、何も言わなかった。

 学校では中学生になるまで、子供だけでバスに乗ってはいけないと決められていたけれど、バス会社の方はその点は特に気にしてなかったようだ

 マックスもサトルも、子供だけでバスに乗るのは初めてで、それだけでも大冒険で、バスの座席に並んで座った2人は身を固くした。

 サトルの母親はここの所、日本への引っ越しの準備などで、毎晩帰りが遅く、サトルは学校から帰宅する時にはタクシーを使うように言いつけられていた。

 タクシー会社へ直通する専用の電話は、小学校の正面校舎の出入り口付近にある。

 お願い岩から港に戻った後、もう一度路線バスに乗って学校に戻り、サトルはそこからタクシーを呼んで、マックスは路線バスで、それぞれの自宅まで戻れば計画完了のはずだ。

 

 目的の停留所で下車した時、サトルが持ってきた腕時計で時間を確かめた。予めサトルに家から持って来るよう頼んでおいたものだ。

 今の所、時間通り、予定通りに事が進んでいる。

 2時間以内にお願い岩から戻って来れたなら、マックスもサトルも難なく明るい内に帰宅できるはずだ。

 ネッドのボートの係留場所を見つけるのには、少し手間取った。

 もちろんサトルは港に待たせて、マックスが一人で斥候役をこなした。

 ボートを見つけた後で、再びサトルの下へ戻り、サトルでも乗り降りの出来そうな所まで彼を誘導し、自分はまたボートの所まで走った。

 海に乗り出す前から、大忙しだ。

 

 沿岸沿いの車道から急斜面を下り、茂みを抜けてボートに乗り込むのは一苦労で、手がかりとなるロープが垂らしてあったのが、不幸中の幸いだった。おそらく、ネッドかその兄貴が取り付けたのだろう。

 ボートのオールを握るのは、昨年、マルロの家族と一緒にキャンプに連れて行ってもらった時以来だった。

 オールで岸の斜面を突いて、いよいよ海へと漕ぎ出した時、少し不安に駆られた。

 ボートの漕ぎ方はちゃんと憶えていた。港の波止場のピックアップポイントまでボートを漕いで、そこにサトルの姿を探した。

 そのポイントでも、コンクリートの波止場からボートまでは数十cm程の段差があり、サトルはそれを下らねばならなかった。

 足が悪い分、手の力はあるというサトルは、後ろ向きに四つん這いになってゆっくりと下ってきて、何とかボートに足がついた。

 サトルはそう言ったけれど、とても腕力があるようには見えなかった。

 最後にドスンと船底にお尻がついた時のボートの揺れに慌てたけれど、すぐに自分たちがボートに乗り込み、海の上にいるという達成感に満たされ、2人で顔を見合わせて笑いあった。

 小さくて痩せているサトルは儚なげで、だからこそ何としてもお願い岩まで連れて行ってあげるんだと、マックスは改めて意を強くした。

 海の上は日差しを遮る物が何もない。

 マックスとサトルは、それぞれで帽子も用意していて、それをしっかりと被り直した。

 さあ、ここからが冒険の本番だ。

 

 海は、サトルにとっては初めての世界で、目にするもの、触れるもの、全てが新鮮だった。

 最初は不安に感じられた陸地の上とは違う、体が揺れ続ける感覚もすぐに慣れた。

 ボートの脇に漂って来た浮き藻を覗き込むと、その陰には小指より小さな魚たちが群れていた。

 小魚たちは、ビデオゲームの画面の中のレーザーより素早く動き、まるで瞬間移動のようだった。

 ボートのへりから手を海水に浸すと、今の初夏の季節であってもひんやりと感じた。

「すごいね、海の上だね!」

 そんな当たり前の事を無邪気に呟くサトルを見て、マックスはようやくサトルが普通の子のように感じられた。

 

「ほら、あそことここで海の色が少し違うだろ?」

 プランクトンの含有量で海の色が変わるのだと、マックスは説明した。

「あっちの岬が見える? 毎年あの向こうにある入江でボクたちは泳いだり、飛び込みをしたりするんだよ」

 その入江の開口部は、海流が横たわっている。そのおかげで、外海に流される事なく、入江の中は安全に遊べるのだった。

 以前に年長者から、お願い岩を目指すチャレンジャーは、その入江の突端から泳ぎ始めるのだと聞いていた。

 

「あそこからお願い岩まで泳いで行くのはちょっと大変だけど、このボクらが出発した港からなら、それよりずっと近いんだ。それに泳いで行くんじゃなくてボートだしね」

 マックスは予め潮の干満も調べていた。

 この港は湾の比較的沖に近い場所にあり、お願い岩はその湾の岬の突端を出てすぐの位置にある。

 現在の潮の満ちる時間帯は、湾内へ注ぎ込むような海流が発生するので、それに逆らって、少し苦労してボートを漕がないといけない。

 1~2時間後にお願い岩から戻る時も、まだ上げ潮の時間で、かつ湾へ流入する流れは強くなるので、それに乗れば帰りは負担が少ないはずだ。

 

 サトルは、何でも知っている、何でも出来る、そんな目の前に座る水先案内人を頼もしく感じていた。

「ねえ、ぼくたち、トムとハックみたいだね」

「それよりすごいさ。トムとハックは川だけど僕らは海なんだから」

 そう言った後で、上下にこだわるとインナージャッジがのさばる事をマックスは思い出し、「僕たちの方が大変だよ」と言い直した。

「そういえば、サトルはマンガを持ってる?」

「うん、持ってるよ。日本語のヤツだけど」

「あ、そっか、そうだよな・・」

「それがどうかしたの?」

「ううん、何でもない。聞いてみただけさ」

 この場にマルロがいなくて良かった。もし居たなら「ちぇ、それじゃ読めないじゃんかよ」とか言いそうだし。

 マックスはさっきから、なんだか少しお兄さん口調になってしまう自分に気付いた。

 ボートの上で色々と話を聞いてみると、サトルは釣りもやった事がなければ、プラモデルも作った事がないそうだった。

「何もやったコトないの? 昨日生まれたみたいだね」

 そう口をついて出そうになって、悪い言葉を使ってはいけないと、後半は慌てて口をつぐんだ。

「なあ、サトルはポケモンは何が好き?」

 そう聞いた後に、マックスは自分の好きなポケモンを告げた。

「ミズゴロウ。ボクうさぎ」

「?? うさぎのポケモンはミズゴロウじゃなくてミミロルだよ?」

「違うよ、『ボクうさぎ』っていうのは、好きなモノを言うときに付けるんだよ、『好き(I love it)』と『ボクうさぎ(I’m a rabbit)』って似てるだろ?」

 手を頭の上にのせ、うさぎの耳のジェスチャーでもう一度「ボクうさぎ」と示してみせた。

「それ、面白いね? じゃあアチャモ。ぼくうさぎ」

 サトルも〝ああ、なるほど〟という表情を見せて、マックスをまねて手を頭の上にのせ、うさぎの耳を模した。

 その後、お互い好きなポケモンや、好きなTV番組やゲーム、映画などを教え合った。

 もちろん、それら好きなモノの後に、うさぎの耳をくっつけて。

 サトルが、うさぎのやり方を気に入ってくれたようで、マックスは満足だった。

 

「ねえ、ぼくも漕ぐのを手伝うよ」

「大丈夫。バランスが崩れるからそこに居て」

 湾を出ると、周りはもう全て海で、港は後方に遠くなった。

 そして沖に出ると、いよいよ風も強くなり、波でボードが横揺れすることも多くなった。

 ボートの舵取りも難しくなり、思ったように針路を定められなかった。

〝そういえばライフジャッケットを持って来てないや。落ちたら水が冷たいから大変なコトになっちゃうな・・〟

 マックスは今更ながらその事に気が付いて、不安に思った。

 全てをマックスに委ねていたサトルも、ボートの揺れや風の強さを心配し始めているようだった。

 振り向くと、お願い岩はもうすぐそこに見えた。

 でもボートは波間を上下するだけで、漕いでも漕いでも、少しも前に進んでないように感じた。

 オールから手を離し、ちらっと手の平を見ると、少し赤むけており、それをサトルに気取られぬように気を付けた。

 

 陸地から眺めると、お願い岩はそう遠くない所に見える。

 泳いで行くのは大変でも、ボートなら簡単に到達できると思っていた。マックスは、そんな自分の見通しの甘さを悔やんだ。

 何度も「やっぱり引き返そう」と言い出しかけて、その度ごとに「大丈夫、きっと行ける」と自分に言い聞かせた。

 このまま港に戻ったなら、何のお願い事もせずに帰ったなら、サトルは親が離婚して日本に戻るしかなくなる。それを思うと、どうしてもサトルを失望させたくなかった。

 四方、半マイルには誰もいなかった。

 ただ、小さなボートに揺られた、胸の内が不安でいっぱいの2人の男の子がいるだけだった。

 

「なあ、何か日本語を教えてくれよ」

 不安を紛らわせられるような話のネタを欲して、そうたずねたマックスに、サトルは『こんにちは』と『さようなら』を教えてくれた。

「そんなのとっくに知ってるよ、あと『かわいい』も知ってる。そんなんじゃなくてさ、もっとすごい言葉だよ。ハリーポッターが使うような最強の攻撃呪文みたいなヤツさ」

「じゃあ、英語では何かそんな言葉があるの?」

「うーん、クールとかマーベラス・・とかかなぁ」

 そう言われると、返答に窮するマックスだった。

 サトルは白けた雰囲気を何とかするべく、マックスの期待に応えようと頭の引き出しの中を懸命に探って、ひとつの言葉を探り当てた。

「ナンデヤネン」

「・・何だ、それ? どんな意味なんだい?」

「うーん、『No way』とか『Don`t be silly』みたいな意味だと思う」

 自信なげにサトルがそう告げた。

 その言葉は、相手が間違ったことを言った時に、それを指摘する為の言葉なのだと、サトルはマックスに説明した。

 そして、その言葉を言わせるために、わざと間違ったことを言ったりすることもあるのだと。

「え! わざと間違ったコトを言うのか? 日本人って変わってるな・・」

「その言葉を使う地方の人たちだけだよ」

 サトルがすまなそうにそう告げた。

 

 その後は、「あ、あそこにカモメが飛んでるぞ。ナンデヤネン」とか「カニカーニのバーガーは仲間の肉を使ってるのかな? ナンデヤネン」、「カフェテリアのAセットはポテトの量が少な過ぎるぞ。ナンデヤネン」といった具合に、全ての発言の末尾にこの言葉をつけ加え、その度ごとに、二人でゲラゲラと大笑いした。

「最強の攻撃呪文じゃないけど、これは人を笑わせる呪文だな」

「うん。これを教えてくれたいとこも、人を笑わせる名人だったんだ」

 もしかしたら、2人共そうやって無理にでも笑わないと、不安に圧し潰されそうだったのかもしれない。

 必死に漕ぎ続けた甲斐があって、停滞するうねりのポイントから抜け出し、お願い岩は、もう手を伸ばしたら届きそうな所まで近づいて来た。

 こうなったら、あともう一息だ。

 

 お願い岩は周囲40m位、高さ4~5m位の、大陸から波の浸食によって孤立させられた離れ小島だった。

 ほぼ岩石で構成されていたが、上部には水分の乏しさにも負けずクロマツなど数種の樹木が、岩の隙間に根を伸ばし自生していた。

 マックスは海面になるべく近い高さの、上陸できそうな岩礁の段を見定めて、その方向へボートを漕いだ。

 目的の岩場の手前まで来ると、ボートは島へと寄せる波で近づき、返す波で遠のいた。

「少し待ってて!」

 マックスはボート先端の係留ロープを手に掴んで、島に一番近づいたタイミングを見計らって後ろ向きにボートを降りた。

 岩場に手をついてしまったし、靴はおろか、靴下までぐっしょりと海水に浸かったけれど、何とか転ぶ事なく、ボートのへりにぶつかる事もなく、上陸を果たせた。

 急いで伸ばしたロープを手に、岩場の少し高い位置へ登り、手頃な岩の突起にロープを括り付けた。

 その後、寄せる波に合わせてロープを引っ張り、サトルが安全に降りられる、そしてあまり濡れなくて済む位置へとボートを誘導した。

 サトルはマックスに促され、同じようにボートの縁に手をついて、体を反転させ背面から岩場へと足を下ろした。

 マックスの努力の甲斐あって、サトルの靴は一瞬、海水に浸かっただけで済んだ。

 マックスはそれを見届けて、ロープから手を放し、手の平をシャツの袖に押し付けて海水を吸わせたけれど、それでもしばらく沁みてヒリヒリとした。

 2人はすぐに波のかからぬ高さまでよじ登り、腰を下ろした。

 いや、正しくは疲れと緊張からの解放で、2人共、腰が抜けたのだった。

 座ったまましばらく息を整えた後、お互い顔を見合わせて上陸を祝福し合った。

「やったね! 着いたね!」

「本当だね! 着いたね!」

 ごつごつとした岩場であっても、海の上のボートとは違う、揺れない地面にはやはり安心感があった。

 サトルの腕時計を見ると、サトルをボートに乗せてから、たったの20分ちょっとしか経っていなかった。

 マックスとサトルは子供たちの聖地、お願い岩に辿り着いたのだった。

 

 体と気持ちが落ち着いてから、歩ける所は歩いてみた。

「この島、全部がお願い岩なの?」

「あの上の方の木が生えている辺りに、岩肌の見える所があるだろう。多分あれをお願い岩って呼んでると思うんだ」

 岩肌は太陽の光を反射して、海岸からでも輝いて見える時があるのだそうだった。

 それは鏡岩と呼ばれる事もあり、その光輝く様が人々に憧憬を抱かせるのかもしれなかった。

「もしかして、あそこまで登るの・・?」

「いや、あそこまでは高過ぎて誰も近づけないよ。ここからお祈りするだけでも大丈夫だと思うよ」

 マックスのその言葉にサトルは安心した。

 それから、その岩肌の方を向いて、サトルの両親が離婚しないように、サトルが日本に帰らなくていいようにと、2人でお祈りをした。

 マックスはお祈りの途中、目を開いてサトルの方をチラッと覗き見て、サトルが自分とは違う、両の手の平を合わせる仕草をしてお祈りしている事に気が付いた。

 海原での大冒険と共に、本来の目的を達成した事に2人は大いに満足した。

 

 お祈りを終えたらあとは引き返すだけ。そう思っていたサトルに、マックスから「面白いコトをしよう」と、提案があった。

 当初、到達までに1時間位はかかると思っていたので、時間には余裕があった。しかも帰りは戻りの潮で、往きより短い時間で戻れるはずだ。

 そして気の利いた事に、ボートには鈎棒が積まれていた。本来は着岸の時にロープを手繰る用途のものだ。

 しかしその鈎棒は、針の先端が尖っているタイプで、それを使えば岩場の隙間などにいる獲物を引っかけて、捕らえる事も出来るのだった。

 せっかくここまでたどり着いたのだから、これを使わない手はないだろう。

 しばらく遊んだ後にボートを漕ぎ出しても、帰宅の時間は問題ないはずだ。

「あっちに行ってみよう!」

 2人がお祈りをした場所の小島の反対側は、岩礁がテーブル状に広がっていた。

 そこには所々に潮だまりがあり、海につながっている岩の裂け目では、寄せる波、引く波に合わせて海水が上下していた。

「転んだら、危ないから気を付けてね」

「うん、わかったよ」

 所々に裂け目や窪みがあるものの、波に侵食されてテーブル状になった岩場は、サトルでもつまずかないように気を付けさえすれば、大丈夫のはずだ。

 それでも転んだりしないかが心配で、マックスはサトルの動きをずっと見守っていた。

 そんなマックスの心配をよそに、潮だまりを覗き込んだサトルは、その小宇宙に魅了されていた。

 潮だまりの中には、巻貝や小さなイソギンチャクや、名前も知らない小魚が潜んでおり、サトルはその色や形がとりどりの、予測の出来ない不可思議な動きの生き物たちに目を奪われ続けた。

 そんな姿のサトルに、心配なさそうだと感じたマックスは、ボートから取って来た鈎棒で、岩の裂け目の合間々々に獲物を求めた。

 いくつ目かの裂け目を探った時に、思わぬ大物が目に飛び込んできた。

 そいつは裂け目の最深部に、潮に浸かりながらひっそりと身を隠している。

 それはどんな隙間にも形を合わせて入り込める存在、タコだった。

 最初は、小さな魚でも捕まえられれば十分と思っていたマックスだったけれど、申し分のない最高の獲物を見つけ、これを見事に捕まえられたらと思うと心が躍った。

 いつの間にか、息を殺して獲物をうかがうマックスの傍らにサトルが近づいていた。

「しーっ、見てて。ボク前にもやったことあるんだ」

 そう、マックスは以前にも今と同じように、息を潜めてタイミングをうかがう瞬間があったのだった。

 

〝あれはお父さんがモーターボートを買ってすぐだった。ボートでどこかの岩場に行って、これと同じような鈎棒で、同じようなタコを、ボクとお父さんは狙ったんだ〟

 今ならもう、ちゃんと全部、思い出せる。

 お父さんと過ごした時間の全てを。

 お父さんがボクに、どんな笑顔を向けてくれて、どんな言葉をかけてくれたのかを。

 

 こちらの気配を感じさせる間もない程の素早い、ためらいのない動きで、一気に鈎棒の先端をタコの脇腹にひっかけた。

 タコは岩に張り付き、踏ん張って抵抗した。

「がんばって!」

 サトルの声援を受けながら、マックスはタコとの力比べに身を入れた。

 岩の両側に支えに踏ん張るタコは手強く、マックスは綱引きの要領で、姿勢を低くとり、鈎棒を引く腕に力を込めた。

 しばらくの拮抗の後、タコはスタミナが尽きたのか、抵抗を諦め岩場から飛び出した。

 それがあまりに急だったので、マックスは後ろにひっくり返りそうになり、慌てて体勢を整えた。

 タコは鈎からすっぽ抜け、飛んだ先の岩場の溝に素早く潜り込み、そのまま海水の中へと姿を消した。

 見事に仕留めてサトルにいい所を見せたかったし、喜んで欲しかったので、マックスはこの結果を残念がった。

「すごかったね、マックス! 面白かったよ! 本物のタコって赤くないんだね!」

 でもサトルは水族館やテレビで見るのではない、野生のタコの姿を初めて見れただけで満足しているようだった。

 どの道、捕まえた所で持って帰る事は出来ないのだ。

 マックスもサトルのこの喜ぶ姿を見れただけで、十分満足だった。

 

 磯遊びを引き上げ、ボートへ戻ろうとした時に、大きなミスを犯していた事を知った。

 上陸地点のどこにも、ボートはなかった。

 マックスは、係留した場所を間違えたのかと、別のポイントにボートはあるのだと願ったけれど、結果は無慈悲だった。

 周囲のどの岩場にも、また海原のどこを見渡しても、ボートの姿を見つける事は出来なかった。

 仮に海原に見つけられたとしても、泳いでそのボートまでたどり着くのは不可能だったろう。

 マックスのロープの締め方が甘く、係留から解かれたボートは、もう取り戻せない彼方へと去ってしまった。やはりそうである事に間違いがなさそうだった。

 そう悟った途端、マックスはめまいを起こして膝から崩れ落ちた。とっさに近くの岩に手をついていなければ、頭を打っていたかもしれない。

 そんなマックスの様を見て、サトルもその場にヘナヘナと座り込んだ。

「ボートが流されちゃった・・」

 長い沈黙が2人の間に流れた。

 

 呆然とした様から少し目覚めて、マックスは喉から一言を絞り出した。

「ごめんね。ボクがボートをしっかり繋いでおかなかったから・・」

 サトルがマックスを責める事はなかった。

 しばらくして「ぼくがなんにも出来ないのが悪いんだ・・」とサトルが呟き、その言葉を最後に2人の間に会話はなくなった。

 さっきまでの高揚感は、嘘のようにかき消えていた。

 

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 何も出来ぬまま、何も話せぬまま、時間だけが過ぎた。

 やがて陽が西に大分傾いた頃、ようやくマックスが、「ここにいたら、上がって来た潮に濡れるかもしれないから、少し上の方に行こう」と弱々しい声音で提案した。

 力なく立ち上がったマックスに、サトルも黙って従った。

 小島の上部は、小さな丘になっていて、2人でそこへ踏み入った。

 段差でサトル引っ張り上げる時に、差し出した手の平は下に向けた。

 丘の上の方も岩場だったけれど、小さなクロマツが何本かと、その手前に草がまばらに生えていたので、なるべく痛くない、ましな所を探して腰を下ろした。

 しばらく時間が経った後に下を見ると、マックスの予想通り、タコと格闘した下の岩礁のテーブルの層は海面に浸っていた。

「もっと潮が満ちてきたら、ここも沈んでしまわない・・?」

 不安げにサトルが質問してきた。

「大丈夫。あと何時間かしたら、今度は引き潮に変わるから。それにここは木が生えてるだろ、それはここが海水につからない証拠だよ」

 そう聞いても、サトルの不安は少ししか拭えなかった。

「どうしてこんな所に木が生えているの?」

「鳥がフンで運んできたか、それか風に乗って来たんだと思う。ここは陸も近いから・・」

「そうなんだ・・」

 お互いかける言葉も失い、沈黙の時間が多い中、マックスは改めて今後の事を考えてみた。

 マックスの母親は今日も遅番勤務だ。だからサトルの母親の方が先に、我が子が帰宅していない事を知って、警察に捜索を依頼するだろう。

 でも、自分もサトルも、この遠出の事は親には内緒にしている。となると、警察の捜索がここを探り当てるのには大分、時間がかかるんじゃないだろうか。

 考えれば考える程、いい結果は期待できなかった。

 

 しだいに陽の光は乏しくなり、夜の帳の降り始める時刻となった。

「一番星、みーつけた」

 ふいにサトルがそう声をあげた。

「それ、何?」

「日本の子はそう言うんだよ」

 見上げると薄暮の中、確かにひとつの星が輝いていた。

「ねえ、いいコト考えたんだ」

「どんなこと?」

「2番星、みーつけた! ほらこうして出てくる星を順番に数えれば、空にいくつ星があるか判るよ!」

 その提案にサトルも気持ちが上ずった。

「じゃあ、交互に言ってみようよ」

「それ、いいね!」

 でも結局、そのアイデアは叶えられなかった。

 6~7番目辺りになると、一気に沢山の星が現われて、順番には数えられなくなった。

 そして、そうなるともう、どれが数えた星で、どれがまだ数えてない星か区別がつかなくなってしまった。

 でも、それで落ち込んだりはしなかった。

 黄昏の中、目の前に現われ続ける星々のパノラマに、その美しさに息を飲んだ。

 2人の気持ちは昂ぶり、そして静まった。

 

 やがて黄昏の時間も過ぎて、辺りを暗闇のヴェールが覆った。

 風も陸風に変わり、冷たく吹いた。

 対岸の港の家々の灯りがともり、それがいっそう自分たちの今の孤独さを際立たせた。

「本当にごめんね、こんなコトになっちゃって。でもボクらが家に帰ってないのが判ったら、きっと助けがくるから大丈夫だよ」

「うん、いいよ。ぼくの為にこの岩に来たんだもの。ぼくもきっと助けが来ると思うよ」

 初夏であっても、やはり夜は冷えた。

 せめて上にかける何かの衣類が欲しかったけれど、それは望むべくもなかった。

 夜の世界に満ちた冷気は、2人の小さな男の子の体から熱を奪っていった。

 それは心からも。

「ごめんね、手の平のこと・・、ぼくがボートを漕がなかったから・・」

「・・・、ううん、ボクはへっちゃらだから、サトルは気にしないで」

 ずっと座ったままの姿勢で体がきしんだので、仕方なしに岩場に背をつけ寝転がると、サトルもそれに続いた。

 まばらな草はクッションの役割は果たさず、背中のゴツゴツとする感触は我慢するしかなかった。

「体温をキープするためにピッタリくっつこう」と提案したかったけれど、それは恥ずかしくて言い出せなかった。でもそんな事言わなくても、しばらくすると自然にそうなっていた。

 夜空には無数の星が輝いていて、銀色の月は2人の頬を白く染めた。

 

「もし日本に戻るコトになってもさ、きっといいコトがあるよ・・」

「うん・・、そうだといいな・・」

 親の離婚の件には触れなかった。

〝もしそうなったら、サトルもボクと同じ、親は一人だけになるんだな・・〟

 そう思った。

「ボクのお父さんが生きてる頃、モーターボートを持ってたんだ」

「うん」

「それに乗って、さっきのタコ獲りみたいに、海の生き物を獲りにいったんだよ。お父さんと2人で」

「そうなんだ・・、いいな。ぼくのお父さんは仕事が忙しいから、ぼくとは出かけないんだ・・」

「・・・・」

〝子供と出かけないお父さんなんているのかな・・?〟

 マックスは、そうならお父さんとの思い出を話すのはサトルに悪いかな、と思ったけれど、「お父さんとは、どんなのを獲ったの?」と、サトルの方から話の続きをせがまれた。

「うん、お父さんの知り合いの漁師さんから仕掛けのカゴを貸してもらって、前の日に仕掛けておいたやつを取りにいったコトがあるんだ」

 本当は、魚を獲る漁は漁師さんしか行ってはいけないのだけれど、お金を払って一日漁業権というのを買えば、誰でも漁が出来るのだと説明した。

 

「それでカゴの中にはイセエビが3匹入っていたよ。1匹は持って帰って、他の2匹は市場に持って行って買い取ってもらったんだ。それからボクの靴がちょっとボロくなってたから、お父さんは『靴を買いに行こう』って。ボクは『ボートのローンがあるがあるから、お金は使わないで取って置いたほうがいいよ。靴はまだはけるよ』って言ったんだ。そしたらお父さんは『子供はそんな事、心配しなくていいよ』って、僕の頭を撫でてそう言ったよ」

 サトルは夜空の満天の星々の輝きを見つめながら、神妙にマックスの話に耳を傾けた。

 語るマックスも、その星空の輝きを息を飲んで見つめていた。

 

「高校生になったら雇ってくれるっていうお店があるから、そこでアルバイトをして、最初にもらったお金で靴をプレゼントするつもりだったんだ。渡すときに『あの時のお返しだよ』って、言うつもりだったんだ。でも、そうする前にお父さん死んじゃった・・」

「・・・・」

 

 2人は星々を見つめ、星々も2人を見つめていた。

 星々の瞬きが、その小さなささやきが2人を包んでいました。

 もしマックスとサトルが凍えていなければ、不安な気持ちがもう少し小さかったなら、天空の旋律が、その玲瓏(れいろう)な調べが耳に届いていたかもしれません。

 

「お父さんはさ、泳ぎの名人だったんだ。若い頃、10kmの遠泳大会で5位になったこともあったんだって。船の事故があったのは沖合3kmの所だから、お父さんだけだったら、きっと泳いで助かったと思うんだ。でも他の乗組員を助けようとして、それで自分も疲れて溺れちゃったんだと思う。お父さんならきっとそうしたとボクは思うんだ・・」

「ぼくもそうだと思う・・」と、小さくサトルは呟いた。

 マックスは、〝サトルは僕のお父さんのコトを知らないのに、何でそう言えるのかな〟と思った。

 でもすぐに、〝ボクに気を遣って、そう言ってくれているんだな〟と気づいて、じんわりと嬉しい気持ちになった。

 

 夜空はいっそう輝きを増し、その星々の狭間に吸い込まれてしまいそうだった。

 唯一、規則正しく聞こえる波の音が、二人をこの地上に引き留めていた。

 やがてそれも、強まる睡魔と共にしだいに耳に微かになってゆき、2人は手と手をつないで、星空の向こう側の世界へと渡って行きました。

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