海原へ

 そのカフェは海に向いた側が一面ガラス張りで、マックスはカウンターの前の丸イスで床まで届かない足をブラブラさせながら、博士が戻るのを待った。

 自宅まで博士の車で迎えに来てもらい、2時間程走った先の港には海洋実験所と水族館とが隣り合って建っていた。

 裏手の海水供給施設は、両方の建物へと海から取り込んだ海水を濾過・供給していて、マックスは長い待ち時間の間に、何度もその施設裏を探検してみたい衝動に駆られたけれど、それはかろうじて抑え込んだ。

 数十分前、海洋実験所に到着して最初に門をくぐった先では、何人かの大人たちからの歓待を受けた。特に施設長は博士との固く握った手を中々離そうとしなかった。

 その後、年若い男性のスタッフにこのカフェまで案内され、ドリンクをご馳走になり、乗船の準備の間、待っているようにと指示されていたのだった。

 こういう時、子供は邪魔になるのは仕方がないので不満には思わなかったけれど、退屈だけはどうしようもなかった。

 

 ようやく戻って来た博士は、一人の女性と一緒だった。

「ハイ!、私ルーシーよ!」

 まだ大学生で、実習生として今回の調査に参加するのだ、と彼女は自己紹介した。

「多分、リリス博士は忙しくなるから、私にくっついて来てね」

「お目付け役ってコト?」

 そう言って、少し言葉のチョイスを間違えてしまったかと後悔したけれど、ルーシーは気にしていない様子だった。

「ハハッ! お目付け役かぁ。そうね、フレンドリーなお目付け役よね」

 そう語るよく日焼けした快活な年上の女の人を、マックスはいっぺんで好きになった。

 3人で桟橋へ歩いて向かうと、何人ものクルーが忙しそうに船への機材の積み込みを行っていた。

「手伝わなくても大丈夫よ。重い機材が多いからね」

 みんなが働いているその脇で、桟橋の際から海を覗き込んでみた。

 魚か何かの海の生物が見れないかと期待したけれど、緑色の水面はカーテンで閉ざされた窓のようで、何も見せてくれなかった。

「あそこの手提げカゴ3つを船に積み込んでちょうだい。中身はランチよ」

 手持ち無沙汰そうにしていたマックスに、ルーシーが仕事を割り振ってくれた。

「カゴは軽いから大丈夫。でも落として台無しにしたら殺されるから気を付けてね」

 慎重に手提げカゴの1つを抱え、波を受けてゆるやかに上下している船べりをまたいで船内に乗り込んだ。

 上下に揺れる甲板の、この感覚はマックスにとって以前に憶えのあるものだ。

 操舵室の窓に顔を向けると、中で博士が2人の男性と、何やら打ち合わせをしている姿が目に入った。

「船室(キャビン)の、陽が当たらない場所に置いてね」

 指示通りに船室に入り、床に直置きされた機材の上にカゴを置こうとすると、再びルーシーから指示が入った。

「言い忘れてたわ。壁際の棚に、ゴムロープで軽く固定できるようになってるから、そこにセットしてちょうだい。船が大きく揺れた時に、棚から落ちちゃわないようにね」

 言われた通りに運び込んだ3つのカゴを固定すると、更にルーシーから新たなアイテムを手渡された。

「ライフジャケットよ。今日は少し暑く感じるかもしれないけど、外しちゃダメよ」

 ライフジャケットは身に着けると、確かに少し暑く、肩周りの動きが制限されるように感じた。

 船はまだ新しめで、大きくて立派だった。

 30tクラスのクルーザー船で、観測専門ではなく、普段は旅客遊覧船として使用されているものが今回チャーターされてるのだと、ルーシーが説明してくれた。

 定員は24人。当初この調査航海での乗組員は12人の予定で、そこに13人目の小学生一人が加えられたのだった。

 

 船長のフランクは立派な体格の落ち着いた人物で、この男に任せておけば安心だと思わせる頼もしさがあった。普段は、自分の船で遊覧船や遊漁船の仕事をしているのだという。

「じゃあ、もしかしてボクのお父さんを知ってる? 海洋調査員だったんだ」

「いや、調査船とは縁がないな。お父さんは今はもう船には乗ってないのかい?」

「ボクが9歳の時に海で死んじゃったんだ」

「そいつは悪いことを聞いちまったな」

 船長の大きくてがっしりした手が、マックスの肩に乗り、そこから伝わった暖かい何かがマックスの心を慰めた。

「じゃあ君にも、お父さんや俺と同じ海の男の血が流れているかもしれないな」

 船長のその言葉が、お互いの相好を崩した。

 

 荷物の積み込みが終わり、点検と行程の最終チェックが完了した所で、施設長からの簡単なスピーチがあった。

 前後2つの係留ロープを同時に解き放って離岸し、数mをバックした後に、船体がゆっくりと回頭し、舳先(へさき)が外海の方向を向いた。

 いよいよ出航だ。

 波止場の見送り組が手を振ってくれたのに応えて、マックスも手を振り返した。

 港湾を出て速度が上がると船体はバウンドし、波が跳ね、時々その水しぶきが甲板のマックスたちの顔や着衣を濡らした。

 陸地は後方に遠くなり、もう周りの全ては海原だ。

 船の疾走による風を受けて、ライフジャケットは少しも暑く感じなかったし、濡れた顔もすぐに乾いた。

「船べりには立たないでね。海に落ちたら大変よ」

 ルーシーから、そう釘を刺された。

 時々風の加減で、本来は後ろに流れゆく重油の燃えた匂いが鼻腔に届き、それが幼い時分に、ボートに乗った思い出を蘇えらせた。

 

 遠慮して操舵室には近寄らないでいたけれど、「機器に触らなければ、多分入っても大丈夫」とルーシーに言われたので、中に入って船の操縦を見学させてもらった。

 これまでの観測によって見定められた、クジラたちの通過ポイントへと船は走っていた。

 そのポイントに到着するまでの間、博士がマックスの脇にやって来て、声をかけてくれた。

「船酔いはしてないかい?」

「うん、全然平気だよ!」

 船に乗って海へ出る事、これからクジラたちの姿を見れる事、わくわくが多すぎて、酔ってる暇なんてなかった。

 ルーシーも、側にいた若い男性クルーも、博士の著作のファンで、今回、初めて博士と会える事に感激しているのだと語ってくれた。

「私たち、海洋研究に携わる者ならみんな、博士の名前は知ってるわ。でも小学生のお友達が居るとは知らなかったけどね」

 船上では博士やルーシーから、これから観察するザトウクジラの生態や海流の話などを教えてもらいながら、時間を過ごした。

 海原には時々トビウオが現われ、滑空する姿を見せてくれた。

 

「南下したカリフォルニア海流は赤道の手前で90度曲がって北赤道海流と名前を変える。それは太平洋を横断して、今度は北向きに流れる日本海流となり、それがまた北の海を横断してアメリカまで戻ってくるんだ」

「手紙を入れたボトルが、フィリピンや日本まで流れ着いたりもするんですって」

「じゃあ反対に、フィリピンや日本からもボトルが届くコトもあるの?」

「うん、そういう事になるね」

 ザトウクジラはもっとも長い距離を回遊するクジラの一種で、それは一年間で7~8千kmにもなる。

 南洋で繁殖活動を終えた後のこの時期、カリフォルニア沿岸を北上し、彼らはエサの豊富なアラスカ沖を目指す。カリフォルニア海流は北から南へと流れているので、それに逆らう形だ。


 観測ポイントに近づくと、ケーブルに繋がった水中マイクが船尾から垂らされた。

 水中マイクでクジラの鳴き声が拾えたなら、それは船上のスピーカーから流れる仕組みになっている。その水中マイクと、魚群探知機の一種である音響探査装置とでクジラの群れの位置を割り出すのだった。

 ザトウクジラは仲間とのコミュニケーションの為に、海中で鳴き声を発し、それはカチカチといった音で、クリック音と呼ばれている。

 声帯を持たないクジラがどのような仕組みで音を発しているのかは、まだ解明されていない。このクリック音は数十km先まで届くのだった。

 

 観測海域を航行中、船上スピーカーに数回、そのクリック音が鳴り響いた。

 群れのおおよその方向が特定され、船はその方角へと針路を向けた。

 その後、クジラたちの鳴き声は途切れてしまったけれど、進んだ先の海域で音響探査装置の方に反応があったので、もうひとつの確かな発見の手段を駆使すべく、船長から号令がかかった。

「よし野郎ども、持ち場に着け!」

 その言葉に、機関要員以外の全員が船べりに、一定の間隔を取って並んだ。

 つまり目視でクジラを探すのだ。

 船長がさらに声を張り上げた。

「最初に見つけた奴は、銀貨5枚だぞ!」

 マックスは隣の博士に問いかけた。

「クジラを見つけたら、銀貨がもらえるの?!」

「残念、昔の捕鯨船でそう言っていたのをマネして言っているだけだよ」

「本当にもらえるのはバスケットいっぱいのラスクなの。さっきあなたが運んだカゴに入っているわ」

 ラスクはルーシーとは別の女性クルーが、彼女の母親と共にオレンジピールを載せて焼き上げたのだそうだった。

「味は折り紙付きよ。ぜひ狙ってみて」

 ルーシーからそう言われなくとも、もちろんマックスは最初に見つける気満々だ。

 マックスは目を凝らして、海原にクジラの姿を求めた。

 波頭が白波を立てる度に、何度もそれがクジラではないかと期待し、その度に落胆させられた。

 そして数分後、マックスとは反対の左舷で声があがった。

「いたぞ!」

 残念そうな顔をするマックスを、ルーシーが慰めてくれた。

「ラスクはみんなに分けてくれるから大丈夫よ。一人で食べきれるような量じゃないもの」

 でもマックスは、ラスクより銀貨より、第一発見者の名誉が欲しかった。

 後でラスクを目いっぱい頬張ったのは、その腹いせもあったかもしれない。

 

 ポッド(pod)。クジラの群れはそう呼ばれる。出航から1時間強、北上するザトウクジラのポッドを見つけ、船上は一気に忙しくなった。

 マックスがクジラを見るのは、この時が初めてだった。

 TVで見る海の上に飛び上がるようなダイナミックな動きを想像していたけれど、実際には水面に時々現れる背中しか見えなかった。

 それでも水面下には隠れた巨体が潜んでいるのは容易に想像でき、大いに興奮した。黒い大きな命の塊が目の前にあった。


 群れの進行に連れ、ザトウクジラが入れ替わり立ち替わり、順ぐりにその背を水面にのぞかせる。海上に背を見せるのと同時に、どのクジラも低いシューとした音と共に噴気を上げた。それはクジラの呼吸音であり、彼らが魚類ではなく、人間と同じ肺で酸素を取り込む哺乳類の仲間である事の証左だ。

 噴気は海水ではなく、肺の中で温められた空気が外に飛び出した時、急に冷やされて霧状のカーテンとなって見えるものだ。

 丁度、冬に人間の呼気が白く見えるのと同じだが、クジラの体内温度は特に高いので、この5月の気温の中でも煙って見えるのだった。

 そのクジラたちの呼気は、時に陽の光を反射してキラキラと輝いた。

 風の加減でその匂いが鼻腔に届く瞬間もあった。

 それは生物の匂い。血肉をもって生きる者の命の匂いがした。

 

 目視探査していた人員の内、4人がカメラ係へと役割を変え、この時だけの仮のコードナンバーをクジラに割り振って、それを呼び合って撮影を始めた。

 撮影されたデータは、そのままブルートゥースで船内のメインノートPCに送信され、過去に観測したデータと照らし合わせて、ポッドと個体の識別を行うのだった。

 潮の影響を避ける為、船室内に据えられたノートPCの周りには、博士やチーフが集まり、そこが調査チームの中枢センターになっていた。

「B―2、右背面にキズ!」

 一人の撮影係がそう叫んだ。

「どうしてキズって言ったの?」

「それが識別の目安になるからよ」

 撮影データが集まり、検証が進むに連れ、例えばA―4とB―6は同じ個体を重複してカウントしたものである、といった事が判ってゆき、群れの数は18頭であると割り出す事ができた。

 そしてB―2のキズの持ち主はハーマイオネと名付けられたメスの個体らしかった。

「去年は私、調査には参加してないけど、ハーマイオネの資料写真は見て知っていたわ」

 ハーマイオネは群れの中でも大き目の個体で、背中の特徴的なキズはおそらく漁船か何かの小型船のスクリューに当たってできたものであろう事もルーシーは教えてくれた。

 クルーの一人は船べりに立ち長い棒を海中に差し込んでいた。

棒の先端にはカメラが取り付けられており、これも水中マイク同様、ケーブルを通じて船上のモニターに水中の画像が映るように工作されたものだったのだ。

 しかしクジラの姿は小さく不鮮明にしか映っておらず、ネイチャーもののTV番組のようなはっきりした姿は捕らえられなかった。

「彼も実習生なの。あの棒付きカメラは彼が自作したのよ。でも今回は映像はちょっとムリそうね」

 マックスもモニターをのぞかせてもらったけれど、透明度の低い濁った海水が画面を覆うだけだった。

「潜って撮影するのが一番いいんだけど、今回はダイバーがいないからね。でももうちょっとしたら面白いモノが見られるかもよ」

 

 クジラたちの海面に背をのぞかせる頻度が上がり、呼吸の間隔が短くなった。そうして血液内に目一杯酸素を取り込んでいる。それはつまり、これからの潜水に備える、その先ぶれだった。

 船はあえて群れから距離を取り、その進行方向の後ろ側に位置を取った。

 先頭のクジラから順番に海面に最大限、身を浮かせ、ぺダンクルアーチと呼ばれる体をアーチ状に折り曲げる姿勢をとり、その後、頭を下に向け、海底へと潜って行った。

 最後にクジラの尾が海面に突き出し、それはまるで海面に突き出た巨大な植物の双葉のようだった。ただし、その色は緑ではなく、白と黒のツートーンカラーだ。

 先頭のクジラから順番に潜るにつれ、白と黒の双葉が順番にその姿をマックスたちの前に現した。

 撮影係は、ここぞとばかりに連写し、あますことなくその尾の姿形をカメラに収めた。

「尾に白と黒の模様があったでしょ? あれが個体識別の一番の決め手になるのよ。私たちでいうと指紋みたいなものね」

 甲板に居たほぼ全員が船室のPCの前に集まり、ズームされた尾の模様の画像に見入った。

 この尾紋の識別により、キズの個体がハーマイオネである事が確定し、彼女をリーダーとした以前から観察されていた群れである事が判った。

「彼女の脇にずっとくっついていたのが、去年も一緒に居た彼女の子供だね」と博士が呟いた。

「ええ、パーディタですね。もう大人の大きさと変わらないですね」調査チーフが言葉を付け足した。

 回遊して北の海に向かう際に、クジラたちはシャチの群れに襲われ、特に遊泳能力の低い子供が犠牲になることが多い。この大きさなら、今後、シャチの攻撃から逃げ切ることは難しくないだろう。

 ザトウクジラは3~4年に一度、出産をする。

 海の中で母親が子供に母乳を与え、子供が成長するまで自分の側に置き世話をする。肺呼吸と並んで、クジラが魚ではなく、哺乳類の仲間である事の証だ。

 クジラが南洋で出産するのは、生まれたばかりの子供には暖かい海の方がすごし易いからだ。母親は授乳期間中はほとんど食餌行動をしない。蓄えた脂肪分を母乳に代え、それを与え続けるので、母親は次第に痩せていく。

 その後、子を連れた群れは北を目指し、エサとなるオキアミの豊富なアラスカの海で十分な食餌をし、再び脂肪を蓄え、その半年後にはまた出産と子育ての為に南洋へと下る。

 南洋に戻って来た時に脂肪分が多すぎると、体内に熱がこもり過ぎて、熱死してしまうケースもあるのだそうだ。

 海に棲む魚が卵を無数に産卵するのと違い、海に棲む哺乳類であるクジラは一頭の子供しか産まない。

 一頭の母親が世話をできるのは、一頭の子供だけであり、特にクジラにおいては産まれてすぐの子供には呼吸の介助が必要なので、よっぽど特殊なケースでない限りは双子などは産まれないとされている。

 今回、調査しているこの群れは、前回在籍していた2頭が群れから消え、新たに別の3頭が加わっていた。

「2頭はシャチにやられちゃったの?」

「そうかもしれないし、自分から群れを離れたのかもしれない」

 ザトウクジラの群れは母系家族で、オスの子供が成長すると、群れを離れ単独行動をしたり、オスだけの群れをつくったりもする。

「パーディタも、もしオスなら来年あたり群れを離れるかもしれないな」

 不審そうなマックスの表情を読み取ったルーシーが教えてくれた。

「ああ、オスかメスかはまだ判らないのよ。子犬みたいに持ち上げて確認できないでしょ?」

「あ、そっか」

 博士たちは新たに加わった3頭を気にかけていた。

 このハーマイオネをリーダーとする群れが数を増やしたのは、子供の出産だけであり、過去に新たな仲間を受け入れた履歴がないからだ。

「この3頭は他の群れのデータにもいないな・・」

「うむ、元の群れがシャチに壊滅させられたのかもしれない・・」

「もしそうなら、まるで難民ですね」

「ああ、そうだね、ハーマイオネの群れが受け入れてくれたのなら、3頭にとっては幸運な事だな」

「次の浮上では、特にこの3頭をマークしましょう」

 クジラが一度、潜水すると5分から20分ほどは戻って来ない。

 そして、もうその20分が過ぎようとしていた。

「もしかして嫌われましたかね?」

 そう恐縮するフランク船長に、博士が言葉をかけた。

「いや、君の操船は完璧だよ。我々の船を嫌って潜った訳ではないと思う」

 クジラが潜水するのは、海中にエサを求める時、背にたかる鳥などを避ける時、そして人間の乗る船をかわす時。全くの気まぐれに潜る時もある。

 今、潜ったのは少なくとも今回の観測を煩わしく思っての事ではないようだ、と博士もチーフも意見は一致していた。

 実際、スクリュー音を嫌うクジラたちの為に、離れた距離から急加速し、すぐにエンジンを切っての慣性走行での接近。または低速維持でクジラたちにストレスを与えずに群れに近づく、それらの船長のテクニックは見事だった。

 

「できれば、その3頭のどれかにバイオログを取り付けたいですね」

 そのチーフの言葉に、船室に居た全員が、取り付け係であるフェリスに目を向けた。

「可能な限り努力します。でも結局は・・」

「ああ、判ってる。付けられるヤツに付ける。それしかないよな」

 船長は音響探査装置と過去の経験で予想した、次のクジラたちの浮上するポイントへと船を先回りさせていた。

 博士やチーフの信頼通り、船長の腕前、勘の良さは確かで、まさに目の前にハーマイオネたちの群れが姿を現した。

 写真のデータはもう十分なので、撮影班はさっきよりシャッターを押すペースを落としていた。問題は観測装置・バイオログの取り付けだ。

 装置には緯度経度測定器・水圧計・時計が内蔵されており、これによってクジラたちがいつどこを、どの深さで進んだかが記録される。

 先端に装置を取り付けた棒を、クジラの体に押し付けると、ギミックが働きクジラの背中の皮膚に吸盤式の観測装置がくっつく仕組みになっている。

 ただし、背中と吸盤をなるべく水平にした時に押し付けねば、それは弾かれてしまう。どれだけ船をクジラに近づける事が出来るか、押し着ける背中と吸盤の位置関係・角度、押し付ける強さとタイミング、全てが噛み合わないと成功はありえないのだった。

 船首付近に陣取ったフェリスが、棒を持たぬ方の手で船長へハンドサインを示し、船を左・右・前進、どう操舵するのか、そしてそのスピードの加減を指示する。

 しかし、群れのクジラたちはことごとく船の脇をすり抜け、たまに恰好の位置に来た個体に押し付けるも、弾かれてうまくいかなかった。

 見ていてもどかしく感じたマックスの「もっと上手くやればいいのに」という呟きは、「見るとやるとじゃ大違いって言うでしょ?」と、ルーシーからたしなめられた。

「もう一度、トライしよう」

 フランク船長がフェリスにそう声をかけ、船の速力を上げ、再度、群れの前に位置を取った。しかし2度目の試みも失敗に終わり、群れは再び潜水の兆候を見せた。それはどうやら調査船から逃れるためのようだった。

「今度こそ、嫌われたかもしれないな」

「まあ、背中になにか背負わされるのは、誰だって嫌だろうしね」

「3週間後に再び調査船を出す。最悪、バイオログの取り付けはその時でも構わないのだが・・」

 調査チーフは、そう言ったけれど、しかし、次の調査でも必ず取り付けられるとは限らない。かといって群れにこれ以上のストレスを与えるのも良い事ではなかった。

 群れの浮上を待って、再度トライするべきかどうかが勘案された。

 その時、群れから遅れた一頭が船の前方に背を現し、ゆっくりとした泳ぎで噴気を繰り返した。それを見て取ると、船長は素早く反応し、船をそのクジラに併走させた。

 その一頭がフェリスの目の前に来た時、一気に棒を押し付けると、バイオログ装置は難なく背中に取り付けられた。

 任務の成功にフェリスは「やった!」と会心のガッツポーズをとった。

「まずは一安心だな」

「ええ、上手くいって良かったです。別の群れも探してみますか?」

「いや、大分時間を費やしてしまった。今日はこの一群れで良しとしよう。一旦昼休憩にして、その後、帰港がてら無理のない形で流すとしよう」

「そうですね。雲行きも変わってきましたし」

 

 チーフのランチをとるという号令に、ある者は食卓の準備をし、ある者はもう一品食材を増やすべく釣り糸を垂らした。

「海の上で食べるのって、気持ちいいいのよ」

 発見までのタイミングと観測にかかった時間次第では、帰港するまでランチがお預けになるケースもあるそうだったので、観測と昼食の両方をこなせる、今回の航海は理想的だと、ルーシーは喜んでいた。

 チーフがフェリスの仕事ぶりを「お手柄だった」と褒めると、フェリスは不思議な出来事を語った。

「取り付け損なった事を、何て言い訳しようか考え始めた時に、あのクジラが目の前に現われて少しの間、動きを止めたんです。まるで『自分の背に付けてもいいよ』とでも言ってる様でしたよ」

 そして、その取り付けた個体は新参の3頭の内の一頭であるらしかった。

「どうやら、この船にはラッキーガールが乗っているらしいな」と、船長。

「あるいはラッキーボーイなのかも?」

 ルーシーはそう言ってマックスにウインクした。

 それを受けたマックスは、照れ笑いを返す事しか出来なかった。

 観測装置・バイオログは2週間ほどで自然とクジラからはがれるように設計されている。

 はがれると同時に内蔵の発信機が電波を発するようになり、回収された装置からデータが取り出される。場合によっては、もっと北の別の研究機関に回収を依頼することになるかもしれない。

 おそらくこの群れの回遊ルートはこれまでと同じだろうが、近年の温暖化で彼らのエサとなる生物の量や分布域は変化している。

「これからも、彼らにとって過ごしやす海であって欲しいな」

 チーフのその言葉に、全員がうなずいた。

 

 甲板にテーブルを据え付け、そこに料理の品々が並べられた。

 みんなと向かい合って着席したマックスに、クルーらは、ただ一人の小学生に興味津々だった。出航前は準備で忙しくてできないでいた質問が、堰を切ったように流れ出た。

「どこから来たの?」「何年生?」「どうして船に乗っているの?」「将来は研究者になるの?」

 あまりに矢継ぎ早なので、船長が制した位だった。

「そうか、君はリリス博士のお友達なんだね」

 年の離れた大人と友達と言われて、マックスは面映ゆい気がした。

 今回の調査航海には、ルーシーのような若い実習生も多く、彼らはみな博士の事をリスペクトし、著作も余さず持っているのだそうだった。

 

 ルーシーの言う通り、潮風に吹かれ海原を眺めながらのランチは最高で、クルーたちはみなクジラ談義に花を咲かせた。

 今回、観察した群れが、半年後また南下した時に遭遇できるかもしれない事。その時の群れの編成や、クジラの子供たちがどう成長したか、新たに加わった3頭の動向等を確かめたいのだとチーフは語った。

「夏に北の海に行って、寒い冬は暖かい海に行く。理想的だろ?」

「俺も冬はフロリダのビーチに行きたいよ・・」

「お前がフロリダなんかに行ったら、カジノですっからかんになっちまうぞ」

 言われた側の学生の男性スタッフは、何かしら心当たりがあるのか、何も反論しなかった。

「その前に履修でしょ。2人共、この前のレポートが未提出だって教授が言ってたわよ」

 そのルーシーの指摘に、言った側・言われた側の2人共が顔を見合わせて、「何かと忙しくてさ・・」と、苦笑いをした。

 

 チーフがノートPCでアラスカでのクジラの食餌風景の映像を見せてくれた。

 そこに映る食餌行動は、バブルネットフィーディングという泡で網を形づくり、エサであるオキアミを追い詰める、ザトウクジラたちがグループで行う独特の技法だった。

 泡のネットで囲まれた中央に、クジラたちが順繰りに大きな口を開けて獲物を飲み込んで行く。その一頭ずつが連続でよどみなく現れる様は、まるでクジラたちが相談して順番が決まっているかのようだった。

 マックスの「これが見てみたかったな」という声に、「残念だが、これはアラスカ海でしか見られない行動なんだ。いつか大人になった時の楽しみにとっておくといいだろう」と、博士が告げた。

「同じく、今回は見れなくて残念だったが・・」

 チーフが次に披露した映像はブリーチングと呼ばれる、クジラの行動の中でもっともダイナミックなものだった。

 深い所から、一気に海面まで泳ぎ、その勢いでクジラの巨体の半分位までが海の上に飛び出す。

 このブリーチングをなぜ行うのか?

 体に付いた寄生虫を落とす・オスが他のオスに威嚇している・メスへの求愛・単に遊んでいる、などいくつかの説がある。

「やはり僕は遊んでると思うね。イルカが遊ぶのは有名だけど、その親類であるクジラもきっと遊ぶはずだよ」

「人間だってプールに飛び込みをして、その感覚を楽しむだろ。きっとクジラだってそうさ」

 クジラは好奇心が旺盛で、機嫌がいいときには向こうから船に近寄ってくれて、ダイバーと戯れて泳いでくれる場合もあり、それが遊び説を支持する者の根拠になっている。

〝この夏もみんなで飛び込みに行けるかな〟

 その話を聞きながら、マックスはそう考えていた。

「寄生虫を落とすため、ってのもアリだと思うわ。痒いのは嫌だし」

「ひとつの個体が行うと、連鎖的に他の個体も始めたりするから、私も遊び説が有力かと思うが、確かに痒くてやる時もありそうだね」

 

 その後、今回録音したクジラたちの鳴き声もノートPCで再生してくれた。

「今回の群れは、歌はおろかクリック音もそんなに使わなかったな」

「歌ってなあに?」

 ある種のクジラは、仲間との連絡手段であるクリック音とは違う、数十秒から数分もの長い時間、鳴き声を発し続けるケースがある。

 それは音程や抑揚が変化し続ける鳴き声で、一定のフレーズを反復させるので、まるでクジラたちが歌を作って、それをみんなで歌っているかのように聞こえるのだ。

 このザトウクジラが海中で歌う歌は、地上の5倍のスピードで伝わり、かつ数千km先まで届く。

 単にコミュニケーションの伝達の為ならば、もっと短い鳴き声で良いはずなので、長いフレーズを創り上げ、そのフレーズを他の群れにも伝播させる、そんなクジラの歌は、やはり遊び心の産物であるらしかった。

「1977年に打ち上げられた宇宙探査船ボイジャーには、宇宙人に拾われた時の為にレコードが載せてあるんだ。そのレコードにクジラの歌も刻まれているんだよ」

「当時のNASAのスタッフはセンスあるよな」

「拾った異星人の方が、私たちより先にクジラの歌の意味を解析するかもね」

 海とクジラを愛する者同士、いつまでも話はつきなかった。

 ランチの後、針路を港へ向けた。

 途中、新たな群れに遭遇する事もなく、この日の調査航海は幕を引く事となった。

 

 アラスカへ到達し、北の海で豊富な栄養素・有機物を体内に取り込んだクジラたちは、それを赤道付近まで運び届ける。

 北の海と南の海を回遊するクジラは、地球という体を巡る血液のように、エネルギー代謝のサイクルを請け負っているのだ。

 そのエネルギーは、更に様々な生き物へと配され、それぞれの生きる糧・活力へと姿を変えていく。

 全ての生命はこの地球という星で奏でられるシンフォニーの、それぞれの役割を果たす演奏者なのだった。

 

 帰りの船では、みな言葉すくなで、海原を眺めながら、めいめいが物思いにふけっていた。

 同じように無言で海を眺めるマックスのかたわらに、博士が腰を下ろした。

「今日は楽しんだかい?」

「うん、とっても! 大満足だよ」

「そうか、なら良かったよ・・」

 博士はそう言って、マックスの肩に手を置いた。

 みんなが疾走する船上でくつろぎながら、清々しい気持ちに満たされていた。

 マックスの中でここ最近の、自分が自分でなくなってしまうような感覚は消え去っていた。

 生き物は、ただ生きるためだけに生きているのだと、命はただ在るためだけに在るのだと、クジラたちが教えてくれたのだった。

 自分の人生を、誰かの捧げものにしなくてもいいのだと、そう感じられた。


〝今日、ボクの肩に手をのせたのは、博士で3人目だな・・〟

 マックスは、自分がそう考えている事に気付いて、不思議に思った。

 そうして、手を置いたのは、船長と博士の2人だけだったと思い直した。

 博士の言葉通り、夜になると発作を起こしていた喘息はこの日を境に、その鳴りを潜めた。

 帰るべき港が見えてきた時、明日からは何もかもが上手くいきそうだと、そう思えた。

 

 海風と、船の仲間と、波間を往くクジラたちが、男の子にかけられていた呪いの魔法を、今、解いたのだった。

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