信じて明け渡す
〝マルロたちはどっちに行ったんだろう?〟
完全にみんなとはぐれてしまった。足を棒にしてあちこち探し回ったけれど、見つからなくて、途方に暮れた。どれ位さまよい続けているのか、時間の感覚がなくなっていた。
さっきまでみんなと一緒にいたような気もするし、何時間も前にはぐれたような気もする。
時々、頭上を鳥が通り過ぎる。
〝鳥の目からみたら、みんながどこに居るのかすぐ判るのにな・・〟
3人共、もう山を下りたのかな?
それともインディアンプラットフォームの方へ向かっているのかな?
もしケータイを持っていたなら電話して聞けるのに、と考えたけれど、どの道3人も持ってないから意味ないな、と思い直した。
それに前回に来た時とは、景色が違っている。
ここまで歩いてきたどの道も、以前に仲間たちと一緒に歩いた道の景色とは、その記憶とは、なにひとつ当てはまる所がなかった。
何だか、このままずっとみんなと会えなくて、山の中を歩き続けなきゃならないような気がしてきた。
不安な気持ちを抱えたまま、ひたすらに山道を進むと、クレープ屋のスタンドが見えて来たので、急いで駆け寄った。
クレープ屋の主人は口ひげを蓄え、コック帽を被っていて、愛想の良い笑顔でマックスを歓迎してくれた。
「おじさん、ボクの友達を見なかった?」
「坊やは見たところ小学生ってとこだね。じゃあお友達もそれ位か・・、いや、小学生は見てないなぁ」
「本当に? クレープを作ってて下を向いてたら見逃してたかもしれないよ?」
「それはないと思うし、第一もしそうだとしても、見逃してたらそもそも憶えようがないさ」
おじさんの言う事はもっともだと思って、マックスは落胆した。
「あの木の上に防犯カメラが付いてるだろ? もしかしたらそれにお仲間の姿が映っているかもしれないな」
「その防犯カメラの映像はどうやったら見られるの?」
「さあ・・、そいつはオレの管轄外だ」
「なあんだ・・、じゃあおじさん電話を貸してよ」
「友達に電話するのかい?」
「ああ・・いや、そういえば3人共ケータイは持ってなかったんだった」
せめて誰かの自宅に電話すれば、もう帰宅しているかどうかをたずねられるかもしれない、とマックスは思った。
「電話は貸してやるから、まずはおウチの人にかけて迎えに来てもらうってのはどうだい?」
一瞬、それが得策かもしれないとマックスは考えた。このまま日が暮れるまで歩き続けたなら、今夜は野宿しなければならないかも、と。
そうなる前に、みんなとは出会えなくとも家には帰り着いていた方がいいのかもしれない。
でも山で迷子になったのを知ったらお母さんに怒られると思って、その提案には乗らなかった。
店主の顔を見上げると、彼もマックスにどんな知恵を授ければいいのか、思案にあぐねているようだった。
ふと視線を移すと、並んだメニューの中に見慣れぬ言葉があったので、その事についてたずねてみた。
「このお店、モモンガ味のクレープがあるの?」
「ああ、そうだよ。この辺りはモモンガが沢山飛んでるんだ。山の中だからな。それを捕まえてすり潰してクリームに練り込むのさ。おすすめだよ、注文するかい?」
そう説明を受けても、モモンガがとても美味しいとは思えなかったし、可哀そうな気もしたので、代わりに普通のブルーベリージャム味を注文した。
店主は慣れた手つきで素早くクレープを作り上げると、マックスに手渡してくれた。
「あ!ごめんなさい、ボク財布を持ってないや・・」
「ああ、大丈夫。今日はサービスデイだからどのクレープも只なんだ。お代は要らないよ」
「良かった! ボクこのお店気に入ったよ。また食べに来るね!」
「ああ、今度来た時はモモンガ味クレープを試してみな。絶対に美味しいから」
店主に別れを告げた後で、〝そういえば財布も持って来てないや〟と改めて気が付いた。クレープは只でサービスしてくれたから良かったけど、また何かでお金を払わなきゃならない時に困るな、とそう心配した。
口をもごもごと動かしながら、山道を進んで行くと、向こうから人が近づいてくるのが判った。
〝誰だろう? 大人の人だな・・〟
近づいて来たその人は、マックスの記憶にある顔だと知れた。
「コウザリー先生、こんな所で何をしているんですか? ハイキングですか?」
「あら、見て判らない?」と、先生は両手いっぱいに抱え込んだ資料の束を示した。
「これを持って校長室に行くのよ。もうすぐ卒業でしょ? この時期、先生たちはとても忙しいの」
「それ、もしかしてボクたちの成績表ですか?」
「さあ、それは内緒よね」
コウザリー先生はそうはぐらかしたけれど、きっとそうなのだと確信して、「ボクとマルロの分だけ少し見せてもらえませんか?」と頼もうとした。
そうすればマルロに出会えた時に「さっき成績の内容を先に見せてもらえたよ!」と教えてあげられる。
でも、きっと先生には断られるだろうと予想し、それにボクらだけ先に知ったらズルいもんな、と思い直して、たずねることはしなかった。
それに、この膨大な資料の束から目当てのモノを見つけるのは大変そうだ。今は先を急ぎたかった。
「それでマックス、あなたは何をしているの?」
「マルロたちとはぐれちゃって。探してるんです」
「ああ、いつもの4人組ね」
「はい、そうなんです。でも全然見つからなくて・・」
「それならブルームーン探偵社に頼んで探してもらうといいわよ」
「え? それって昔にテレビでやってたヤツでしょ? ボク再放送で見たコトがあるよ」
「そうよ、ブルース・ウィリスに頼むの。彼は優秀だからあっという間にお友達を見つけれくれると思うわ」
「そのブルームーン探偵社はどこにあるの?」
「待って、調べてあげる」
そう言うとコウザリー先生は持っていた資料を道の上にどかっと放ると、懐からケータイを取り出した。
マックスはそれを見て、〝土で汚れちゃうのは気にしないのかな・・?〟と疑問に思った。
マックスがそう思ってる間に、コウザリー先生はケータイを操って、情報を探し当てていた。
「えっと、ブルームーン探偵社はアラスカね。となると飛行機だから、まずは空港へ行かないとね」
「でも空港のある街はずっと遠くだよ。電車に乗って何時間もかかるし・・」
「何言ってるの! 空港は小学校のすぐ隣でしょ? あなた達いっつも飛び立つ飛行機を眺めてはしゃいでるじゃないの?」
「ああ、そうだったね! そういえば空港は小学校の隣だった!」
少し希望が見えてきたぞ、とマックスはクレープをもう一口頬張った。
「それじゃあ気を付けてね。アラスカでオーロラが見えたら写真に撮っておいてちょうだい。いつか学習発表で使うから」
「うん、ありがとう。先生も気を付けて!」
コウザリー先生と別れ、向かうべき場所が定まったので、少し安心した。でもすぐに飛行機のフライトチケット代が必要な事に思い当たった。
〝今日はサービスデイだから、きっとブルース・ウィリスさんは調査料を只にしてくれるはずだ。飛行機のチケット代も只だといいな。ボクずっと飛行機に乗ってみたかったんだ。でも子供一人だけでも乗せてくれるのかな・・?〟
まずは小学校を目指そうと、麓へ向かって歩を進めた。
もしもマルロたちも、もう山から下りようとしているなら、途中で出会えるかもしれないと期待した。
〝でもみんながインディアンプラットフォームの方へ向かってるなら、ボクは反対方向に歩いてるから会えないままだな〟とまた不安を感じ始めた。
クレープはとうに食べきっていて、また独りぼっちで山道を歩く羽目になってしまって心細かった。
もしかして、落ちたリュックサックを無理に拾いに行こうとして、3人とも斜面を転落してしまったんじゃないだろうか。もしそうなら大変な事になってるはずだ。
落ちていなくても、リュックの事が原因でケンカになっているかもしれない。
それか山道の茂みからは、またあの時の獣が人間の気配をうかがっているのかもしれない。もし3人が襲われていたら、どうしよう・・
そんないくつもの憂慮を解消したくて、なるべく早く小学校に到着しようと早歩きになった。自分も獣に襲われる事を、びくびく警戒しながら。
さっきから安心したり、不安になったりと感情のローラーコースターに乗っているみたいだった。
足を速めたのが功を奏して、道の勾配がほとんどなくなり、平坦に近くなった。麓が近づいてきた証拠だ。この調子なら空港で飛行機に乗るのも、そう先の事じゃないはずだ。
〝たしかこの辺りにオートキャンプ場があるんだったな〟
そう思った瞬間に、いつの間にか、もうそのキャンプ場の敷地の中にいた。
〝ここってやっぱり昔、虫取りをした所かなぁ・・〟
周囲を見渡して、幼い頃の記憶を呼び起こそうとしたけれど、どうしても思い出す事は出来なかった。
キャンプ場から道に戻ろうとした時に、目の前を大きな昆虫が横切り、思わず「あっ!」と叫んでしまった。
それはまだ飛び去らぬまま、マックスの数m先にいて、追いかければ捕まえられそうだった。
ずっと歩き続けて疲れているはずなのに、その昆虫に向かって走り出すと不思議と力が湧いてくるような気がした。
「お父さん、虫取り網を持って来てよ! バンの後ろに積んであるよ!」
叫んだけれど、誰からも返事はなかった。
「ほら! あれはエラフス・ミヤマクワガタだよ! 図鑑に載ってたヤツだよ!」
そう再び叫んでから気が付いた。
〝そうだ、もうお父さんはもういないんだった・・、車も売って失くなってるんだった・・〟
ボートと車を買い取ったのが同じ業者だったので、それらが同時に持って行かれたその日の光景を、微かに憶えていた。
虚しさを胸に抱きながらも、独りでミヤマクワガタを追いかけた。頭の中の色々な想いは脇へ追いやられ、もう瞳にはクワガタムシしか映っていなかった。
必死で追いかけると、いつの間にか自分が虫取り網を手にしているのに気が付いた。
〝あれ、これボクの網じゃないや。いとこのロイのヤツだ。前に一緒にキャンプに行った時に借りたヤツだ・・、あの時はまだアイリスが産まれる前だったかな・・?〟
虫取り網を振りながら、ミヤマクワガタを追うと、何度目かに振った時にそれが網の中に納まった手ごたえを感じた。
「やった! 捕まえたぞ!」
網の口を地面で押さえ、地べたにしゃがみ込んで網の中を探った。
〝ミヤマクワガタは体も大きいし、大きなアゴも持ってるから、噛まれないように気を付けないとな〟
用心しながら調べたけれど、でも、どういう訳だか網の中は空っぽで、何度調べてもそこにミヤマクワガタの姿は見つけられなかった。
〝変だなぁ・・、確かに入った感触があったのに・・〟
捕まえたと思ったのは錯覚だったのかと、残念に思っていると、ふとかたわらに誰かが立っているのを感じ、座ったままその人の顔を見上げてみた。
「お父さん!」
そこには何年も会えずにいた懐かしい顔があった。
マックスは立ち上がって、その懐かしい大きな体にしがみついた。
「お父さん、会いたかったよ!」
「お父さんもマックスと話がしたかったよ。元気かい?」
幼い頃、毎日々々、マックスに向けられた笑顔が、マックスの誰よりも一番好きな笑顔が、いままた目の前にあった。
「お父さん、どこに行ってたの? ボクずっと探してたんだよ!」
「ごめんね、今まで会えなくて。何か困ってることはないかい? それが心配で会いにきたんだよ」
「あるよ! 最近、お母さんがずっと意地悪なんだよ! ボクつらいんだ・・」
「そうか・・、お父さんが先に死んでしまったからね。疲れているし不安なんだよ。許してあげてね」
お父さんの胸に顔をうずめ、お父さんから抱きしめられ、そしてお父さんの大きな手がマックスの顔に触れていた。
マックスは自分の体が、小さい頃の幼い姿に戻っているのに気づいた。
〝お父さんは今、自分が死んじゃったって言ったケド、それは間違いなんだ。本当は生きてたんだ。だってこうして目の前にいるし、こうして抱き着いているんだもの・・〟
お父さんの大きな体が、その温かさがマックスを包んだ。
マックスの瞳からは、涙が流れ続けれた。
それはこれまでの人生で一番の幸せの涙だった。
「ねえ、お父さん帰ってきてよ。ぼく、お父さんがいないとムリなんだよ。この前インディアンプラットフォームへみんなで行ったんだ。お父さんとも一緒に行きたいよ」
「お父さんはいつでもマックスと一緒にいるよ。マックスと同じ山に登って、同じ虹を見たよ」
マックスは泣き顔を上げてたずねた。
「じゃあ、みんなでオシッコしたのも見た?」
「うん、見たよ」
「そうだったんだ・・、何だか恥ずかしいや・・」
「気にしなくっても大丈夫だよ」
恥ずかしくてした照れ笑いが、ようやく涙の流れを緩ませた。
「ボクさ、お父さんに聞きたかったことがあるんだ」
「何だい?」
抱き着いたまま顔を見上げて、お父さんの瞳をじっと覗き込んでたずねた。
「ぼくが生まれた時も、アイリスに言ったみたいに『生まれてこなくても良かったのに』って言ったの?」
「いや、マックスが生まれた時は別の言葉を使ったよ。『君を愛し、君の人生の道中を支えよう』って言ったんだ」
それはオーストラリアのアボリジニが新しく生を授かった者に贈る言葉なのだと、お父さんは教えてくれた。
自分に息子が産まれた時に、その言葉を借りたのだと。
「それがお父さんがマックスに言った最初の言葉だよ」
「そうだったんだ。ボク全然憶えてないや・・」
「そりゃそうさ、マックスは生まれたばかりの赤ん坊だったんだから」
でも本当は憶えている。
生まれたばかりでも、体の耳は聞いていなくても、体の頭は憶えていなくても、マックスの魂はその言葉をちゃんと聞いていて、その端っこにしっかりと刻んである。
そして、その言葉をずうっと大切にしているよ。
ふいに抱き着いているその存在が、お父さんの体が薄まったように感じた。
いつの間にか、マックスから離れて、父親は道の先を歩きだしていた。
「待って!お父さん、行かないで! あっちにモモンガ味のクレープ屋があるんだよ! 行って一緒に食べようよ!」
何とか気を引こうと、少しでも長く一緒に居たいと、大声で呼びかけた。
「もう行かなきゃいけないんだ、マックス。難しいと思うけど、お母さんを助けてあげてね。それともう一人と」
父親は歩みを止めずにどんどん遠ざかり、霧の中に溶けていくように、その姿と声が遠ざかっていった。
「待って!行かないで、おとうさん!」
振り向かぬままの父親から、最後の言葉が伝わってきた。
「ここで会った事は全部忘れてしまうよ。でもひとつだけ憶えておいで、『甲虫(ビートル)を追いかける』って」
「行かないで! おとうさん! 行かないで!」
何度も叫びながら、父親の消えて行った方へ走ったけれど、ただ霧の中に身が紛れるだけだった。
再びあふれだした涙で、父の姿も周りの景色も、何もかもが見えなくなっていった。
・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
朝、目覚めると、顔を押し付けていた枕に濡れた跡があるのに気付いた。
どうやら夜中に、悲しい夢を見て泣いたようだった。
〝どんな夢だったかな・・?〟
何とか思い出してみようとしてみたけれど、その努力は顔を洗う時までが限度だった。
玄関を出てスクールバスのピックアップポイントに向かう頃には、枕が濡れていた事も、その夢を思い出そうとしていた事も、すっかり忘れてしまっていた。
仕方ないんだ。夢ってそういうものだから。
仕方がないんだ。夢ってそういうものだから。
・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
ショッピングモール『ワンザ』は建物全体が吹き抜け構造になっていて、両サイドには様々な店舗が並んでいる。
その吹き抜けには施設の空気循環のために、たえず上昇気流のようにゆるやかな風が吹いていて、その気流は訪れた子供たちの気分まで舞い上げるようだった。
それでも、事情を抱える何人かの子供は、その上昇気流には乗れないのかもしれない。
マックスはスイーツショップの店員からサンデーを受け取ってフードコートの席に腰を下ろした。
昨晩、初めて喘息の発作を体験した。
横になると絶え間なく咳込んでしまうので、昨夜はリビングのソファに身を起こしたまま、ずっとうつらうつらしており、朝方にようやく少し眠れただけだった。母親が作ってくれたハチミツ入りホットミルクも功を奏さなかった。
普段、あれほど行きたいと渇望しているワンザにいるのに気持ちは晴れないのは、やはり寝不足のせいだろうか。それとも友達もおらず、独りだけだからだろうか。
発作は夜だけのようで、今はほとんど咳き込むことはなかったけれど、また今晩も同じように発作が起きるのではないかと思うと、今から不安だった。
母親とは14時にエントランスにあるオブジェの前で待ち合わせの予定だ。
モール内はセキュリティがしっかりしているので、子供だけの行動が許されていた。
「建物からは絶対に出ないでちょうだい」と、母親からは釘を刺されている。
病院まではバスで1時間半かかるので、朝、発作が治まってすぐ家を出なくてはならず、座席に座るやいなや吸い込まれるように眠りについたので、車窓の景色は全く憶えていなかった。
マックスの住まう町には、母親が職場で加入している保険の指定病院はなかった。どの道、土曜日だったので、街の大きな病院でしか診療は受けられなかった。
病院での診察が思っていたのより早く終わったのと、せっかく街まで来たのだからと、そして域内無料で病院の前からモールまで運んでくれるシャトルバスがあったので、母親と2人でそれに乗り込んだ。
「ボク、独りで本屋さんやおもちゃ屋さんに行ってみたい」
マックスから請うた別行動は反対されなかった。
おそらくマックスがそう言わなくても、母親の方からも「一人で楽しんでらっしゃい」と、そう提案したかったのだと思う。その方が母親にとっても息抜きできただろうし、お互い自由にモール内を見て周った方が気が楽なはずだ。
「お給料が一日分、減ってしまうわね、土曜は時給も割り増しだっていうのに・・」
職場へ欠勤のことわりの電話をした後、自宅を出る時に母親はそうつぶやいた。
リュックから吸入器を取り出して、看護士さんから説明されたやり方で口にくわえて試してみたけれど、効果の程はよくわからなかった。
週末だけあって、周りの席の多くは家族連れが占めていた。
隣のテーブルでは幼い子供が母親に何か話しかけ、母親は子供の口元についたソースを拭っている。
向こうの席では小学生らしい2人の女の子が、お父さんとお母さんにじゃれ合ってる。どの顔も、みな楽しそうだ。
見渡してみて、独りで座っているのは自分だけだと気付いた。
その事が、何だか自分が来てはいけない場所にいるようで居心地が悪かった。
〝小さい頃は、ボクもあんな感じだったんだけどなぁ・・〟
手の中の吸入器を見つめながら、母親のもうひとつの言葉を思い出していた。
「子供って厄介よね」
いつ聞いた言葉だったろう。いつだったか思い出せない
母親が誰かと電話している時にそう言っていたのかもしれない。
そうじゃなくて、全然、別の時に誰かと話していた時の言葉だったのかもしれない。
連鎖的に母親の他の言葉と、険しい表情を思い起こした。
「どうして言った通りにやらないの?」
「私の小言の原因はあなたなのよ!」
〝喘息がずっと続いたら、ボクは増々ヤッカイになっちゃうな・・〟
そう思うと、自分の身がこの世界から放り出されるように思えた。
喘息になったのを認めたくなくて、吸入器を捨ててしまいたい衝動に駆られたけれど、それは母親を更に怒らせるだけの意味のない行動だと考え直した。
自分の両目に少し涙が滲んでいるのを感じた。
その時、フードコートの一画から怒声が聞こえ、周囲の何組かの家族の視線がそちらに向けられた。マックスも振り返って、その方向を見つめてみた。
そこには2人の大男と、中学生くらいの男児がおり、その男児が2人から、何か叱責を受けているようだった。
その瞬間は目にしなかったけれど、さっきの怒声と同時に、確かに強く叩いた音がしたはずだった。おそらく、2人の内、どちらかがその子に手を上げたのだろう。
その後も、2人はその子を小突き回して、何か責め立てているようだった。
涙を拭って瞳を凝らしてみると、その男児の顔には見覚えがあった。
それはネッドだった。
おそらく2人はネッドの父親と兄で、彼らを怒らせるような何かをネッドがしてしまったのだろう。
学校では我が物顔で威張り散らし、肩で風切って校内を闊歩し、時に横暴を働く。そんな彼が今はなす術もなく、2人の大男から小突き回されるがままに翻弄されている。
学校の帝王の意外な姿を見て、マックスは一驚した。
ネッドの父親は周囲からの視線に気付き、ばつの悪さを感じたのか、一言「何をジロジロ見てやがる!」と牽制した後に、ネッドの腕を引っ張ってその場を離れようとした。
先日、対峙した時はネッドの体の大きさに慄いたけれど、今の彼はまるで2匹の肉食獣に引きずられて運ばれゆくガゼルのように見えた。
3人はマックスの方からは遠去かるように歩いて行ったけれど、どういったタイミングか、ネッドの顔がマックスの方を向いた。
〝見つかった!〟
顔を背けても手遅れだった。
寒気がして動悸が早まった。
腕を引きずられながらも睨みつけてきたネッドの、その鋭い視線はやはりガゼルのそれなんかではなかった。彼こそがガゼルを喰らう肉食獣だった。
3人の姿が見えなくなっても、動悸は治まらなかった。
〝ネッドが睨んでいたのは気のせいだ〟
〝見られたとしても、ボクだとは判らなかったかもしれない〟
自分にそう言い聞かせようとした。でも無理だった。
確かにネッドはこちら見ていた。
その険しい表情が〝お前、あの時のヤツだな〟と訴えていたように思えた。
廊下の一件は、つい数日前の事だ。やはりマックスの顔は憶えられているだろう。
「ネッドが兄貴に殴られているのを見たヤツは沢山いるぜ」
ふいにマルロのそんな言葉が思い出された。
席を立って、まだ食べきっていないサンデーをダストボックスに投じた。
一刻も早く、この打擲(ちょうちゃく)劇の現場から逃げ出したかった。
自分にそぐわない、家族の幸せの場から逃げ出したかった。
・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
逃げ込むように飛び込んだのはトレーディングゲームのカードショップだった。
ショップの売り場の棚は、どこまでもぎゅうぎゅう詰めで、どの陳列棚も上から下まで、隣のアイテムと隙間のない程びっしりとカードがラックに埋め尽くされている。
いくつもの種類のカードゲームが、そのそれぞれのシリーズが、ひっきりなしに新しいカードパックをリリースする。
そのとりどりのデザインと新しいカードの新しい効果と、アナウンスされる対戦の戦術が、子供たちの心を捕らえて離さなかった。
手に入れたカードを自分のデッキに組み込んで、友達との対戦に備え、手札のチョイスを、自分なりの戦略をイメージする。
陳列棚の前に立ち、そのカードの群れが模る(かたどる)一個大隊を前にした時、自分こそが種々のカードを統率し、命令を下す指揮官になれるのだった。
その様を思い描くだけで、子供たちの胸は高鳴るのだった。
マックスがモールに来て、真っ先に訪れたのもこのショップだった。その時は、1パックだけ購入し、ショップの外で開いてみたけれど、その中に目当てのカードは含まれていなかった。
楽しさに埋もれられる場のカードショップも、どういう訳か、今はその陶然の効果を失っていた。
本来、感じられるはずの、ときめきも、夢見心地もどこかに散逸してしまっていた。いや、今だけじゃない。さっき訪れた時もその効果は希薄だった。
〝ボクはどうしちゃったのかな・・?〟
楽しい品々に紛れて、先ほどの事件も、嫌な事の何もかもを忘れたかったのに、心の中は空疎で、目の前にある本来カラフルなカードが全て灰色に見えた。
〝もう1パックだけ買おうかな・・〟
財布の中身は確かめなくても、もう1パック購入したなら、あとはもう来月まで何も買えなくなるのは判っていた。
首の周りにからんだ見えないロープが、また少し縮んだように感じた。
棚のラックから1つのカードパックを手に取った。
ダニエルが万引きを疑われた時、お店の人はダニエルの家に電話するって言っていた。
僕が万引きしても、お母さんに電話するかな?
お母さんは僕を怒るかな?
マックスは気が付いていないけれど、気が付いていた。
母親は子供の人生を自分の為に都合よく使おうとしている。
奪って自分のものにする、それが世の中の在り方だというメッセージを受け取っていた。
奪って自分のものにする。みんながそうしている。
デービッドもダニエルのアイテムを騙し取っていた。
ならば僕がそれをやって何が悪いんだろう。
手に取ったパックをTシャツをめくり、その下に収めそうになった時、不意に自分の名が呼ばれた。
「マックス、こっちにおいでマックス」
びくっとして、慌てて身をひねり、Tシャツの下のそれを素早くラックに戻した。
声の主は博士だった。
ショッピングモールという、自分の住む町から離れた、自分にとっての非日常空間で、この日、偶然出くわす2人目の知った顔だった。
博士がゆっくりと、まるでマックスに猶予を与えるかのように歩み寄って来た
「奇遇だね、こんな所で会うなんて」
なるべく平静を装ったけれど、固まったまま動けなかった。
「ど、どうしてここにいるの?」
そう一言、発すのがやっとだった。
「たまには私だって街でショッピングもするさ」
カードをラックに戻したその手を、どこに置けばいいのか判らなかった。
「すぐそこにジューススタンドがあるんだ。何かご馳走しよう」
明確な返事もできないまま、夢遊病者のように、ふらふらと博士の後を付いて行った。
数店舗先のそのジューススタンドは、カウンター前のショーケースの中に色とりどりのフルーツがあふれていた。店は、注文を受けてからの生搾り、シロップなどを入れない果汁100%の品をウリにしていた。
一瞬、「さっきサンデーを食べたばかりだから」と断ろうとしたけれど、喉がカラカラなのに気付いて、やはりおごってもらうことにした。
店員はフルーツをスクイーザーに投入し、慣れた手つきでほぼ同時にキウイジュースとベリー3種類ミックスの2つのドリンクを作り上げ、愛想の良い笑顔で博士とマックスに手渡してくれた。
一番近い通路際の数人掛けのシートに2人で並んで腰を下ろした。
カードショップを出てから、こうして腰掛けるまで、ずっと無言でいたマックスは、そろそろ何か言わなくちゃと思ったけれど、やっぱり何も言えなかった。
先に博士が口を開いた。
「たまたま、君の姿を見かけたんだ。ここで会えて良かったよ」
尚も無言のマックスに、博士は言葉を続けた。
「以前に話したクジラの生態調査が来週の土曜日に決まったんだ。その日は家にいないって事を君に伝えたかったんでね」
返事の代わりに、何度かの空咳がマックスの口からこぼれた。
「大丈夫かい?」
「うん・・、ボク喘息になっちゃったんだ・・」
「そうだったのか。じゃあ冷たい飲み物はよくなかったかな?」
「ううん、大丈夫」
それだけ言って、後はまた会話が途切れた。
博士も何も言わず、モール内を行きかう人々を眺め、時々ドリンクに口をつけるだけだった。
マックスも言葉は継げられず、気まずく思ったけれど、なぜだか博士の隣にいるのが安心できるようにも感じられた。
〝さっきの、見られてたのかな・・〟
一瞬だけそう思ったけれど、心がブレーキをかけ、それ以上は考えないようにした。
その時、2人の目の前で、年の頃4歳位の男の子が手をついて転んだ。
すぐ後ろにいた母親は「ちゃんと歩かないからでしょ!」と語気荒くそう言うと、その子の頭をぴしゃりと叩き、腕を引っ張って幼児の体を強引に持ち上げた。
そのやり取りを見ていたマックスの息が止まり、顔が青くなった。
その様を見て、博士は自分が何をしなくてはならないかを悟った。
「一度、お母さんにご挨拶をしておく必要があると思うんだ」
「え?!」
予想外の提案に、マックスは動揺した。
改めて気が付いたけれど、こうして博士と隣り合って座っているのを母親に見られるだけでもまずいのではないかと思った。
今まで博士の家に出入りしていた事を、母親にはごまかし続けてきている。それがふいになってしまう。
母親の憤怒する姿を想い、今後、博士の所に立ち寄れなくなる事を懸念した。
いや、それより何より、やはりさっきのカードショップでの行いを見られていて、それを報告されてしまうのかもしれない。
けれど、その提案を断れぬままに母親との待ち合わせ場所と時間を、博士に告げた。そして、その時間はもう後10分を切っていた。
待ち合わせのエントランスに連れ立って歩みだすと、さっき品物を服の下に隠した時以上に、ネッドに睨まれた時以上に、心臓が早鐘を打ち、失神して倒れてしまいそうな位だった。
当然のごとく、母親は現れた人物の姿をみて訝しんだ。
博士は母親に、自分が決して世間で噂されているような怪しい者ではない事、マックスがこの2カ月程、家を訪ねて来ているという事を明らかにした。
同時にIDを提示し、自分は生物学者であり、著作も何点かあるのだと説明した。
〝やっぱり見られてたんだ、お母さんに報告されるんだ〟
体育の時間にマラソンを走り切った後の比じゃない程、マックスの心臓の鼓動は高まり、耳の奥で脈打つ拍動で、2人の会話も、周りの人々の喧騒も、何も聞き取れなかった。
自分が絞首台にのせられる囚人のような気がしていた。
・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
人はどうしても、自分が正しく、相手が間違っていると思いがちで、他者を非難をしてしまいがちだ。
自分が正義でもなく悪でもなく、相手が正義でもなく悪でもなく、そんな完全に中立的な視座で何かを提案できたらなら。
自分の中にある敵意や反意を全て滅した上で、相手と話ができたなら。
どのような答えが返ってきても、それが自分の望みに沿わぬものであっても、全てを受け入れる。
ただ謙虚に相手に判断を委ねるのみ。
それは太古の民の技法。
「もし、お母様が、お子さんの私の所への出入りを禁止されるなら、私はそれに従います」
相手は自分であり、自分は相手であると知るならば、何か新たな局面が顕れ、新たな風が吹き始めるのかもしれなかった。
少し鼓動の落ち着いてきたマックスに、途切れ途切れながらにも聞こえてきたのは母親の言葉だった。
「あの町は保守的ですからね、移住して来た人間に対して警戒心が強いのかもしれませんわ」
「でも、あの子、喘息を発症したんですの、船の上で発作が起きたらご迷惑になりますわ」
「ならば尚の事、潮風は喘息には良い影響があるんですよ」
万事に控えめな博士が、積極的に何かを提案する姿は珍しかった。
でも、一体、何を提案しているんだろう?
博士が母親に何を言ってるのか、気もそぞろだった。
「お母さんの許しはもらったよ、君の方はどうだい? 土曜日は友達と遊ぶ予定とかあるかな?」
ようやく、周囲の音が聞き取れるほどに動悸が落ち着き、自分から口を開けるようになったマックスに、博士の笑顔が向けられていた。
「・・・、何の話なの・・?」
「さっき、少し話しただろ? ホエールウォッチングだよ。船に乗るんだ」
話の内容を理解するまでに、少し時間を要した。そんな困惑顔のマックスに、博士が続けてたずねてきた。
「乗り気じゃないかい?」との問いかけに、「行くよ!」と一言発すると同時に、何度も大きくうなずいていた。
それはもう、首がおかしくなるんじゃないか、という位に。
本当に今日は何て一日なんだろう。
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