溺れている女

 早い調子でかき回したが、それでも3コ目の角砂糖は溶けきるのに少し時間を要した。

昼の情報番組のコメンテーターは、政治家の不正献金疑惑を感情的に非難している。それに同意するメンバーもいれば、別の視点もあると横槍を入れる者もいた。

 トピックも不愉快なら、メンバー達の我の張り合いも不愉快だった。でもチャンネルを変える気力もない。

 この時間帯は面白い番組はないのは判っているし、何よりもう家を出ないといけない時間だわ。

 携帯電話にセットしたアラームが、もうじき鳴りだすはず。それが、バスに間に合う丁度の時刻。鳴りだすのを待たず、アラームをオフにする。

 溶けきれなかった砂糖が底に残ったカップを流しに置いて、リモコンのスイッチを切り、ポールからバッグを取った。今日もまた忌々しい仕事場へ向かわなくてはならない。

 

 正午に向かって気温が上がっていたので、手に持ったジャケットは羽織る事なくバッグの中に押し込んだ。

 停留所に着いて2分もしない内にバスはやってきた。路線バスは設備も料金も良いとは言い難かったが、時間だけは正確なのが救いだ。

 運転手だけが乗車の時に一瞥をくれ、他の乗客は私の姿など見えていないかのよう。昼のこの時間、必ず座れるのだけはありがたい。

 でもバスに揺られる1時間20分の時間は、自分がまるで監獄に護送される囚人のような気がする。

 みな、何を思ってバスに乗っているのかしら。通勤に使ってるのは私だけで、他のみんなはレジャーに出かけるように思われる。

 

 昨日は「支払いを少し待って欲しい」と言うと、大家に嫌味を言われた。

 家賃以外の請求書もいくつか未払いのまま溜まっている。来週、遺族年金と児童手当が入金されるので、それで全部 清算できるはず。

 そうすると手元にいくら残るのだろう。今月は先月以上に切り詰めなくてはいけないかもしれない。

 

 高い位置にあるバスの窓からは、乗用車のドライバーたちの横顔が見下ろせる。友人のサンドラが知り合いの伝手で、格安の中古車を譲ってくれると言っている。

 やっぱりバスでの通勤は効率が悪い。ある程度、余裕ができたらお願いするべきかしら。その時まで、その車があるといいのだけど。

 勤労所得給付金が還付されるのは数ヵ月先だわ。それ以前に、お金を借りてでも手に入れるべきかしら・・

 夫が亡くなった時に、彼との思い出が染みついた車は売り払った。あの時は次の車なんてすぐに買えると思っていたのに、どうしてだろう、あっという間にお金がなくなってしまった。それ以来、ハンドルは握っていない。

 

 今日も帰りは最終便になってしまう。車窓には暗闇に沈む世界と、そこに自分の疲れた姿とが映る。仕事から解放されたのに、往きよりも憂鬱な気分になる。

 昼の時間帯に勤務を変えたなら、車窓に映る自分の顔を見ずに済むのなら、この憂鬱さとは離れられるだろうか? でも夜間の割り増し時給でないと生活を支えられない。

 いっその事、もっと仕事の多い大きな街へ引っ越すべきかしら。

 この町へは夫の仕事の都合で越してきて、その後も惰性で住んでいる。小さな漁師町、自分の住むべき所とは思えない。できれば離れたい。

 酒飲みも多いし、賭博に打ち興じる人も多い。こんな小さな町なのに、まあまあの大きさのポーカールームがある。この町にはロクな仕事もないし、子育てにも良い環境じゃないわ。

 本当に、まともな男ってどこにいるのかしら? 隣の売り場のアルフレッドから、映画のチケットが2枚あるから一緒にどうかって、みえみえの誘いがあった。

でもあんな三流な男に、簡単になびく訳にはいかないわ。もうこの年だし、間違った相手に引っかかる訳にはいかない。やっぱりちゃんと稼ぎのある男でないと。せめて彼が正規雇用だったら考えても良かったのに・・

 

 斜め前に、私よりもっと疲れた顔の老女が座っている。きっと私もあんな風にすぐ老け込んでしまう。

 どんなに働いても生活は好転しない。仕事と家事で押しつぶされそう。

 せめて楽しい職場だったら良かったのに。怒り顔のいつも不機嫌なマネージャー。長年、怒り続けてそれが顔に張り付いている。ヒスパニックのくせにえらそうに! そんなに仕事が嫌なら早く自分たちの国に帰ればいいんだわ。

 今日もこれから作り笑顔でチョコファッジやキャラメルナッツソースなんかを盛らなきゃならない。

 カウンターのこちらと向こうでは、何マイルもの隔たりがあるような気がする。何らかの世情が持ち上がる度に、そして契約更新の度に、労働環境も労働条件もどんどん悪くなっている。

 家を出る前に不正献金のニュースをやっていた。

 政治家は弱い者の味方ですとアピールして票を集めるけれど、当選後は結局、富裕層からの献金を受けて、彼らへの優遇政策を行うんだわ。お金持ち同士でお金を回して、私たちのところには回ってこないようになっている。

 ワーキングプア、そんな言葉に自分が当てはまるのは認めたくないけど、確かに私はお金が回ってこない側に居る。請求書に追い回される側に・・

 

 せめて、あの人が生きている間に何か資格を取っておくべきだった。学生結婚なんかして、就職の経験もないままに家庭に入ってしまったのが間違いだったのよ。

 彼が海の仕事に就くのも反対するべきだった。

 家を不在にする時間も長いし、お給料だってそれほど良くはなかった。挙句の果てに事故で亡くなってしまうなんて・・

 何だって、あんな人と結婚してしまったのかしら。向こうからアプローチしてきて、最初はいい人だと思っていたからだわ。

 でも結婚してから気が付いた。生活スタイルも子育ての方針も、色々食い違った。やっぱり、海でなく陸で働く人と結婚するべきだったのよ。勝手に死んだりしない男と。

 そういえば、いつだったか、あの子に「ろくでなしになっても構わない」なんて言ってた。そんなの絶対ダメ! あの人が、あんな風に野放図にさせたから、おかしな子に育ってしまったんだわ。進学クラスにも入れずに、将来の仕事に父親と同じ『海洋調査員』を希望するなんて。

 あの子、最近どんどん私のコントロールから離れていく。

 勝手をやり始めている。

 この前は、自転車修理のお釣りをごまかした。そもそも、自転車が壊れるような接触事故を起こすのが許せないわ!

 いつも気を付けるように言っているのに、なんて不注意なんだろう。もし体に障害でも残ったら、私の人生はどうなるの?

 それにこの前、自分でガスコンロを使ってみたいと言い出した。どういう風の吹きわましだろう。あの子の学校に調理実習なんかあったかしら?

 私が居ない間に火事にでもなったら大事だわ。家が焼けたりしたら、いよいよ住む場所がなくなってしまう。

 それに料理なんかおぼえたら、私の価値が下がってしまう。私がいなくても平気になってしまう。そんなのは絶対に許しちゃいけない!

 時々、食事を残すこともある。誰が苦労して作ってあげていると思ってるのかしら。恩知らずにも程がある。

 部屋も散らかしっぱなしで、買い与えたヴァイオリンはタンスの上で埃をかぶっている。ガレージセールで見つけた古ぼけた物だけど、それでも80ドルもした。最初に少し触っただけで、あとは見向きもしない・・

 本当はピアノを習わせたかった。

 でもピアノは大きすぎてウチにはとても置けない。だからって安いカシオのキーボードなんかじゃダメ。電子音なんか弾かせたら、ロックとかそんな音楽を始めてしまうかもしれないもの。やっぱり格調のあるクラッシック音楽をやらせないと。

 近所のノーマンさんが自宅でピアノを教えている。お月謝も普通のピアノ教室ほど高くないし、今から習わせても間に合うんじゃないかしら?

 ピアノは英才教育が必要で、幼いうちから始めないと演奏家にはなれないって言うけれど、でも25歳からピアノを始めて世界的な演奏家になったロシア人だっている。あの子は勘がいいからきっと出来るんじゃないかしら。

 町まで通わせるのは無理だけど、ノーマンさんの所ならピアノが覚えられるわ。

 〈芸術家を育て上げた母親〉

 子育てした母親に与えられるあらゆる称号の中で最上級のもの。その称号があれば、私の人生は報われる。これまでの人生の負けが全部取り戻せる。

 それなのに、あの子は遊んでばっかりで、まるで期待に応えない。

 

 もう何年も、男性の腕に抱きしめられていない。容貌も衰え始めている。

 最後にヘアをセットしたのいつだったかしら。最近じゃ、そんなお金も時間もない。

 子供がいて身動きがとれない。あの子が私の人生の足枷になっている。

 デンバーに住んでいるいとこのアリアナは2人の子供にフィギュアとホッケーをやらせているって。バカじゃないかしら。いくらウインタースポーツの盛んな土地柄だからって、そんなものやらせても意味ないのに。

 フィギュアもホッケーも選手になんてなれる訳ない。仮になれたとしても選手生命は短いし、引退してから仕事なんかないわ。どこかの学校でコーチを細々とやるだけよ。

 その点、音楽家ならずっと続けられる。プロスポーツ選手と違って、体力は必要ないもの。

 でも正直うらやましい。

 レッスン代も道具代もかなりの金額のはず。商社勤めの彼女の旦那は、そんなに高給取りなのかしら。

 ああ、お金がないのが恨めしい。お金さえあれば、あの子にいくらでも習い事をさせられるのに。楽器もスポーツも、いくつもいくつもやらせればスーパーマンが出来上がるのに。

 うちはガレージセールのヴァイオリンと、その教則本を買うのが精一杯だった。その教則本も1ページもめくりもしないなんて。もう一度、無理にでもヴァイオリンをやる気にさせる事は出来ないかしら。

 もし、あの子がソリストになったなら、大きなステージで演奏する事になったなら、どんなにか嬉しいだろう。

 そりゃあ、あの子はステージで、私は観客席だけれど、でも最前列の関係者席だわ。きっと誰かが声をかけてくれるはず。

「本日の主役のお母様ですよね?」って。

 いいえ、きっと会場に着いたら、案内役の係員がエスコートしてくれるはず。そしてみんなに紹介するの「本日のソリストのお母様がお見えになられました」って。

 みなうやうやしく私に挨拶するわ。ああ、そうなったらどんないいいだろう。考えただけでうっとりする。

「きっとお母さまにも同じ才能がおありだったのですね。ただ機会に恵まれなかっただけなのでしょう?」

「自分の生活を犠牲にして、お子様のために環境を整えてあげたのですね。立派です」

 きっと、そう言ってもらえる。

 そうよ、あの子が音楽家になるという事は、つまり私が音楽家になるという事だわ。そうなれば、みんなが私を見てくれる、立派な人生だと言ってくれる。

 

 それなのにあの子ったら進学クラスにも漏れて、毎日、遊び呆けているだけ。そんなのは許せない。

 結婚も育児もしてなかったら、私はきっと何者かになれたはず。あの子のせいで私の人生が犠牲になったのに。

 やっぱり、今からじゃヴァイオリニストになるのは無理かしら。いえ、もう一度ヴァイオリンをやらせるように試みたら、奇跡的に適正があると判るかもしれない。

〝いいのかしら、そんな事をしても、あの子の気持ちを考えなくても・・〟

 心の中で、何かがそう呟いた。

 いいに決まってるわ、私は母親なんだもの。

 私が産んだのだし、私が苦労して育てているんだもの。

 そうよ、〈気持ち〉を持ってるのは世界で私ひとりだけ・・

 あの子の好きな物も、遊ぶ時間も、万年筆も、ひとつづつ取り上げれば、音楽に目が向くかもしれない。

 音楽家は無理でも、せめて進学コースに入って、何か立派な肩書の稼げる仕事に就いてもらわないと。

 あの人が亡くなった時に、しばらく学校に行かなかった。

 もう当人は憶えていないみたい。

 世間体が悪いから無理矢理行かせた。

 そうよ、あの時のように無理矢理やらせればいいのよ・・

 

 車内アナウンスで下りる予定の停留所名が告げられた時、とりとめのない物思いから目覚めた。

 あと10分後には、タイムカードを押している自分がいる。8時間の牢獄に繋がれている自分が。

「今日を乗り切らないと・・」

 自分にそう言い聞かせて、下りる支度を始めた。

 そういえばあの子の給食費をプリペイドカードにチャージしておかないといけないんだった。その分のお金は別でキープしておかないと。

 昨年までは母子家庭でもあり、低所得でもあったので全額を学校が負担してくれていた。それが今年度から制度が変わってしまった。何とか以前のような全額助成に戻らないのかしら。

 この国は世界で一番の先進国のはずなのに、私はそこに住んでいるはずなのに、なんでこんなに苦労しているんだろう。どこかにお金が消えている。

 これ以上、貧しい思いはしなくない。

 これだけ苦労しているんですもの、何とか元を取らないと。

 あの子の人生を使って、私の人生を取り戻さないと。

 バスのタラップを降りながら、自分にそう言い聞かせた。

 

 ロバの背に荷物を載せ過ぎて、足が折れてしまったなら、飼い主はロバをいたわるだろうか、それとも責めるだろうか。

 親の期待に応えなかった子供は、いたわってもらえるだろうか。

 それとも、不出来な子供だと責められるだろうか。

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