インナージャッジ

「博士、戦争ってどうして起きるの?」

 マックスからのふいの質問はいつもの事で、脳内データバンクへ素早くアクセスし、取り出した情報を子供にも判るように噛み砕いて伝える。それは博士にとってもいい頭のトレーニングだった。

「学校で平和学習でもしてるのかね?」

「そうじゃなくて・・」

 マックスは時々カップに口をつけながら、先日にデービッドから聞いたお兄さんの顛末を博士に語った。

 

 最近では、ヤカンをコンロの火にかけるその役目がマックスに任されていた。家では「火は危ないから」と、飲み物などを温めるのには電子レンジの操作しか許してもらえていなかった。

 『研究所』において、マックスの方から進んで、湯を沸かす役割を申し出たのだった。

 この日は博士の摘んだ野草茶でなく、市販のアールグレイティーのパックを開いた。博士が来客用に備えてあるもので、マックスがそのパッケージを見て興味を持ち、この日の飲み物にせがんだのだった。

 気温も、グラスに放り込む氷の量も、夏が近づくと共に右肩上がりだ。

 マックスが沸かしてくれたお茶は、ややぬるく感じたが、それはそのまま受け入れた。いづれ塩梅が身に着くまでは、ぬるいお茶も悪くないだろう。

 

「デービッドのお兄さんは振られて良かったと思うんだ。アフガニスタンに派遣されたら危険だったし」

 ほぼ連日、TVや新聞ではアフガニスタンでの戦闘、その死傷者の数が報道されており、これが第二のベトナムになるのではと国民は懸念していた。

 それでも宇宙飛行士は小学校に登壇しても、帰還兵は現れない。小学生にとって、いや大半の国民にとっても、戦争は画面の中だけの、実感の伴わない遠い国の出来事だった。

 

「私がイルカの研究をしているのは知っているよね?」

 うなずくマックス。

「イルカやクジラは三段論法ができないんだ」

 〈三段論法〉、聞いた事はあっても、内容を知らない言葉の代表格だ。

「あらゆる生物はいつか死を迎える→人間は生物である→だから人間はいつか死を迎える。つまりA=B、B=C、だからA=Cと三者の間で代入を3回行う。これが三段論法だ」


 海の知性であるイルカは、人間に匹敵する大きさの大脳を持っている。かつて、何人かの科学者が、イルカやクジラは人間を上回る情報の処理能力を持っており、知性の定義が違うだけで、人間よりもっと深淵な理性を持っているのではないかと密かに期待していた。

 しかし日本の研究者が行った実験で、イルカは2段階目までの代入はできるが、3段階目ができないという事が判明した。

「私自身もイルカに肩入れしたい所だが、やはり地球における最高の知性は人間で決まりのようだ」

 博士はそう肩をすくめたが、その表情は残念そうには見えなかった。

「それが戦争と何の関係があるの?」

 博士が明瞭に答えた。

「この前、君の学校の中等部のバスケットボールのチームが地区大会で優勝したって言ってたよね」

 マックスは無言でうなずいた。

「つまりこういう事だ」

 

『優勝チームを抱えるうちの学校は偉大だ』

 ↓

『自分はその学校の一員だ』

 ↓

『だから自分は偉大だ』

 

「頭の中で働くこの『身勝手三段論法』、これが全ての争いの原因なんだよ」

 別の話からアプローチするのは博士のいつものやり方だったので、マックスは先ほどの三段論法の話は黙って聞いていた。

 けれど、今の博士の説明には納得できず、また自分や自分たちの学校を悪し様に言われたようで、それを不服に感じた。その不満はそのまま表情に顕れた。そんなマックスの顔を見て、博士は新たに言葉を継いだ。

「アメリカが、日本やドイツと戦争をしていたのは知っているよね?」

 自分も友達も、毎週のように日本のアニメを見て、友達のお兄さんはベンツのオーナーになる事に憧れている。そんな国々と昔、戦争をしていたなんて、とても信じられない思いだ。 

「100年ほど前、日本人の間にある思想が広まったんだ」

 

『日本は神に守られた神国であり、偉大な民族である』

 ↓

『そして私は日本人だ』

 ↓

『だから私は偉大な神の民だ』

 

 その『我々が一番優れているのである』という思想が、エゴの増長を生み、それが周辺国への侵攻へつながっていった。

「最終的にアメリカも敵にまわし、国土を焼かれ、2発の原子力爆弾をくらって、ようやく自分たちが神国に住まう神民でないと気付いた、という訳だ」

 マックスは、歴史の教科書に載せられた広島の上空に湧き立つキノコ雲の写真を思い出していた。

 

「ドイツにおいても同じ現象があった」

 『優れたアーリア民族』という国粋主義。周辺国へ侵攻し、統治し簒奪する。その図式は日本と全く同じだった。

「ヒットラーが悪い演説をして、ドイツ人に戦争をさせたんじゃないの?」

 ヒットラーの顔と名前は、歴史の授業で習うだけでなく、ゲームやドラマ、様々な機会で目にする悪のアイコンとして、子供たちにも馴染みがあった。

「それは現象のひとつの側面でしかないよ。ヒットラー独りだけであの事態を引き起こす事は出来なかった」

 

 博士はホワイトボードに、ある言葉を書き出した。

 『インナージャッジ』

「君にひとつ秘密を教えよう。人間の頭の中にはインナージャッジという精神の寄生虫がいるんだ」

 このインナージャッジは、人々の中にある劣等感をエサとして生き長らえているのだ、と博士は説明を続けた。

「そして、この『インナージャッジ』が使う第一の黒魔術が先ほど述べた『身勝手三段論法』だ」

 

 第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、多額の賠償金を背負い、国内経済はガタガタで、国民は貧困にあえいでいた。それはドイツ国民の懐と胃袋を締め付ける以上に、自尊心を蝕むものだった。自分たちは敗戦国の惨めな国民だ、という劣等感にさいなまれ、人々は打ちひしがれた。

 そんな時、ある弁舌に優れた男が現われ、「君たちは惨めな劣った者ではない。むしろ世界一優れたアーリア人種である」と、彼らの劣等感を歪んだ優越感へと変容させた。

ドイツ国民はこの男の演説に熱狂し、いびつな選民思想・国粋主義に陥り、これが戦争へと突き進む原動力となったのだった。

 

「確かにヒットラーは稀代の演説手であり、ドイツ国民を戦争へ向かわせるという大罪を犯したが、それでも国民の間に劣等感という下地がなければ、誰も彼の言葉に耳を貸さなかっただろう」

 ヒットラーは臭気の揺らめくガス田へ、マッチを一本擦って投げ込んだ。地中から噴き出す劣等感というガスへの引火が、ヨーロッパを焼き尽くす程の大爆発を引き起こしたのだった。

 

「日本においてはヒットラーのような明確な扇動者は現れず、ナチスのような独裁政党も存在しなかった」

 鎖国という長く他国との交流を閉ざしていた日本が西洋と接し、体格や文化・政治システムの遅れなどを目の当たりにし、日本は欧米の列強諸国にコンプレックスを抱いた。

 ドイツと同じに、その劣等感が原動力となって「我々の国は神に守られた神国である」という歪んだ思想が蔓延し、それがドイツと同様に他国への侵略へと向かわせたのだった。

 

 そこまで説明を聞いても、マックスは不満だった。

 もっと違う何かが戦争の原因だと思いたかったから。もっと違う何かが『悪』の正体だと思いたかったから。

「それは、その2つの国だけがそうなんじゃないの? それにボク思い出したんだ、戦争は資源の奪い合いが原因になってるって、前に先生が言っていたのを」

「その資源を分け合ったり、なるべく節約して使う方法を考えるようになるか、あるいはエゴイズムを野放しにして『オレたちは偉大なんだから、独占し、奪ってもいいんだ』と正当化するのか、その違いなんだよ」

 博士は自分でそう言って、虚しさをおぼえずにはいられなかった。

 劣等感を糧とするインナージャッジが人々の頭に住み着き、「偉大なお前たちは、劣った国に侵攻し統治し。そこから富を奪っても構わない」と戦争を煽る。

 過去にのさばったこの黒魔術が、どれだけの人の命を奪い、貧しさにあえぐ人々を生み出してきただろうか。

 精神に巣食うインナージャッジが、常に耳元で囁き続けている。「お前は他の者より偉大だ」、「だから奪ってもいいのだ」と。

「したがって、君の質問への答えは『人は劣等感で戦争を行う』という事になるね」

 

 ドイツや日本で起きたこの劣等感の高まりから起こる現象は『国粋主義・ナショナリズム』と呼ばれている。

 これは近代以降の現象で、中世以前においては、インナージャッジがすがり着くよう指示した対象は宗教だった。

「十字軍やユグノー戦争、過去に会った全ての宗教絡みの戦争は『お前たちの方が優れている事を示せ』というインナージャッジの号令で起こっている」

 

 エルサレムの聖墳墓教会ではいくつものキリスト教宗派がひしめき合い、時間を区切ってそれぞれの儀式を執り行っている。「自分たちが最も聖典の文句を多く暗記している。自分たちの宗派が一番神に近い、他の宗派は下だ」、そう心の内で唱えながら。

 

「どの宗教の教祖であれ、純粋な想いで教義を定めたはずだ。まさかそれが『この教義を信じる者が、他の者より優れているのだ』と、インナージャッジに悪用されるとは思ってもみなかっただろう」

 インナージャッジが、「新しい教義を作るのだ、それを信じるお前たちが上、古い教義を信じるあいつらは下だ」と宗派をいくつにも分裂させる。

 中世ヨーロッパの異端審問では「神の本質を知る我々は、殺人も許される」と、処刑を正当化する理由にまで使われてしまった。

 マックスはバザー会場で「あの宗派の人たちは地獄に落ちるのに、何を考えているのかしらね」と、年配の女性が噂話をしていた事を思い出していた。

 

 現代においても、テロリストが「神は偉大なり」とつぶやいてバズーカの引き金を引く。その刹那、「神は偉大だ、だからその信徒であるお前は偉大だ」とインナージャッジが耳元でささやく。

 彼らは、神を称える為に戦闘をするのではない。自分を称える為に誰かを殺す必要があるのだ。

 精神に巣食う寄生虫・インナージャッジが〈神〉と〈お前〉を素早く入れ替えている。

 それは手品師の早技(スライハンド)もかくやというほどの瞬間的で、引き金を引く者は、そのすり替えが行われた事に気が付かない。

 どの宗教の教祖であれ、「異教徒ならば殺しても天国の門をくぐるのに何の支障もない」とは言わないだろう。

 インナージャッジが、その攻撃性を正当化させる。

「ある哲学者は宗教をアヘンだと言った。その薬物が『自分たちは劣ってなどいない、むしろこの宗教を信じる我々は優れているのだ』と慰めを与えてくれる。

 それは教祖の『互いに争ってはいけない』という言葉を上回る程に、強烈に脳に作用するんだ・・」

 博士は穏やかでない話題に躊躇を感じつつも、11歳ならばこういった事案を考え始めてもいい年齢なのかもしれない、と、そう考えてもいた。

 

 

 博士はホワイトボードに記した『インナージャッジ』の下に、更に2つの言葉を書き足した。ひとつはさっきまで説明のあった『身勝手三段論法』。

 もうひとつ、新たに書き足されたその言葉は『空虚なHi&Low』だった。

 

「この『空虚なHi&Low』が、インナージャッジが使う2つ目の黒魔術だ」

 宗教や民族思想といった大きな対象だけでなく、劣等感に染まり、インナージャッジに囚われた人は、日常のあらゆる小さな事にも依存を求めるようになるのだと博士は説明を続けた。

 例えば車を運転していて、坂道で前の車にブレーキランプが点灯する。するとジャッジが囁く。〝お前はエンジンブレーキだけで減速できている。お前の方が運転が上手い〟

 信号待ちで、隣に並んだ車の側面に擦った跡を見つける。

 〝お前は擦った事なんかない。お前の方が上だ〟

 スピード超過で、違反切符をきられる。

 〝警官といった公僕共は下らない仕事をして給料を貰っている。お前はそうじゃない。国民をいじめるような下衆な仕事には就いていない。お前の方が上だ。今回スピード違反で捕まったのは何かの間違いだ〟

 

「何でもかんでも、頭の中で空虚な線引きをし、優劣をつけて、自分が優れた人間だと常にそう思い込みたがる」

 そうやって慢心すると同時に、劣等感を無理矢理に拭い去ろうとする。その根拠や、すがりつく対象は何でも構わない。全ては強引に自分の頭の中で作り上げたモノだ。

「本当に何でもいいんだよ、例えばクラスメートの中にも『学年の中でオレが一番先に生まれた』なんて言って得意がる子がいたりするんじゃないかな」

 『知っている・知っていない』と知識で優劣をつけたがるのも、子供時代によくある現象だと博士は述べた。

 デービットがダニエルに「LL、お前そんな事も知らないのか」と、そうなじる姿をマックスは思い出していた。今までに何度も見た光景だ。

「最近はマウントを取る、などとも言ったりするね」

 

 友達がボランティア活動をしている。するとインナージャッジがささやく。

「このままだとボランティアしているあいつが上、お前が下になってしまうぞ」

 その子は、自分もボランティアを始めるだろうか?

 いや、「ボランティアなんて意味はない。あいつは点数稼ぎでやっているだけだ、下心があるんだ」と、そう自分自身を納得させる。

 

 友達が勉強してフランス語を話せるようになった。

「教えてくれる人がたまたま側にいただけだ。フランス語なんて使う機会もない、無意味だ」と、自分を慰め、納得させる。

 あえて人気のない曲を聞いて「これの良さが理解できるお前が上なんだ。連中は作り上げられたヒットチャートに洗脳されているくだらないヤツらだ」というインナージャッジのささやきに慰められる。

 

 よりインナージャッジの支配が強い者は、悪い噂を流すといった、より能動的な行いをしたりもする。

「良し! 引きづり下ろしてやったぞ。これでお前が上になった!」

 特に最近はインターネットの世界で、それを多く見る事が出来る。

「批判してやったぞ。引きづり下ろしてやったぞ。批判する側のお前の方が上だ」

 インナージャッジに囚われた者は、ボランティア活動をしたり、フランス語を学んだりといった建設的な事は何ひとつせず、ただただ他人を攻撃し続け、ヘイト活動に必死になる。

 それは他人を傷つけるだけでなく、それと同じか、それ以上に、自分の人生を傷つけている。意味のある物は何も残らない。ただただインナージャッジが満足するだけだ。

「全ては劣等感に囚われた者の頭の中で働く幻想であり、常にすがりつく対象を生み出し続け、狂った行動を促し続けている」

 そのすがりつく対象・大義名分が、宗教や国家といった大きなものになった時、個人々々の中のインナージャッジが同じ方向を向いて攻撃性が合力となった時、それが戦争の原動力となるのだった。

 

「クラコットでもつまむかい?」

 博士はお茶のお替りと、クラコットの詰まったバケットをキッチンから持って来てくれた。これなら自宅に帰ってからの夕食に差し障る事もないだろう。

 

「日本は第二次大戦後、戦後復興を果たし、経済成長をとげた。20年程前は日本の電化製品や車が世界を席巻していた。その当時、日本人の友人はそれを大いに誇っていたよ」

 その友人は製品の設計に携わった訳でもなく、生産ラインで組み立てを行った訳でもない。ただ日本の製品は優れている→そしてオレは日本人→だからオレは優れている、という身勝手三段論法が頭の中で作用しただけだ。

 

 「アメリカが日本と戦争をしたのは70年程前だが、その頃の日本には世界に誇れるような製品はほとんどなかった。でも構わない。『自分たちは大和民族という優れた人種なのだ。神の民なのだ』と、すがりつく思想はいくらでも生み出せるからだ。ドイツのおいては、周辺国も全てキリスト教国だったので、それとは別のアーリア民族優越主義を新たに作り上げる必要があり、一方、日本は古くからあった大和民族思想を引っ張り出してきた。この頭の中でインナージャッジが『身勝手三段論法』を使って作り上げる幻想、それが戦争の根本的な原因なんだよ。どこの国民、どこの民族であれ、どんな宗教を信じているのであれ、この罠に陥る可能性はあるんだよ」

「でも、アメリカは違うよね?」おずおずとマックスはそうたずねた。

「さあ、どうかな。昨年、全米オープンというアメリカで行われるテニスの大会があったのをおぼえているかな?」

 決勝戦において、3度の優勝経験のあるアメリカの選手と外国の選手とが対戦した。

「下馬評を覆し、外国の選手が勝利を手にした瞬間、観客席から大きなブーイングが起こったんだよ」

 本来、白熱したいい試合が観られれば、どの国の選手が勝っても満足できるはずだ。

 ブーイングが起こったのは観客の多くが、「スポーツに強いアメリカ人は偉大だ」→「お前はアメリカ人だ」→「だからお前は偉大だ」という図式を求めていたからだ。

 アメリカ人選手が優勝すれば、身勝手三段論法によって「我々は偉大だ」という陶酔感に酔えるはずだった。それなのに、この外国の選手がその機会を奪ってしまった。

「ブーイングの大きさからして、かなりのアメリカ人がインナージャッジ取りつかれているんじゃないかと思うよ」

 冥王星が惑星から除外された時、アメリカ人の中で抗議運動が起こった。冥王星を発見したのはアメリカ人だからだ。テニス大会と同じに彼らの頭の中では「冥王星を発見したアメリカ人は偉大だ」→「オレはアメリカ人だ」→「だからオレは偉大だ」という図式が働いていたからだ。

 『星条旗よ永遠なれ』を歌う時、その脳裏で「オレは偉大なるアメリカ人だ」と、インナージャッジに供物を捧げている人もいるのだと、博士は告げた。

 

 紳士の国、理性的で礼節を重んじるイギリス人ですら、自分たちはEUの中では別格で、特別扱いされるべきだと考えている者も多い。なぜなら「本来の我々は世界中に領土を持つパクスブリタニカ・イギリス大英帝国なのだ」と、しがらみを捨てきれないでいるからだ。

 自分が150年前の植民地の提督でもなく、官吏でもなく、労働者でもなく、一兵卒となって警護にあたった訳でもない。そういった人たちの子孫ですらない。それなのに現代のイギリスに暮らしているというだけで、大英帝国の威光は自分たちの手柄だと無意識にそう思っている。

 

 「むしろ、過去に大国であった国の方が、『偉大であったお前たちの姿に立ち返るべきだ』とインナージャッジがそそのかすネタがある分、罠に陥りやすい」

 二次世界大戦の時のもうひとつの独裁国家イタリアでも、ドイツと同じに不況による国民生活の困窮からファシズムが台頭し、『我々は栄えあるローマ帝国の末裔である』というプロパガンダが掲げられた。

 「もしまた世界経済が恐慌に陥ったなら、劣等感に囚われた何割かの英国人は『大英帝国時代の領土が、我々の本来の領土だ』と主張し始めるかもしれない。何割かのトルコ人は、オスマン帝国が本来の自分たちの姿だと主張し、別の国では大航海時代や重商主義の頃が本来の姿だと、そう主張する人々も現れるだろう」

 そしてかつての領土を取り戻し、自分たちの利益を確保するべく軍備を増強させるような政治家が選出されるだろう。

 

 インナージャッジに取り付かれ、尊大化し、狂騒状態に陥った者は、正しい判断が出来なくなる。

「日本はどんなにアメリカとの国力に差があっても、神の加護のある我々が絶対に勝てるのだと信じていた。どんなに戦況が劣勢でも『神風』が吹いて、敵の艦船を全て沈めてくれるのだと信じていた。『偉大な我々』は負けるはずはないのだと」

 また戦闘で死亡しても『ヤスクニ』という天国で、安らかに暮らせるのだという鎮痛剤としての思想も作り上げられ、日本の人々はそれも信じた。

 

「さっき、戦争の原因は資源の奪い合いと言ったね。ホームレスに沢山の食べ物を渡した社会実験があるんだ」

 彼は渡された食べ物を、仲間の下へ持ってゆき、みなで分け合った。

 それは当然の行いだろうか?

 自分がホームレスであるという劣等感ゆえに、内面に「オレは本当は高貴な血筋の人間なのだ、だからこれはオレが独占してもいいのだ」という幻想を生み出し、それにすがりつく事も出来た。

「彼の内面にはインナージャッジが育たなかった、或いは元々いた内面の毒蛇を制して食べ物を分けあえる人間になったのなら、彼はホームレスであっても勇者だ」

 

 マックスの体はソファに深く沈み込んで、見下ろす博士の目にはあたかもはまった沼から抜け出せない動物のように見えた。

〝アメリカは正義の国だし、そんな劣等感なんかないと思う〟

 そう言いたかったけれど、何故だか、そう言えなかった。

 

 アレキサンダー大王は、インナージャッジの「お前の偉大さを見せつけろ」というささやきに従って更なる広範な領地を欲し、各地の街を自分と同じ名にそろえた。大陸の4分の1を制覇しながらも、彼はインナージャッジの奴隷だった。

 

 ある国の大統領は「熊を狩猟するタフな男の姿を世界にアピールしろ」というジャッジの声に従っている。

 同国の市民は、こう考えている。

「車、電化製品、上映されている映画、優れているものはすべて外国のものだ」

「彼らは私たちを嘲笑しているに違いない。社会主義なんかを信じ、経済発展に出遅れた、愚かな国だと」

 その国のオペレーターたちは、サイバー攻撃に没頭する事で、その憂さを晴らている。

「ギリシャ正教は他のキリスト教より純粋だ。それはつまり我々の民族の方が優れているという事だ。そしてオレはその民族の一員だ、つまり、この民族が優秀って事はこのオレが優秀って事だ。まあ、オレ自身は一度も礼拝堂に行った事はないけどな。ハリウッド映画ではいつもオレ達を悪者に描く。何とか憂さを晴らさなくちゃな・・」そう考えながらキーボードを叩いている。

「この強権的な大統領が、かつての属国に侵攻してまた大国の姿に戻してくれる。私たちは偉大な民族なのだと世界に証明してくれる」

 そんな国民の期待感が、劣等感の反動が、その国の軍事志向を下支えしている。


「もし次に大戦があるとしたら、それは劣等感に囚われた国と、それを抜け出したメンタリティの成熟した国との戦いになるだろう」

 

 インドの修験者は苦行で右手を何十年も宙に掲げ続け、血が通わなくなってミイラのように固まってしまっている。

 でも修験者はそれを誇りに思っている。

 インナージャッジが「この苦行を成し遂げたお前が上だ。こいつらはそれが出来ない。お前より下だ」といって満足させてくれるからだ。

 愚かな話だ。

 両手が使えれば、困っている人たちの為に、何かをしてあげられたのに。

 人は、むしろ自分が何を考えているのか、自分が何をしているのか、そこにこそ無自覚なのだ。

 

 「偉大な我々が良い暮らしをするのは当然だ」。現代社会において、このジャッジのささやきが、強国が手元に富をかき集め、地球の裏側の飢餓や貧困を気にしない簒奪経済の下地にもなっている。

 

 せっかく淹れてもらったお茶のお替りも、ほとんど口を付けぬまま、掌の中ですっかり冷めてしまっていた。

「あんまり、面白い話ではなかったね」

 そろそろ話をまとめ上げて、少年を帰宅へと促さねばならない時間のはずだ。

 それに「もう頭が話を受け入れられない」と少年の表情がそう語っていた。

 

「他人に批判的になっている時、そして他人の成功が妬ましいと感じている時、自分の内にインナージャッジが巣食っていると知る事ができる」

 でもインナージャッジを捕まえるのは至難の業なのだ、と博士は続けた。

 人は他人の言動ほどには、自分の言動には注意を払わないからなのだと。

 

「自分自身においては、常に内面のセルフチェックをする事でしかインナージャッジに対処できない、しかし他人がジャッジに囚われているかどうかはすぐに判別できるよ」

 インナージャッジに囚われた人々は2つの言葉が言えないのだ、と博士は教えてくれた。

 そのひとつは『ごめんなさい』という言葉だ。

 「お前が頭を下げてはいけない。それではお前が下、相手が上になってしまうぞ」と、ジャッジがブレーキをかけるからだ。

 マックスはひとつの出来事を思い出していた。

 マルロと2人でデービットに騙し取ったゲームのアイテムをダニエルに返すように説得し、デービットも最後にはそれに従った。

〝でもデービッドは、最後まで「ごめん」とは言わなかったな・・〟

 

「それから、もうひとつ『ありがとう』という言葉も言えない」

 ここでも、やはりインナージャッジがブレーキをかける。

「お前は偉大なんだから、他人に感謝する必要なんてないんだ。何かしてもらって当然なんだ。『ありがとう』なんて言ったら、お前が感謝する側、相手が感謝される側になってしまう。お前が下になってしまうぞ!」

 

 『ありがとう』と『ごめんなさい』を言わない。

「そんな人に出会ったなら、その人がインナージャッジから解放されるように祈ってあげるといいよ」

 博士は、最後にそうアドバイスしてくれた。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

 家路を辿る自転車の上で、マックスはさっき聞いた話を反芻してみた。

 判るような気もしたけれど、飲み込めない部分も多かった。

 「そんな事も知らないのか?」そう口にするごとに、内面のジャッジが育っていくなんて。

 「ありがとう」が言えない事と、戦争の原因が同じだなんて、にわかには信じられない思いだ。

〝じゃあ全部の人の中にいるインナージャッジをなくさないと、戦争はなくならないのかな? でもそんなコト出来るのかな?〟

 

 帰り道は、まだ6月なのに、まだ陽はあるのに、寒さが身に染み込んでいくように感じた。

 世界には恐ろしい『何か』が潜んでいて、それが人々を苦しめたり、お互いを争わせたりしている。

 道の端に潜んでいるそいつは、今にも自転車の前に飛び出してきそうに思える。

 それともその『何か』は外側ではなく、博士の言ったように、個々人の頭の中にあるのだろうか。

 インナージャッジが、その正体なのだろうか。

 そうは思いたくなかった。

 

 今日はいつもの帰り道以上に、寂しく陰鬱な気持ちにだった。

 夕方に放映されるアニメは、出来れば博士の『研究所』で見たかった。

 今日は母親は務めに出ていないので、家の灯りはついているはずだ。

 もうすぐ夜の虫たちが鳴き始める。

 それまでには、家に居るようにしないといけない。

 母親の形相を、その歪んだ眉根を思い浮かべながら、ペダルを漕ぐ足を速めた。

 

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 ネッドには目の前の光景が信じられなかった。

 さっきまでは、取り巻き連中と連れ立って、廊下を我が物顔で闊歩していた。

 それなのに、今、目の前には、どういう事だか馬鹿なチビが立ちふさがって、オレを見上げている。

〝どういう事だ、これは・・?〟

 この学校の生徒なら誰であれ、オレが廊下を歩くときは道をあけて端による。みんなそうする。オレはこの学校の絶対的な王者だからだ。

 それなのに、今、この目の前にいるチビは、避けないどころか、オレの前に立ち塞がって、オレを睨みつけてやがる。

 この学校のルールを知らないのか?

 それとも、頭がイカれたヤツなのか?

 ネッドにとっては、全くの不測の事態が起きていた。

 

 今日は朝からトラブル続きだった。洗面所を使う順番や、諸々の事で兄と揉める。それはいつもの事であるし、兄への対処の仕方は判っている。

 問題は父親に割って入られてしまう事だ。

「うるせーぞ、お前ら! ごちゃごちゃ揉めてんじゃねぇ!」

 父親自身も朝は不機嫌だ。いや、父親が不機嫌なのは朝だけではなく、生きて呼吸している時間全てだった。

 小競り合いを繰り広げる兄弟2人に、父親のその不機嫌の矛が剣先を向けた時、そうでなくとも忙しい朝のダイニングルームが、こじれにこじれる。

 ネッドにとっては敵が2人に増え、それはつまり勝ち目のない戦いを意味している。

 兄と父親、両方からそれぞれに殴られた右肩と左肩にズキズキとした痛みを感じながら登校したネッドが、教室の自席にデンと座った時、その怒気をまとった剣幕に、クラスの全員がおののき、今日はいつも以上に言動に慎重にならざるを得ない事を覚悟した。

 

 父親も兄も顔は殴らない。以前に顔にあざを作って登校した時、教師と民生委員、そして警官とが3人1セットで事情聴取に訪ねて来て以来は。

 それ以降、首より上を殴られる事はなくなった。

 顔にアザを作って登校したのでは、王者の面子が保てないので、ネッドにとってそれはありがたい事ではあった。

 しかし、その一回きりの訪問は、ネッドの人生の問題を何も解決はしなかった。

 

 その不機嫌さを最大限に孕んだ今日のネッドの前に、2匹の子羊が飛び出してきたのだった。

 取り巻きとの会話に横を向きながら歩いていた時、ふいに誰かの体と衝突し、その相手を反射的に突き飛ばした。

 誰かがオレにぶつかってくるなんて、あってはならない事だ。例えオレが前を見ずに歩いていたとしても、他の全生徒がオレの行く手を気にして歩くべきだ。この学校では絶えず、オレが居るか居ないかを気にしながら過ごさなくてはなきゃならないんだ。

 そのボーッと歩いていやがった一匹目を突き飛ばし、そいつが廊下に転がったその後で、ある違和感に気が付いた。そいつは足になにか器具をつけてやがる。

 何か足に障害があるのか?

 だが、障害があろうと知ったこっちゃあない。素早く歩けようが歩けまいが、どんな理由があれ、このオレの進路を遮るのは許されない。不注意にフラフラと歩いていやがったそいつに非がある。

 もちろん謝る必要なんかない。オレの前を横切ってはいけないと、誰かがこのマヌケに教育しておくべきじゃあなかったのか?

 

 ネッドが眼下のハンディキャップ児童に、どう対処して良いか逡巡したその直後に、2匹目が飛び出してきた。

 そいつは何を勘違いしたのか、オレがこの転がっているチビをイジめてるとでも思ったらしい。そいつを庇うようにオレの前に立ち塞がって、オレを睨みつけてやがる。

 世の中、おかしいことだらけだ。オレにぶつかってくるヤツも、オレの前に立ってオレを睨むヤツも、そんな人間、この学校にいていい訳がない。家ではともかく、学校ではオレが頂点なんだ。今日は全ての事がうまく噛み合わない。全ての出来事がオレを不機嫌にさせやがる。

 後ろの取り巻き共が何もサポートしない事も腹立たしい。

 普段、あれだけ面倒見てやってるっていうのに、オレの後ろで棒立ちかよ! 後でしっかりシメとかなきゃあな。

 

 ネッドは、通りかかった教師が、この状況を目にするのを危惧していた。彼はなるべく早く、この場から撤収する必要があった。

〝オレに歯向かっているこいつも突き飛ばすべきか? 先公が来る前に? こいつらは友達同士なのか?〟

 ちょっと本気で小突けば、こいつも簡単に後ろに吹っ飛ぶはずだ。そうした後で悠々とこの場を離れればいいのだ。

 でも、見逃してやってもいい。この前の持ち物検査でタバコが見つかっちまった。ペナルティポイントが、もういっぱいで、「次に何かあったら停学だ」と、この前、校長と担任の2人がかりで釘を刺されたばかりだ。

 タバコは学校で吸っちゃあいない。ただ、他のヤツらをビビらせる為に持ってただけだ。

 もうじき、卒業だってーのに。なのに、ちくしょう、運が悪いぜ!

 オレをにらみつけてやがるこの小僧、やっぱり一発、殴っておくか?

 いや、それはマズい。周りで何人かの生徒がこっちを見てやがる。ここで殴ったら、誰かが先公にチクるかもしれない。

 だから、やっぱり殴るのはマズい。でも、引きさがったりしたらオレが学校で舐められる。こいつはオレが怖くないってーのか? それとも弱い子を助ける正義のヒーロー面がしたいのか?

 後ろの取り巻き共にも、この学校の全てのヤツにも、オレの威厳を示さないといけない。

 くそっ! 2人の内どちらかが、泣き出しでもすりゃあ、仕方ないって顔で立ち去ってやってもいいのに。それなら、オレの面子も保てるっていうのに、一体どうすりゃいい?

 

 困った時、問題に出くわした時、誰しもが求めている。正しい解答を。そこへたどり着く道筋を教えてくれる存在を。

 今、ネッドが求めているのは、それだった。でも彼は知らなかった。彼の父親や兄も、同じようにそれを求めている事を。

 そして目の前に立ち塞がった少年も、やはり同じであるという事を。

 

 マックスには自分の行動が信じられなかった。

 今、怖気(おぞけ)をふるいながら、ネッドとにらみ合っている。

〝どうして、こんなコトになってしまったんだろう・・〟

 その子を突き飛ばしたのがネッドである事は認識していた。いつもなら関わらない相手だ。他の生徒同様、「触らぬ神に祟りなし」なのだと。

 でも、何故だかこの時は、とっさに飛び出して、ネッドの目の前に立ちはだかってしまった。普段の自分だったら、絶対にそんなコトはしないのに。

 

 対峙して初めて、自分を見下ろしているのが超人ハルクである事を知った。

 ネッドは鼻息も荒く、何度も手を振り上げる仕草をして威嚇してきて、その度ごとに、マックスもガードの為に手を前にかざした。

 生きた心地がしなかった。でも足が震えるのをなんとか堪えなくちゃ。弱味を見せる訳にはいかない。

 自分の背後で、突き飛ばされた子が横たわっているはずだけれど、振り返って確かめる余裕はなかった。一瞬でも目をそらしたら、ネッドは殴りかかってくるかもしれない。

〝殴られたらきっと痛いだろうな・・〟

 

 マックスは混乱しながらも、視野の端に数人の生徒が事の成り行きを遠巻きに眺めているのが判った。

〝誰か先生を呼んできてくれないかな・・〟

 そんな寄る辺ない願いを持たずにはいられなかった。

 何か一言、ネッドに言うべきだろうか。でも何て言ったらいいんだろう。言うべき言葉が見つからなかったし、どんな一言にも、ネッドは怒りだしそうな気がした。

 混乱と怯えの最中、後ろからふいに、誰かが肩に触れたのが判った。

 一瞬だけその横顔を見やって、自分の隣に並び立ったのがマルロだと知った。

 

 3人とも発するべき言葉が見当たらず、ネッドも対峙する相手が一人増えたのを意外には思っているようだったけれど、相変わらず強い視線と威嚇のポーズを続けるばかりで、ネッド対M同盟2人の睨み合いの膠着状態になってしまった。

 これまで親友であり、同盟相手であるマルロには何度も助けられてきたけれど、今ほど彼の存在を頼もしく感じた事はなかった。

 張りつめ過ぎた緊張の糸がいよいよ弾けそうに感じた直前、ようやく助けの声が響いた。

 誰かが「先生が来たぞ!」と叫んだのだ。

 多分、ネッドも、そして自分たちも身を翻してその場を離れたはずなのだけど、それは全く記憶に残らなかった。

 

 気付くと、マルロと2人で廊下を歩みながら、ただ早鐘を打つ心臓の鼓動と、安堵からくる冷や汗だけを感じていた。

「誰かがさ、お前がネッドとケンカしてるって言うから、飛んで来たんだぜ・・」

 上気した顔と慌てた声でマルロがまくし立てた。

「あ、うん、そうなんだ・・」

「で、何でお前ネッドにケンカなんか売ったんだ?」

「そんなバカなコトしてないよ」

 ネッドが他の子を突き飛ばしたのが目に入り、とっさに飛び出してしまったのだと顛末を話した。

「よく見れなかったケド、その子は多分、足の補助器具みたいなのを付けていたと思う」

「なるほど、そーゆーコトか・・」

 ネッドの取り巻き達が手を出さず、遠巻きに眺めていたのは、さすがに足の悪い子を突き飛ばしてしまったネッドの側に非があると感じていたからなのだろう、とマルロは合点した。

「でもオレが駆け付けた時には、そんなヤツいなかったぜ」

「うん、いつの間にかいなくなってたみたい・・」

「何だよ、礼のひとつも言わないで行っちまったのか? 薄情なヤツだなぁ」と、マルロは憤慨した。

〝あの子、下級生かな。こっちの校舎に迷い込んで来たのかもしれないな〟、とマックスは思った。

「でもさ、ネッドのやつも案外たいしたことないよな」

 そううそぶくマルロイの声は随分と震えていたけど、そこは親友のよしみで気がつかない振りをしてあげた。

 もっともマックスの声も膝も、マルロなんかよりよっぽど震えていたのだけれども。

「前にさ、勝ち目のないケンカをするヤツはバカだって言ってなかった?」

 マックスも精一杯、平静を装ってそうたずねた。

「う~ん、そうはいかない時もあるのさ。それに『ピンチの時は助け合う』ってのが、オレたちの同盟の第一条だしな」

 そう、M同盟の絆もD同盟に負けない位、確かに堅固なのだった。

「それにさ、勝ち目がないとは限らないだろう? オレたち2人がかりなら案外ネッドにだって勝てるんじゃないか?」

 マルロがそう檄を飛ばす頃には、2人の震えもようやく落ち着いてきた。

「それはそうと、今日のオレたちの敵はネッドなんかじゃないぜ?」

「え、どういうコト?」

「次はディベートの時間だ。オレたちで共同戦線を張ってあの生意気なエイミーをやりこめる予定だろ?」

「ああ、そうだったね」

 本当にケンカになったりしなくて良かったと、マックスは今更ながら胸をなでおろした。

 教室へ戻る道すがら、もう一度、事件のあった廊下の方を振り返ってみた。その後も、時々思い出しては視線の端にあの男の子の姿を探した。

 でもその子を見つける事は出来なかった。

 

「そうだ、野犬退治はどうするの?」

「ああ、あれは止めだ」

 ふいに思い出した疑問には、意外な返答が返ってきた。

「あの犬、子犬を生んだらしい。サミュエルのヤツがおっぱいを飲ませているところを見たんだって。5匹生まれたらしい」

 マックスは身重な体で逃げ回り、食べ物を探し続ける母犬の身の上を想像してみた。

〝だったら退治する訳にはいかないな。でも子犬たち速く走れないから保健所に捕まっちゃうのかな・・〟

「子犬を飼ってくれる人を探してみる?」

「悪くないアイデアだ。『弱きを見捨てたんじゃあ、男が廃る』ってな」

 流行りの刑事ドラマの主人公のセリフをマネしてマルロが言った。子供はいつだって子供の味方なのだ。もちろん、その中には仔犬だって含まれる。

 

 ネッドに立ち向かった勇敢だが無謀な生徒の話は、しばらくの間、学校の中で膾炙(かいしゃ)したけれど、それもすぐに別の話題に取って代わられた。

 何よりこの時期、彼ら子供達には最大の関心事が他にあったからだ。

 そう、夏休みが目の前に迫っていた。

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