高い塔の男

 月曜の朝の定例ミーティングから自分のオフィスに戻ると、デスクの書類の上にペーパーウエイトが載っていた。秘書のクリスティーナが置いたものだ。

 クリスタル製のペーパーウエイトは上部に金属の細い棒が伸びており、その先端にクリップでメモが挟めるようになっている。

 メモには「新商品の概案の承認を午後3時までに頂きたいそうです」と記されていた。

 クリスティーナは休憩に立っている訳でもなく、隣室の秘書デスクに座っている。口頭で告げるのではなく、わざわざこれを置いたって訳だ。

 もしその点を指摘したなら、「大事な要件なので確実に伝えようと思いまして」そんな言い訳が返ってくるのだろう。

 しかしそれは嘘だ。彼女はこういった持って回ったやり方がお好みなのだ。

 

 ノートPCをスリープから目覚めさせ、受信簿をチェックした。

 件のメールを開くと、新しく売り出すデリバティブ商品に為替ヘッジを標準で付帯させる事への承認が求められていた。内容が記された添付ファイルに、適当に目を通しただけで承認の返信をした。

 特に反対する要素もない。新商品の具体化・修正はまた別の部署との間の調整になるはずだ。

 こうして稟議が回ってくるのは、以前に予めの商品情報の共有がなかった為、複数の部署で混乱が生じたからだ。

 まったく、開発部の連中は毎度くだらない商品を生み出し続けて、よく首にならないものだ。それを看過ごす首脳陣にも腹立たしいものを感じる。

 

  ついでにプライベートアカウントを別タグで開いて、そちらの受信簿もチェックした。

 本来、オフィスのPCでのプライベートメールの送受信は避けるようにと本社からは指示されている。総務に知れたなら、またその時に言い訳を考えるとしよう。

 受信簿にはゴワディ弁護士事務所からの回答が届いていた。

 こちらから質問を送ったのは2日前。遅めの回答も気に入らないが、内容はもっと気にくわなかった。

 

「ご質問の件にお答え致します。項目にある『調査費』とは過去の判例に対して行うリサーチのことです」

 予想していた通りの、そして頂けない回答だ。

 気を紛らすために、一旦、席を立って部屋脇のコーヒーサーバのドリップボタンに手を伸ばした。このサーバはこの部屋だけの、自分専用のものだ。抽出が終わったコーヒーカップを手に眼下の車道を眺める。

 車も人もけし粒ほどに見え、蟻の動きを観察しているようだ。時折、聞こえるクラクションの音以外、耳に障るものは何もない。

 ここに異動してくる前のオフィスは大部屋で、パーティションで区切られた一画が自分のスペースだった。管理職なので上座ではあったものの、個人オフィスがあてがわれぬ事を不満に思っていた。

 その点、この新しいオフィスは申し分なかった。

 やや鼻に付く秘書を別とすれば、この高さも、立地も、内装の高級感も、また大部屋のノイズとは無縁となったこの静けさも、自尊心を大いに満足させた。

 地区統括スーパーバイザーに任じられたのが半年前。異動により現在のオフィスのある国の東端へ居を移し、生活を新たにした。

 そう、生活を新たにしたのだ。

 

 ジャケットの襟に手をやる。やはり触り心地がザラついているように思える。

 一度、この件でクリーニング店にクレームを入れている。次も同じ仕上がりなら、店を代えなくてはならないだろう。

 異動は自分の手腕が評価されたから。それは間違いない。

 しかし、新たなポストでの業績は全く芳しくなかった。

 数年前に大手証券会社が派手に倒産して、この業界はまだ出口の見えないトンネルの中だ。さらにITのフィンテックを活用した新興勢の台頭により、既存の企業はその領地を失い続けてもいる。

 金融業務はライセンス制なので、当面は既存企業の業務の領分は守られるはずだ。

 それでも法律が多数派に都合のいいものに作り替えられるのは世の常だ。証券会社や銀行が過去の遺物になる可能性もゼロではないだろう。

 

 本社に出向いた時、同僚から水面下でネット金融ベンチャーの買収工作が進められている事、その交渉が上手くいっていない事を耳にした。メールやメッセンジャーと違って、出会った時にしか聞けない生の情報もあるものだ。

 日本のように一から人材を集めて育てるのでなく、買収して手っ取り早く一部門として組み込む。そんな即物的なこの国らしいやり方は嫌いじゃない。むしろ自分に合っているように思うし、そんな合理性がこの国の強みなのだろう。

 

 考えてみると、さきほどのメールの申し訳程度のパーミッションは日本的なやり方だ。お互い、受けているのは良い影響ばかりじゃないって事か。

 合理性・・

 一瞬、自分が捨て駒なのではという嫌な想像が頭をかすめ、それは考え過ぎだと首を横に振った。

 

 壁面に取り付けられたいくつものモニターには、市場全体の動向と自分の抱えるトレーダーたちの取引内容が常に流れている。トレーダーたちの動向をチェックし、何人かに時限の指示を与えた後に、リポートの作成にかかった。本心を偽り、「この方策で目標は達成可能です」と、やや盛った内容の書類を手早く書き上げた。

 顧客達は、自分の利益が減ることは承知しない。

 目標収益の達成と、更なる高い目標設定の報しか耳に入れるつもりはないのだ。

 しかし相場への対策が判っている人間が、この世界に一人でもいるのだろうか。

 この業界に鬱や自殺者が多いのも、また数字の粉飾やインサイダー取引に手を染める者が多いのも判る気がする。

 

 リポートを今日は特に手早く仕上げたのは、さきほどのプライベートメール受信簿に気になるサブジェクトをいくつか目にし、そちらに時間を割きたかったからだ。

 最初の懸案は、クレジットカードの引き落としの報せだ。

 メールにはその額が記されていないが、今月はセーブしたので先月分よりは大分少額のはずだ。

 ここ数ヵ月、カジノサイトでの利用額が3千ドルを越え続けている。自戒して今月は利用回数もベット額も控えたつもりだ。念のためにメンバーサイトにログインして請求額を確認しようかと思ったが、それは控えた。

 見たところで請求額が変わる訳ではないのだ。精神衛生上、なるべく直視しない方がいいだろう。

 給与が振込まれる口座と、クレジットカードの支払い口座は分けており、後者はオークションサイトへの引き落とし口座も兼ねている。PCからネットバンキングを利用して、その口座に十分な額を入金した。

 最近、カルヴァドスブランデーにはまっている。

 しばらく前までは通販サイトで購入していたが、最近は専ら個人ユーザーがそれより安い価格で出品しているオークションマーケットサイトで入手している。

 カルヴァドスは、周りで飲んでいる人間は誰もいない、自分だけが知っている特別な味だ。

 

 2つ目の懸案である弟からのメールを開いた。

 弟からの連絡は稀にしか来ない。弟を含め、実家とは縁遠い。

 大学進学を機に実家を出てから、ほとんど連絡らしい連絡は取らなくなっていた。日本を離れてからは尚更そうだ。

 弟からのメールは、甥の一人が所属するサッカーチームのレギュラーに選ばれたという他愛もない近況報告で始まっていた。そんな些末なことを嬉々として報せてくるなんて、典型的な親バカの振る舞いだ。

 弟には、ケータイメールのアドレスは教えていない。電話もよっぽどの用事がなければ掛けることはなく、やり取りはPCのメールだけにしている。

「まあ、甥もそれなりに優秀なのだろうがな」そう無意識に声に出してつぶやいていた。

 弟からのメールには、日本の実家の様子も記されていた。

 母親が転倒して軽微ではあるが骨折した事。所有する土地の一画に用地買収の話が来ていること。文字にはなっていなかったが、行間から「一度、日本に戻るべきだ」と訴えているように感じられた。

 勤め先を外資に変えたのが6年前、その2年後には本国勤務となっていた。1年前の例の会社の倒産があるまでは、会社の業績も、自分の勤務評定も上々だった。

 

 ちらりと壁の時計に目をやる。

 時差を考えると日本では今、夜の10時だ。父が専任のヘルパーの手から睡眠導入剤を受け取っている頃だ。

 日本の実家の父が認知症を患い、すぐに寝たきりになって、もう3年が過ぎる。

 あの強権的な人物が、今ではオムツを当てられている。有り余る資産が、専従ヘルパーの雇用を可能にし、おかげで家族の誰もそんな世話をしないで済んでいる。

 骨折したという母は、一度でも父の下の世話をしたことがあるのだろうか。

 考えるだけ野暮だ。物心ついてから、あの夫婦がまともに会話している姿を見たことがない。或いはもっと幼い頃、自分の記憶に残っていないだけで蜜な時期もあったのだろうか。

 父は日本脳神経外科学会の権威だった。オペ室では患者の頭蓋の中でメスと鉗子を揮い、理事会では権勢を揮った。そして家庭では・・、その居丈高ぶりは、配偶者と子供へも同様だった。

 それでも父が優秀な人間だと認めない訳にはいかなかった。

 しょっちゅう雑誌やTVに名前が現れたし、お歳暮や中元の時期には置き場所に困るほどの大量の荷が届いた。家に挨拶に訪れる人間の数も尋常ではなかった。一週間の内、誰も訪ねて来なかった曜日を数える方が早かったくらいだ。

 今はその威厳の欠片もない。

 ベッドから出ることのできぬ、配偶者も子供の顔も判らなくなった廃人だ。

 

 自分が父のような医師にはなれない、そう悟ったのは高校2年の時だ。自分の成績では医大には手が届かない。

 同時に父の影響力のある同じ土俵に足を踏み入れたくないと、はっきり自覚したのがその年だ。それ以外の分野で、何かしらで一流になる必要があった。鼻をあかしてやりたかった。

 だから是が非でも、この業界の、今のポジションにしがみつかねば。来季の契約も滞りなく更新できるように、はっきりとした成果を上げねばならない。

 

 席を立って、1階の喫煙所へと向かう。クリスティーナの〝またか・・?〟という視線にはもう慣れっこだ。まさかカウントして総務へ連絡してはいないだろう。

 喫煙所で時々顔を合わせ、話しかけてくるヤツがいる。別のフロア・別会社の者だ。そいつは運動の為に階段を使って喫煙室まで通っている。しかも下りだけでなく自社に帰る昇りの時まで。まったく物好きなヤツもいるものだ。

 右の脇腹に手が伸びた。

 3ヵ月前の人間ドックで血液中のALT数値が基準を越えているという診断を受けて以来、気になってつい手が伸びてしまう。

「気のせいだ、以前と変わりない」と自分に言い聞かせる。

 一日の内に何度も1階の喫煙エリアまで通う訳にはいかず、イライラも募っている。一度禁煙外来でもらったパウチも試したが、あんなもの何の効果もない。

 喫煙ブースに到着すると、幸い誰もいなかった。くだらん連中のくだらん世間話に付き合わされるのは堪らない。

 最近、坂を転げ落ちるように記憶力が減退しているし、自分でも自覚できないミスが目立ってきている。

 PCで見失ったファイルを探すのに時間を費やし、結局、一から作り直すこととなった。そのファイルは翌日になって、まったく別のフォルダの中から見つかった。

 先週はクライアントとの約束をひとつ見落とすところだった。すんでの所で思い出したが、その下準備ができていなかったので、不備な会合の内容に明らかに相手は不審顔だった。自分のオフィスに戻った時、秘書のクリスティーナまで怪訝そうにオレを見ていたような気がする。

 スケジュール管理を自分でしていたのが仇になったのかもしれないが、クリスティーナに細々と口を出されるのはご免被むりたかった。

 もっと優秀で自分に合った秘書に代えてもらうよう本部に要請する事も考えたが、身勝手だと評価されるのも避けたいので、今の所がまんしている。

 

 しかし、どうしてこうも何かも上手くいかなくなった?

 オレは優秀な人間、エリートだったはずだ。父ほどじゃなくとも、時々メディアに名前も取り上げられている。それが穴埋め的なWeb記事だとしてもだ。

 先々月の本社での役員ミーティングの時の、社長からの一言が忘れられない。

「日本人で活躍するのは野球選手だけか?」

 肩に置かれた手がずっしりと重く感じられたのは、190cmを越える社長の巨躯だけが理由ではなかった。

 

 今考えると、あの女と結婚したのがケチの付き始めだ。何だってあんな女を選んでしまったのだろう。親の轍を踏まぬよう、慎重に相手を選んだつもりだったのに。

 専業主婦の母親とは違う、進歩的で経済的にも自立した男に依存しない完璧な女性を選んだはずだ。若気の至りってやつで、オレの眼識が足りなかったのか?

 いや、女の豹変ぶりを、その偽りの姿を予め男が見抜くのが至難なのだろう。

 

 ゴワディ弁護士事務所で見積を最初に聞いた時、その自分の年収を上回る金額に目を剥いた。

「子供の親権を取り戻すだけなのに、どうしてこんなにかかるんだ!」

 興奮するオレの姿など目に入らないかのように、ゴワディは落ち着き払っていた。

「親権を取り戻す。だからこそ、この金額なのです」

 インド系特有の、人を射抜くかのようなギラリとした眼光で正対され、次いで遠慮のない物言いを聞かされた。

「母親が子供を取られぬ為にどれほど必死になるか、あなたは判っていないのです」

「元の奥様は高い収入を得ておられた。一流の弁護士を用意して強硬に申し立てしてくるでしょう。となれば、こちらも最高の布陣で臨まねばなりませんからね」

 自分の視線の鋭さが顧客候補の男にプレッシャーを与える事に気づいたのか、ゴワディは一度目を閉じて、シートに深々と体をうずめた。

 尚も納得できぬ旨を告げると、薄く目を開き、視線を下に向けたままのゴワディからこんな返答が返ってきた。

「ウチの弁護士たちの働きを時間給に換算すると、いくらになるかご存じですか?」

〝嫌なら他を当たれ〟言外にそう言っているのが判った。

 弁護士天国アメリカって訳だ。

 2本目のタバコを吸い終わると、オフィスに戻る時間だと観念した。

 

 自室に戻って、PCに保存してある1枚の画像ファイルを開いた。

 この2ヵ月前のメールの添付画像が、もっとも新しく知る息子の顔だ。

 以前に、ゴワディとは別の弁護士事務所に相談に行った時に「調停の席で『1年以上前のお子さんの顔しか知らない』なんてことは避けるべきです」とアドバイスされた。

 その事務所の代理人が、あの女から手に入れた息子の写真ファイルが転送されて来たのだった。結局、その事務所とは契約に及ぶ事もなく、相談料だけくれてやった。

 画像の中の息子の顔を見つめてみた。最後に会った時より、鼻が上を向いてきているように思える。

 離婚時の取り決めにより、面会の権利は保障されている。ゴワディからも、可能な限り面会の数をこなす事が、裁判官と調停員へのアピールにつながると助言されている。

 そうすべきだろうか。

 〝バカ言うなよ〟と頭の中で、何かがささやいた。

 そうだ、子供ってやつはやっかいだ。

 女もそうだが、なんだってあいつらはあんなに勘が鋭いのだろう。

 〝女と子供には気をつけろよ、お前が『本物の男じゃない』ってことは決して気づかれちゃあならない〟

 そうだ、距離をとらねば駄目だ。

 好都合じゃないか、あの女からわざわざ大陸の反対側に行ってくれたんだ。裁判所や調停人はどうとでも誤魔化せる。

 『仕事が多忙で日程の調整がつかない』、『長距離の移動が体力的にも時間的にも負担だ』、『あの女が、子供を会わせる事を渋っている』、等々。

 自分が本当はどんな人間か見透かされてしまう訳にはいかない。

 仕事も人生もタフにこなせる男だと、高給取りのエリートだと、せっかく植え付けたイメージなのだ。離れたところから全てをコントロールしなくては・・

 

 それにしても、あのメールの返答には腹が立つ。過去の判例を漁るだけに『調査費』の名目で400ドルとは! クライアントからふんだくる事しか頭にないハイエナどもめ!

 一度でも息子にインタビューすれば、息子とあの女との折り合いが悪いことはすぐ判るはずなのに。

 どういういきさつかは知らないが、最近あの女が失職した。これは僥倖だ。あの子を取り戻すなら、今が攻勢のチャンスだ。

 全てが気にくわない。

 足元を見てくる強欲な弁護士も。自分たちの舵取りのミスに責任を取らない会社の首脳陣どもも。自分の能力を過大評価して付け上がっている秘書も。駐禁取り締まりのパート職員も。弟も。あの女も。

 しかし最も気にくわないのは、ベッドで眠りこけているあの男だ。

 とにかく、俺を侮った連中を見返してやらなねばならない。

 

 窓際に立ち、再び地上を見下ろした。

 高みから見下ろす光景は自尊心を満たしてくれる。自分が昇りつめた特別な人間だと。地上の人間とは一線を画しているのだと。

 これを失う訳にはいかない。

 今の時期、誰が采配を振るっても、この業界で大きな成果は上げられないのだ。

 それでも業績不振の管理職は、常に首のすげ替えの対象であり、現在のポストも、この高層オフィスも決して安泰な城とは言えない。

 結果を出し続ける。それだけがこの国の、この業界の至上命題だ。

 

 金をどんなに稼いでも、必要な分量には足りない。どんなに会社で奮闘しても、必要な評価には届かない。一体、なぜなんだ?

 このまま衰えていく下り坂の人生なのだろうか。否、そんなはずはない。もうじき景気も回復し、また成果を上げるチャンスは巡ってくるはずだ。

 相場を読み切って、他社すべてが損失を出す中、最高利益を上げたのは誰だ?

 その年のベスト成果賞と社長賞の両方の盾を受け取ったのは?

 あれはまだ一昨年の出来事のはずだ。俺が一番であり、最強であるべきだ。

 オレは名家の出自であり、本来、人に使われるべき人間ではない。いつかは社長だって跪かせてやる。

 そうだ血筋だ。

 最悪、あの子が俺の人生を取り戻してくれる。

 あの子は学校の成績も優秀だった。きっと今でもそうだろう。

 そりゃあ、ここ1年以上会えていないが、俺の遺伝子を継いでいるし、俺が稼いで養ってやっていたし、今だって俺の振込んだ養育費で食ってるんだ。つまり俺の作品であり、優良投資案件・有望株って事だ。

 

 早いところ、あの女から取り返さねばならない。

 別に医者でなくとも、金融マンでなくても構わない、将来、何かで一流になってくれれば。

 いや、足に障害があっても執刀医にはなれる。

 証券トレーダーの中には車椅子の者だっている。Drカッパーのように業界を席巻した日本人トレーダーだっていたのだ。

 あの子がそんな存在になれば、メディアだって取材に来るだろう

 あの子が世間の耳目を集める人間になった時、もちろんオレも隣に並ぶつもりだ。

 しかしカメラマンがシャッターを押す時、どんな顔をすればいいのだろう。あの団子鼻はまだ我慢できる。問題はやはりあの足だ。

 あの女は、病気の発見が遅れたのは意思表示のできない乳幼児だったから、と言い訳し、医者もその言葉に頷いた。

 本当にそうだろうか?

 子供の異変には母親が気付くのが当然のはずだ。あの頃、ハウスキーパーまで付けてやっていたのだ。

 家事に煩わされる事なく、仕事から帰宅したら子供の様子を見るだけでよかったはずだ。

 何より、あの子はその腹から生まれて来たのだ。母親が気付かなかったら、一体誰が気付くっていうんだ。

 きっと上向きの鼻同様、病気の遺伝子もあの女から引き継いだに違いない。大きなマイナスイメージだ。本当に腹立たしい。

 

 足の障害がなければ、身長ももっと伸びて、甥のように何かのスポーツ系のクラブのレギュラーにもなれたはずだ。内気で引っ込み思案な性格にもなっていなかっただろう。

 将来、キャプテンや学年総代にだってなれたはずなんだ。

 あの女の不注意のせいで、オレの将来の資産が目減りしてしまった。

 これ以上減らす訳にはいかない。

 今からでは取り返しても中学受験には間に合わないだろうが、なるべく程度のいい中学校に、できれば寄宿制の名門校に入学させて、エリートに仕立て上げなくては。

 子供は真綿が水を吸うようにいくらでも知識を吸収する。今から仕込めば何にだってなれるはずだ。

 オレだって望まぬ進学をさせられたのだ。だからあの子の人生はオレがコントロールしていいはずだ。

 父が亡くなったら、やはり家督はオレが継ぐべきだろう。なんといっても長男なのだ。いくら弟が父と同じ医師の職にあるからといって、出しゃばらせてはいけない。

 その名家の当主の座を、いずれあの子に譲ってやれば、それで文句はないだろう。

 何かが頭の中で囁いた。

 〝称えさせろ!〟

 俺を低く見た連中を見返すには栄光が必要だ。

 エリートの肩書、高額な収入、優秀な息子。

 将来、あの子が手柄を立てれば、それはつまり俺の手柄ってことだ。

 

 別の何かが耳元で囁いた。

 〝あの子はアメリカでもいじめにあってたりしないかな? 父親として何かケアしてあげないといけないんじゃないかな?〟

 馬鹿を言え。

 不登校や自宅学習なんて体裁が悪い。意地でも学校に通わせて、進学に十分な内申点を取らせなければ。子供なんて環境にすぐ慣れるもんだ。

 学校で何があっても、自分で解決させればいい。

 仮にいじめがあったとするなら、それを何とかするのは、それこそ母親の役割だ。父親が関わる問題じゃあない。

 

 〝そうさ、関わっちゃあいけない、何の問題も解決できない情けない人間だと露呈するだけだ。せっかく植え付けた立派な男のイメージを守りないならな。お前は称えられるべき人間なんだ〟

 そうだ、オレの王国の為にも、オレの偉大さの証明の為にも、あの子には立派な経歴を揃えてもらう必要がある。

 

 別の弁護士事務所を探すべきだろうか。

 成功報酬型の事務所もいくつかあたってみたが、どこも眼鏡に叶うものではなかった。

 ゴワディの事務所は、知人から親権問題に強いという事で勧められた。

 確かに、ネットで調べても評判は良く、戦績にも偽りはない。

 ゴワディの不遜な態度は気にくわないが、自信の表れとも思える。

 成功報酬型の事務所は「とにかく依頼が欲しい、契約を結びたい」という姿勢が見え隠れしていた。

 勝てなくては意味がないのだ。

 今更の鞍替えは意味がないと自分に言い聞かせた。

 ネットで検索した幹細胞治療は、予想通りの高額な費用だった。

 しかしそれは、あの子を取り戻した後で悩めばいい話だ。

 

「お前は、サッカー部のレギュラーで満足してればいいさ」

 そう呟いてオークションサイトのマイページで、自分のストックされたポイント残高をチェックした。カルヴァドスは切らしたくない。

 自宅に何か売れるような置物があったはずだ。貰い物だが、自分の趣味に合わなかったので、飾ることもなく、すぐ物置にしまったものだ。

 出品すれば、物好きなオークションユーザーが手を出すかもしれない。

 その売却ポイントを、カルヴァドス購入資金として充てれば、来月、口座に補充する額も少なくて済む。

 カルヴァドスの追加分を落札しようとして、職場のPCを使うのはマズいと思い直して手を止めた。

 

 インターホンをオンにして、秘書のクリスティーナを呼び出す。

 商品開発部に電話して「彼らの提案通りに事を進めてかまわない」と告げるよう指示した。

 先ほど、すでにメールでそう返信しているが、「大事な要件なので、電話で念押しするのだ」と告げたなら、クリスティーナは自分の出番が一つ増えたことに満足するだろう。

 田舎町出身で教養のない、それでいて自己顕示欲の強いつまらない女だ。

 クリスティーナの鼻につく大げさな喋り口調に付き合わされる、電話を受けた開発部の職員には同情する。

 目の前の安っぽいクリスタルのペーパーウエイトは、このオフィスに入居する時、彼女から出世祝いにもらったものだ。やはりこの部屋にはそぐわない。

 メールボーイか清掃係か誰かが持ち出したことにでもして、机の上から退席願おう。

 しくじる訳にはいかない、仕事も裁判も。

 そうだ、オレはもっと尊重されるべき人間なんだ。

 世間にオレの偉大さを、人とは違う人間なのだという事を見せつけねばならない。

 その為には、何とか金を工面して、ゴワディの所に請求通りの額を支払う。

 それしかないだろう。

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