☆ 第二章・バスケットボール宇宙 ☆


「マルロの自転車に荷台が付いていて良かったよ。ボクのにはないもんね」

 疾走する自転車では言葉が後ろに流れゆくので、マックスはマルロの耳元で声を張り上げた。

 修理の出来上がった自転車を受け取りに行くのに、マルロと近所で落ち合ったのは、街に緑が繁茂し始める季節の土曜日だった。

「ボクのために自転車屋へ行くんだから、ボクがこぐ」と、そうマックスは主張したのだが、マルロは譲らなかった。

〝きっと買ったばかりの新しい自転車だから、人にハンドルを触られたくないんだな〟とマックスは思った。

 もちろん、そのことでマルロをけち臭いやつだなんて思うことはなかった。

〝ぼくだって大事な何かを触られたくないコトってあるもんな〟、と。

 ただ傾斜のある道で、呼吸を荒くするマルロを見ると申し訳なく感じた。

 

 市街地へと向かう道路は車も少なく、快適に走ることができ、初夏の香りの風が、自転車にまたがる少年二人の髪を、時にかき上げ、時になでつけた。

 道の端にはたんぽぽが白い花弁を広げている。

 夏に向かうに連れ、光のシャワーは右肩上がりでその量を増していく。

 背の高いもの、低いもの、どの草木も限界一杯の数まで葉を広げ、少しでも多くの陽を受けようと、仁義のない陣取り合戦を繰り広げている。

 そんなに慌てなくても、これからまだいくらでも陽の光は量を増すのにね。

 数匹のアサギマダラが、熱を帯びた大気の中で、軽々とその身を躍らせていた。

 町の委託先の草刈り業者の、その職員のある者はため息をつき、ある者は闘志を燃やす、そんな季節が今年もやって来たのだった。

 街路樹のジャカランダの青々と天に伸ばした枝葉が、アスファルトに鹿の子模様の影を映し出す。

 その日陰に群れる羽虫が形作るカーテンを、2人の自転車は何度かくぐり抜けた。

 勾配のきつい道では、マックスは荷台から飛び降りて自転車を押し、頂きを越えたところで再び荷台に飛び乗った。

「2人分、こいで大変じゃない?」

「だから気にすんなって、朝飯前さ」

 高架下のトンネルをくぐる時に、マックスは真上を見上げた。

 そうすると天井のブロックの模様が、視界の下から上へと高速で流れて行き、不思議な感覚が味わえた。

 マルロにも教えてあげたかったけれど、今は危険なので、それはまた今度にしよう。

 最近、学校でいくつかの道路標識の読み方を習い、その中に『歩行者専用エリア』もあったのだが、そのエリアに差し掛かっても、自転車を降りる事なく、そのまま走り抜けようとした。

 警官の姿が目に飛び込んできた時、マルロはあわててブレーキをかけ、マックスもすかさず荷台から飛び降りた。

 いかにも「最初からここで降りるつもりだった」といった顔で、そのまま2人で並んで歩いて警官の脇を通り抜けた。少しだけドキドキしたけれど、警官から声をかけられることはなかった。

 『歩行者優先エリア』である以前に、まず2人乗りが禁止なのだが、普段、2人乗りは茶飯事だったので、そっちの方の違反はすっかり失念していた。

 警官の姿が遠ざかっても、自転車には乗らず、そのまま2人で並んで歩いた。

 マルロも少し疲れたのかもしれないし、それに、やはり荷台に乗っての漕ぎ手との会話は難しい。どのみち自転車屋は、もうすぐそこだ。

 

「発表会、何をやるか決めたか?」

「う~ん、特に何も・・」

 先週のランチの時間、デービッドの強く主張する声音を、2人は思い出していた。

「なあ、オレたちも何かやろうぜ」

 マックスたちの小学校では、学年度末に生徒でステージをやることになっている。何かパフォーマンスをしたい生徒は志願制で、特に希望がない生徒は自動的に、合唱か朗読劇に組み込まれることになっていた。

 昨年12月のウインターパーティでは、マイキーとエリンの2人組ヒップホップユニット『ザルツ&ブルク』が会場の喝采をさらった。目立ちたがりで負けず嫌いのデービッドには面白くない事態だ。

「あれには勝てないと思う、ふつうに合唱か朗読に参加した方がいいんじゃないかな?」

「それで、デービッドが納得するかだな・・」

 自転車の車輪のカタカタと鳴る音が、2人の少年の歩くリズムに伴奏した。

「そうだ、転校生の噂、知ってるか?」

「え、うそだ! だってあと2ヵ月で夏休みだよ?」

「いーや、これはガチの話だ。スニッキーの奴から直(ちょく)で聞いたんだからな」

 スニッキーは情報屋で、マックス達の小学校のあらゆる情報は彼の手元に集まった。

 本名はリッキーというのだが、『嗅ぎまわる(スニッフ)』のがお得意なので、みんなからはスニッキーの通り名で呼ばれていた。

 先週のある日の休み時間、裏手の駐車場から校舎に向かって歩いてくる女性と、彼女に促される少年の姿を、スニッキーの鋭い眼光は見逃さなかった。

 素早く1階へ駆け降りると、来客が校長室に収まるのを見届けて、扉の前に張り付いて聞き耳を立てた。途中、体育のゴールドスタイン先生が現れたが、たまたま通りかかったのだという素知らぬ風を装ってやり過ごした。

 スニッキーにとって朝飯前の演技だ。

 何人かの生徒は「スニッキーはCIAかFBIに行ける」と信じていたが、その為には、まずは5つ以上の教科をBプラスにし、高校卒業までにはA以上にもっていく必要があるだろう。

 

「どう考えても訳ありだよな。きっとすごいワルだな。何か問題を起こしたからこんな時期に転校してくるんだ、教室のカーテンを燃やすとかさ」

「ワォ、それじゃネッドよりひどいや・・」

 ネッドが教室のガラス1枚をぶち破った事件は、数ヵ月前のことだ。

 平穏無事に学校生活を送りたいなら、ネッドは関わらない方がいい相手だ。

 いや、『目をつけられない方がいい』と言い換えるべきかもしれない。

 ネッドとその取り巻きが廊下を歩く時、他の生徒たちは端へよって、その通り道を空けなくてはならなかった。ただ一人、アメフト部のキャプテンで、4年生の時点でタックル制限をかけられたアーロンだけが、すれ違いざまにハイファイブ(ハイタッチ)をする事を許されていた。

 (※安全の為、体格が大きくなり過ぎた生徒は他の子へのタックルが禁止される)

 真偽のほどは定かではなかったが、教師に暴行したという噂もある。

「学校はネットニュースに載るような大事にしたくないんだ」「暴行を受けた先生に訴えたりしないよう我慢させているらしい」「もみ消しってやつだよ」といった流言を何人かの生徒は信じ、「ありえるぞ」とうなずきあっていた。

 2年前まで、小学校を牛耳っていたのはネッドの兄貴で、ネッドに受け継がれたその基盤により、在校生にとっては途切れることのない圧制が悪夢のように続いていた。

「ワルっていうのは冗談さ、本当は日本人でかなりチビらしい。からかって遊ぼうぜ!」

「駄目だよ! そんなことしたら!」

「わかってるって。それも冗談だ。それよりもマンガを借りようぜ。マンガの国から来るんだ。きっと沢山持ってるに違いない」

〝まだその子の顔も見てないのに気が早いな〟とマックスは思ったけれど、特に反論はしなかった。マルロの言う通りマンガを借りれるなら、マックスにとっても大歓迎だ。

 仮にその子がマンガを持っていたとしても、それは日本語版である可能性が高い、という事に2人はまだ気づいていないのですね。

 

「それよりも当面の問題は調印書だな」

「うん、そうだね」

 マックスとマルロのM同盟と、デービッドとダニエルのD同盟は、最近、協定を結び、その調印式を近く執り行うことになっていた。

 そんなことをしなくとも、これまでも学校では大体4人で一緒にいたのだけれど、小学校から中学へと進学するのを前に、区切りのようなモノが必要だと、4人の内の誰かがそう言いだしたのだった。

 そしてその調印書は、発案からだいぶ経つにもかかわらず、遅々として仕上がってなかった。

 

「またかよ!LL」

 デービッドが、いつものようにダニエルをなじった。

「仕方ないんだよ・・、家のプリンタが調子が悪いから・・」

「本当なんだろうな? もし嘘だったら承知しねーぞ!」

「本当だよ、本当に本当だって・・」

 ダニエルのフルネームはダニエル・L・ウッズといい、名前にLが2つ含まれているのと、ラストネームがウッズであることから、何人かの生徒から(主にデービッドだが)、LLやXLと呼ばれ、そこには『図体のでかい木偶の坊』という意味が込められていた。

 条文の草稿は4人で話し合って決めていて、書記役を担ったマックスが紙に書き記した草稿をダニエルに渡し、家のパソコンでタイプし、プリントアウトする手筈になっていた。

 当初は、手書きの調印書を作成するつもりでいた。教科書に載っていたジェファーソンの流麗な筆致による宣言書に魅せられていたからだ。

 だけれども、自分たちの拙い文字では同じようなものは作れないとすぐに思い知らされ、むしろプリントアウトの方が貫録がでると意見を翻すのに時間はかからなかった。

 そしてスティーブ・ジョブズのおかげで、最近のPCには流美なフォントが揃っている。

 タイプする役割は、条文の内容を考えるのに一番貢献していなかったダニエルにあてがわれたが、タイピングが面倒な3人がダニエルに押し付けたのが、その実でもあった。

 マックスもマルロも、その後ろめたさがあったので、ダニエルを責めることなく、逆にデービッドに取りなした。

「プリンタって、時々、調子が悪くなるもんだよね・・」

「そうそう、装置トラブルじゃあ、仕方ないって・・」

 それでも、デービッドは納得しかねるという表情を崩さなかった。マックスとマルロも、責められるダニエルに同情もしたが、首尾よく使命を果たせない彼に、もどかしさも感じた。

 何にせよ、調印書を間に合わない事には、話が進まない。

 

「どーする、ダニエルの家に行って手伝うか・・? あいつきっとまだ一行もタイプしてないぜ」

「う~ん・・、それもなぁ・・」

 そういった地味な作業よりは、やはり放縦に遊んでいたかったし、ダニエルの家のちょっと暗い雰囲気も、二の足を踏ませる原因になっていた。

「マルロの家に行って、お父さんのパソコンでタイプさせてもらうのはどうかな?」

「それをやると、またデービッドが『タイプはお前に任せていたはずだ!』って怒るだろう? それにやっぱり面倒臭いし・・」

「でも、やっぱり助けてあげようよ、デービッドもしびれを切らしてるよ」

 マックスに促されて、マルロも気乗りしないながらもその案に同意した。

 しかしそれには問題が二つあって、一つはマルロの家のプリンタが、これは本当に最近よく誤動作を起こすという事。

 解決法として、タイプを終えた調印書のデータをUSBメモリでダニエルに渡す。ダニエル宅のプリンターが本当に調子が悪いのかどうかは、状況に委ねよう。

 2つ目の問題は、この前、マルロが自身の手持ちのUSBメモリを水没させて駄目にしてしまっていたことだ。

 情報教育の課題を持ち帰る為に、学校に持ってきたマルロのUSBメモリは、休み時間のふざけ合いで、はずみでマルロの手から飛び出し、マックスの目の前で教室で飼育している金魚の水槽へと放物線を描いた。

「メモリは、まあ兄貴のをこっそり借りるしかないかな」

「バレたら怒られない?」

「控えめに言っても、殺されるな」

 心配気にマルロの瞳を覗き込むマックスに、マルロはウインクしながら笑顔で答えた。

「心配すんなって、いつも乗り切ってるさ」

 本当はダニエルがタイピングしたのではないのだと、鋭いデービッドは何かを感じ取るかもしれない。それでも疑いの視線は向けるものの、それ以上の追及はしてこないだろうとマックスとマルロは予想した。

 一瞬、〝博士ならUSBメモリもパソコンも貸してくれるんじゃないかな?〟と考えたけれど、博士とのことをマルロたちに話すのも気が引けたので、その考えは引っ込めた。

「絶対に夏休み前に調印式を済ませるぞ、その後にインディアンプラットフォームへ行って誓いの儀式だ」

 デービッドの勇み立つ声が、2人の耳の中でリフレインした。

 

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 自転車屋の店主は胴間声で太鼓腹の男で、およそ自分で自転車を漕ぐタイプには見えなかった。

 太鼓腹の中身はビールで、お店の裏には空になったビンビールのケースが数段積まれている。赤らんだ顔の上には、更に赤い酒さになりかけた鼻が乗っかっており、吐く息も少しアルコール臭を帯びていた。

 それでも店の評判は悪くないので、飲む時間と仕事の時間はちゃんと分けているのだろう。

 店主はマックスの顔を憶えていて、向こうから先に声をかけてきた。

「よお、来たな、仕上がってるぜ」

 自転車は修理されていただけでなく、整備と掃除もされていたので、前より新しくなったように見えた。

「しかし、これだけひどいダメージで、坊主はよく無事でいたもんだ」

 確かにすごい事故だった。

 マックスが海岸沿いの車道を走っていた時、ある対向車が側方の幅を十分とらぬまま接近してきた。脇を通り過ぎた時の風圧に煽られて、自転車は車道をそれ、斜面を転がった。

 いくつもの低木にぶつかりながらも、それでも何とかハンドルを握り続け、バランスを保ち、自転車のタイヤは斜面をとらえ続けた。横転はしなかったが進路の先に鉄柱があり、そこに正面から衝突してマックスの体は宙に投げ出された。

 そして自転車のフレームがひしゃげたのだった。

 

「スポークを折って修理に持ってくるヤツはたまにいるけど、まさかこの部分がひしゃげるなんてなぁ、ほんと俺には奇跡としか思えないね・・」

 衝撃で歪んだ前輪は新たなものに交換され、加えてへこんでしまったフレームのハンドルとの接合部を整形する必要があった。そのへこみのせいでハンドル操作に抵抗があったからだ。

 その整形された部分に、塗装もほどこされていた。けれど、完全に車体と同じカラーには出来ずに、やや浮いた色合いになっていて、自転車屋の主人はそれを詫びた。

「いいんだ。事故の記念の色にするから」

「そうかい、悪いな。いやしかし本当に普通なら骨の2・3本折れてもおかしくない所なんだがなあ・・」

 

 今、思い返してみても、自転車から投げ出されて、体が宙に舞った時間を長く感じる。店主の言う通り大ケガをしてもおかしくなかったけれど、節々は痛んだものの多少のすり傷を負っただけだった。

 でも何故だかそれが、当たり前のことのように思えた。

〝子供って、どんなことがあっても死なないんじゃないかな・・?〟、と。

 突然、宇宙船が目の前に着陸するのと同じくらい、子供とっては大怪我や死ぬ事は、現実感の乏しいものだった。

 

 一度車道まで這い上がり、助けを求めようとしたけれど、マックスを煽った車はそれに気がつかなかったのか、止まる事も、戻ってくる事もなかった。

 その後、新たに車が通りかかることもなかった。

 そこで仕方なくまた下まで降りて、壊れた自転車を何とか車道まで押し上げた。

 ひしゃげて回転しなくなった前輪を持ち上げながら、もうこぐことの出来ない自転車と、節々に痛みを感じる体との、それら両方を引きずりながら家路についた。

 トボトボと歩くマックスの脇に、やっと一台の車が止まり、ドライバーが「何かトラブルかな?」と声をかけてきた。

 それが博士だった。

 

 修理がやや大掛かりだったので、費用はかかったけれど、予め大よその値段を聞いていて、それに足りる分のお金を母親から預かっていた。

「学校、どうだい、面白いか?」

「うん、まあね」

 お酒の臭いをかわしつつ、適当に返事をした。

 大人ってどうして子供に意味のないコトを、色々聞いてくるんだろう?

 支払いをして、店主に手を振って自転車屋を後にしても、サドルには股がらず、しばらく2人で並んで歩いて話をした。

「マルロは進学(オナー)クラステスト、どうだった?」

「どうって、いいわけないだろ。中学校は普通(レギュラー)クラスで決まりだよ、まあ元々そのつもりだったから別にいいんだけど・・」

「しけた話すんなよ」と、さらに言葉を継ぐマルロには謝るしかなかった。

 確かにそうだ。考えたくない問題は、今は無理に考えなくてもいいだろう。

〝お母さんは、何て言うかな・・?〟

 きっと大学には進学して欲しいはずだ。

〝職業選択と同じで、お母さんがぼくに行かせたい大学ってあるのかな?〟

 将来の職業も、きっと大学に進学するかどうかも、それ以外にも最近はいろんな事が、マックスと母親との間で噛み合わなくなってきていた。

 

 自分から「しけた話はするな」と告げたマルロだったけれど、進路のことはやはり気にしているのか、しばらくすると自分から話を振ってきた。

「兄貴はさ、親父から『中学を卒業したら近くの高校に行って、家の内装業を手伝え』って言われてる。多分、オレにも同じこと言いたいんだと思うな・・」

 マックスに顔を向けることなく、遠くを見ながらマルロは言った。

 父親も兄も嫌いではない、でもずっと顔を突き合わせて仕事をするのは嫌だし、他の街にも行ってみたいのだ、とマルロはそう言った。

 

 調印書の条文を記した下書きの内容は、完全には憶えていないので、ダニエルの所へ、下書きの紙を取りに行くことにした。

「世話が焼けるよね」

「まったくだ」

 ダニエルにタイプを押し付けた事も、自分たちが草稿の内容を憶えていない事も棚に上げて、2人はぼやいた。

 ダニエルはいつもデービッドになじられている。それも仕方のないことのように思えた。ダニエルはいつもドジでみんなの足を引っ張っている。

 口にこそ出さなかったが、マックスもマルロも心の中では「確かにLLのウッド(木偶の坊)だよな」と思っていた。

 クラスの中でも活発なキャラクターのデービッドが、ダニエルなんかを同盟相手に選んだのは意外に思える。

 携帯ゲームの通信機能で、友達同士がゲーム上で使うアイテムを交換できる。4人でもよく、そうして遊んでいた。

 以前にデービッドがダニエルから、詐欺同然にアイテムをだまし取った事があり、さすがに「それはひど過ぎる」と、マルロと2人でデービッドに抗議した事があった。

 デービッドはしぶしぶ、アイテムを返したけれど、その後の雰囲気は気持ちのいいものではなかった。

 それでもブレンダンマートでダニエルが万引きを疑われた時、彼を一番に庇ったのはデービッドだった。

 店内カメラをチェックした店長が、他の子がいたずらでダニエルのカバンに防犯タグの付いた商品を放り込んだ映像を見て逆に疑ったことを謝罪し、事なきを得た。

 店長に映像をチェックするよう、しつこく食い下がったのはデービッドだった。デービッドには、ダニエルを放っておけない何かがあるのかもしれない。それは2人にも感じ取れるような気がした。

 D同盟の結束は、その見た目以上に強固なようだ。

 M同盟の方はどうだろうか。

 

 しばらく無言で歩いていた時に、不意にマルロがたずねてきた。

「ところでさ、お前が知らない人の家に出入りしてるって本当なのか?」

「うん、本当。でも問題ないよ。いい人だし、危ないことなんか何もないよ」

 そう答える声が、自分でも慌てているのが気がついて、何か勘繰られるんじゃないかと内心でドギマギした。

「そうか、ならいいんだ」

 マルロは意に介してない風で、一言そう言ったきり、その後は何もたずねて来なかった。

 言葉通りに受け取ってくれて、余計な詮索などしないマルロのそんな所がありがたかった。

「なあ、ダニエルの家に行く前にさ、その金でスタンリーの店に行って、何か買い食いしないか?」

 スタンリー雑貨店は、その一画にスナックやチョコバー、ちょっとしたジョークグッズといった子供が喜ぶ商品の棚が設けられていた。

 放課後に覗くと、誰かしら知った顔に出くわす、子供たちの小さな社交場だった。

「お前は見込みがあるな、高校生になったらバイトに雇ってやるぞ」

 店主のスタンリーは、訪れるほとんど全ての子供に同じ言葉を投げかけていた。

 マルロとは普段から、お菓子やジュースをおごったり、おごられたりしているので、たかられている感じはしなかったけれど、今日のこのお金は修理のために母親から預かったものだったので、使うのがためらわれた。

「ちょっとだけならバレないって。な! 行こうぜ!」

 でも期待に輝く瞳のマルロに、すげない返事をするのも嫌だったし、実のところ、マルロの『スタンリーの店』という言葉を耳にした時点で、マックスも大いにその気になっていた。

 ただ悪い誘いに簡単に乗るヤツと思われたくなかったので、しばらく迷っているフリをしてみせたのだった。

 マルロが痺れを切らすまでの、そのタイミングはよく判っている。何しろ親友なのだ。

 ちょっと意地悪をして、ギリギリまで引っ張ってから返答した。

「よし、行こうかスタンリーの店!」

 マルロの目を見てそう告げた。

「それでこそお前だぜ! マックス!」

 悪だくみの提案主は破顔一笑。

 2人の少年は前輪を持ち上げて車体を反転させ、助走して勢いをつけると、同時にサドルに飛び乗った。行く先、変更だ。

 

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 今日、学校で習った内容をさっそく披露した。

「アメリカの人口は3億2千万人なんだって。一人ずつから1ドルもらっても3億ドルになるね!」

 博士は、この日は特に書き物の仕事もないようで、リビングのソファに並んで腰を下ろし、時間一杯マックスと付き合ってくれた。

 グラスの本日のフレーバーはヨモギと緑茶のブレンド。

 修理から上がった自転車でやって来たので、走って通っていた前回まで程には、体は熱を帯びていないはずだったけれど、それでも氷はグラスいっぱいまで満たした。

 汗が中々引かないマックスを見て、博士はタオルを貸してくれた。

 紅茶は既製品だったけれど、ヨモギは博士自身の摘んで加工したお手製だった。

 昔の人はヨモギの葉をすり潰して傷薬として使っていたのだと、博士は教えてくれた。

「3億ドルなんて、大した額じゃないよ。それじゃ何もできない」

「じゃあ博士、3億ドルもってるの?」

「・・・」

 しばらくの沈黙の後に、博士がおもむろに答えた。

「・・いや、持ってない・・」

「ほらあ!」

 得意げに顔をほころばせる少年に、国家予算の話をするのは野暮だろう。

 それでも余計な一言がつい口をついて出てしまった。

「それで君はアメリカ中を廻って、一人々々から1ドルずつもらうつもりなのかい?」

 今度はマックスが黙る番だった。

「子供の浅知恵だったね」と追い討ちしかけそうになって、すんでの所で口を慎んだ。この話題は早目に切り上げた方がよさそうだ。

 最近、世に現われたクラウドファンディングについて語るのも、今は避けておこう。


「宇宙に飛び出すには、重力を振り切るだけの推力が必要となる訳だが・・」

 前回のマックスとの会話の中で、博士はネット上に発表された新しい解釈の重力論を改めて読み返してみたのだそうだった。

「その重力(gravity)の語源は、ラテン語の重さ(gravis)からだ。でもむしろ地面(ground)に引き付けられる力と考えた方が、自然にイメージできるのではないだろうか」

 実際には地面、つまり地球だけでなく、全ての物質はお互いに引き合う力を持っている。ただ地球は我々のもっとも近くにある、もっとも巨大な物質なので、その引力が一番強く感じられ、地面が物体を引き付けているように見えるのだ。

「テーブルとソファもお互いに引き合ってるし、私と部屋の壁も引き合っている。きみとケイトの間にも引力が働いて、お互いに引き合ってるんだよ」

「ぼく博士の前でケイトの話なんかしたかな・・?」と、マックスは独りごちた。

 

『エナジープレス重力論』

 博士がホワイトボードにマーカーで記したその理論を、ネット上に発表されただけで、学会の正規の論文ではないのだと、博士はそう前置きした。

 そして、従来の重力論を否定するその内容は、科学者たちにとっては噴飯モノであるのだそうだった。

「アインシュタインが『E=mc2』を世に著わしたのは、今からもう100年以上も前のことだ。これは物質がエネルギーの塊である事を示した公式だが、しかしこの『エナジープレス重力論』では、それが誤りであると述べている」


●実は物質は毎瞬々々、空間からエネルギーの供給を受けて、その存在を保っている。

●供給した分、その空間のエネルギーは瞬間的に減少する。

●これにより周囲の空間との間にエネルギーの差が生まれ、周囲からエネルギー密度の圧力を受け、それは空間と物質の両面に作用する。


「判るだろうか? 物質の側面だけを見ると重たい物質は大きな重力を持っていて、それが周囲の物質を引き付けているように見える。しかしこの理論によるとそれは正反対で、重たい物質は逆に周囲から押し付けられている、と述べているんだ」


●この空間から物質へのエネルギー供給は毎瞬々々行われており、エネルギーの密度差も毎瞬々々発生しているので、物質はあたかも重力を持っているように見える。

 

 博士は一旦話を区切ると、マックスの表情を見やった。

 そこには、内容が理解に及んでいないという表情があったものの、もうしばらくだけ理論の説明を続ける事にした。次の段階こそが、この理論の本丸だ。

  

●宇宙の背後には〈無限のエネルギー供給源〉が在り、それが〈空間の相〉→〈物質の相〉へと伝わる事で、時空が生まれ続け、そこに物質が存在し続けている。

  

「つまり宇宙がエネルギーの塊で、そのエネルギーが物質を生み出し、その差分が重力の正体だと言ってるんだ。どうだい、どうにも大胆な理論だと思わないか?」

 そこまで熱弁を振るってソファーに目をやると、そこにトロンとした目つきのマックスの姿を認めた。

 このまままどろみを妨げずにおくべきか、少し迷って、やはり声をかけることにした。

「眠たいかい?」

 はっと顔を上げたマックスが、すぐにかぶりを振って「ううん、大丈夫」と答えた。

 マックスが眠気に捕らわれたのは、単に話が難しかったからだけではない。最近ぐっすりとは眠れていないからだ。

 昼間、教室に居る時も呼吸が浅く、体は倦怠を負っており、博士の前で船を漕ぐのも今回が初めてではなかった。

「本当に大丈夫だよ、重力の話って難しいから眠たくなっちゃった!」

「そうなのかい?」と怪訝そうでたずねる博士に、マックスは「顔を洗ってドリンクのお替りを取って来るね」と言って中座した。

 

「あるいは、このように考えてみると面白いかもしれない」

 グラスを片手に戻ったマックスの顔を正面に捉えて、博士の講義が再開された。

 地面に水平に設置されたドラムの、一方の端を早いリズムで叩き、その反対を遅いリズムで叩く。ドラムの中央に豆を置くと、それは遅い方へと転がっていく。

 遅い振動の側が豆を引き付けているのではなく、高い振動が豆を押しやっているからだ。

 

「空間において、エネルギーは密度を均一にしようと働き、そこに在る物質は、それに沿って落ち着く場所を決める」

 立ち歩いて眠気がとれたマックスは、しっかり話を聞いて理解に至るべく気合を入れた。

「バスケットボールの中を想像して欲しい。ある1ヵ所だけ空気の密度が高くなるということはあり得ない。内部では常に空気の密度を均一にならそうとする力が働いているからだ」

 宇宙もバスケットボールと同じで、内部のエネルギーを均一にならそうとする作用が働き、その作用が重力を生み出し、物質の落ち着き先を決定している。

 それがこの『エナジープレス重力論』の骨子だった。

 

 バスケットボールの中は常に均一の圧力を保ち、人間がボールをぶつけたりしない限りは、その内部空間は安定している。

 単にエネルギー的な安定を保つ為ならば、密度の偏りを生むような物質を顕現させないのが一番よいはずだ。

 しかしこの宇宙においては、どういう訳だかエネルギーの偏りは必ず生じて、その偏りが物質と重力を生み出し、星々を生み出し、生命を誕生させ、我々の住まう世界を形作っている。

 「宇宙空間は媒介物で満ちている」という過去に否定されたエーテル理論を、この『エナジープレス重力論』は拾い上げ、エネルギーがぎっしり詰まった空間が宇宙の正体であり、それは圧力や物質を伝播し、リレーする作用があると述べている。

 のみならず、その背後にある無限の供給源からエネルギーが常に流れ来ている、とも。

 原子内部で、電子がエネルギーを失う事なく軌道を周り続けるのも、核子内で中性子が陽子を繋ぎとめるのに要するエネルギーも、その供給源からのエネルギーで維持されているのだと、『エナジープレス重力論』は述べていた。

 科学者たちが笑止の理論だと、無下に扱うのも無理からぬ事だった。

 

「その無限のエネルギーは、いつかはなくなっちゃわないの?」

「さあ、どんなんだろう。従来の理論でも、いずれ宇宙は『熱的な死』を迎えるとされていた。この『エナジープレス重力論』では〈無限の供給源〉からのエネルギーがあると説明されているが、どこまで無限なのかは語っていないし、それは提唱者にも誰にも判らないだろう」

 不安がるマックスを見て、博士はこう言葉を続けた。

「この理論は、まだ仮説に過ぎない。宇宙が熱的な死を迎えるのも、どれくらい先の未来なのか判っていない。その前に太陽内の水素が全てヘリウムに核融合してしまって、太陽は寿命を迎える。その太陽の死にしても数十億年先だから、我々は何も心配する事はないよ」

 それとも東洋の経典に『不増不減』とあるように、〈無限のエネルギー供給源〉は、枯渇する事はないのだろうか。

 この宇宙に物質を現し続けるエネルギーのシステムが露わになった時、その時こそ人類は宇宙の真の姿を知るのだろう。

 マックスの頭が一杯なのを見て取って、この理論の触れる『物質が空間を移動する際のエネルギー供給源のリレー』、『光速不変はエネルギー密度を渡る時の終端速度』、そして『光はエネルギー相では波となり、物質相では粒子として観察される』といったトピックの説明は割愛する事にした。

 

 数十分前、通り雨があって、おかげで気温が少し下がったように感じた。

 雨の少ないこの州でも、地形と海からの風の関係で、この町には時々通り雨が地面を叩いた。それでも5月の雨は稀だった。

〝そういえば、マックスと初めて出会ったあの日も通り雨があって、彼の衣服は少し濡れていたっけ・・〟

「眠気覚ましに少し外を歩かないかい?」

 素直にうなずくマックスと連れ立って、玄関ポーチのかまちを下った。

 庭先のインセンスシダーの枝が風に揺られ、まとった雫をパラパラと地面にこぼす中、二人は土を踏んだ。

 

 敷地の庭の中も十分に興味深い植生が広がっていたが、更に足を伸ばして海岸線沿いに十数分歩き続け、カリフォルニアポピー(花菱草)が群生する一帯にたどり着いた。

 元々のオレンジ色が、西日になりかけた光に照らされて、その彩(いろどり)を相乗させ、オレンジの花弁だけが地面から浮き上がっているように見えた。

 それは陽の光が翳り行き、宵闇へ移り行く気配の中で、少し寂し気にも感じた。

「あそこを見てごらん」

 博士の示した方角に、海からせり上がった白い岩肌の断崖が見えた。

 太陽光が、ここにもオレンジを投射し、岩肌のところどころを染めて、白とオレンジとの斑模様のスクリーンを描いていた。

「あの白は石灰岩の色で、ここら辺は石灰質の地層なんだ」

 石灰岩はおしなべて、太古の生物の死骸が積み重なり、圧力を受けて固まったものだ、と博士は説明してくれた。

「生物って恐竜とか?」

「うん、恐竜や哺乳類や、そういった生物の骨や骨格にもカルシウム分が含まれるが、石灰岩の成分のほとんどは、放散虫や有孔虫といった海に棲んでいた微生物の死骸だよ」

 そういった微生物の体の成分であるカルシウムが炭素や酸素とつながって、数千万~数億年分も積み重なって石灰岩となるのだった。

 しばらく歩いて気血が巡ったのか、マックスの頬は血色を取り戻していた。

「そして地球の地下深くのプレートの動きが、石灰岩の地層を北米大陸の東側に押し付け、その地層が隆起してこの一帯に石灰質の土地が生まれたんだ」

 目の前のカリフォルニアポピーが、これほど一面に咲き広がっているのも、それが石灰のアルカリ質の土壌を好む植物だからだ。

〝昔、お父さんからも、こんな風に自然や科学の話を聞いたことがあったな・・〟

 今は、別の大人の男の人と一緒に歩いて、別の話を聞いている。

 大人の大きな手が肩に乗せられていないのも、昔とは違う所だ。

〝乗せてくれてもいいのにな・・〟と、マックスは思った。

 

 夕方の時間には珍しく、ミツバチが一匹、巣に帰る前の最後の収穫を求めてカリフォルニアポピーの花弁に潜り込んでいた。

「こうして野原を歩いていると、自然の妙味を感じずにはいられないよ」

 散策に出発した時より、さらに2人の影が長く伸びていた。

 

「惑星は大きく岩石惑星とガス惑星の2つに分けられる、地球は岩石惑星だ」

 岩石は生成過程もその組成も様々だが、概ね地球内部のマグマが表層で冷えて、分子を固めたもので、つまり熱と圧力の落とし子と言える。

「岩石が砕けて小さくなったものが石となり、それがさらに細かく砕けたものが砂となる」

「じゃあ砂がもっともっと細かくなって土になるの?」

「いや、そうじゃない。土の成分の大半は枯れた植物の組織が堆積したもの。つまり植物の死骸なんだ」

「じゃあ、石灰は生き物の死骸で、土は植物の死骸なんだね」

「そうだね、植物から作られた土が、またそこに新たな植物を育てるんだ」

「それじゃあ、最初の植物は土がないのにどうやって育ったの?」

「いい質問だね。菌類や藻類といった土がなくても岩にくっついて育つ生命もあるんだよ。それらが最初の礎(いしずえ)となって、更に進化した植物が育つ環境を整えたようだ」

 生命の乏しい砂漠地帯にも土を生み出し、樹々が育ち、鳥や獣の集うオアシスを広げることができたなら、この世界のいくつかの問題は解決するのかもしれない。

 

 植物は太陽光の変換装置だ。

 受け取った太陽の光、つまり電磁気エネルギーを分子間の結合エネルギーへと変換させる。

 その結合エネルギーを利用して、植物の内部では、子供がブロック遊びをするように、原子・分子をくっつけたり離したりしてアミノ酸や脂質といったより大きな分子の塊を作り出し、植物自身の成長や生命維持活動に利用している。

 動物はこの植物が作った分子の塊を口に入れ、消化・吸収のプロセスを経て、また別の分子の塊に組み替え、それを使って体の組織を形作り、活動のエネルギーにしている。

 つまり動物も植物も遡ると、太陽からの電磁気エネルギーによって、その体が作られ、活動する事が出来ている。

 

 太陽が宇宙空間へ放出する電磁気エネルギーの内、地球に届くのはわずか22億分の1。

 その22億分の1のエネルギーによって、この地球上の全ての生き物が生かされているのだった。

 一方で、岩石といった生物以外の分子ブロックの塊は、何万年もかかって地球内部での圧力、つまり重力のせめぎ合いによって発生した電磁気エネルギーで、そのブロックを結合させている。

 風や水の流れ、生物の筋肉の動きや、成長の為の細胞分裂、神経を伝達する電気信号も、全ては電磁気エネルギーの及ぼすプラスとマイナスがくっついたり離れたりする現象によって成り立っている。

「だから私たちの目に映る景色の全ては、太陽から届く電磁気エネルギーと地球の重力エネルギーによって形作られたものだ。つまりは電磁気と重力の共作・共演という訳だね」

 

 テラ。

 ラテン語で大地・地球を表わす言葉は土の意味も併せて持っている。生命の死骸が育む新たな生命の場。命が不断に現れ発展していく星。それがこの地球・テラなのだ。

 そして地球に最初の生命が誕生してから、途切れることなくその営みが続いている。

 実はプラスチックも、炭素・酸素・水素といった基本的な原子からできており、それは人間が工場で人為的に組み合わせたものだ。

 同じ基本的な原子であっても、植物や動物の体内で組み合わされると、人間が作ったものとは違う有機体と呼ばれるブロックの塊になる。それらは生命の素材であり、工場で生み出される品とは違う『生きた何か』になるのだ。

 

 マックスの瞳をまっすぐとらえて、博士は告げた。

「何かが、生命の存在を必要としているんだ」

「・・何かって、神様ってコト?」

「うん、どうなんだろうね、宇宙に時空を存在させ、物質を存在させ、生命を生み出した存在。その存在が〈魂〉を生命に宿らせ、我々に何かを成し遂げさせようとしているのかもしれない・・」

 そして宇宙はその為に作られた広大な、人間・〈魂〉にとってのステージなのだろう。

 やはり偶然にはこれだけの生命の発生・発展のシステムは誕生しないのではないだろうか。

 なにかしらの意思が働いていると、宇宙に起こる現象の全ては、生命は発生させる為のお膳立てであると、そう思えてならない。

 それを司っているの者を神と呼ぶのなら、そうなのだろう。

 

 数か月前、まさに今歩いているこの場所で、まだ少し陽の残る中で、フクロウが狩りをする様を目撃した。

 フクロウは他の鳥類と違い、先端がギザギザした形状の羽を備えている。この風切羽による滑空が、空を切る時に発生する小さな対流を打ち消し、そのおかげで音を立てぬまま獲物に近づくことができる。

 この狩りに有利な風切羽を偶然にも持っていた個体が多く生き残り、交配を重ねた結果、全てのフクロウがギザギザの風切羽を持つ生物へと淘汰されていったのだろうか。

 そうは思えない。

 やはり知性を持つ何かが、生存・進化の為に、この風切羽をフクロウに与えたのではないだろうか。

 あのイッカクの角にしても、従来の学説だけでは説明しきれない何かが感じられてならない。まるで何者かが戯れでデザインしたかのような気がする。

 

 大いなる知性を持った存在が、人間をこの形の生命体に導いたのだろうか。

 生命の最終的な結実が、我々人類なのだろうか。

 進化の旅路の到達地が、我々人間なのだろうか。

 それとも、まだ長い揺籃期の途上にあるのだろうか。

 

 人類は数千年の長い苦闘の歴史を経て、ようやく民主主義を手にする所までこぎ付けた。

 しかし一度は克服したかにみえた貧困や差別が、また新たな鎌首をもたげ、世界を覆い始めている。これは一時の揺り戻しなのだろうか。

 それともこのまま民主的政治制度は形骸化してしまい、世界はまた苦悶の歴史の中に沈んで行くのだろうか。

 子供たちに、そんな希望の少ない世界を手渡すことになるのだろうか。

 

「今度、面白い映像を見せてあげるよ」

「どんな映像?」

「流氷で覆われた海に一本だけ通り道ができていて、その両方からイッカクの群れがやって来て鉢合わせしたんだ」

「うん、それで?」

「しばらくお見合いした後に、群れは合流して、ある一方へ泳ぎ出したんだ。おそらくお互いの情報を交換し、より可能性のある方へみんなで進む事にしたのだろうね。あの長い角で相手の群れを排除したりはしなかった」

 海生哺乳類でさえ、話し合いが出来るのだ。人間が角を突き合わすのでなく、言葉で折り合いをつけられる、そんな世の中が実現不可能ということはないだろう。

 まだ、その途上だとしても。

 生命発生の可能性のある惑星・系外惑星は数千億も観測されている。

 この地球と同じに、重力も大気組成のバランスも、内に抱えた水の量も、生命を発生させるための奇跡の条件を満たした惑星は存在するのだろうか。

 そこで進化した知性体も、我々と同じように他者との関係や、思想・政治システムで悩んでいるのだろうか。

 

〝この子と出会ってまだ1ヵ月ほどしか経っていないのだな・・〟

 壊れた自転車を車のハッチバックへ積み込み、助手席へ収まった少年の横顔はうつらうつらしており、それは当然、事故のショックなのだろうと思っていた。

 少年が、この老研究者の隠遁所に通って来るようになってからも、時折、焦点の合わぬ遠い目をし、表情に影が差す様を見ることがままあった。

 父親を亡くしたことを乗り越えられないのだろうか。それとも、中学への進学が近づいてナーバスになっているのだろうか。

 それともナーバスになっているのは、本人以外の誰かだろうか。

 一度、親が知らない他人の家に来るのは大丈夫なのかとたずねてみたことがある。この町での自分の評判が芳しくないことも自覚していた。それは単に田舎町が排他的だから、という訳でもないようだった。

 

「あそこでは、今日飲んだヨモギ茶のヨモギの葉が多く取れるんだ」

 散策から引き返す途上、自宅の近くの一画を指さして博士が述べた。

「摘んでいくの?」

「いや、ヨモギはまだ十分にあるし、ハサミも持って来てないしね。また今度にするよ」

 

 以前、悲しそうな声で「ここに来ちゃダメなの?」とたずねられた時、すぐには言葉が返せなかった。

 マックスの母親に挨拶に行く。せめて電話だけでもするべきなのだろうが、そのタイミングは逃し続けている。その無精が思わぬ落とし穴になっていないかと危ぶんでもいる。

 でも本当にそうだろうか?

 母親への連絡を先延ばしにしているのは、出入り禁止の言葉を、その一言を聞く瞬間を、なるべく先に置いておきたいからではないだろうか。

 

「さっきの話。いずれは無限からの〈空間の相〉へのエネルギーの流れも解明されるだろう。そうしてエネルギーの圧力差がコントロールできるようになったなら、君たちの好きなアレが発明されるかもしれないよ」

「アレって?」

「UFOだよ」

 外の空気を吸って、景色を見て気分転換が図れたのか、マックスはいつもの元気な少年に戻っていた。

 更に元気つけようと興味のある話題を提供したつもりだったけれど、マックスは指を鼻の頭につけて伸ばすジェスチャーを見せた。つまりピノキオ、嘘つきの意味だ。

「博士、無理だよUFOなんて」

 得意げにそう告げるマックスの表情が、その遠慮のなさが、逆に安心できた。

 子供が誰しもUFO話に飛びつく訳ではない、というのは誤算のその2として憶えておこう。

「しかしね、200年前の人間に『未来では空飛ぶ乗り物があるんだ』なんて言っても信じないだろう。それと同じに今の我々が『そんなのは無理だ』という事も未来には実現可能なんじゃないだろうか」

「だったら博士、宇宙エレベーターだって、未来には実現可能なんじゃないの?」

「確かにそうだ・・、これは一本取られたね」

 

 路面を濡らした通り雨も、もう乾いており、自転車をスリップさせることもなさそうだった。そしてこの時間なら、まだ陽が十分な内に自宅に戻れるはずだ。

 早目にポーチの電灯を点して、自転車にまたがりハンドルを取りまわすマックスを見守った。

「気を付けて帰るんだよ」

 少年は自転車を大きく旋回させ、片手を離して博士に向かって大きく手を振った。

 博士も玄関のポーチから、お別れの手を振ってそれに応えた。

「ここに通って来て欲しいのは、私の方なのだろうな・・」

 遠ざかる背中を見つめ、そっとつぶやいた。

 大人が子供にしてやれることは少ないのかもしれない。

 子供はいつだって、自分の力で答えに辿り着かないといけないのだろう。

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