心に燻る炎

 咄嗟に反応できずに呆然とする俺の腰に両腕を回して、顔を胸より少し下辺りにうずめる晶。


「――っ…………すぅ〜……はぁ〜…」


 そしてなんか……そのまま深呼吸……してる?


「……んぅ」


 そんでもってちょっとエロい雰囲気の呻きが聞こえてきて、更に晶の柔い体が押し付けられてきて……


 え、なんですかこれ。俺の理性大破壊祭り? いや、まぁ昨日あたりから開催されてるんですけどね、この祭り。

 恥ずかしいから出来ることなら人のいないところで開催してほしいなって思うんですけど、駄目ですか? 

 今だってほら、教室にいる他の人たちから「あぁ、また?」って感じの視線が多数突き刺さってるんですよ? え、駄目? 左様ですか……


 晶に密着されて、思わず興奮気味になる自分を誤魔化すように心中でおちゃらけてみたが…………まぁ、効果はあるのかどうかわかんねぇな、これ。


「お〜! 雛瀬ちゃん? 何してるのかな?」

「ナツくんの匂い…………大好きだから。補充してる」


 興味津々といった表情の池野に顔を上げることなく答えた晶は、何故か震えながら「は…ぁ……」と俺の身体に熱い吐息をぶつけてきて。その吐息に、俺の背筋がぞくりとする。


「ほ、補充って……なんだよ」

「ナツくん成分が摂取できる。ボクが生きてくために必要な成分なの」

「いや、そんな成分聞いたことないが……?」


 そもそも晶にそんな成分が必要なのを初めて知ったんだが?


 晶は困惑気味の俺に構うことなく、今度はすりすりと頬を胸に擦り付けてくる。


 いや……え、何だこの可愛い生き物。

 というか、擦り付けられている頬がなんだかめちゃくちゃ柔らかく感じるのは何なんだ?


 晶の感触に体温、小動物みたいな行動にわけもわからないままときめいていると、ふと胸のあたりに少し変な感覚が。


 これは……晶が頬を擦り付けてくるあたりが湿っている?

 

 一体何だろうと思った瞬間に、晶の顔がちらりと見えて。


 晶の目尻から、頬には一筋の涙が流れているのが目に入った。


「…………泣いてる、のか?」

「……え」


 俺の問いに一瞬呆けてから自分の頬を触った晶は、小さく声を上げる。どうやら晶も気づいていなかった……のか?


「どうかしたのか?」

「…………えっ……と」


 晶が何かを言い淀むようにして、俺から目を逸らす。

 その様子に、なんというか……珍しいという感想を抱いてしまう。晶は結構言いたいことははっきりと言うクチだったと思うんだが……


「……俺には言いたくないことか?」

「ち……違く、て」


 はっきりとはしないまでも俺の言葉を否定した晶は、俺に回していた腕から力を抜いて一歩下がった。

 その顔に表情はなくとも、俺には晶がなにかに戸惑っているように見えた。


「……まぁ、言いたくないなら、言わなくてもいいけど。その……大丈夫か?」


 俯きがちになっている晶に、俺はありきたりな心配の言葉をかけることしか出来ない。


「……うん、大丈夫……だよ?」


 少しの間のあとに、俺の目を見て晶は頷いたが……いや。なんか……大丈夫には見えないな。


 見えないけど……一体何で泣いていたのか。晶は今、何を考えているのか。

 それがわからない俺には、どんな言葉をかけてあげればいいのかも……わからない。


「……あ、晶」


 纏まらない思考の中思わずそう呼びかけた瞬間に。



 ――――キーンコーンカーンコーン



 教室のスピーカーからチャイムが流れた。


「…………ごめん。また後で、来るね」

「あ、あぁ……」


 それを聞いた晶は少しだけ悲しそうに言って、そそくさと教室を出ていってしまって。

 俺はそんなあいつの背中を見送るしかできない。






「…………」

「相沢くん?」

「……なんだ?」

「雛瀬ちゃん、泣いてた……よね?」

「そう……だな」


 池野の問いに無意識のうちに右手が自分の胸付近に触れて、指先に濡れたシャツの感触がした。


「よくわからないけど……喧嘩とかした?」

「いや……してない。ついでにいうと、なんで晶が泣いていたのかも……見当がつかない」


 朝からの行動を振り返ってみても、一緒に登校して話していただけで、特別なことなんて起こらないまま過ごしていたはずだ。

 いきなり涙を流すほどのことなんてあったか…………?

 それに、晶のあの感じ。あいつも多分、自分がなんで泣いていたかなんて、わかっていなかったんじゃないだろうか。


「う〜ん、そっか」


 俺の答えに唸りながら、池野は何かを考え込むように顎に手を添えた。


「何考えてんだ?」

「雛瀬ちゃんのこと。流石に泣いてるの見たら何とかしてあげたいって、相沢くんも思うでしょ?」

「まぁ……それは、うん」


 俺の答えに微笑んだ池野は、人差し指で唇をなぞりながら再び考え始めた。


 こいつ、会話してると結構ヤバい人間って印象になるけど、根はいいやつ……なのかな。


 池野とは出会って二日目だし、こいつがヤバいだけの人間ではなさそうで、少し安心と言ったところか。

 まぁ、変なところがあるのは確実なんだけど。


 そう考えながら池野の様子を窺っていると、彼女は何かを思いついた、といったように目を見開いた。


「相沢くん、雛瀬ちゃんが泣いていた理由はともかくさぁ」

「いや、ともかくってなんだよ」


 そこが今一番大事なとこじゃないのか?

 思わず顔をしかめた俺に「まぁまぁ」と言って、池野は提案する。


 ただ、その提案は俺には唐突にして、だいぶハードルの高いものであって。


「次に彼女が会いに来たら、ぎゅう〜って抱きしめちゃお?」

「…………」


 そんな池野の提案を、数秒かけて咀嚼してから。


「…………はぁ!?」


 俺は、素っ頓狂な声を上げてしまった。






■■■■■■■■■■






 歩きながら手で頬を拭う。

 手のひらが濡れて、間違いなく涙を流していたんだと再認識した。


 ……どうして?

 なんで、ボクは泣いてるんだろう?


 あまりにも唐突で、ナツくんに聞かれるまで自身でも気づくことができなかった。


 ……ナツくんのにおいと体温で頭がほわほわしてたのも、気づけなかった要因かもしれないけど。


 でも……少しだけ落ち着いた頭で考えれば、涙の原因はすぐにわかってしまった。



 池野さんと話すナツくん……楽しそう。



 そう感じた瞬間に、ボクの胸中に現れた気持ちの悪い感情。

 それはボクの思考をあっという間に呑み込んで、ボクの望まない未来をいくつも脳裏にちらつかせて。

 そのせいで頭の中が真っ白になって、息苦しくなって…………思わずナツくんに縋るように抱きついてしまった。



 ――――そっか。


 ボク、池野さんに…………


「嫉妬……したんだ」


 ナツくんは、ボクとはあんなふうに話さない。

 ナツくんのあの姿を引き出せるのは、ボクじゃなくて…………あの人。


 そう考えついてしまったら、いても立ってもいられなくて。

 無理やり、ナツくんの注意を引いてしまった。



 ホントはそんなことしちゃダメ…なのに。


 だって――――


「ボクは…………」


 ナツくんのモノになりたいんだから。


 ナツくんの……ご主人様の邪魔をしちゃいけない。

 ――ホントはナツくんに、ボクだけを見ていてほしいって思っていてたとしても。


 ナツくんの所有物モノになりたい。

 その気持ちは、本当。


 だって――モノならいつか捨てられるのは当たり前で。


 モノになれたら――ボクがキミを裏切ることなんて、絶対にできなくなる。


 ボクのなりたい所有物モノは、そういうモノ。



「…………こわれている」


 いつか、母親に言われた言葉を思い出した。


 うん、そう。きっとボクはもう、壊れてしまっている。


 ボクの心は、他の人よりもあまりに脆くて、とうの昔に壊されてしまった。 


 そんな心を、不器用でも優しく直そうとしてくれたナツくんを想うのは、当たり前のことだよね?


「…………ナツくん」


 はやく…………はやく、ボクのこと……うけいれてほしい。


 はやくしてくれないと、ボク……きっと、おかしくなっちゃう……から……


 頬に再び涙が伝う。


 それはナツくんに受け入れられた未来の夢想による喜びの発露。


 そして……ナツくんがボク以外の池野誰かと、楽しそうに話す未来の想像によって生まれた………暗く深い嫉妬に塗りつぶされそうな、心の悲鳴。


 

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