彼の家で過ごす一時、そしてなすがままな私
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湿度が高く、じめっとした空気が漂う今日の気候。別に私は雨は嫌いじゃないけど、この梅雨の空気というのはあまり好きじゃない。
今は家の中にいて、リビングにあるソファに座ってくつろいでいても、まだ気分は晴れないでいる。外の天気と同じで、私の心も雨模様だ。全然、晴れる気配は感じない。
だから、そんな嫌な気持ちを紛らわせる様に、私はさっき買った(正確に言うと買って貰った)今川焼を手に取って、口に含んだ。
「あむっ」
一口、口の中へ入れると餡子の甘い味が口いっぱいに広がっていく。そしてその甘さに引っ張られる様に、私の気持ちも少し落ち着いた様な気がした。
「ん、美味しい」
そう一言だけ呟いてから、私はもう一口今川焼を食べる。そして少し落ち着いた私は、ふぅと一息吐いた。
「あらあら。心奏ちゃんったら、美味しそうに食べるわねー」
と、そんな私を見たからなのか、後ろからそうした女性の声がすると共に、足音がこちらに向かって近付いてくるのが聞こえる。そして、その人は私の横にまでやって来ると、そのまま私の隣に腰を下ろした。
背は私よりも高めで、座っていても少し見上げる様にしないと視線が合わない。優しそうな顔立ちをしていて、肌も張りがあって若々しく見えるけど、年齢は私の倍以上は離れている。また、肩まで伸びた綺麗な髪は、邪魔にならない様に後ろで一つに纏めていて、そうした特徴を持つ女性は私に向けて、柔らかな笑みを浮かべていた。
「はい、これ。お茶を淹れてきたから、良かったら飲んでちょうだいね」
そう言って、私の隣に腰を下ろしたその人―――煌真のお母さんである
「ね、ね、どう? 美味しいかしら?」
「……うん。美味しい、です」
私は湯呑みから口を離してから、沙月おばさんに向かってそう答えた。そしてそれを聞くと、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。
「あら、そう。それは良かったわぁ」
沙月おばさんは嬉しそうにそう言ってくれる。私はこくりと頷くと、それから少し間を置いてから、再びお茶に口を付けた。
「本当に心奏ちゃんは可愛いわねぇ。もう、食べちゃいたいくらい♪」
沙月おばさんはそう言って微笑む。そしてそのままゆっくりと腕を伸ばしたかと思うと、私の頭に手を置いて優しく撫でてきた。そんな彼女の一連の行動に私は、ただただ戸惑うばかり。
「えっと、その……」
「ふふふっ♪ よしよーし♪」
しかし、私の気持ちには全く気付かずに、沙月おばさんはそう言いながら頭を撫でてくる。それからしばらくの間、私はなすがままに撫でられ続け、彼女の行動の真意が分からない私は思わず首を傾げた。
「……あの」
「あら? どうしたの?」
「……その、何で急に頭を撫でたのかなって……」
私がそう聞くと、沙月おばさんは撫でていた手を止めて、きょとんとした様子で私を見つめる。そしてすぐに笑みを浮かべると、そのまま口を開いた。
「だって、可愛かったから♪」
「……え?」
沙月おばさんはそう言いながら、また私の頭を撫でてくる。私はそんな彼女の行動に翻弄されるばかりだった。
「心奏ちゃんは可愛いから、ついつい撫でたくなっちゃうのよねー♪」
「えっと……」
「あら? もしかして、嫌だったかしら……?」
私が困惑しているのに気付いたのか、彼女は撫でる手を止めると少し不安そうな表情を浮かべるとそう聞いてきた。だから、私はゆっくりと首を横に振る。すると、沙月おばさんは喜びに満ち溢れた笑みを浮かべていた。
「あぁ、もう、心奏ちゃんってば、ありがとう。大好き!」
そして沙月おばさんはそう言った後、私に抱きついてきた上に、頬擦りまでしてくる始末。
「は、放し……」
「んふふー♪ ホント、可愛いんだからぁ♪」
私は何とか口を開くけど、沙月おばさんはそれに対して答える事はなく、私に抱きついたまま頬擦りをし続ける。私はそんな彼女にされるがままで、どうする事も出来ないまま時間が過ぎていった。
「……何やってんだよ、お袋」
と、少し時間が経ったところで、リビングの出入り口からそんな声が聞こえてくる。その声が聞こえた方に顔を向けると、そこには呆れ顔で立っている煌真の姿があった。
さっきまで学生服を着ていた煌真だけど、今は部屋着に着替えていて、白色のTシャツに短パンというラフな格好をしている。
「あら、おーま。どうしたの?」
「それはこっちの台詞だっつうの。だから、何してるんだって聞いてんだよ」
「何やってるのかって……見て分からない? 可愛い心奏ちゃんを愛でているのよ?」
沙月おばさんが煌真に向かってそう言うと、彼は呆れた様子で溜め息を吐いた。
「別に心奏を可愛がるのを止めろとは言わないがな、いい加減に放してやれよ」
「えー……せっかく、心奏ちゃんが来てくれたのにぃ」
煌真がそう言うと、沙月おばさんは不満げに唇を尖らせる。まるでもっと愛でさせろと言っている様にも見えた。
「えー、じゃねえよ。心奏も嫌がってるだろ」
「そうかしらぁ?」
煌真の言葉に沙月おばさんは首を傾げる。そして、私に聞いてくる様にして「ねぇ?」と聞いてきた。
だから、私はどう答えていいのか分からず、思わず固まってしまった。そうして何も答えられなくなっていると、煌真が再びため息を吐く音が聞こえた。
「……はぁ」
煌真はそのままこっちに近付いてきて私の腕を掴むと、そのまま私を引っ張っていった。そして、そのまま沙月おばさんから引き離す様に自分の傍まで引き寄せた。
「ほら、いいからお袋は家事の続きでもしてろっての。あんまりこいつを困らせるなよな」
「えー、でもぉ……」
煌真にそう言われた沙月おばさんは不満げな表情を浮かべていたけど、やがて諦めた様子で「もう、分かったわよ」と口にすると、ため息を吐きながら立ち上がった。
「あーあ、親不孝者の息子を持って、私は悲しいわぁ。私にはそんな事を言っておいて、自分だけ心奏を愛でようだなんて、ホント酷いんだから」
「はいはい。悪かったな、親不孝者でよ」
沙月おばさんの言葉に煌真は面倒な感じでそう返す。そしてそのまま彼女は台所に向かっていくと、そのまま鼻歌交じりに何かを始め出した。おそらく、家事の続きでもしているのだろう。
「全く……お前も、嫌なら嫌ってはっきり言えよな?」
「え? あ……うん」
「そうじゃないと、あのババアは止めてくれないからな」
「ちょっと、おーま! ババアって何よ! まだ私はそんな歳じゃないんだからね!」
煌真の言葉を受けてか、台所からそんな怒声が飛んでくる。それを聞いた煌真は、「はいはい」と言って軽く流していた。
「もう少しで40になるんだから、ババアで合ってるだろ」
「違いますー! まだ後4年は30代だからー! だから、ババアじゃないもーん!」
「はいはい。分かったよ」
「むー……何よ、もう。おーまの馬鹿。アホ。おたんこなす」
沙月おばさんは煌真に文句を言いながらも、それ以上は何も言う事は無く、自分の作業に戻っていった。
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