第29話 ドMで、真面目な先輩


「やっと目が覚めたか」




 目を開けると、先輩が微笑みながら俺の顔を覗き込んでいた。


 俺は冷房の効いた車内で、先輩に膝枕をしてもらっている。




「先輩……?」


「そうだぞぉ、君の大好きな大好きな先輩だぞぉ」




 先輩はそんなことを口走りながら俺の頬を人差し指で突っつく。




「俺、何を」


「覚えてないのか? さっき私のことを助けてくれたじゃないか」


「ああ、そっか」




 確か先輩はしつこいナンパ男たちに捕まっていて、俺が先輩を助けたんだった。


 そう、リンと話をした直後に。




「日差しに弱いのに、帽子も被らず無茶してくれたな」


「それは、先輩が俺のこと呼んだからでしょ」




 そう言うと、先輩はわかりやすく驚いた後にスッと目を逸らす。




「な、何のことかな」


「リンも言ってましたよ。あれは俺のこと呼んでるんだって。誰が聞いてもわかりますよ」


「そ、そうか。リン君には、悪いことをしてしまったな」




 俺は、少しバツの悪そうな表情をする先輩の頬に手を添える。




「でも、無事で良かった」




 すると、先輩は幸せそうに笑みを浮かべながら俺の手を両手で支える。




「王子様みたいだった」


「王子様はあんなことしませんよ」


「ふふっ、確かにあれはやり過ぎだ。王子様というよりは、魔王様に近いかな」


「魔王、か。確かに、人ではない意味では同じかも」




 俺は何とはなしにそう呟くと、先輩の頬に手を添えたままゆっくりと起き上がる。




「ちょ、正也君っ、もう少し寝てなきゃ」


「先輩、一つ確認したいことがあるんですけど」


「は、ひゃいっ」




 頬を赤く染め、潤んだ瞳で俺を見つめる先輩の首筋に手を添える。




「俺は人とは違う。吸血鬼であることであなたに迷惑をかけることもあるかもしれない。普通の人みたいに、普通の恋愛は出来ないかもしれない」




 先輩は俺の目をじっと見つめながら、小さく、確かに頷く。




「うん」


「俺は実家に目付けられてるし、これからあなたをもっと危険な目に遭わせてしまうかもしれない」


「リスクの話だな」


「そうです。今回みたいに守ってあげられるかもわからない」


「確かに、リスクとリターンが見合っていないな」


「そ、そうですよね」


「そうだぞ?」




 先輩は俺の手を自分の胸に押し当て、少し俯く。




「君が私のものになるなら、どんなリスクもちっぽけなものさ」


「えっ?」


「たとえこれから私がどんな危険な目に遭ったとしても、幸せだったと思えるよ。こんなに私のことを大事にしてくれて、あんな風にいじめてくれる人なんて、もう絶対に出会えないんだから」




 初めて先輩の血を吸った日のことを思い出す。俺はもちろん先輩のことが好きだったが、先輩は俺への好意を否定していた。いわゆる身体だけの関係からよくここまで来たと、感動の波が押し寄せてくる。




「だから、私から言わせてくれ」


「はい」




 先輩は少し俯いたまま手に力を込める。




「正也君、私の」


「はい」




 先輩はすうっと息を吸うと、あろうことか俺の手を自分の乳房に持っていく。




「私の、正式なご主人様になってください!」


「は?」




 右手に先輩のおっ、乳房の感触が染み込んでいく。先輩のそれを隠す布が水着しかないせいで、もう直にダイレクトで揉んでいるのと何ら変わりない。




「なってくれますか?」


「あ、えっと」




 俺が突然の状況を呑み込めず言い淀んでいると、先輩は今にも泣き出しそうに俺を見上げる。




「た、確かに私は容姿だけの女だ。馬鹿で、愚鈍で、あんまり気遣いも出来なくて、凄く我儘で、周りの人に多大な迷惑をかけるタイプだと思う。でも、これもあるから」




 何を言っているのかよくわからないが、確かなことが一つある。


 それは、先輩のおっぱいは大きくて形が良いということだ。




「肉便器扱い、してくれて、良いから」




 先輩は自分の手を使って自分のおっぱいを俺に揉ませる。




「好きなときに、性処理の道具にしてくれて良いからぁ。あっ」




 感情が昂ったとき、俺の中の吸血鬼は目を覚ます。


 ケダモノが俺の全身を駆け巡り、たちまち傲慢な支配欲に自意識を食い荒らされる。


 クソドMでどうしようもない先輩。


 俺に、先輩のことをそんな風に罵る権利は無い。


 俺は、か弱い生物を演じる目の前の女を、俺の手で声が枯れる程泣かせたいと思ってしまっているのだから。




「好きなときに?」


「あぅ!」




 先輩のおっぱいを、形が歪む程強く揉みしだく。




「好きなだけ?」


「あっ! うんっ、いつでも好きなだけ使ってほしいっ。君の近くにいるだけで私は、いつでも準備出来てるからっ」




 先輩はそう言いながらゆっくりと股を開いていく。




「だから、今日はマーキングして?」




 ああ、結局俺たちはこうだ。




「私が君にしたみたいに」




 ドラマみたいな成長劇は現実には無い。




「私の、もっと奥の方まで」




 肌色で、爛れていて、どろりと溶けてベッドに染み込んでいくような俺たちを、俺が守らないといけない。




「先輩」




 そんなことを考えながら先輩の唇に唇を重ねる。


 そのとき、窓の外から俺たちをじっと見つめる夜切先生の存在に気が付く。




「せ、先輩っ」


「んん? もっとぉ」




 しかし、まだ気が付いていないらしい先輩は甘えた声で俺の首に両手を回す。




「違うっ、外! 外っ!」


「え?」




 俺の指さす方を見て、先輩はやっと俺たちが置かれている状況に気が付く。




「きゃあああっ!」




 先輩が悲鳴を上げると夜切先生は肩をすくめて窓をノックする。


 恐る恐る窓を開けると、夜切先生はふくれっ面で俺を睨んでいた。




「皆正也君のことを心配してるのに、良いご身分ですね」


「す、すみません」


「まあ良いですけど。それに」




 夜切先生は先輩を一瞥すると、小さくため息をつく。




「まあ、わかってたことですけど」


「え?」


「正也君ー!」




 すると、どこからともなく妖崎の声が聞こえてくる。




「正也君!」


「おわっ!」




 妖崎は夜切先生を押しのけて車に乗り込むと、すかさず俺の腕に抱きつく。




「寝てなくて大丈夫なんですか? 身体は痛くありませんか?」


「ちょ、落ち着け妖崎!」


「妖崎君! 正也君はもう私のものなんだぞ!」




 そう言って頬を膨らませる先輩を、妖崎は悪戯っぽい笑みを浮かべながら一瞥する。




「もちろん正也君の決断は尊重しますけど、私たちだって正也君に構ってもらいたいんです。ねえ先生?」




 妖崎がそう聞くと、運転席に座った夜切先生は明らかに戸惑った表情を浮かべる。




「そ、そうですね。私だって正也君にその、いじめてもらいたいし、でも、こんな私なので構ってもらえるかどうかもわからないですけど。さっきだって、何も出来ずに怯えてただけだし」


「だ、大丈夫ですよ先生! ねっ? 櫻先輩?」




 すると、先輩はうっとりと垂れた目尻で俺を見上げ、俺の腕を胸に押し付ける。




「そうだな。魔王様に助けてもらえたしな」


「っ!」


「それ以上は不純異性交遊ですっ」




 そう言って助手席に乗り込んできたのはリンだ。




「一線を越えないように、これからも監視させていただきますっ」




 車内ミラー越しにリンと目が合う。


 リンの目元は若干赤く腫れている。だから俺は、リンのそのセリフは彼女なりの努力だと解釈した。




「ああ、俺がまた暴走しそうになったら、頼むよ。お前しかしない」


「言われなくても」


「妖崎も」


「え?」




 俺は妖崎を見下ろすと、彼女の頭に手を置いて優しく撫でる。




「いつも迷惑かけてごめんな。お前が俺のことを凄く大事に思ってくれてるの、伝わってる。皆のこともよく見て、いつも気使ってくれてるよな。ありがとう」


「えっ? えっ?」


「俺はお前の兄貴分としてしか振舞えないけど、これからも、俺の傍にいてほしい」


「っ!」




 妖崎は大きく目を見開くと、素早く俯いてしまう。




「そんなの、ズルいですよ」


「俺にここまで言わせるお前もズルいけどな」


「じゃあズル賢い吸血鬼同士」




 妖崎は俺の腕にそっと抱きつき、まるで子猫のように俺に擦り寄る。




「これからも、よろしくお願いいたします」


「ああ」


「あっ、ああーっ! 私が正也君のペットなのにぃ!」


「キモイ嫉妬やめろ」


「だ、だってぇ!」


「いいからやめろ」


「むぐっ」




 俺は少しの躊躇いも無く先輩の頬を鷲掴みにする。




「な?」




 少し微笑みながらそう言うと、先輩はたちまちさっきまでの発情しきった表情に変わる。




「ふぁい。ごひゅひんひゃま」


「ああ、こんな私がこの歳で失恋まで経験出来るなんて感激ぃぃぃ」


「先生、このままじゃ正也のこと殴りたくなるんで早く行きましょ」




 俺たち五人を乗せた車はゆっくりと走り出す。


 ともかく俺はひとまずの試練を乗り越えたらしい。心なしか胸の辺りが軽くて風通しが良い。


 それから俺たちはいきり立った先輩に缶詰め状態にされ、無事短編小説を書き上げた。当初の目的を達成出来て先輩も鼻高々といった様子だった。


 小説のテーマは、私の好きな人。


 俺はもちろん、先輩のことを書いたのだった。




「静かに」




 波乱万丈の合宿を終え、自室で寝ていた俺は、俺に跨る何者かによって起こされる。




「ごめんな。こんな夜中に」




 その正体は先輩だ。先輩はいつもの制服姿で寝ている俺に跨っている。


 それはまるで先輩が書いた小説のように、俺がこの前書いた小説の冒頭のように。




「な、何ですか」


「ごめんな。眠いよな。本当にごめん」


「んん?」




 寝起きと暗闇の中ということもあり、先輩の顔がよく見えない。なるほど現実だとこうなるのか、参考になるかもしれない。




「今日は、君にお別れを言いに来たんだ」




 お別れ? 何を言ってるんだ?




「本当にごめん。でも、これは君のためなんだ。君の将来のため」




 まだ夢を見てるのか?




「さよなら」




 先輩は俺にキスをする。柔らかい。気持ち良い。




「好きだよ」


「先輩、俺も……」




 俺も好きです。そう言い切る前に、心地良さと同時に眠気に襲われ、俺はそれに飲み込まれてしまう。


 あれは夢だったのか、それとも現実のことだったのか。


 そして、俺にそれを確かめる術は無かった。




 その日から、先輩は部活に全く顔を出さなくなった。




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