第15話 夏、夢から醒めて
俺を見下ろす夜切は舌なめずりをすると、うっとりとした表情を浮かべる。
「こうやって見下ろすと、意外と可愛い顔してますね」
「先生、落ち着いてください」
「何言ってるんですか。私は落ち着いてますよ」
ダメだこいつ。早くどかさないと。
そう思って腰を突き上げようとするが、思いのほか強い力で抑えつけられてビクともしない。
「ふふ、積極的ですね」
「きょ、教師がこんなことやって良いと思ってるんですか!」
「関係ありません」
「は?」
夜切は俺の首筋に両手を添えると、そのまま首を絞め始める。
「ぐっ……!」
「言いましたよね。私も、あなたのことが欲しくなったんです」
俺は夜切の両腕を掴み、何とか酸素の通り道をこじ開ける。
「あいつに、クソジジイに言われたのか」
「ご親族のことをそういう風に言うのは良くないですよ」
「何であんな奴の言葉を信じるんだ!」
脳裏に焼き付いて離れない、偉そうにふんぞり返るあの男の姿。自分以外の存在は養分だとでも言いたげなその態度に、幼い俺は心底嫌悪感を覚えた。
「別に、あの人の言葉を信じたわけではありません」
「じゃあ何で!」
「私のことを、頼ってくれたから」
その言葉を聞き、ドクンッ、と心臓が脈打った後、スーッ、と背筋が冷めていく。
「こんな私のことを頼ってくれたから。そりゃ応えないとって思うじゃないですか」
「そんな、そんなことのために、あんたは今とんでもないことをしようとしてるんだぞ」
「あなたに私の気持ちなんてわかるわけない!」
俺の首を尚も締め続ける夜切の手が、小刻みに震え始める。
「私は、子供の頃からずっと独りだった。こんな性格だから友達もいなくて、恋人なんて出来たこともなくて。ずっと孤独に戦って、誰かに頼られたことなんて一度も無かった」
「そんなこと言っても、親なら……」
「サキュバスですよ? 大人しく家庭に入るわけないじゃないですか」
失言だったと後悔するが、もう取り返すことは出来ない。
「そんな中、丁度大学に入った頃に、目覚めたんです。この力に」
人ならざる者にとって能力の目覚めは人生の転機にもなり得る。しかし、何故か夜切は自嘲気味に笑った。
「そのとき私、思ったんです」
夜切は顔を上げる。その表情は、言葉では言い表せない。ただ、そこには絶望が多分に含まれているように感じた。
「私は呪われているんだと」
夜切はさらに強く俺の首を絞める。
「私は、自分の力で大切な人を作ることも出来ないんだと!」
俺の首を絞めるその力は、とても女性のものとは思えない。それが尚更、夜切の半生に信ぴょう性を持たせていた。
「所詮愛なんて私の道具でしかなくて! 男なんて性欲の生き物で! そんなことを言ってる当の私は」
胸に水滴が落ちる。それが夜切の涙だと理解するのに時間はかからなかった。
「私は、私を放ったらかして男と遊ぶ、あの母親と同類だった」
夜切の口から嗚咽が漏れる。その頃になると俺の首を絞めるその力は、女性らしいものに変わっていた。
「でも、あなただけは他の人と違った」
「俺が?」
聞き返すと、夜切は小さく頷く。
「だって、あんな状況なら殆どの男は靡くから。今までも、そうだったから。でも、違った。あなただけは」
俺を見下ろす夜切と目が合う。充血した目と赤くなった目尻は、この体勢でも『懇願』と名付けるに相応しいものだ。
「だから、私のものになってください」
夜切は身体を少し屈める。
「私だけの、大切な人になってください」
夜切の顔が近づいてくる。その柔らかそうな唇に俺は……。
「んぐっ⁉」
俺は、無表情で人差し指を突き立てた。
「ちょ! んんっ!」
そしてそのまま身体を起こし、努めて無表情のまま夜切を見据える。
「嫌です」
「えっ⁉」
「俺はあんたのものにはならない。断固拒否。わかります?」
「な、何でっ! 私、結構スタイルに自信あるし、顔も悪くないと思うし、尽くすタイプだし、それに」
「あのですね、誰が何と言おうと俺は誰のものにもならないんですよ」
俺がそう言うと、夜切は俺の手を振り払い、キッと俺を睨む。
「で、でも! あの生徒会長のことは好きなんでしょ⁉」
「ああそうですよ。でも、あの人の下僕に成り下がるなんてことはしない。逆に俺があの人の手綱を握ってやるんです」
「それでも良いから、私のものに……!」
「それに、夜切先生、好きになるってことは、自分の全てが相手のものになるってことじゃないと俺は思うんです」
至極当たり前のことをさも格言かのように言い放つと、夜切先生はたちまち目を丸くする。どうやらこの人は本当に重症らしい。
「先生って自分本位の恋愛しかしたことないんでしょ? そりゃモテないっすよ」
「なっ、何を知ったような口をっ!」
「でも実際そうじゃないですか」
「そっ、そうかも、しれないけど」
泣きそうな表情で子供みたいにもじもじする年上の女を見ると、俺の中の加虐心がメラメラと燃え上がる。
「それに、いい加減被害者ぶるのをやめてください」
「えっ?」
「先生って自分だけが被害者みたいに言いますけど、先生のせいで滅茶苦茶たくさんの人が傷ついてるんですよ。自分が加害者という自覚を持ってください」
「そ、そんなこと言われても……」
「言い訳しないで」
「ひゃいっ」
まるで先生に説教される生徒みたいに、肩をすくめて返事をした夜切先生が何だか愛おしくて、その頬にそっと手を添える。
「でもさっき、スタイルに自信あって、顔も悪くないと思うって言いましたよね?」
「は、はい」
俺は、まだ怯えている夜切先生に出来る限り優しく微笑みかける。
「その通り。先生は魅力的な人だと思います」
ぎゅっと目を瞑っていた夜切先生は、徐々に目を開いて顔を上げる。
「ほ、本当?」
「ええ、正直、同年代にいたら好きになっちゃってたと思い、ます」
それは、思わず口をついた正真正銘の本音。夜切先生はそれを聞くと、一拍置いて湯気が出そうな程顔を真っ赤にして俯く。
「だから、自分にもっと自信持ってください」
「じ、自信?」
「そう。先生のありのままを好きになってくれる人は絶対にいます」
「そう、かな」
「そうですよ。あんな小細工なんて使わなくてもね」
その言葉を夜切先生の心に押し込むように、人差し指で鎖骨の辺りをちょんっと押すと、俺はベッドから立ち上がる。
「さ、そろそろ行きます、か……」
そう言って振り返った俺は言葉を失った。
夜切先生は俯いたまま声も出さずに大粒の涙を流していたのだから。
「先生! 大丈夫ですか?」
「うんっ」
声をかけても、喉から絞り出すような返事をするだけだ。
「ごめんなさい。言い過ぎました」
「ううん。そうじゃない。ただ、嬉しくて」
「嬉しい?」
聞き返すと、夜切先生はまるで押し寄せる何かに耐えるように、拳をグッと握り締める。
「本当に、嬉しくて」
夜切先生の過去、それは孤独との闘いだった。孤独に慣れた人はいずれ当たり前のコミュニケーションすら億劫になり、他人の心を軽視するようになる。
それは、かつての俺のように。
「先生、帰りましょ」
そう言って夜切先生に手を差し出す。夜切先生はそれをよく見ようと泣きべそをかいたまま眼鏡をかけ直す。
「帰るって、どこに?」
「文芸部に」
「でも、皆は私のことただの都合の良い存在としか思わないんじゃないかな? 顧問の席にいれば良い、みたいな」
「まあ、それがお望みならそう扱いますけど」
「ど、どういう意味っ⁉」
「俺たちは、先生の意思を尊重するってことです」
そう言うと、夜切先生は呆けた表情で小首を傾げる。
「そんちょー?」
「そうです。俺たちはそうやってお互いを思い合って、支え合ってるんです」
すると、先生はずびびと鼻をすすって眼鏡の縁に手を当てる。
「……なるほど、君はそう思ってるんだね」
「え?」
「何でもない。じゃあ私も、そのレースに参加する」
俺の手を取った先生は、軽やかな足取りで俺の前に降り立つ。
そして、身体の前で両手を組んで綺麗な角度でお辞儀をした。
「性格ゴミで、コミュ障で、自分勝手で、見てくれしか取り柄がないどうしようもない女ですが、これからよろしくお願いします」
この角度からだと夜切先生の胸が嫌でも目に入る……。
「あっ、えっと」
目のやり場に困っていると、嬉しそうな表情で俺を見上げる夜切先生と目が合った。
「今見てたでしょ」
「なっ、見てないですよ」
「嘘つけ。サキュバスは男の欲情した視線にすぐ気が付くんだから」
「仕返しのつもりですか」
「にしし、一応皆の教師なので」
夜切先生が悪戯っぽく笑った次の瞬間、保健室のドアが勢い良く開け放たれる。
そこに立っていたのは、予想通り、例のわがまま妖怪だった。
「正也君! 体調を、崩したと聞いて……」
視覚によって情報を取り入れた妖怪の顔が、サーッと青くなっていく。
夕日が差し込む保健室に立っているのは、服がはだけた俺と夜切先生。しかも夜切先生の目じりは涙のせいで赤く腫れている。
そういう描写を散々見てきた先輩の目には、俺たち二人は『そういう関係』にしか映らないだろう。
「もしかして二人ともエッ」
「してないです。早とちりしすぎ」
「でもっ! こういうときって大体、私に隠れてエッ」
「違いますって! そういうの読みすぎ。俺たちはただ……」
「エッチしようと思ったけどフラれちゃった」
夜切先生はそう言うと、何故か穏やかな表情で先輩に微笑んでみせた。
「大人なのに、情けないよね」
先輩はまるで猫のように目を見開くと、たちまち鋭い目つきに変わる。
「夜切先生、私、あなたのこと全部調べたんです。過去のこととか、その体質のこととか……! 正也君、よく聞いて」
「知ってますよ。先生がサキュバスだって」
先輩は、きょとん、とした表情の後、すぐに鋭い目つきに戻る。
「で、でも、サキュバスの能力を使うことを躊躇わない人で、男性にとっては凄く危険で……!」
「ああそれなら、さっき夢に引きずりこまれたけど帰ってきました。それに、そんなことしなくても先生は十分魅力的な人なんだから、そういうものに頼らなくて良いって説得もしました」
「……」
この陰キャが本当に……? とでも言いたげな先輩の疑念の視線は夜切先生にも向く。
そして、当の夜切先生が恥ずかしそうに俺のことをチラチラと見上げているのだから、先輩は両手で顔を覆った。
「危険なのは君の方だったか……!」
「どういうことですか。先輩程じゃないですよ」
「いいや、君の方が何倍も危険だ! みるみるうちに逞しくなっていく」
「親か」
先輩は指の間から俺を伺うように見上げ、口元が見えないように小さく笑う。
「受けて立とうじゃないか」
「え?」
しかし、先輩はくるっと翻ると何事も無かったかのように保健室を出て行く。
「もう部活始まってるから、君はすぐに部室へ行くように! それと、後で皆に先生の紹介もするので」
顔をひょこっと出して、パチンとウインクした先輩はひらひらと手を振って去っていく。
「あっ、うん! 私の、紹介」
「良かったですね。先生」
「うん。不安なことの方が多いけど」
すると、夜切先生はどこかうっとりとした表情で俺を見上げる。
「ん?」
次に夜切先生は俺の手を取ると、それを思い切り自分の胸に突っ込んだ!
「は、はあ⁉」
「じゃあ私、仕事片付けてから行くから、また後で!」
そう言い、慌てて駆けていく夜切先生の後ろ姿を見送ると、この部屋には心臓の高鳴りを抑えられない童貞だけが残った。
「最後に爆弾残していきやがった」
思わず口に手を当てると、それが夜切先生の胸を触った方の手だということに気づき、甘い匂いに脳が痺れる前に手を離す。
「そ、そろそろ行かなきゃな」
自分を落ち着けるように独り言を呟き、俺は歩き出した。
文芸部室がある三階へ続く階段の手前、壁にもたれかかって腕を組んでいる先輩と遭遇する。
「あれ、先輩、先に行ったんじゃ……」
しかし先輩は、俺に何か言葉を返す前にスタスタと歩いて行ってしまう。
「ちょっと先輩!」
慌てて追いつくと、先輩は明らかに不機嫌そうな顔で少し振り向く。
「もしかして怒ってます?」
「怒ってるに決まってるだろう。本当に心配したんだからな」
「すみません。でも、何も無かったし」
「何かあってからじゃ遅いんだよ!」
先輩は立ち止まり、俺と正対して涙目のまま睨んでくる。
「だって、君は私の……!」
しかし、先輩は咄嗟に口を抑えると、プイッとまた俺に背を向けてしまう。
「な、何でもない」
「え? 何ですか」
「何でもないと言っている! とにかく怒っているのだ! 私は!」
俺は先輩の表情を見ようと隣に並んで歩くが、先輩はわざとらしく俺から顔を逸らす。
「先輩」
そして俺は、先輩の左肩に手を置く。
「なん……んむっ⁉」
先輩の左頬を迎え撃つように設置された人差し指に、まんまと柔らかい頬っぺたが衝突する。
「へへ、引っかかった」
「もう、君は、本当に、そういうところがズルいぞ! 自分のしたことをわかっているのか⁉」
「もちろんです。次から気を付けます」
「……わかってるなら良いんだ」
先輩は俺の人差し指を掴むと、まるで割れ物を扱うときのようにそっと優しく握り直す。
「先輩?」
先輩はハッと顔を上げると、すぐにムッとした表情に戻り、俺の指を握ったまま早足で歩き出す。
「ちょ、離してくださいよ」
「嫌だ」
「俺、犬じゃないんですけど」
「私が面倒を見るという点では、君は犬と同じだ」
「さいですか、ご主人様」
夜切先生にはああ言ったが、実際にこの人と二人きりになるとすぐに主導権を握られてしまう。
しかし、こんなやり取りが全く嫌いではない俺は、諦めるように窓の外に視線を移す。
無限に広がっていく青空を、渡り鳥たちが群れを成して飛んでいく。固い結束で結ばれているように見える彼らも、カラスや鷲に襲われてしまえば一瞬で散り散りになってしまうだろう。
「何を見てるんだ?」
俺の胸中など知る由もない先輩は、澄んだ目で俺に振り向く。
「いえ、何でも。ただ」
俺はそう言い、先輩に握られている人差し指に視線を落とす。
「俺、頑張ります」
そう、一言だけ確かに呟いたのだった。
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