第7話 期末テストと唐突な転校生

「期末テスト! 期末テストだ! 正也君!」




 放課後の部室、先輩は黒板の前に仁王立ちし、俺の氷点下の心に熱いパンチをぶつけてくる。




「うるさいなあ」


「なんだその口の利き方は! そろそろ期末テストが始まるのだぞ!」




 必死な表情の先輩に指をさされると、俺は冷めた目を悟られないために机に突っ伏す。




「わかってますよ。リンの奴にも口酸っぱく言われたし」


「ほう? やはりあの子は友達想いなんだな」


「あいつは単にクラスの平均点下げたくないだけですよ」


「そうか?」




 夏休み前の最後の地獄。うら若き活発な少年少女たちを教室に閉じ込め、将来何の役に立つかわからない科目を一つ一つ賽の河原に石を積み上げるようにクリアしていく。それが期末テストだ。


 正直言って、今すぐ消えて無くなってほしいと思っている。




「俺は今回もテキトーにこなしますよ」


「君は初めての期末テストだろ?」


「そうですけど」


「それでその態度とは。相当自信があると見た。さてはちゃんと授業は受けるタイプだな?」


「いえ、全く聞いてませんけど」


「あまぁぁぁい!」




 先輩はそう叫びながら俺の机に勢い良く両手をつく。


 先輩、今はどちらかと言うと辛い話です。




「中学生のときはこれまでの積み上げで何とかなってきたのかもしれないが、高校は新しい数式にレベルの高い作文問題、ただ暗記するだけでは到底覚えきれない歴史の出来事が出てくる。つまり、一年生の内にどれだけ基礎を作れるかがこれからの高校生活を左右するのだ!」


「進〇ゼミかよ」


「正也君、想像したまえ」


「えっ」




 先輩はとても自然な流れで俺の右手を掴み、その小さく温かい両手でそっと包み込む。




「なっ、何ですか」


「友達が少なく地味な君が初めての期末テストで好成績を叩き出し、一気に皆からの注目を浴びる姿を」


「二言くらい多かったな、今」


「普段君を見下している人たちが、君を見上げるその光景を」


「っ!」




 いつもクラスで孤立している俺。そんな俺がもし、唐突に学年トップの成績を叩き出したら?




「悪くない」




 思わず、そう口に出してしまっていた。




「そうだろう⁉ それなら、少し頑張ってみないか?」


「ぐっ」




 俺の右手を一生懸命に握り込みながら先輩は、笑顔で俺の目を真っ直ぐ見つめてくる。


 例のお祓い騒動の後から、俺はおかしくなってしまった。


 以前なら気にも留めなかった先輩の何気ない仕草にもいちいち目がいって、目が合っただけで心臓が跳ねてしまう。


 今だってそうだ。俺が馬鹿真面目な先輩に言いくるめられるなんてありえない。なのに、その目に見つめられるだけで何も言い返せなくなってしまう。




「どうした? ぼーっとして」


「いえ、何でも。ていうか、頑張るって具体的にどうするんですか」


「そんなの決まっているだろう!」




 先輩は自信満々な表情で俺にビッと指をさす。


 そして一時間後。それと全く同じ表情の先輩が俺の部屋にいた。




「何で俺の家で勉強会なんですか」




 ニコニコ顔の先輩は俺を振り返る。




「勉強は静かな場所で短期集中に限る! 自室なら人の目も気にならないだろう?」


「今まさに凄く気になるんですが」


「大丈夫。じきに慣れるさ」


「そもそも先輩、自分の勉強はいいんですか?」




 俺がそう聞くと、先輩はチッチッチと言いながら人差し指を振る。ムカつくなあ。




「大丈夫。自分のテスト範囲ならとっくに終わらせてあるから安心してくれ」


「はあ、流石というか何というか」


「まあまあ。さあ、早速見せてみろ」




 先輩が俺の前に乗り出す形で、俺のノートを凝視する。


 まあ、暴走の予防策として動物の血をコップに入れて持ってきたから大丈夫だとは思うが。




「ふむふむ、なるほど。ノートは悪くない。復習に使えそうだ」




 改めて見るとこの人、本当に綺麗な黒髪だよな。一本一本に艶がかっていて、重力でさらりと流される様に目を奪われる。


 雨に濡れて、鋭い目つきの先輩は本当に綺麗だった。


 もっとよく見たい。


 出来れば、匂いがかげる距離まで。




「正也君」


「はっ」




 先輩がふと振り返る。


 やばっ、近い。


 いくらなんでも、近すぎる。




「あっ、ご、ごめ」




 その大きな目の瞳孔がグッと開いて、その瞬間に顔を赤らめた先輩が顔を逸らす。




「すみません」


「いや、大丈夫だ」




 先輩は俯きがちに黒髪をいじる。微かに潤んだ瞳が見える。




「あの、正也君」


「は、はい」


「もしかしてだが」


「はい?」


「髪を、触ろうとしていたのか?」


「えっ!」




 マジかバレたか。いやあの距離はバレて当然か。どうする? ていうかさすがにキモがられるか?




「実はな私、クラスの女子からもよく触られるんだ。その子たちはひとしきり触れば満足するのだが」




 先輩は振り返り、黒髪で顔の左半分を隠しながら小首を傾げる。




「触って、みるか?」


「あっ、えっ、良いんですか?」




 いや良いんですかじゃねえだろ。キモイって。




「うん、良い」




 良いんかい。マジか!




「じゃあ、失礼します」


「うん」




 先輩の黒髪を何本か拾って、顔を近づける。




「ちょ、匂いも嗅ぐのか⁉」




 脳に直接響いてくる甘い匂い。そうとしか形容できない。クセになる匂い。




「あ、汗もかいてるし。くすぐったっ」




 先輩が俯きがちにもじもじする。いやしかし、こうして見ると先輩って意外と小さいんだな。いつも立って無駄に偉そうにしてるところしか見てなかったしな。まあ、女の子だし当然か。


 女の子だもんな。


 女の子、だもんな。




「あっ」




 ヤバい。血の巡りが急激に速くなっていくこの感覚。嫌と言う程身に覚えがある。




「すみません、もう大丈夫です」


「あ、うん」




 俺は先輩から即座に距離を取り、表情がバレないように手で隠す。




「正也君、大丈夫か? やっぱり汗臭かったか?」


「いえっ、そんなことはっ」




 俺はこれ以上キモイことを口走らないように、全て白状してしまうことにする。




「実は俺、あの騒動の後から変で。すぐ、血を吸いたくなってしまって」




 先輩は黒髪を乱れさせたまま、上目遣いで俺をじっと見る。




「実は私もなんだ。あの日、君に放置されてしまっただろ? あの日を境に、その、君に痛めつけられたい願望がさらに強くなってしまって」


「え?」


「だから、な? 私はいつでも」




 ヤバい。このままじゃ流される! 緊急用に持ってきた動物の血を、早く!




「あっ」




 しかし先輩は俺より早くその動物の血に手を伸ばす。




「え、先輩!」




 そして、あろうことかそれを一気に飲み干した!




「な、何してんだぁぁぁあ!」


「ぷはっ、衝撃的に不味いな、これは」


「あ、当たり前でしょ! 人間の飲み物じゃないんだから!」


「でもこれで、私の血を吸うしかなくなったな?」




 俺の葛藤など何も知らないふりをして、先輩は潤んだ無垢な目で俺を見つめる。




「ん? どうした?」




 そしてそのまましらばっくれるのだからやるせない。


 俺は先輩の顔をがっしりと掴むと、精一杯に睨みつける。




「文句は、後で言いますから」




 頬っぺたがぐにゅっと潰れた先輩はその状態でもわかる笑顔で、軽快に頷く。




「うむ」




 俺は先輩の黒髪を指の背で持ち上げ、その細い首筋に噛り付く。


 先輩の血はかなり美味しい方だと思う。人間独特の臭みが殆ど無く、ほんのりと甘いそれがサラサラと心地良い喉越しで胃に入っていく。


 腹が、心が満たされていく。


 ああ、もっと。




「もっと、もっとだっ。正也君っ」


「んむっ」




 先輩がいつになく積極的に首筋を押し付けてきて、一瞬血で溺死しそうになる。




「痛いっ! 本当に。信じられない、くらいっ!」




 知るかよ馬鹿。お前のお望み通りもっと、もっと。




「あっ! くうっ!」




 じたばたと暴れる先輩を両手で抑えつけ、満腹になるまで吸い上げる。


 俺たちがやっと落ち着いたのは、夕日が部屋の窓を通り過ぎたときだった。




「正也君、そろそろ勉強を」


「でも、ノートが」


「えっ、うわわっ!」




 先輩は自分の足で押し潰されてくしゃくしゃになった俺のノートを直しながら、土下座する勢いで謝ってきた。


 そんなこと一向に気にしていない俺は、もう夜になってしまったので先輩を途中まで見送った。


 それじゃあまた明日。そう言ってはにかむ先輩はとても満足そうだった。俺もそんな先輩を見て悪くない気分だった。


 そして、肝心のテストはと言うと……。




「あんた、真面目に勉強したの?」




 昼休憩、赤点ギリギリの答案用紙を五枚持った俺は、鬼の形相のリンに詰められていた。




「まあ、それなりに」


「じゃあ何でこんなことになるのよ。中間のときはそこそこ良かったじゃない」


「中間のときは今までの積み重ねがあったからなぁ。ていうか、何で俺の中間の点数知ってんの?」


「ぐっ、そ、それは、私のクラスなんだから当たり前じゃない!」




 リンはそう言ってフンッと顔を逸らす。こいつクラスを私物だと思ってるとか、欲深すぎないか?




「そ、それはそうと、先生から聞いたんだけど、この時期に転校生が来るらしいわよ?」


「はあ? 何でだよ」


「そんなことわかんないけど、まあ、早い方が良いってことなんじゃない?」


「へえ」




 夏休み前のこの時期ならどこかのグループに入れるチャンスはあるし、あながち変な考えではないのかもしれない。まあ、俺は最初からいるのにぼっちなんだが。




「確か今日、午後の最初の授業に……」




 そんなとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。




「ちょ、ちょっと君! まだ早いよ!」




 クラスの担任の必死な声が聞こえてくると共に、どよめきが廊下の奥から近づいてくる。




「えっ、何?」




 するとあろうことかそのどよめきは俺たちの教室の前でピタリと止まった。




「おいおいまさか」




 俺の嫌な予感に対する考察が済む前に、どよめきの中心が教室に侵入する。


 騒音とは正反対の静かな足音。黒のストッキング。肌は色を塗り始める前のキャンバスのようで。




「綺麗」




 そして頬杖をつきながら、思わずそう呟いてしまった。


 壇上に立つその女子生徒の長い白髪が、異様に輝いて見えたから。




「皆さん初めまして。私の名前は妖崎麗佳ふざきれいか」




 丁寧に礼をし、俯きがちにそう言った彼女は、次にその深紅の目で真っ直ぐに俺の目を射抜いた。




「嫌いなものは裏切り」




 そして彼女は口角を悪戯っぽく小さく上げる。その小さい口から鋭い八重歯が覗く。




「好きなものは、人の血」




 妖崎麗佳はその八重歯を隠すことなく朗らかに笑った。




「これからよろしくお願い致します」




 外から入ってきた風が妖崎麗佳の白髪を揺らし、俺はその見目麗しい白髪をずっと見ていた。


 授業開始を告げるチャイムが鳴っても、その髪をずっと見ていたのだった。


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