第2話 嫌われ者の俺と、人気者の先輩 その1


 衝撃的な昨日を終えて、俺は教室の端の席で登校してくる生徒たちを眺めていた。


 本当なら文芸部室に寄って先輩とイチャコラした後にギリギリで教室へ向かうのだが、昨日のこともあり、気まずくてやめた。


「ねえねえ、昨日のキョムドットの動画見た?」


「見た見たー! 鼻から激辛ラーメン食べるやつでしょ? 古典的だけど面白かったなー」


 やっぱり、先輩と気まずい空気になった方がマシだったかな……。などと考えながら、俺はほぼ本能的に机に突っ伏す。


 唾を飲みこむ音と控えめな息遣いだけが聞こえる世界にいると、思い出すのはやはり昨日のことだ。


 先輩をベッドに押し倒す俺。潤ませた瞳で俺を見上げてくる先輩。


 そのときの先輩の表情は、普段の外行きのものと明確に違った。


 一言で言うと、もっと虐めたくなってしまうような……。


「いやいや、そんなの、あの人の思うつぼじゃん」




「朝っぱら独り言とか、まじでキモイんですけど」




 最悪。その一言だった。




「……何だよ」


 顔を上げるとそこには、昨日文芸部を訪ねてきたツインテールでちんちくりんの……えっと?


「お前、誰だっけ」


「んなっ! あんたねぇ、入学してもう一か月でしょ⁉ いい加減クラスメイトの名前くらい覚えなさいよ!」


「あぁ、その頭にキンキン響く声で思い出したよ。あれだろ? 先輩の金魚のフンの、馬鹿真面目子だろ?」


「勝手に出来の悪いあだ名つけないでちょうだい! 私は筧かけいどリン! それに私は櫻先輩の金魚のフンじゃなくて、憧れてるだけ!」


「はいはい。もう耳にタコが出来るくらい聞きましたとも」


 そう、こいつの、筧リンのこの自己紹介を聞いたのは一か月前が初めてのことではない。


「ほんとあんたって中学の頃からいっつもそうよね。斜に構えてて、口を開けば悪口ばっかり」


「お前は口を開けば先輩のことしか言わないけどな」


「だからそれは尊敬してるから!」


 こいつの声はよく通る。その上レスポンスも早いから皆からの注目を集めがちだ。


 案の定クラスの奴らの視線が俺たちに集中し始めているのを見て、俺はさっさとこいつを切り離すことにする。


「んで、俺に何か用か? あるならさっさと済ませてくれ。俺は眠いんだ」


 そう言うと、リンはバツの悪そうに俺から視線を逸らす。


「何だよ。何か言いづらいことなのか?」


「まあ、言いづらいは言いづらいけど、でも言わなきゃ」


「はいはい。じゃあ勇気を出すための決意表明からどうぞー」


「わ、わかったわよ! 言うから!」


 何だよこいつ。告白でもする気か?




「……櫻先輩とつるむの、もうやめてくれない?」


「は?」




 しかし、リンの唐突なお願いに思わず素っ頓狂な声が出てしまう。


「……理由は?」


「だって、あの人は生徒会長だし、仕事も出来て、人望もあって、皆のリーダー的存在でしょ? そんな人が……」


「そんな人が、俺みたいな嫌われ者といるのが気に食わないと?」


 むっと唇を噛んだリンは、自然な所作で腕を組んでもう一度視線を逸らす。


「そういうわけじゃないけど、文芸部にいると、生徒会の仕事が出来なくなるじゃない」


「……はぁ」


 思わず、ため息が出る。どうやら俺は、俺の嫌われ度を見誤っていたようだ。


 いくら嫌われ者でも、吸血鬼でも、自分の居場所をわきまえていれば誰にも文句は言われないと思っていた。


 だけど、まあ、こればっかりは仕方がない。


「……そんなに心配しなくても、俺ももう部室行かねえから」


「ほ、本当⁉」


「ああ」


 リンはぱあっと笑って、小さく拳を握る。しかし、すぐに口を抑えて真顔に戻った。


「あ、ごめんっ。でも、私からお願いしといてなんだけど、あんたはそれで良いの?」


「……良いんだよ」


 俺はそう言って窓の外を見る。どうやら早くも桜の花びらが散り始めているようだ。


 もうそろそろ、季節の変わり目らしい。


「良いんだ」


「じゃあ、今日私からも言っとくけど、あんたからも言っといてよね」


「あいよ」


 軽く右手を上げてリンの小さい背中を見送ると、それと同時に担任の若い男性教師Aが入ってくる。名前は覚える気が無い。


男性教師A「皆おはよー。ちょっと早いけど、挨拶ー」


 起立、礼、着席。


 頬杖をついて俯く。


 俺はどうやら、退屈な日常に帰ってきたらしい。


 チャイムの音が空しく響く……。




「失礼しますっ!」




 静寂。少し経つと、皆一斉に声の方を振り向いた。


 まるで時代劇の道場破りかのように唐突に教室のドアを開けたその人は、呼吸を荒げながら教室を見渡す。


 長い黒髪がさららと音を立てて靡く度、教室中の視線が彼女に集中していくのを感じる。




「馬鹿な……」




 あまりの出来事に思わずそう呟いてしまうと、問題のその人と目が合う。


 どうやら俺の先輩は、この世の底辺を争えるほどの馬鹿らしい。


「神野! お前何やってるんだ! ここは一年の教室だぞ!」


 男性教師Aに怒鳴られると、先輩は俺に向かう足を止め、目を伏せて少し微笑んだ。


「先生、私、よく考えるんです。高校を卒業して、私には何が残ってるんだろうって」


「は?」


「きっと、テストで何点取ったかとか、どこの大学に受かったとか、そういうのじゃないと思うんです」


「お前、さっきから何を……」


「人との繋がりなんじゃないかって、思うんです」


「……先輩」


 この人が何を考えているのか、さっぱりわからない。


 スカートのポケットに包丁でも隠し持っているのか?


 それとも、本当に頭がおかしくなってしまったのか?


「今朝は部室に顔を出さなかったじゃないか」


 今まで見たことがないくらい真剣な目に見つめられると、嫌でも息が詰まってしまう。


「いや、それは、その、気分で」


「そういう気分じゃなかった?」


「は、はい」




「でも、私は、君に会いたい気分だったよ」




「は⁉」


 言い返す間も無く腕を掴まれ、引っ張られて無理やり立たされる。


 文句の一つでも言って突飛ばそうと思ったが、無駄に凛々しい顔を目の前にするとしおらしくなってしまう。


「な、何する気ですか」


「愛の逃避行」


「そういうこと、恥ずかしげもなく言える性格直しましょうよ……」


「神野! やって良いことと悪いことがあるぞ!」


 男性教師Aがいきり立って先輩に向かってくる。


 ああ、きっとこのまま俺は生徒指導室という名の洗脳部屋に連れていかれて、無意味な反省文を何枚も書かされるんだろうな。


 その過程で先輩も破天荒な性格が直ったりして……それはそれでちょっと寂しいけど。


『パチンッ』


『ガラッ』


 先輩の無駄に上手な指パッチンの音が響くと、教室のドアが勢い良く開け放たれる。


 教室内を睨みながら仁王立ちしていたのは、筋骨隆々の男子生徒たちだった。


「会長を守れえええ!」


「うおおおおっ!」


「な、何だお前たちはっ!」


「今の内だ! 正也君!」


「はっ⁉ えっ⁉」


 先輩の手に引かれ、肉の波を掻き分けて廊下に飛び出す。


 そのまま階段を駆け上がっていく先輩の手を、俺は何とか振りほどいた。


「ちょ、先輩! 待ってくださいよ!」


「どうした? また血を吸いたくなったか?」


「ち、違いますよ! 何なんすかあれ! いつの間に奴隷買ったんすか!」


「奴隷じゃないよ。失礼だな~。彼らは自主的に私に協力してくれてるんだ。ふあんくらぶ? ってやつらしい」


「また人望の無駄遣い……」


 もう思考が追い付かなくなって立ち尽くす俺に、先輩は再び手を差し伸べる。


「さあ、屋上でゆっくり話そう」


「……できません」


「何故だ?」


 俺には、その手を掴む権利が無い。


「昨日も言ったでしょ。俺といると、あなたに迷惑がかかるんですよ」


「……あのな、正也君」


 階段の窓から太陽の光が差し込み、呆れたように笑っている先輩の表情が薄っすらと見える。


「私は、君と一緒にいて、迷惑だなんて思ったことが無い」


「……嘘ですよ」


「嘘かどうかは後で判断すれば良い。今は私を、信じてくれないか?」


 俺は露骨に嫌そうな顔をする。


 しかし、先輩は全く表情を変えない。


「わかりましたよ。奴隷に襲われたくないし」


「ありがとう。屋上でゆっくり話そう」


 俺の手を取り、穏やかに笑う先輩。


「……下心丸出しっすね」


「ば、馬鹿言うなっ! 私はただ、モヤモヤしたままなのが嫌なのであって……」


「慣れないことして足震えてたし」


「で、でもっ! カッコよかった、だろ?」


「正直気色悪かったっすね」


「……!」


 先輩は俺の手を引きながらぶるるっと身震いする。


 あーあ、もう当分この人から逃げられそうにないなぁ。


 ま、暇しなくて良いけど。


 頬を赤らめながらチラチラと後ろを振り返る先輩を見て、俺はそんなことを考えていた。




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