第2話

 札束を拾い集めた安藤の前に一人の女性がしゃがみこむ。

 こぼれ落ちる髪を耳に掛けながら、伏せた目元ははかなげで氷のよう繊細さを秘めている。

 相変わらず美しいと思いながら、安藤の視線は一点に終着した。ブラックホールのごとき引力に安藤は逆らうことができなかったからだ。

 絶妙な位置で揺れている膝下丈のスカート。

 見えそうで見えない照れ屋な膝小僧とその後ろにこれまた見えない柔らかそうに形を変えているであろう魅惑のヒラメ、そう、ふくらはぎ。


 ああ、絶妙に何も見えない。

 悔しいような悲しいような分かっていても期待してしまったことに少々の恥を感じながら。

 安藤はフッと息を吐く。

 他意はない。

 決して。


『絶景ですか? 私から見たら滑稽こっけいですね。古語で言えばウケる~』


「眺めてないで助けてくれよ、トロワ」


 トロワと呼ばれた女性は立ち上がると、おもむろに煙草の火を踏み消すように安藤の顔面を

 躊躇なく振り下ろされるヒールの底は凶器でしかない。分かっていても体は防衛反応してしまう。


『ふふふホログラムが怖いでちゅか?』


「反射だ。俺のせいじゃない」


『ですが安藤は今しがたホログラム、いいえ、幻影である私に助けろと』


「この状況で目の前に人が現れれば誰でも助けを乞うものだろ?」


『どうだか』


 女性はツンと安藤の頭の上に座る。純白な脚を鼻先で組まれながら、安藤はむっちりと変形するふくらはぎと太ももを観察した。


「俺は天才である」


 ぬるりと穴から脱出し、札束と戦利品を鞄にしまう。受け取るしかないものは受け取る。

 仕方のないことだ。


『ざっと見積もったところ億は軽いですね』

 ホログラムがとても悪そうに笑う。


「なぁトロワ、泥汚れの洗濯はできないか?」


 細いしなやかな指が一直線にからへ貫く。

 ホログラムの中から見る景色は電子的でチカチカと小さな光が動いていく。人間でいうところの赤血球なのだろう。


『残念ながらできませんね。全く不便です』


 どちらのことを言っているのか。トロワはホログラムになってから少々狂気的なところが目立つ。

 小型洗濯なら鞄に入っていたはずだ。電化製品ならトロワでも扱うことは可能だ。

「それは残念だ」安藤は大袈裟に肩をすくめる。


『実体でしたらチップをこともできたのですが』


 じんわり汗をかいていた背中が一気に冷える。

 この時ほどトロワが実体を持たないホログラムで良かったと思ったことはない。

 器具も麻酔も使わず眼窩がんかから脳へ直接干渉しようなどさすがに命はない。


『私は大きな世界に羽ばたくのです!』トロワはバレリーナのように優雅に羽ばたいて見せる

『そんなちっぽけな世界では収まりきれません』


「俺の脳はちっぽけではない!」






 ──ドスン


 叫んだところで暖簾のれんのような出入口から鈍い音がした。

 見れば少年が立っていた。

 枯れ枝のごとき躯体に端切れのような服。頬はこけ、顔色も悪い。

 だが瞳だけは水面みなものようにみ輝いている。これは希望を前にした人間の瞳だ。

 だが、その瞳も安藤を見るやアクロバティックに泳ぎだした。

 客かもしれない。


『こんにちは。どうしました?』

 精一杯の営業スマイル。


「出直します」

 少年は慌てて足元にめり込んでいた壺を拾い上げると不審者からのがれるように走り去っていった。独特の金属の当たるチャリンという音を響かせながら。






 少年を見送りながら安藤は頭を掻く。


『少年の正しき判断力に拍手を送りましょう』


 トロワは安藤だけに聞こえる拍手を小さくなった少年の背に送っている。パチパチパチ。


「どういうことだ? トロワ鏡になってくれ」


『嫌ですよ、っさんになるなんて』


「今おっさんの『お』のところだけ発音がおかしかった、なんか嫌だその『お』っさん」


 安藤は身なりを確認する。

 少々砂まみれで頭を振れば髪から砂が舞い上がるくらい、服装だって上等な物の部類だろう。シャツにベストにネクタイ。

 おかしくはないはずだ。


『あえて今見なかったところが問題なのです』


 下半身、見事に股ぐらの辺りに砂がベッタリと付いている。払っても黒く染み込んだ痕は残ったまま。

 漏らしました。

 砂が無言のアピールをしていた。

 頬はさっき蹴られたラクダの烙印がいまだジンジンと熱を持っている。


「冷やすものとかあったっけ?」


『あと数時間後に野外へ行けばありますよ』


 夜は極寒。

 見たことのないマイナスの外気に放り出す気だ!


『子離れですね』


 全身が冷えきっていく。血の気が引いたとでも言うのか、安藤はそっと下腹部付近を押さえる。

 濡れた場所は急激に冷えて凍傷からの壊死、ゆくゆくはポロリ。そんなことが起こりうる気温。

 こんなところでおさらばしたくない!


『冷えましたね』

 トロワはいたずらっ子だった少女のようにクスクスと笑った。

 頬から冷めた熱が今度は胸に柔らかく広がるのを安藤はそっと感じていた。


「笑えないからな!」

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