つま先と、匂いと、シトラス。
USHIかく
つま先と、匂いと、シトラス。
——鼻を突く異臭。
否、鼻腔の奥を、くすぐり、つんざく強烈な匂い。
吐瀉物も排泄物も何処からか浮き出てくるようだ。
捨てられたフルーツの残りから漂ってくるシトラスの香り。
それが腐った有機物の汚臭に溶け込み、鼻にそれが拡散されるほど、新たな側面が広がり、脳裏に新たな情報をもたらす。
それが、きわめて不快で、でもその禍々しい不可思議さに目を配れば、いささか面白い何かが見えてくるようだった。
言語化出来ない自分に、嫌気がさす。
下手くそに束ねた重い袋を片手に、玄関を潜った。外の空気が美味い。
真っ暗で静謐な住宅街に、点滅するほのかな白いランプが辺りをかすかに照らす。
匂いが広がる。臭いだ。
袋を持って、所定の場所に放り投げた。全てを掻き消す臭いから、そそくさに去った。
ふと、空を見る。
水で溶かした黒いインクが乱雑に塗りたくられている。雨模様にも見える雲が悠久に思えるようにそろりそろりとたゆたう。
隣家。
最近まで一人の年寄りが住んでいた。人当たりの良いお婆さん。彼女は、何かを機に家族の元へ転居した。
取り壊された家。かつて古く大きな一軒家が建っていた場所は、土だ。更地だ。
真っ暗な中、微かに揺らぐ「分譲中 電話番号——」と書かれた旗を見ては、また寂しい匂いがした。
更に隣の家。
死角に当たることもあり、あまりしっかりと見たことがない。
住んでいる家族と遭遇したこともあったが、それが何か変化を及ぼしたことはなかった。
覚えているのは、一人の女子中学生がいること。
年齢はわからない。しばらく前のことだ、もしかしたら既に高校生になっているのかもしれない。
土地を囲むひもをくぐりぬけ、空しい更地を進んでゆく。
そして、静かな住宅街に広がる音と香りに神経を研ぎ澄ませた。
——風呂の匂いがした。
家の外景を見てみる。確かに、この家の一階の角には浴室がある。
お湯の匂い。開けられた小窓から広がってくる。
シャワーの音も続いて聞こえてきた。
そして、鼻唄だ。
子供とも大人ともない、女の声。あの娘だろう。
それを認識した時、何か良くない物が押し寄せてきた。
匂い、匂い、匂い。
次々と鼻を狂わせてきた匂い。
この小さな小窓から覗くのは不可能だ。
だが、見たい。匂いを嗅ぎたい。どうしようもない衝動と欲求に頭が揺らぐ。
少しずつ意識がぼーっとして行く。
誰かが通りすがったら違和感を覚えるかもしれない。しかし、犯罪行為どころか、人として許されない行為に身を挺している訳でもない。
たまたまここにいたら、近くの家の生活音が聞こえてきただけだ。
正義ではないが、悪ではない。
ここに存在することが許される。
いまこの小窓まで登れば。
携帯を忍ばせれば。
見たい。見れる。
そうかもしれない。
だが、それもまた幾分と無粋に思えた。
小さな鼻歌と、それをかき消すシャワーの水音。
ざーざーという音が、小さな音を静かな夜空に響かせる。
耳を澄ませねば聞き取ることは難しい。
通りゆく人も気がつくのに苦労しよう。
目を閉じる。
情報を遮断し、情報を深める。
匂い。匂いがする。
肌の匂い、石鹸の匂い。
錯覚だろうか。きっと錯覚だろう。
沸いたお湯。浴室特有の、さまざまなものが混じった匂い。
それが汚臭を上書きして、脳をかき乱して行く。
道を過ぎるものはいない。
この時間にもなれば、そういないだろう。
音が止まった。ドアが開く小さな音がして、世界は終わった。
湯の匂いだけが漂っていた。
自宅に戻ると、何処で油を売っていたのかと詰め寄る家族を傍目に、自室の布団に飛び転んだ。
天井を見上げる。
変わりゆく世界に虚しい感傷をもたらした心は、今やない。
何かに取り憑かれたように、身体中を駆け巡る。
欲情にまみれているかというと、それだけではないだろう。
言葉にできない、心を傾ける不思議なものが、つま先から登ってくる気がした。
言語化出来ない自分に、嫌気はささなかった。
匂い。匂い。匂いだ。
あの石鹸からも、シトラスの香りがした。そんな気がした。
つま先と、匂いと、シトラス。 USHIかく @safchase
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