第8話ありがとう
シレンシオ
ありがとう
天空は動いても、次なる未来を教えはしない。
カフカ
第八屋【ありがとう】
最近、孤独死というものが増えている。
年配者の独り暮らしが多くなり、それとともに地域の交流が減ってきたため、声をかけあうことも少なくなってきた。
トキコもその1人である。
若くして結婚したトキコは、愛する夫と子供に囲まれて生きてきた。
長女と長男は結婚し、次女はまだ独り身だが、それぞれなんとか生活している。
夫はというと、定年するその少し前に、交通事故で亡くなってしまった。
信号無視をした車に轢かれ、そのまま少し引きずられてしまったようで、即死ではなかったようだが、助からないだろうと言われた。
毎日病院に見舞いに行っても、夫は何も喋れないし、目も開けない。
半月ほどすると、静かに息を引き取った。
それから余計に、家は静かになった。
近所とは多少付き合いはあるにしても、みなそれぞれ孫と会ったり出かけたりと、元気に活動をしている。
一方、トキコは足を悪くしているため、1人で出かけることが億劫にもなっていた。
このくらい大丈夫と思って歩いていても、よたよたと歩いているように見えるらしく、周りから声をかけられることがよくある。
ああ、もう歳なんだな、とそういう気分になった。
娘たちからも、何か遭ってもすぐに来れるほど近くにいないんだから大人しくしているようにと言われてしまった。
今は宅配サービスというのがあるため、それを利用している。
夫がいた頃は、不器用ながらにも料理を手伝ってくれたり、何処か散歩に連れて行ってくれたものだが、その夫ももういない。
仏壇に手を合わせ、夫が好きだったおはぎを並べる。
「私もそろそろ、そっちに逝くわ」
夫を残して自分が死ぬのも嫌だが、自分が残されて夫に先立たれてしまうのも、悲しいものだ。
家にいても話しを聞いてくれる相手もいなくて、ただテレビを流しているだけ。
冬を越して春を迎える準備をしている今、寒さも徐々に無くなってきて、トキコは炬燵をしまおうか、それとも出したままにしてしまおうかと悩んでいた。
以前、家の中で少し重たい物を持っただけで転んでしまって、救急車で運ばれたことがある。
それ以来、心配も迷惑もかけまいと、余計なことはしないようにしてきた。
そんなトキコにも、まだ自分で足を動かして何処かへ行きたいという気持ちが残っている。
「お父さんと行ったあのお店、まだやってるかしら」
それは、まだ夫と出会って間もない頃、2人で行った小さな喫茶店。
そこのコーヒーが美味しいと言われ、ワクワクと待っていたのだが、初めて飲んだコーヒーの味に、渋い顔をしてしまったのを覚えている。
夫はそんなトキコを見て笑って、カフェオレを注文してくれた。
トーストにベーコンと卵が挟んであるものも美味しくて、行くといつも頼んでいた。
結婚してからも、トキコは通っていた。
1人でのんびり行くこともあったし、忙しい夫の休みの日に一緒に行くこともあった。
子供が出来てからはあまり行けなくなってしまったが、時々店の前を通るたび、まだやってるんだな、と安心したものだ。
子供が独り立ちして、ようやく夫との時間が出来たと思ったが、それからすぐ、夫が亡くなってしまった。
そのため、あの喫茶店に行けなくなってしまったのだ。
しばらく考えて、トキコは喫茶店を目指すことにした。
それほど遠くなかった気がして、財布と、それから長女が買って来てくれた杖を持って、少しお洒落をする。
外はまだ太陽が元気に笑っていて、トキコは帽子を被った。
「はあ・・・はあ・・・」
まだ少ししか歩いていないというのに、トキコは息を切らしていた。
歳のせいなのか、あれほど近いと思っていた店が、こんなに遠いとは思っていなかった。
軽やかに動いていた足も、今は重たくて、一歩一歩進めるだけで、まるで錘でも付いているかのようだ。
少しその場で休憩をしてから、また歩き出す。
どちらかというと寒い時期だというのに、トキコの額からは汗が流れ出ている。
目の前の道を眺めていると、この街もすっかり変わってしまったと感じる。
以前は賑やかだった商店街も、すっかりシャッターが下りていて、どこもかしこも人がいない。
そんな道を通り過ぎて、見覚えのある看板がトキコの目を輝かせる。
「あった・・・」
もうすぐそこだと、トキコは足を速める。
「やっと着いた・・・」
嬉しくて顔をほころばせたのも束の間、入口には閉店しましたという文字が書かれた紙が貼ってあり、トキコは眉を下げる。
息を整えるため、トキコは杖でバランスをとりながら、その場で何度も呼吸を繰り返す。
その時、後ろから声をかけられた。
「このお店、去年の今頃閉めてしまったんですよ」
「そうだったんですね。せっかく、久しぶりに来たのに。残念だわ」
そう言って声のする方に顔を向けてみると、そこには、この辺りではまず見かけることのない若い男がいて、しかも異国から来たのか、青い目に紫の髪をしていた。
テレビでなら、金髪くらいなら見たことはあったが、こんな色の人もいるのかと、トキコはじーっと男を見ていた。
肌も白くて綺麗な顔をしていて、女性といっても良いだろうくらいの上品さもある。
「あなた、この辺りの人?」
「いえ、違います」
「私ね、この喫茶店にとても思い入れがあるの。あなたも?」
「ええ、まあ。コーヒーが美味しいんですよね。あとトーストも」
「ええ、そうなのよ。そうなの。でも私、コーヒーが苦手でね、夫がカフェオレを頼んでくれたのよ」
若い頃だけどね、と付け足すと、トキコはまたすぐに悲しい顔をした。
「残念だけど、時代の流れよね。この商店街も、あっという間に錆びれてしまったわ。若い人はみんな大きな店に行ってしまうから、どんどん人がいなくなってしまったのね」
「長いんですか?ここで住まわれて」
「ええ。もう、50年以上いるかしら」
「それはすごいですね。それだけいれば、確かに街並は変わってしまうかもしれませんね。月日は思ってる以上に早く過ぎてしまいますから」
「本当ね。あ、ごめんなさいね。引き留めてしまったみたいで」
「いえ、僕も暇してましたので」
にっこりと、娘たちでさえなかなか見せてくれないだろう笑顔を見せる男に、トキコも笑顔を見せる。
家に帰ろうと足を動かすが、思う様に動かせず、転びそうになってしまった。
しかし、男がトキコを支えてくれたため、転ばずに済んだ。
「ありがとう。私の家、近くなの。良かったら、お茶でもどう?」
「ありがとうございます。ですが、偶然にも僕のやっている居酒屋も、この近くなんです。折角の御縁ですから、よろしければ、いらっしゃいませんか?」
「あら、いいの?でも私、足悪いから」
「構いませんよ。何しろ、席が1つしかない、小さな店ですので。他の方に気を使う事もないかと」
男に支えられながら、トキコは男の店へと向かった。
そこは確かに小さな店だが、どことなくあの喫茶店にも似た雰囲気を感じて、トキコは安心した。
しかし、カウンター席は座りづらく、どうしようかと思っていると、男はすぐにカウンターの椅子を取り外すと、そこに丁度良い高さのソファのような椅子を用意してくれた。
「ありがとう」
「いえ。お飲み物は、カフェオレでよろしいですか?」
「ええ、いただくわ」
差し出されたカフェオレは、あの喫茶店の味に良く似ていて、トキコは思わず一気に飲み干してしまった。
ふう、と一息吐くと、男はもう一杯のカフェオレを出してくれた。
それからトキコが好きなものを聞いてきて、オムライスと答えた。
「あなた、名前はなんて言うの?」
「ノア、といいます」
「やっぱり、別の国の方なのね。綺麗な青い目をしているし、紫の髪も素敵ね」
「初めて言われましたよ。ありがとうございます」
目の前に出されたオムライスは、昔ながらのもので、口に入れれば美味しさだけでなく懐かしさまで広がる。
「とっても美味しいわ」
「お口にあって良かったです」
一口一口、ゆっくりと味わう様に食べているトキコは、時折、横に置いてあるカフェオレに手を伸ばす。
まるで若い頃を思い出しているかのように。
すっかり自分も老けてしまった。
だが、結婚も子育ても、何一つとして後悔していないし、あの時に戻ってやり直したい、と思う事もない。
「お1人なんですか?」
「え?ええ、そうなの。夫に先立たれてしまって。娘たちも遠くに住んでるから、なかなか会えないの」
「寂しいですね」
「そうね。でも、私の人生はとても良かったと思うわ。夫にも恵まれて、子供たちにも恵まれて、本当に、幸せだったわ」
御馳走様、と言ってトキコは食べ終わったオムライスの皿を端によけた。
「あの喫茶店が無くなっていたことはとても残念だけど、今度はここに来ようかしら。何時くらいからやっているの?」
「・・・すみません、気紛れで店を開けているので、特に決まってはいないですよ」
「あらそうなの。残念だわ」
すると何を思ったのか、トキコはポケットから何か探していた。
「はい、あなたにあげるわ」
そう言って差し出したのは、トキコも夫も好きだったイチゴの棒付き飴だ。
トキコの手から飴を受け取ると、ノアは御礼を言う。
「もしよろしければ、こちらをどうぞ」
「あら、何かしらこれ」
「寿命屋と言いまして、そこに名前と死にたい年齢を書いていただければ、苦しまずに死ぬことが出来ます」
「あら、便利なものがあるのね」
まるで玩具でも渡されたかのように、トキコはクスクスと笑っている。
冗談だと思っているのか、それとも気にしていないのか。
ペンを渡すと、トキコはさらさらと書き始めた。
「・・・そんなにすぐに書いてしまってよろしんですか?」
「いいのよ」
「御自分の命のことだというのに、随分と淡泊なんですね」
「そうかしら?だって、子供たちはそれぞれちゃんと生活してるし、私は1人で、最愛の夫は天国。妻として、夫の傍に行くのは当然でしょ?」
「そういうものですか」
意外そうな顔のノアに、トキコは楽しそうに笑っていた。
「あなた、面白い人ね」
「僕ですか?」
「ええ。私のことをそんなに気遣ってくれるなんて、面白い人よ。まるで夫のようだわ」
「そんな、素敵な旦那さんと比べていただけるなんて」
「はい」
トキコは白い紙をノアに渡すと、ノアはトキコの髪の毛を名前のところに貼るが、そのとき、一瞬だけ目を見開く。
そして、すぐにまたトキコに微笑みかけた。
「あなたの寿命と、あなたが死にたい年齢は、同じですので、この紙を使って苦しまずに死ぬか、それとも、運命に身を任せて死ぬか、貴方自身で決められます。どうなさいますか?」
「あら、やっぱり?」
「やっぱり?」
知っていたかのように言うトキコに、ノアは首を傾げる。
カフェオレを啜って、トキコは続ける。
「なんとなくね、そんな気がしてたのよ。私どういう死に方するのかしらね。痛いのは嫌なんだけど、分からないものね」
「・・・・・・」
「じゃあ、あなたに任せるわ」
「僕にですか?では、この紙の通りということでよろしいですか?」
「ううん、そうじゃなくて。あなたが決めて頂戴。私はどっちにしても、その時死ぬんでしょ?なら、どちらでも構わないわ。だから、あなたに決めてほしいの」
「ですが」
「だからって、あなたを恨んだりしないわ。あなたが選んでくれたのが、きっと夫が選んでくれた道だと信じるの。ダメかしら?」
「・・・そのような依頼をされるのは初めてですので」
「ふふ。じゃあ、お願いね」
立ち上がって帰ろうとするトキコを止めると、ノアはいつ用意していたのか分からないが、トキコの前にトーストを出した。
「これ・・・」
それは、あの喫茶店で食べていた、ベーコンに卵が乗っているもの。
こんがりと焼けたトーストは香ばしくて、ベーコンは少し厚切りで、卵は半熟でとろっとしている。
ほろ、と意識していないのに、涙が出てきてしまった。
「・・・美味しい」
「それは良かったです」
「あなた、本当に面白い人ね」
「どうしてです?」
「まるで、私の心が読めるみたい」
涙を流しながら笑っているトキコは、鼻水を啜りながら食べていた。
綺麗に食べきると、食後にもう一杯カフェオレが運ばれてきて、それも綺麗に飲み干すと、ノアに御礼を言う。
幾らかと聞けば、ノアはいらないという。
何度か粘ってみたのだが、ノアは笑顔のまま断り続けたため、トキコは何度も何度も頭を下げて御礼を言った。
「ありがとう、とても美味しかったわ」
「こちらこそ。送って行きましょうか?」
「大丈夫よ。ありがとう」
「暗くなってきましたので、お気をつけてお帰り下さい」
「ええ、ありがとうね。主人との思い出もいただけるなんて、思ってもみなかったわ。本当にありがとう」
トキコが店を出て行ったあと、ノアは深いため息を吐いていた。
カツラをとって服も着替えると、奥の部屋に入り、トキコが書いた紙を眺めていた。
「・・・どちらにせよ自然死なんだがな、これを喰って俺の糧とするか、喰わずに売りだすか、困ったもんだ」
そこへ、一本の電話が鳴った。
ジリリリリ、と黒電話が揺れ動くと、男はその受話器を持って耳に当てる。
「はい、こちらアダム=メイソン」
『アダムか。ちょっと頼みたい事があるだが、いいか?』
「わかった。すぐ向かう」
電話を切ると、男、アダムは闇に消えた。
ふと現れた小さな居酒屋。
そこの灯りを見つけても、決して入ってはいけません。
なぜならそこは、あなたの寿命を売買するための、罠なのですから。
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