第21話 妹
この日、ディースはより深い知識を求めて本館にある書庫に向かっていた。
誰かに聞けば分かるような知識はこの数日間で吸収し終え、今はそこから一歩先に進もうという段階。館の規模に相応しい広い廊下の真ん中を、肩で風を切るように進む。その後ろをメリルとパウが続いた。
時間の経過と共に、使用人たちの間にもディースが変わったという話は浸透してきている。今の威風堂々たる姿は、それに説得力を持たせるには充分だった。
忌々しそうなもの、あざ笑うかのようなもの、値踏みするもの。様々な視線がディースに向けられる。
その正しい反応を見て、ディースはご満悦だった。
「そう、これだ。こうなるのが普通なんだ。どこぞのメス犬には大分かき回されたが、ようやく良い流れになってきたな」
ディースの言葉に返事は無い。喋ると碌なことにならないと、パウは許可が出るまで話すことを禁じられていた。
ちなみにドルイアとの面会だが、まだ終わっていない。パウの顔見せをくっつけたことで別の準備が発生し、その間にまた体調を悪くしてしまったようだ。回復して容態を見て、面会までには暫く掛かりそうだった。
何事も無く目的地であった書庫に辿り着く。
突っ掛かってくる人間でもいれば面白いイベントの始まりだったのだが、さすがにそこまで迂闊なことをする者はいなかった。少し残念に思いながらも、ここに来た目的を果たそうと意識を切り替える。
しかしそう思ったのも束の間、イベントは最期の最後にやってきた。
「お兄様!」
膨大な書物が保管されている書庫の一角には先客がいた。
扉の開閉の音でディースに気付いた妹イオが、乳母の制止も聞かずに喜色を浮かべて飛び込んでくる。ディースはそれに笑みを浮かべて迎え入れた。
「久しぶりだね、イオ。お勉強していたのかい?」
「はい! ニスティス伯父様に教えてもらってました。今は休憩中です!」
「そうか。お勉強ができて、イオは偉いね」
久しぶりに会えたディースに褒められて頬を緩ませるイオ。
とても愛らしい女の子だ。ゲームだからか、それとも見た目も問われる貴族の歴史のせいか、イオもまた人並み外れた容姿をしていた。
そんなイオが無垢な笑みを浮かべれば見ている方も自然と笑顔になるというもの。ディースと仲むづましい様子のイオに、メリルも微笑を浮かべていたが、パウは初めて見るディースの兄としての姿に目を丸くしていた。
そこにわざとらしい咳払いが紛れ込む。
「イオ様、席に戻りなさい。すぐにニスティス様も戻られます。あなたに遊んでいる時間は無いんですよ」
「ご、ごめんなさい……」
途端に萎縮し始めるイオ。その表情に浮かべていたのは恐怖だった。
名残惜しそうにしながらも戻ろうとするイオだったが、その足が進んだのは乳母の方ではなくディース側。イオを引っ張ったディースはパウに短く命令すると、穏やかな顔をしたまま進み出た。
「目と耳を塞いでおけ」
「へ!?」
いきなりのことにパウは咄嗟にイオの頭を正面から抱え込む。その間にディースはイオの乳母に接近していた。
至近距離で下から見上げるディースは、得も言われぬ迫力を放ちながら乳母に問いただした。
「おい。一体誰の許可を得て、僕とイオの会話に割り込んだ? 言ってみろ」
「な、なんですか……」
乳母は狼狽えていた。以前は余りものにピッタリなただの子供だったのに、目の前にいるディースは全然違う。
あの一件で気が
「何よりもまず言うべきことがあるだろう。この家の嫡男が姿を現したんだぞ。挨拶はどうした、お前のような常識知らずが乳母役では、イオの将来が心配でならんな」
「し、心配は要りません。イオ様は、立派な後継者となりますので」
薄気味悪さを感じるディースに負けじと勝ち気なことを言う乳母だったが、それは悪手だった。獲物が罠に掛かるのを待っていたディースは、乳母の脛を蹴り上げる。
「だから、挨拶はどうしたッ」
「ィッ!!?」
いくら子供のものとは言え、靴は履いているしピンポイントで弱い部分を攻撃されたら激痛は免れない。
まともに立っていられず、頭が下がった乳母の頭をディースは髪を鷲掴みにして更に下げた。
「随分と調子に乗っているようだな。虎の威を借る狐が、何を勘違いしている。お前自身には何の力も無いんだよ。身の程を弁えろ」
「や、止め……」
「手は出されないと高を括っていたか。こんなあからさまなことをしてこないと。お前たちが僕に何をしたのか忘れたのか? 僕が味わった苦しみのほんの一部でも、今ここでお前に分からせてやろうか」
「ッ!」
乳母は思い知っていた。ディースは気が狂れるなんて次元ではなく、まるで別物になっていることに。
実際に痛みに晒されることで、急速に本能が働く。ディースとの身分差を理解し、恐怖を抱いた。
「侮っていた相手に対して何もできない気分はどうだ。僕はお前に何をしたところで別に問題になったりはしないが、お前は僕に少しでも手を上げれば大問題だ。そんな当然のことも忘れて粋がっているのだから、やはり乳母として相応しいとは言えないだろう。どれ、僕は今、教育に凝っていてな。特別にお前のことも少し見てやる。まずは挨拶だ。ほら、何と言うんだ?」
「お、おはようございます……」
「なんだその暗い挨拶は。そんなんじゃ太陽も出て来てくれないだろう? もう一回」
「お、おはようございますっ」
「そうだ、では悪いことをしたら?」
「……申し訳、ございませんでした」
膝を屈して俯く乳母とニコニコ顔のディース。どちらが優位に立っているかは言うまでもなかった。
「よしよし、やれば出来るじゃないか。それでいいんだよ。物分かりの良い奴は好きだぞ? どうだ、お前も僕の教育を受け続けてみるか?」
「だ、駄目ですよ!!」
髪の毛を掴んでいた手を離し、一転、乳母の頭を撫でていたディースに鋭い声が飛ぶ。
乳母は、急に大声を出したパウ・テスタラに驚いた。
「おい、許可を出すまで喋るなと言っただろうが。この駄犬が、まだ調教が足りないようだな」
そのやりとりに、ディースの物言いに、乳母は身の毛がよだった。
パウ・テスタラは確か、何らかの弱みを握られて無理矢理に従わせられていると言う話だった。二人の会話から察するに、おそらく口に出すのも憚られるようなことが行われている。
それこそ、教育とは名ばかりの調教が。
自分が経験したことで痛いほどの説得力を持つその考えに、疑いの余地はない。パウ・テスタラは、そんな苦しみを味わう人間を増やしたくなくて、庇ってくれたのかもしれなかった。
頬が引き攣る乳母を余所に、横槍が入ったことで興が冷めたのか、頭を撫でていた手が止まる。それと同時に、気持ち悪い笑顔も引っ込んでいた。
そして現れた鋭い眼光。それが本来の姿なのだろう、気圧されて身動きが取れない乳母は最後のメッセージを受け取る。
「これからは頭の高さに気をつけながら生活するんだな。それと……あぁ、そうだ。挨拶と言えば、ドマ様には『この度はご心配をお掛けして申し訳ございませんでした』と言いに行かねばならんな。近々赴くから、もてなしの用意をして待っていろと伝えておけ」
そこに込められていたのはこれ以上ない程の皮肉と挑発。しかし、今の乳母には何も言えず、ただ首を縦に振ることしかできなかった。
「犬、もういいぞ」
ディースが言うとパウはイオを解放する。状況が全く分からないイオは、純粋な瞳のままディースに尋ねた。
「お兄様、何をしてたの?」
「イオが怖がっていたようだったからね。もっと優しくするように頼んでいたんだよ」
イオは驚いたように目を見開くとディースの背後に目をやって、膝をついている乳母を見て首を傾げていた。
そんな妹に、ディースは優しく声をかける。
「ねぇ、イオ。僕はね、当主になることにしたんだ。応援してくれるかい?」
「そうなんですか? でも、お母様も皆も、イオが当主になるんだよって……」
「それはね、一杯お勉強して、僕の役に立てるようになれって意味なんだよ。イオは僕のお手伝いをするのは嫌かい?」
「嫌じゃないです!」
「それは良かった。じゃあお手伝いしてくれるかな?」
「分りました! でも、その代わりに、また前みたいに一緒に遊んで欲しいです!」
「はは、そうだね。イオがたくさんお勉強を頑張ったら、また遊ぼうね」
「本当!? 約束です!」
「あぁ、約束だ」
敵の前で堂々と都合の良い刷り込みと約束を行うディース。そのえげつなさには、誰もが言葉を失っていた。
目を輝かせるイオと他愛無い話を済ませたディースは、目的の本を求めて奥に向かう。その途中でパウが話しかけてきた。
「あのぉ、ディース様?」
「イオを離していいと言っただけで、喋っていいとは言ってないぞ」
「えぇ!?」
「やかましい。全く、ここにいる間だけだぞ。なんだ?」
「あ、はい。……その、言い付けを破ってすみませんでしたぁ」
「ふん、がめついドエムであるところのお前なら、あそこで口出ししてくる事は想定内だ。どちらでもよかったがな」
「あ、そうなんですね。良かったというかなんというか……。それにしても、イオ様可愛かったですね! ディース様が溺愛するのも何となく分かりますよ!」
「イオか……」
ディースは考える。今日のことが、果たしてどれだけ有効的に働くか。
それほど多くのことは求めていない。精々が、ドマ派の勢いをほんの少しだけ遅らせるぐらいだろう。
乳母を黙らせたところで、その乳母に命令を出しているのはドマだ。やれと言われれば命令に背くことはできない。
それにイオはまだ三歳。生まれた時から記憶を持っていると自分で言っておいてなんだが、イオがもっと成長した時に、今日のことを覚えているかどうかは微妙なところ。
それでもやらないよりかはマシかと、ついでのように唆したに過ぎない。幼心に生まれる葛藤は、いくらかイオを苦しめることになるかもしれないが知ったことではない。
ディースにしてみれば覚えておく価値すらないもの。その記憶は、先を急ぐディースの頭からすぐに消えていった。
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