第13話 扉
パウ・テスタラは困惑していた。
身体が熱い。まるで一生懸命雑巾がけをした後のように身体が火照っていた。
しかしパウは実際に身体を動かしていたわけではない。やったことと言えば粥をひと口食べたくらいで、身体が温まるほどの何かをしたわけでは決してない。
だからこそ、今自分が感じているものが分からず、戸惑っていた。
ディース坊ちゃまはかき込むように食事を終えた後、食器を下げさせるついでにメリルたちに朝の支度をしてくるように命じた。
部屋を出る時にディース坊ちゃまが変なものを見るような視線をパウに送っていたのが印象的で、それが更にパウの身体を熱くさせる。
部屋を出て、失礼のないように扉を閉めると、ディース坊ちゃまの乳母であるメリルが勤務の終了を告げた。
「パウ嬢、この度はお手伝いしてくださり、ありがとうございました。また機会があればよろしくお願いします」
使用人として洗練された人。
パウから見たメリルはそんな印象だった。
本当は、使用人の偉そうな人からメリルの手伝いをしろと言われた時は嫌だった。何故なら、皆が敬遠していたから。
変なことで目立って自分まで巻き込まれるのが怖かった。
しかし言われたからにはしっかり仕事をしないといけない。不器用なりに頑張ってみたが、やっぱり上手くいかなかった。
それに引き替え、メリルは凄い。
絶対に体調が良くないはずなのに、たくさんの仕事を流れるようにこなしていく。その手際は、さすが辺境伯家が乳母に任命した人と納得できるもので、女としてかっこよさを感じるほどだった。
結局跡継ぎから外され、この年になってから政略結婚の道具にされそうになっている自分とは大違いだ。そんな彼女に失礼にならないように返す。
「い、いえ。お礼を言われるようなことはしていないというか、迷惑ばっかり掛けてすみませんでしたぁ……」
お世辞だろうが、人からありがとうと言われたのは久しぶりで、嬉しいやら後ろめたいやら、複雑な気持ちだった。
人のことをよく知りもしないで遠巻きにしていたこともあって、申し訳なさが立つ。
メリルはたぶん、良い人なんだと思う。
公爵家に来てから働いた中で一番仕事がしやすかったし、一度も怒られなかった。それだけで良い人認定してしまうのはどうなのだろうか、とは自分でも思うが、パウに人を見る目が無いのだから仕方ない。
貴族とは思えない弱気な発言は、家の者が聞いたら激怒するだろうが、メリルは可笑しそうに微笑んだ。
「迷惑だなんて思っておりません。パウ嬢は、そこにいるだけで周りを和ませる雰囲気をお持ちです。おかげで私の仕事も捗りました」
そうなのだろうか。そんなことを言われたのは初めてでパウは驚く。
かえって手間を増やしていた気がするのだが、メリルがそう言うのであればそうなのかもしれない。
いつも周囲から鈍臭いとかトロいとか蔑まれる不出来な部分も、メリルほど仕事ができる人間からすれば感じ方が違うのだろうか。
パウは相談してみたいと思った。今の不思議な気持ちと、パウがここに来た経緯を。
メリルなら答えをくれそうな気がして、気づけば口を開いていた。
「あ、あのメリル、さん。少しお時間いいでしょうか? 相談したいことがありまして……」
パウの申し出に、メリルは意外そうな顔をしていた。碌に話したこともない相手から相談があると言われたらそんな顔にもなるだろう。
断られても仕方がないと思っていたが、メリルは優しかった。
「そうですね……大丈夫だと思います。ディース様も考え事があるからゆっくりでいいと仰っていましたし。では、お互いに朝食等を済ませた後、再びこちらに集まると言うことでよろしいでしょうか。勤務中でもないのに私と一緒にいるところを見られたら、パウ嬢までいらない目に遭ってしまいますからね」
「はぅ……気を遣わせてすみません」
なんて良い人なんだろうか。パウにはメリルが理想の女性像に見えてきていた。
パウとメリルは一旦別れてそれぞれ用事を済ませる。変則的な勤務だったので、入れ違いになった比較的仲の良い同僚と一言二言交わし、誰にも見つからないようにまた別館に戻った。
「パウ嬢。こちらへ」
案内されたのは別館用にあるメリルの部屋だった。
入るのは二度目だが、昨日はテンパっていたし暗かったので中の様子はほとんど覚えていない。余り物が無く、整理整頓されていてメリルの人柄が窺える部屋だ。
今更ながら、自分の意味不明な発言を聞いて、ディース坊ちゃまのところではなくヘンゼルマンの元に向かった昨日のメリルの判断力は凄かったなぁ、と思う。
自分がメリルの立場なら絶対にディース坊ちゃまのところに行っていた。そして何もできずにワタワタするのだ。
どうすればメリルのようになれるのだろうか。
「それで、ご相談とは何でしょうか。私にお答えできることならいいのですが」
「は、はい。突然すみません。えっとですね、少し前から身体が熱くて……」
「お体の調子が優れないというお話でしょうか?」
「あ、えっと、そうじゃなくて、その……ディース坊ちゃまにアレコレされてから変に身体が熱くてフワフワしてると言うか、これ何なのかなぁって……」
恋ではない、はず。相手は五歳だ、さすがにそういう感情は湧かない。
それに、屈辱的なことをされたのは分かっているのだ。恋心に繋がるのはおかしいだろう。なのに、嫌な感情は浮かばなかったのが不思議なのだが。
パウの質問を受けて、メリルは申し訳なさそうというか、気まずげな顔をしていた。
何か知っているのだろう。そしてそれは、あまりよろしくないものなのは見当がついた。
「パウ嬢、その節は止めに入ることもなく、申し訳ありませんでした。少々事情がありまして」
「い、いえー。びっくりはしましたけど、別に嫌ではなかったので……」
「そうですか。やはり…………。パウ嬢、突然ですが、ロマンス小説をお読みになったりしませんか? 私がパウ嬢くらいの年頃は、よく周りの令嬢方がお読みになっていたものですが……」
「あ、はい。よく読んでますぅ」
できる女であるメリルから、ロマンス小説という言葉が出てくるとは思わなかった。
あれは良い物だ。パウの心のオアシスである。もしかしてメリルも昔は読んでいたのだろうか。
しかし何故今その言葉を? と思ったところで、メリルが口にした内容は、パウに途轍もない衝撃を齎すことになる。
パウ・テスタラの運命は、ここで大きな分岐点を迎えた。
「物語の中で見かけたことはありませんか? その……殿方に、ぞんざいに扱われて喜ぶ女性を」
「あ、あります! あれ、よく分かんないですよねぇ。意地悪されて喜ぶなんて、そんなことあるわけな……」
「パウ嬢!」
「はひぃ!?」
メリルが意外とロマンス小説を知っていて嬉しくなったパウは、久しぶりに饒舌になりかけていたが、いきなり強く名前を呼ばれたことであえなく終了する。
何だろうかとメリルの方を見てみれば、そのメリルは何故かパウから目線を逸らした。
「……あなたです」
「……へ?」
「無自覚……無理もないかもしれませんね。似ているとは思いませんか? あなたの状況と、物語の女性が」
「わ、私と、物語の女性? え、それって…………エッ!??」
似ていた。確かに、似ていた。
言われるまで気づかなかったが、指摘されてみれば、状況は酷似していた。
「物語に出てくる殿方は全員大人ですからね。年端もいかないサドっ気ある男児なんて、ニッチなジャンルがあるわけもないですし……」
「でででででででも私、別によよよ喜んだりなんか」
嘘だ。何とも言えないが、あの時感じていた気持ちは、一番近いもので言えば喜びだった。
「う、嘘……私が? でもなんで、今まで虐められたことなんか一杯あったのに……」
「私も詳しいわけではありませんが、相手にもよるのではないでしょうか。そして今日、パウ嬢はご主人様に出会った」
「ごごご主人シャマ!?」
鏡を見なくても分かる。パウの顔は絶対に真っ赤っ赤になっていることだろう。頭が沸騰しそうだった。
それはそれとして、ご主人様。
甘美な響きだった。
「ディース様が人の上に立つ器であることは私も保証しましょう。主として仰ぐのに、あの子ほどの人物はいないかもしれません。しかし……」
パウはトリップしかけていたが、メリルの声が聞こえて慌てて意識を戻す。そのメリルは、非常に悩ましい表情をしていた。
しばし沈黙した後、ようやく喋りだす。
「確認ですが、パウ嬢はディース様にお仕えしたいのでしょうか?」
「へぅ!? え、えっと、まだ気持ちの整理が……」
「そうですね。そうでしょう。えぇまだ混乱しているはずです。落ち着いてから、冷静に決めてください。……それでですが、もしも、万が一、パウ嬢がディース様の下につきたいと考えた場合、大きな問題が二つあります」
やけに問題を強調したメリルが、指を二本立てながら言う。
「一つは、パウ嬢がここにいられる時間が然程長くはないだろうということ。花嫁修行の一環だと考えています。その認識で合っているでしょうか」
「あ……そうですぅ」
思い出したくもないことを思い出してしまった。しかしその間にメリルはもう一つの理由を告げる。
「もう一つは、今のディース様は人を見る目が非常にシビアだと言うことです。自分の役に立たないと思った人物を傍に置くことはないでしょう。それはパウ嬢も感じたことと思います」
「そ、そうですね。今回初めて間近に接してみましたが、迫力が凄かったですぅ……」
可愛らしい顔をしているのに、鋭い目つきでスプーンを突きつけられた時のことを思い出す。
どことは言わないが、疼く。
「……そんなわけでして、パウ嬢がディース様の下で働くのは難しい現状です。失礼を承知でお聞きしますが、パウ嬢には何か、ディース様が認めてくれそうな能力をお持ちでしょうか?」
「能力……」
人と比べて優れているところ。過去に散々打ちのめされてきたパウにとって、聞いて欲しくないことだった。
しかし、ここで見捨てられたら後悔することになるという予感があった。ダメ元でもいいから、とにかく口に出してみる。
「えっと……あ、毒、<
「本当ですか!?」
「へぅ!!?」
凄い食いつきだった。
誤解されたら不味いと、自分の評価を下げるようなことを口走ってしまう。
「つ、使えるって言ってもスクロールのやつだし、それも五、六年前に覚えたやつで!」
「充分です! 毒の種類なんて早々増えるものではありません! ちなみに、その時お使いになられたスクロールはいつ頃のものですか?」
「い、一番新しいやつです」
「あぁ、素晴らしい!」
パウがあまり価値を見出していなかったことは、メリルにとって大事なものだったらしい。
確かにスクロールは高級品だし、偽物も多く出回っている。適性が無ければ覚えることもできない上、一度発動したスクロールは成功の可否に関わらずただの紙切れになってしまうので、能力と言っても差し支えないのかもしれない。
今となっては『女』という道具の付加価値を上げるものとしか考えていなかったので失念していた。
「あの、でもディース坊ちゃまは要らないって言うんじゃないですか? 毒なんて全く怖くなさそうでしたし……」
「そんなことありませんよ! 毒は殺害方法の常套手段、その対策はいくらあったっていいのですから! しかし、男爵家とはいえ…………。パウ嬢、間違っていたら申し訳ありません。もしや、属性をお持ちでは……?」
「…………はい。土属性を、持ってますぅ」
驚きの顔をするメリルとは裏腹に、パウの浮かべる表情は沈みきっていた。
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