第12話 幻視剣尖

 嗚呼、この子は間違いなく、ドルイア様のお子だ。


 瞳に強い覚悟を湛え、鮮烈なる宣言を行ったディースを見て、メリルはその尊き姿に涙する。


 初めこそ、その得体の知れなさから、愛情を注いできた相手にあろうことか恐怖心を抱いてしまったが、根っこにある想いを聞いた今となっては、そんな自分を恥じるばかりだ。


 五年間も傍にいながらメリルは何も分かっていなかった。その気高さも。深い優しさも。そして、秘められていた苦しみも。


 メリルも、ドルイアが育児から離れてからの、エスカレートする嫌がらせには苦しめられてきたが、ディースが耐え忍んできた四年間の辛き日々は自分の比ではない。


 一歳の段階で父親に失望され、それでも公爵家のためにできたことは、自分を殺すこと。


 あんまりではないか。あの無邪気に笑っていた表情の裏で、この子はずっと泣いていたのだ。


 今までの姿が偽りだと告げられた時、身勝手にもメリルは裏切られたような気持ちを覚えた。なんと愚かだったことか。


 一番そばにいながら本当のディースに気づくこともなく、裏切り続けていたのはメリル自身だと言うのに。


 ディースは言った。『お前は子供のことをよく分かっているな』と。『僕のこと』ではなく、『子供のこと』と言ったのだ。


 それは裏を返せば、『お前はついぞ、僕のことを理解してはくれなかったな』という意味にも取れる。


 吐き気がした。この言葉を言う時浮かべた、ディースの何ともいえない表情が脳裏を過ぎる。


 一体どんな気持ちでこの言葉を口にしたのだろうか。


 失望。諦観。悲哀。優しいディースのことだから、そこにメリルを貶める気持ちは一切なかったかもしれない。しかしその言葉は重すぎて、容赦なくメリルにのしかかった。


「……少し、熱くなりすぎてしまったようだ」


 突如聞こえてきた声にハッとする。思考の海に沈みかけていた意識が、ディースによって引き上げられた。


「さて、大層なことを言った手前、いきなりこんなことを言うのは格好がつかないのだが……。メリル、今まで済まなかった」


 ディースが目礼する。突然のことにメリルは面食らった。


「な、何故ディース坊ちゃまが謝られるのですか? 謝らなければならないのは、私の方で……」


「僕は、メリルが陰で辛い目に遭っていたのを知っていた。知っていながら、今まで何もしてこなかった。僕の決断が遅れたせいで、メリルはここまで傷ついてしまったんだ。過ちは素直に認め、貴族として筋を通さなければならない。僕は大事なものを全て守ると言ったが、その中には当然メリルだって含まれているのだから」


 息が止まるかと思った。


 考えてみればそうだ。これほどしっかり頭の回る子が、メリルが不調になった原因に気づかないはずがない。


 適当に誤魔化していたつもりだったが、遠の昔に見抜かれていたようだ。しかしそれでもやはり、ディースが謝るのはおかしい。


乳母が子供を守るのは当たり前だ。一体いつの時代のどこに、こんな小さな子供に守ってほしいと思う親がいるのか。


 それに、ディースだって心苦しかったに違いない。


 ディースは何もしなかったのではない。何もできなかったのだ。後継者争いを一番穏便に済ませるために。そんな子をどうして責められようか。


 こんな至らない、乳母失格の女を家族と同じぐらい大切だと言ってくれたディースに文句を言うほど、メリルは落ちぶれてはいない。そんなことを言うぐらいなら自ら命を絶つ。


 メリルはディースとドルイアこそが全てなのだ。


「今更どの口が言うのだと思うかもしれない。けど、僕が後継者に選ばれるためには、どうしてもメリルの支えが必要なんだ。公爵家を守るためにも、頼む。これからも僕に力を貸してくれ」


 先程の猛々しいまで表情はどこに行ったのか、一転して少し不安を滲ませながら聞いてくるディース。


 ディースの容姿はそれはそれは優れている。まるで天が創造したような可愛らしい顔で懇願されて、断れる女がどれほどいるか。さっきまでのギャップを含めれば、もしかすると皆無かもしれなかった。


 将来とんでもない女泣かせになるのではないかと余計な心配をしてしまったが、それはそれとしてメリルの返答は決まっている。


「ディース坊ちゃま。……いいえ、ディース様。私程度でお役に立てることがあるなら、何だっていたしましょう。元より私は、ディース様とドルイア様のためなら身を投げ出す覚悟はできております」


 これまでの様子を見るに、もう乳母として教えられることは何も無いかもしれない。しかしいくら頭が良いからといって、心の強さまで伴っているとは限らない。自分が傍に入ることで、支えになるならそれでよかった。


 メリルの同意を得られたことで、凛々しさを取り戻したディースが応用に頷く。


「感謝しよう。だが、身は投げ出すな。僕は自分が言ったことを早々と反故にするつもりはない。それに、これからはメリルの負担も軽くなるはずだ」


「え……?」


 それはどういう意味だろうか。単純に手がかからなくなると言うことか、それとも……。


 口を開きかけたメリルだったが、そのタイミングでこんこんと扉から音がする。


 パウ嬢が戻ってきたのだろう。目の前のことに集中していたせいで気づかなかった。


「入れ」


 入出許可を出したのはディースだった。


 失態だ。メリルが先に動かないといけなかった。


 気分が沈むが凹んでばかりではいられない。パウ嬢と一緒に素早く朝の身支度に取り掛かった。


 まずはご飯を食べたいだろうと、身支度は最低限に済ませる。そして、病み上がりのディースのために用意された粥の前に、メリルは精神的な負担を感じていた。


 毒味をしなければならない。


 本来であれば、ここに運んでくる前に済ませておくことだが、自分の他にディースのために危険なことをしようとする使用人がいるとは思えないし、今のディースがやったという言葉だけで納得するとは思えなかった。


 メリル個人としては自分がやってもいいのだが、立場上それをやってしまうと見下されて陰湿な行いが増す要因になる。一方で、他人にお願いすれば恨みを買いより一層孤立する。どちらを選択しても良い結果にはならなかった。


 しかし、メリルに迷いは無い。ディースのためにも、まだ死ぬわけにはいかなかった。


 人畜無害そうなパウ嬢に役目を押し付けるのは心苦しいが、優先すべきはディースの安全。意を決して口を開くメリルだったが、言葉を発するよりもディースが動く方が早かった。


 目の前に置かれている銀のスプーンをつまみ上げると、スプーンの丸い先端を鋭くパウ嬢に突きつける。


「食え」


 一瞬、時が止まったかと思った。


 容赦なし。躊躇なし。


 あまりにも鮮やかに、真っ直ぐ指名されたパウ嬢が激しく狼狽え始める。


「ぇ……え!? あ、うぅ」


「どうした。僕は腹が減ってるんだ。さっさと毒味しろ」


 こうまではっきりと言われて、食べたくなる人間はいないだろう。しかし、ディースの追求は止まらない。


「早く手に取れ。お前、まさかとは思うが、自分が食べられないものを僕に差し出したわけじゃないだろうな。いいか、食事を運んできた以上、その安全性を保障する責任はお前にある。自らの役割も全うできない無能なんぞ、公爵家の敷居を跨ぐ資格は無い。たかが使用人一人、僕にだってどうにでもできることを忘れるなよ」


「そ、そんな!?」


 顔を青ざめさせるパウ嬢。かく言うメリルも、その内容の惨たらしさに震え上がりそうだった。


 ディースは間違ったことを言っているわけではない。形骸化してしまい、それを意識している使用人が何人残っているか分からないが、主の元に食事を運ぶとはそういうことだ。


 使用人を追い出すことに関しても、メリルに確認を取ってからになるだろうが、ディースがドルイアに言いつければ実行される可能性はある。ドルイアはそれほどディースを溺愛していた。


 しかし、パウ嬢。パウ・テスタラ男爵令嬢にとって、公爵家から追い出されたと言う事実は、この先の人生において恐ろしいほどの意味を持つ。


 彼女がどういった経緯でこの年頃になってから修行に来たのかは知らないが、目的は女として箔を付けるためなのは間違いない。それが途中で帰されたとなれば、おそらく貴族で相手してくれる者はいなくなるだろう。


 それどころか、家名に泥を塗って周囲から散々罵倒される未来が待っている。そうなってしまえば幸せな人生を歩むのは限りなく難しい。


 スプーンを手に取るか、取らないか。その先端は、もはやパウ嬢にとって喉元に突きつけられた鋭い刃と同じ。


 今のディースなら、やると言ったら本当にやる。パウ嬢もそれをどこかで感じ取っているのか、本気で焦っているようだ。


 逃げ場がないパウ嬢が恐る恐る伸ばした手は、憐れみを覚えるぐらい震えていた。冷や汗が出始めていたパウ嬢が、やっとのことでスプーンを掴む。


 その先端に少しばかりの粥を乗せ、口に運ぼうとするも、ディースはそれを止めた。そして揶揄うように言う。


「遠慮するな。お前も腹が減っているだろ? そのスプーン一杯に盛れ」


「うぅ…………」


 泣きそうになっているパウ嬢に血も涙もない追撃が入る。


 本当に容赦がない。いっそ、楽しんでいるようにも見える今のディースは、メリルにしても眉間にシワが寄らざるを得なかった。


 こんなことをしたら、後々使用人たちの間で何を言われるか分かったものじゃない。


 さすがに苦言を呈すべきか。そう思った時、メリルは気づいた。


 『これからはメリルの負担も軽くなるはずだ』


 あの発言は、コレのことを言っていたのではないか。だとしたら、ディースは自分が害ある存在になることによって、メリルに手出しができないようにしようと考えていることになる。


 愕然とした。


 その小さい背中に、一体どれだけのものを背負い込もうとしているのか。


 あまりにも孤独で、強くて、悲壮。


 ディースの覚悟の一端が垣間見えて、衝撃的すぎて、メリルは口を挟むタイミングを見失う。その間に、涙目のパウ嬢は口にした粥を食べ終えていた。


「終わったか? 口を開けろ。……もっとだ」


「…………」


 羞恥でパウ嬢の顔が赤くなっている。女として他人に見せたくない表情なのは理解できた。


 ましてやパウ嬢はお年頃。相手が子供とは言え、恥ずかしくて堪らないはずだ。


 そんなパウ嬢の口内を、ディースは無遠慮に覗き込む。


「暗くて見づらいな……」


「あッ!?」


 その驚きは誰の声だったか。パウ嬢かもしれないし、自分だったかもしれない。


 なんとディースはその小さな手でパウ嬢の顎を掴むと、上下左右に動かし、隅々まで覗き始めたのだ。


(ああぁ、な、なんてことを! 年頃の乙女にあんな仕打ちをするなんて……!!)


 こんなの、もう恥ずかしいなんてもんじゃない。特に下から顔を覗かれるのは屈辱に近いのではないだろうか。


 ディースは口の中しか見ていないようだが、鼻の穴を見られる角度は誰だって嫌悪するものだ。


「ふん。どうやらちゃんと食べたようだな」


 ようやく満足できたのか、パウ嬢の顎から手を離すディース。しかし、驚きの展開はそこで終わらなかった。


 ディースは若干放心気味のパウ嬢からスプーンを奪い取るとそのまま、パウ嬢が口を付けたスプーンをそのまま使って粥を食べ始めたのだ。


「坊っちゃま!?」


 もう何を言ったらいいか分からない。


 マナーのこと、毒味の意味、言うべきことが殺到して口の中で渋滞を起こし、唯一出てきた言葉は言い慣れた一言だけだった。


 この短い抗議に、ディースは澄まし顔で返す。


「様付けにしたんじゃなかったのか、メリル?」


「い、今はそんなことを言っている場合では……。マナーのことはこの際置いておくにしても、そんなすぐに食べ始めて、毒が入っていたらどうするのですか!? あんなことがあったばかりなのに……」


「あんなことがあったばかりだからこそ、この食事に毒が盛られている可能性は低い。連中だって機会を窺う頭くらいは持っているだろう。ヘンゼルマンも言っていたな。事件があった日、駆けつけるのが遅れたと。どうせそうなるようにあらかじめ仕組まれていたんだろ?」


「……そうです」


「つまり、いくら馬鹿でも準備はするということだ。事件があったばかりで周囲が目を光らせている中、成功確率が低いと分かっていることをやる必要はない。警戒網が敷かれている内は、毒の心配はするだけ無駄だ」


 自らの意思を証明するように、何の恐れも見せず粥を消費していくディース。


 メリルはその様子に異様なものを感じた。


 言っていることは正しいのかもしれない。しかし、絶対ではない。毒が含まれている可能性が少しでもある以上、また同じ苦しみを味わう危険性は付き纏い続ける。


 自分の道を往こうとしているディースのそれは、勇気とは違う、危いものな気がした。だからメリルは率直に聞く。


「……怖くは、ないのですか」


「怖がってどうする。生きていく以上、食事から逃れることはできないのだから腹を括るしかないだろう。……それにな、気に入らないんだよ。毒を気にして食事をしなくなれば向こうの思う壺だ。これから盤上を支配し、勝利するのは僕であって、断じて連中じゃない」


 産まれながらにして貴族。


 そんな言葉が頭に思い浮かんだ時、メリルは腑に落ちた。ディースにとって、自分の命は材料の一つに過ぎないのだ。


 見えている景色が違う。だから考え方も違う。


 平民のメリルがその思考を理解できず、危惧してしまうのは当たり前のことだった。


 人間として格が、そもそも違うのだろう。ディースの存在が遠くに感じてしまい寂寥感に襲われるが、それと同時に強く思うことがあった。


 この子が、当主になるべき、いや、この子についていき、この子が統治する領土で暮らしたいと、そう思わされてしまったのだ。


 公爵家と辺境伯家の間に産まれた血が成せる技なのだろうか。偽ることを止めたディースは、天性のカリスマを持っていた。


 どこまでも強く、真っ直ぐな姿は、幼いながらにメリルを一個人として惹きつける。


 この歳にして冷酷な一面も垣間見えるディースだが、それも統治者として必要な要素の一つ。見方を変えれば頼もしいとも言えるだろう。


 それに、その冷たさの根底にあるのは優しさだ。ディースのことを本当に分かってくれる者が現れた時、その者は今のメリルと同じく強く惹きつけられるだろう。


 誰かいないものか。叶うならばなるべく早く現れ、この子を理解し、支えてほしい。


 ディースが進もうとしているのは茨の道だ。


 身体中キズだらけになって立ち止まってしまう時もあるかもしれない。その背中を押すにしろ休ませるにしろ、ディースが耳を傾けるだけの誰かにいてほしかった。


 ふと、視界の端にパウ嬢が映る。


 可哀想に、と思った。


 決死の覚悟で毒味をしたにもかかわらず、それはただ単にディースが敵視されるためだけに行ったデモンストレーション。いくら温厚な彼女でも、ここまでのことをされて怒らないはずがない。


 嫁入り前の身体を弄ばれたのだ。その心中は察するに余りある。


 さりとて文句も言うわけにもいかず、きっと悔しくて身体を震わせているだろうと思った彼女は、彼女は…………。




 なんか、モジモジしていた。

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