第9話 毒

ディースイチコが鏡の前で座り込んでいると、部屋の外が俄かに騒がしくなってくる。


 先ほど出ていったメイドが誰か連れてきたのだろう。複数の急ぐ足音が聞こえた。


「ディース坊ちゃま!」


 開けっ放しだった扉からは、メイド少女と寝間着であろう服に身を包んだ女と男が入ってくる。しかしベッドの上に目的の人物が居なかったことで驚きに一瞬動きが止まった。


 だが、暗闇の中をよくよく目を凝らし、鏡の前に子供が座り込んでいるのを発見した女は焦ったように声を出す。


「そのようなところで何をしているのですか!? 早くベッドにお戻り下さい!」


 言葉よりも先に走り出していた女は、急いでディースを抱え上げてベッドに移す。動き自体は早かったがその運び方は優しく、なるべくディースに負担がかからないように気を遣っているのがよく分かった。


 ディースがベッドに横にされた時、その女の顔が見える。


 若くもなく、年老いてもいない年頃のその女は、近くで見ると顔色がすこぶる悪かった。目の下のクマは酷いし、頬がこけ肌にもツヤが無い。


 今すぐ倒れたとしても不思議ではないほどで、むしろディースよりも自分が横になるべきだった。


「ヘンゼルマン様!」


「はい。<解毒ニムゲイル>。ディース坊ちゃま、失礼します。<解析メース>」


 女がヘンゼルマンと呼ばれた白髪中年の男を促すと、立て続けに呪文が唱えられ、空中に手のひらよりも二回りほど大きな魔法陣が浮かんだ。魔法陣から生まれた仄かな光がディース包む。


「これは……! 成る程、そういうことでしたか……」


 ディースの体内に毒が残っていないかを調べるために唱えられた<解析>で予想外のことが分かったのだろう。一人納得の様子を示すヘンゼルマンに、気が気でない女はすかさず問う。


「ヘンゼルマン様、どうしたのでしょうか。何か良くないことでも?」


「いえ、そうではありません。……少し言いづらいのですが、当時、あの状況でディース坊ちゃまが何故助かったのか、疑問に思っておりました。使われた毒は即効性であり、私が駆けつけるまでには時間が掛かった。とてもではありませんが、小さな子供に耐えられるものではない。しかしこうしてディース坊ちゃまは助かりました。その奇跡の理由が、たった今分かったのです」


「そ、それはっ?」


「ディース坊ちゃまは<回復ヒール>を取得しておりました。おそらく、毒に蝕まれている最中に生き延びる本能が才能を開花させたのでしょう。まだ<回復>とは呼べない不完全なものを無我夢中で自分に唱え続けた。そのため治療が間に合い、今になってスキルとして定着したのでしょうね」


「<回復>を!? ああ、何ということでしょう。神はディース坊ちゃまをお見捨てになってはいなかった。エスス様、ありがとうございますっ……」


 心底ほっとしたせいか、膝をつき、手を組み祈りを捧げ始めた女。膝を折ったぶん近づいた女の閉じた瞳には涙が潤んでいた。


 部屋の中に弛緩した空気が流れる。属性無しとはいえ、あわや公爵家の嫡男が死ぬ寸前までいったのだ。


 風聞、純粋な心配、とりあえず何もなくてよかったと、その安心の意味合いは三者三様だったが、ここに到り、ようやく肩の力が抜ける。


 ただ、その中にあって、場の雰囲気など関係ないとばかりに淡々と観察を続ける異質な存在がいた。


 ディースだ。


(とりあえず利用できるのは乳母のメリルだけか)


 目の前で自分が毒殺されかけたと言う話がされているにもかかわらず、表情一つ変えずに冷徹な思考が行われる。


 今のディースには、現状理解とこれからの行動計画を練るための事実のみが必要で、そこに怖いだの何だのと、甘ったるい感情が入り込む余地は無かった。


 本当ならば、一刻も早く強くなるための行動を開始したい。だが、ディースを取り巻く環境は無視できない問題を抱えており、まずはこれの対策をしなければならなかった。


(何で僕より死にそうになってるんだ、コイツは…………。チッ、これも属性無しの影響か。となると、家令のヘンゼルはどこかで手駒にしたい。今は中立的な立場のようだな。常識的な範囲内で使いながら、徐々に引き込むか。後ろのは……名前すら分からん。あぁ、下っ端が気まぐれでメリルの手伝いにつけられるのか。ディースがどれだけ軽視されているかよく分かる)


 改めてディースの記憶を洗い出していくと様々なことが判明する。毒がどうこう言っていることからも分かるように、ディースはかなり面倒な状況に立たされていた。


 ゲームの時からそうだったのか、この世界だからかは知らないが、ディースには優秀な腹違いの妹と実弟がいる。このため、目下ドゥアルテ家では水面下で後継者争いが起きていた。ディースが暗殺されかけたのはそのためだ。


 本来であれば、嫡男とは言え、属性無しのディースが標的になる心配はほぼなかった。モンスターが蔓延るこの世界で、時には民の先頭に立って戦わなければならない貴族家当主には強い者が好まれるからだ。


 実力主義が根付いている貴族社会において、産まれた順番はおまけ程度しか意味を持たない。しかし今回はそのおまけが災いを招いていた。


 もはや作為的な悪意としか言いようがないほど、後継者争いの力関係は拮抗している。


 腹違いの三歳になる妹、イオ・ドゥアルテは三属性。実弟の一歳になって間もないウィンディ・ドゥアルテは二属性。ディースが持っていたはずの属性を、当てつけのように被りなく所持していた。


 三属性持ちも二属性持ちも、この世界では凄まじいことだ。三属性は言わずもがな、主人公アルス級と言うことになるし、二属性であっても、主人公の仲間たちと同等レベルの能力。


 鍛え上げれば、世界だって救える類稀な存在だ。他の貴族家に産まれていたら、文句無しに後継者の座に収まっていただろう。


 それほど貴重な属性だ。当然、三属性と二属性では前者の方が優位に立つ。では妹の方が先に産まれているし、属性も多いのだから、後継者になるのではないかと思いそうだが、そうはいかないのが貴族社会というものだ。


 ディースイチコも、他のゲームをする上で何かと取り入れられることの多い貴族と身分制度については自分で調べてみたことがあったが、本当にややこしくて面倒くさい。自分なら絶対に異世界転生なんかしたくないと忌避する要因の一つでもあった。


 妹、イオは腹違いと言っているように、側室の子だ。加えてこの世界、女の領主が居ないわけではないが、男に比べると数が少ない。


 如何に三属性持ちが希少とは言え、正室が産んだ男の二属性持ちがいるならそっちを支持するべきという人間が馬鹿にできないほどいる。


 その裏には、側室の子が当主を継ぐことによって母親である元伯爵令嬢、ドマに大きな顔をされたくないという心理も働いているのだろう。実際にそういった話を使用人たちがしているのを過去のディースも聞いていた。


 そうした諸々の事情の結果、妹派と弟派に二分される館内の使用人たち。


 ここまでディースは全く関係なく思える。実際その通りで、ディースは後継者レースのスタート地点にすら立っておらず、居るのは観客席だ。


 しかし、そんなディースでも一定条件下であれば僅かに存在価値が生まれた。それは将来有望な二人の間に割って入れないおまけに相応しい価値。


 ウィンディのブースト役だ。


 少し余談になるが、ディースは母、ドルイアとメリルから裏表のない愛情をもって育てられた。


 どうやらこの世界の貴族社会では、子育てを親が直接するのはあまりないことらしく、ドルイアは家中の者たちから何度か諌言を受けていたがそれでもディースの世話を止めなかった。


 属性鑑定の儀で属性無しの判定を言い渡された後もだ。どうしてそこまで子育てに拘っていたのかディースには分からないが、ともかくドルイアがディースを大切に思っていることは、それを見ていた使用人たちなら誰だって知っている。


 ドルイアは正室だ。その影響力は言うまでもなく大きい。


 そしてそれが後継者レースにどのような結果を齎すかと言えば、どちらの派閥が有利なのか、自分で判断がつかない使用人たちを動かす心理的要素になった。


 ウィンディは二属性だけど、ドルイアがあれだけ目をかけていたディースも味方と言えば味方のはずだし、なんとなく有利そう。


 ディースはなんだかんだ言って嫡男。この先どう転ぶか分からないし、もしものことを考えたら母親が同じであるウィンディ派に属していた方が安心かもしれない。


 そんな曖昧な理由から弟派を選んでいる者が少なからずいた。


 数は力だ。たとえ水面に揺れる木の葉のように流される意思薄弱な者であっても、敵対勢力に集まってしまっては都合が悪い。


 勢力が拮抗している中で、妹派としてはこの問題をいつまでも放置するわけにはいかなかった。


 だからディースが狙われた。言ってみれば、ほとんどとばっちりのようなものだ。


 手を出しやすかったのもある。ウィンディは産まれたばかりと言うこともあって元から口にするものには気を配られているし、自分たちの御輿を害されては堪らないと周囲をガチガチに警戒されている。


 ならば、巣に囲まれて安全が確保されている殻付きの雛よりも、よちよちと歩き出して隙を晒すことが多い雛から狩ってしまおうという訳だ。


 ウィンディを産んでからドルイアは体調を崩してしまったため、ディースを守っているのは今やメリルただ一人。その壁を抜けるのは容易い。


 妹派にとって、リスクの割に大きなリターンを齎すディースは格好の標的と言えた。


 一番の問題は、当主を初めとした公爵家の人間たちの反応だが、おそらくどうとでもなると思ったのだろう。その判断の正しさは、当の本人になればこそよく分かる。


 跡継ぎになれない子供は、貴族家としてはそれだけ価値が低いのだ。


 ただ、そんな中で一つだけ言うことがあるとすれば、妹派はこの千載一遇のチャンスを確実にものにするべきだった。


 毒が回った雛鳥は、もう食べられない。


(どいつもこいつも、揃いも揃って僕を殺そうって言うのか。ゲーム世界のデータ風情が、時間が無いのに手間をかけさせるなよ……ッ)


 変貌を遂げたディースの中身は、現在進行形で命を狙われている状況を『面倒』で片付けた。その精神性は、間違いなく子供が持っていていいものではない。


(差し詰め、新規開始直後のイベントと言ったところか。『入れ替え』に必要だったとも考えられるが、おかげで文句無しのクソゲーに仕上がっている。対応を間違えれば死。対処に時間が掛かってもレベル不足で死。どこもかしこもバッドエンドばかりだ。これ考えた責任者は出てこい。今すぐ経験値にしてやる)


 笑顔で『戦いばかりでは飽きるだろ』とほざいているだろうその顔面に剣を突き立ててやりたい欲求もそこそこに、意識を目の前に戻す。


 この局面を効率的に乗り切るためには駒が必要だった。ただの子供でしかないディース一人にできることは限られている。


 そのための足がかりとなるのが乳母のメリルなのだが、そのメリルは使い物になる状態ではなかった。


(明らかに衰弱してる。このままじゃ近いうちに倒れるのは確実だ。そうなれば身の回りの管理もままならず、成すべきことに集中できないのは間違いない)


 メリルがいなくなっても一応代わりのメイドはあてがわれるだろうが、勝手が分からずディースをイライラさせるのは目に見えている。


 ただでさえずっとエトナの最上のサポートを受け続けてきたのだ。そのストレスはおそらく想像以上に大きい。


 遅れた文明に低い生活水準。知らない人間が常に周りでうろちょろする鬱陶しさ。自慢ではないが、キレる自信があった。


 その場合はいっそのこと、衝動のままに殺してしまうと言う選択肢もある。ゲーム世界で地上の物語。犯罪者のように何をしたっていいと言うエトナからの免罪符もある。レベル上げと言う観点から見てもいくらかの足しにはなるだろう。


 しかし、それは後継者レースを考慮に入れると最良とは言えない。跡継ぎとしての地位を盤石なものにしなければならないディースにとっては、かえって難易度を上げてしまう行動は避けなければならないのだ。


 嫡男であり、五属性も持っていたゲーム中のディースは絶対に後継者に指名されていた。シナリオに準拠するならば、この世界のディースも同じ条件にしておかなければならない。


 これは今後のフラグ管理を考えても必須だ。


 一例をあげれば婚約者。性格以外はハイスペックだったディースの婚約者がレイシアだったのは、それだけ彼女が優秀だったからに他ならない。では、良いところ無しの今のディース相手に、変わらずレイシアが選ばれるだろうか。


 何がどこに作用してくるか予測し切れない。だからこそ、まずメリル。これを守ってやる必要があった。


(守ると言っても、メリルが追い詰められている原因を考えれば、特別何かをするわけでもないが。跡継ぎになる過程のついでに対策可能だからな)


 メリルの疲弊は精神的なダメージによるものだ。駆逐対象の乳母ともなれば、裏でどのようなことが行われているかなど考えるまでもない。


 ドルイアに厚く信頼されているメリルといえど、身分上は平民。公爵家ということで、他の貴族家から修行名目で来ている令嬢が多数いる中で平穏無事と言うわけにはいかないだろう。


 さすがに直接的に手を出す馬鹿はいないと思うが、結果的にメリルが壊れてしまえば同じこと。安心材料にはならない。


 これを解消するためには防波堤が必要だ。


 ドルイアが体調を崩すまでは自然にこの役割を果たしていた。しかし、その頼みの綱も今となってはベッドの上。よって、代わりがいる。


 誰が代わるか。勿論、ディースだ。


(こんな子供でも公爵家嫡男。ディースはこの家の中で立場が弱いだけであって、そこらの使用人より劣っているわけじゃない。使用人は飽くまで使用人。履き違えているのが何人かいるようだが、分からせてやればすぐに黙る)


 ディースはこれから積極的に動くつもりだ。そのためにも、最初の内に周囲に人が変わったとアピールしておくのは、色々とスムーズに事が進めやすくなって都合が良い。


 後はそれをどうやって周りに知らしめるかだが、丁度良いのが既に目の前にいた。


 この部屋に入って来てから、もうお役御免とばかりに少し距離を取り突っ立っている最初に見たメイド。顔立ちこそある程度整っているので初めは貴族かと思ったが、ゲームの中で十代中盤と言えば成人でもおかしくない。令嬢ならこんなところにいるはずがなかった。


 少し接してみた感じ、無闇矢鱈に他人に手を出す性格ではない。特段、分からせる必要は無いのかもしれないが、そんなことは関係ない。ディースの目に映ったのが運の尽きだ。


 標的が決まったら後はタイミング。その時がやってくるのをディースは待った。

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