第一章 孵化する牙

第6話 望まぬ転生

「う…………」


 暗い一室で苦しげな声が上がる。所々に装飾が施されたベッドの上で、今まさに薄くまぶたを開こうとしている人物がいた。


 しかし意識が浮上したはよいものの、頭はやけにぼーっとしていて何も考えられず、身体が動くことを拒否しているかのようにだるい。端的に言って、目覚めの気分は最悪だった。


 それでもその人物は腕を突っ張り棒のようにして何とか身体を起こす。そうしなければならないような気がした。何か行動を起こさなければ取り返しのつかないことになる。そんな危機感を、頭のどこかに抱いていた。


 周りは暗くてよく見えないが、カーテンの端から優しい光が差し込んでいる。静かな夜が、焦燥感に駆られる心を少しずつ溶かしていった。


「ここは…………?」


 発せられた声は、この静謐な空間を壊さないような、小さくて高めの声だった。自分で出した声なのに、自分のものではないような違和感を覚えるが、特に気を留めることもない。あまり難しいことを考える気にはならなかった。


(何だか安全そう……? いや、何を言ってるんだ僕は。家の中なんだから安全に決まってるでしょ。……どうして起きたんだろ。もう一回寝るか)


 次第にうつらうつらしてきたので睡眠欲の誘惑に従ってもう一度横になろうとするが、残念ながらそれは叶わない。実はこの部屋にもう一人だけいた人物によって、静かな時間は終わりを告げた。


「ぼ、坊ちゃま……? 目を覚まされたんですか、坊ちゃま!?」


 月明かりが届かない場所にいたので気付けなかったらしい。暗がりから慌てたように近づいてくる一人の女がいた。


「だ、大丈夫ですか!? どこか痛いですか!? ご自分が誰かお分かりになりますか!?」


(うるさい……)


 目覚めて早々、姦しいその女は実用面を重視したようなメイド服を着ていた。まだ若い、おそらく十代中盤あたりだと思われる顔は、月の光に照らされることによってそこそこ整っていることが明らかになる。


 しかしその若さ故か落ち着きがなく、まくし立てる言葉が喧しい。相手が寝起きであることをもう少し考慮すべきだった。


(うん。やっぱり中等部が終わったぐらいの年齢だな。この様子だと合格するのは……厳しいだろうね。というか、普通に考えてパートナーAI用のアバターか。リアルでメイド服を着る女性もいないわけではないけど、それにしたって服飾が地味過ぎるし。寝起きドッキリ……? パートナーどこにいるんだろう)


 パートナーAIのアバターは過度の悪戯防止や不慮の事故を防ぐため、出現させられる範囲が決まっている。結構狭いし、何より声の出所はどうしたってリアクターからになるので、あまり不自然にならないようにこの部屋にいるのは間違いないはずだが、辺りを見回してもそれらしい人物は見つからなかった。


(アバターの真後ろかな?)


「えと、坊ちゃま……?」


 自分の呼びかけに反応しないからか、戸惑いの声を漏らすメイド。その際の表情や仕草の変化はとても細かく、感嘆せずにはいられなかった。


(おぉー。凄い、まるで普通の人間みたいだ。ここまで作り込むのはかなりの根気がいったはず。ふむ……さてはこの子のパートナー、かなりの『通』の者と観た!)


 大多数の人たちはパートナーAIを着飾らせる傾向にある。そんな中で地味な格好させているので、てっきり格下の存在を作ることで自分を満たす、自己顕示欲が強いパートナーかと邪推してしまったが、ここまでの拘りを見せられてはそんな勘違いを起こす余地は無い。


 きっとメイドに対する愛が強すぎるがあまり、原点に立ち返る境地に至ったのだろう。だからこそ実用一辺倒の、色味の少ない地味なメイド服なのだ。


(ここまでとなると、自らもメイドの道を極めんとする剛の者である可能性もあるな。ということは、このパートナーAIに落ち着きのない半人前の役をやらせているのは、自分が指導者となることで新たな気付きを得るためか。何と言う飽くなき探究心。その姿勢には一人の人間として敬意を表さざるを得ない)


 そのジャンルを突き詰めようとする考えは理解の範疇にないが、それでもかつて目標に向かって本気で努力したことがある身としては、そのブレない心に拍手を送りたい気分だった。


「あの……」


 なお、敢えて考えないようにしているが、この庇護欲を誘わないでもない姿からして、指導と言う建前で特殊な性癖を満たしている変た……淑女、もしくは紳士である可能性もあるが、それはさすがに邪推というものだ。他人が口を出すことでもないので、やはり見ないふりを継続する。


 何にせよ、パートナーAIが大事にされているのを見て嬉しくなるのだった。


(さて……そろそろいいかな。どういう状況なの、コレ?)


 これだけ馬鹿なことを考えていれば目も覚める。考えれば考えるほど意味が分からない状況に、困惑を隠し切れない。


 見たことのないパートナーAI。姿を見せず意図不明なそのパートナー。見覚えのない部屋。そして、どうしても思い出せない眠る前の記憶。


 考え込むあまり、質問に答えることもなく黙りこくる。いつの間にか難しい顔でもしていたようで、それを見て何を勘違いしたのかメイド少女は顔を青ざめさせた。


「ぼ、坊ちゃま。まさか、ご自分が誰かもお分かりにならないのですか……?」


 坊ちゃま。はっきりとした頭でその呼び方を聞くと、頭がズキリと痛んだ。


(それだ。それも分からない。坊ちゃまって、誰のことを言っているんだ……? いや、さっきから僕は何を言っている。坊ちゃまは僕のことだろう? 全く、坊ちゃまなんて、今まで一度たりとも呼ばれたことなんかないじゃないか。…………え??)


 相反する主張があたかも普通であるかのように浮かび上がり、次第に混乱し始める。


 分からない。自分の頭が分からない。


 こんなことは初めてで、頭がおかしくなってしまったのではないかと割と本気で焦り始める。


 そして、そんな様子はメイド少女にも伝播した。


「え、う、嘘。本当に……? わ、私どうしたら……。坊ちゃま、ディース坊ちゃま! あなた様はドゥアルテ公爵家が嫡男、ディース・ドゥアルテ様でございます! 三日前のご夕食の時、食事に盛られていた毒で、あ! いえ、その……」


「ディース……? ドゥアルテ公爵家……僕は、僕が、ディース・ドゥアルテ? くッ!」


「ディース坊ちゃま!?」


 メイド少女に名前を呼ばれたことを契機に、絡まった紐が解けるように記憶が一気に逆流する。


 一段と強い痛みが走り、坊ちゃまと呼ばれたその子供、ディース・ドゥアルテの五年間が頭の中を駆け巡った。


「なんだ、これ……ッ」


 甦る記憶の断片。感情、知識、経験。


 知らないはずなのに知ってる。


 自分じゃないはずなのに自分。


 どうしようもない矛盾と痛みに頭を抱えて苦しんでいると、やがて短い人生の軌跡を辿る旅も終わりを迎え、記憶の奔流が収まっていく。


 だが、安心するのはまだ早かった。それは、周りの景色が見えない暗いトンネルに入っただけに過ぎない。


 光の差す向こう側、再び見えた外の景色に広がっていたのは絶望の光景。


 大切な家族ニコの、恐怖に歪む顔だった。


「――ぅあああああぁぁぁッ!!」


(思い出した、思い出した思い出した思い出したッ!!)


 ニコの表情の理由。その直後に自分を襲った意味不明な大きな手。


 ネノヒ・イチコの記憶を持つディース・ドゥアルテは、反射的に自分の身体を守るように掻き抱く。あの時の押し潰される感覚がフラッシュバックして、今更ながら死という莫大な恐怖が湧き上がってきていた。


「坊ちゃま!? あああ、どうしようどうしよう、どうして私の順番の時に限ってこんなことにっ。坊ちゃま、大丈夫ですか!? 誰か呼んで来ますから、ちょっとだけ待っていて下さい!!」


「あ、待っ……」


 気不味げにオロオロしていたメイド少女も、錯乱する子供を前に、もう自分にはお手上げだとばかりに部屋から出て行こうとする。イチコはそれを咄嗟に止めようとするが、言葉が続くことはなかった。


 メイド少女が


 暗闇の向こう側へドタバタと走り去っていく後ろ姿を、ただ口を開けたまま見ていることしかできなかった。


「……にん、げん?」


 幸か不幸か、目撃したものが予期せず衝撃的なものだったことにより、一時的に恐怖感から逃れられた。空白が生まれた僅かなスペースには冷静さが宿り、考える余地が生まれる。


「あ、そうか。ここは貴族の家なんだから、そりゃメイドさんぐらいいるよね。……いやいやいや、なに納得してるんだよ僕は。意味が分からない。納得してる自分自身が理解できない。どうしてこんなことになってんのさ? ねぇ、エト……」


 答えを求めて、いつものようにその名前を呼ぼうとした。ついでとばかりに彼女の定位置である自分の左手首に視線を向けた結果、イチコは自分の胸に大きな穴を開けることになる。


 そこに、リアクターは無かった。


「……………………はは。ははははは。そうだよね。そうだよ。……腕ほっそ。手、ちっちゃ。ははは」


 抑揚のない声を出しながら手を返しがえし見ていると、その奥に姿見があることを発見する。イチコはズルズルとベッドの上から降りると、ヨタヨタと近づいていった。


 月明かりが照らす中、鏡が映し出すのは現実離れしている可愛らしさを持つ少年。


 成長した姿とは似ても似つかないが、それは確かに『リベレーターズ・ストーリー』に登場したディース・ドゥアルテの面影を残していた。


「僕だったパーツ、一つも無いや……」


 イチコは作り物めいた顔を無感動にペタペタ触る。


 平均的だった大人の身体は小柄で華奢に。黒髪黒目は金髪碧眼に。顔の造形は、平凡から非凡な天使に。若干頬が痩けてはいるものの、それぐらいで魅力が落ちるような顔じゃなかった。


「…………本当に、そうなのか? もう、受け入れるしかないのか。これだけ元の身体とサイズが違うのに、感覚に全く違和感なくアジャストしてるし、フルダイブしてるって訳でもない。ログアウトも……ないしね。ははは」


 イチコはフルダイブ型ゲームに共通するログアウト方法を試すために、頭の中で念じながら、手先を横にスライドさせるが何の反応も得られない。


「そっかー、これが異世界転生ってやつかぁ。ただのネタだと思ってたんだけどなぁ。まさか本当にあるなんて、このイチコの頭を以てしても分からなかったよぉ」


 かなり昔に流行り、今となっては廃れた異世界転生という言葉であるが、一部の間では未だに笑い話の鉄板ネタとして人気を博していた。


 『目を覚ましたら知らないところにいて、異世界転生したかと思ったら寝ぼけてゲームをしていただけだった』からの『受診して来い』というテンプレをネットで見たことがあったからこそイチコも知っていたのであって、それがなければ一生知ることもなかったかもしれない。


 さもありなん。誰もが気軽に、もう一つの世界で、もう一人の自分になれる時代に、思いを馳せることしかできない異世界転生と言う想像上の産物が消えていくのは当然の話だ。


 需要が無ければ、供給は生まれない。むしろ、異世界転生という言葉が現代になっても聞かれること自体が驚きだった。


 もしかすると、笑い話のネタとしての裏には、人々のファンタジーに対する満たされない願望が含まれているのかもしれない。


 例えば、魔法。


 自らの身体に流れる魔力を使って実際に魔法を放つという感覚は個々人の理想があり、いくら時代が進んだフルダイブのゲームが趣向を凝らしても、それは正解にならない。なりきりプレイに拘りがある人ほど、そのもどかしさは苦しみに感じることもあるだろう。


 そういう人たちからしてみれば、今のイチコの境遇はきっと羨ましいはずだ。嫉妬に狂うかもしれないし、もしも自分が本当に異世界転生できたら、元の世界なんか忘れて気の向くままに楽しむのかもしれない。


 しかし、転生したのはイチコであり、残念ながらイチコは異世界転生なんか望んでいない。


 独り言を喋っても誰も何も返してくれない虚しい部屋の中で、相も変わらず意味不明な状況と、恐怖と不安とストレスに晒されて、イチコはついに頭の中で何かがキレた。


「……ざけるな。ふざけるな! 何が異世界転生だよ。こんなのちっとも笑えないじゃないか!! 魔法が撃てる? 現実になったファンタジー? そんなものより命の方が大切に決まってるだろ!? 元々楽しめていたものを、どうして態々命がけでやらないといけないんだよッ! ……戻せよ。全部元に、戻してくれよ……!」


 叫んだところで何かが変わるわけじゃない。


 尻すぼみ言葉が小さくなっていくと、イチコは力なく膝をついた。

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