第5話 少し先の未来 五

 イチコが考え込んでいる内に、いつの間にかニコとアクリのやりとりも終わっていたようだ。


 一区切りのような雰囲気を感じたので、丁度良いとばかりに先ほど考えていたことをエトナに聞いてみる。


「エトナ、中央管理局から飛行車事故に関して、何か発表が出てたりしないかな?」


「事故が起きたことは発表されていますが、イチコが望んでいるような情報は出されていませんね」


「んー、そっか……。もう三件目なんだから状況解析なりして、特定の行動を避けるように注意喚起ぐらいされてると思ったんだけど。事故の起き方が全く違かったのかな」


 中央管理局にしては対応が遅い。となれば、イチコには想像もつかないような別の問題が発生していることも考えられる。


 飛行車事故の裏に隠れた不穏の影がちらつくようだ。これが嵐の前の静けさでないことを祈るが、その予感は段々と強くなっていく。


「イチコ、中央管理局からリアクターのアップデートに関するデータが配布されています。今からダウンロードしますか?」


「リアクターのアップデートって、少し前にやったばかりじゃないか。しかもこのタイミング……? 内容は」


「セキュリティ面の強化となっています」


「セキュリティ……。これ、シャレにならなくなってきたんじゃないか……?」


 イチコの脳裏についさっき知ったゴシップの言葉がよぎる。


 『異端の天才』


 一連の飛行車事故が、本当に何者かの介入によるものだったとしたら。


 中央管理局の警戒しているものが、AI領域を通じた被害の拡大だったとしたら。


 対応の遅れに違和感を感じる中で、差し出されたのはリアクターのセキュリティ面の強化。それが意味するところは……。


(パートナーAIにまで手が伸びる恐れがある……? っ、エトナが、改変される!?)


「アップデートッ!!」


 イチコは弾かれるように指示を出していた。今こうしている間にも、何者かによる魔の手がエトナに迫っているかもしれない。そう思うと冷静ではいられなかった。


「皆も早く。今回ばかりは本当に不味いかもしれない」


 大きい声のせいで家族を驚かせてしまったことを反省しながらも迅速に促すイチコ。


 イチコが焦った姿を見せるのは珍しいことで、それだけ事態が深刻であることを窺わせる。各々行動を開始するが、事態の変化はイチコたちに時間的猶予を与えてはくれなかった。


 突如鳴り響く、不安を掻き立てるようなけたたましいサイレン。


 外を見れば、ジーシスに埋め込まれた赤色灯が顔を出し、周囲一帯を真っ赤に染めていた。


「緊急避難信号!? なんだっていうんだ、この忙しい時にッ!」


 訓練以外では見聞きしてこなかったものが発動して、その間の悪さに苛立ちを隠せない。しかし命が危険に晒されていると言うのに、それを無視するわけにもいかなかった。


 原因が何かによってどんな対策が必要になるかも変わる。一先ず家族の安全を優先するため、イチコは素早く聞いた。


「エトナ!」


「…………」


(く、遅いッ! まだダウンロードが終わってないのか!?)


 エトナから返事が無いのはダウンロードのために一旦機能を停止しているためだろう。いつもなら瞬時に終わるものがまだ完了していないことに、既に問題の影響がエトナに波及しているのではないかと心配になる。


 だがダウンロードが終わるのをただ待っているわけにはいかない。イチコは意識を切り替える。頼りになるパートナーAIは何もエトナだけではない。


「アクリ、緊急避難信号の原因とその対策を教えてくれ!」


 本来なら他人のパートナーAIに指示を出すのはマナー違反だし従ってくれないが、その辺は設定で調整できる。ニコが家族に対してアクリの設定を甘めにしているからこそできる質問だった。


 だが、いくら質問できたところでそれが無駄に終わることもある。


「重力場における、時空の曲率に著しい変調をきたす恐れあり、だそうです」


「……は?」


「一言で言えば、時空の歪みが発生するかもしれないということです。それが緊急避難信号の原因ですね。なお、対応策は不明です」


「何だよ、それ……」


 さしものイチコも、完全に予想外の答えに思考が停止する。


 てっきり突風や落雷、飛行物体の衝突など、これまで訓練したことがある内のどれかだと思っていた。時空がどうのこうのと言われても、どうすれば良いのか思いつかない。


「……予測発生地点は?」


「不明です」


「予測発生規模」


「不明です」


「予測発生時刻ッ!」


「不明です」


 ギリッ。


 サイレンが鳴り響く中にイチコの歯ぎしりが混じった。何も分からない。何も。


(どうする……? どうするどうするどうする、どうすればいいッ!?)


 背を向けた窓から、太陽に負けじと赤色灯の強い光が家の中を淡く照らす。点滅する赤がイチコの気持ちを煽った。


 不安げにイチコを見つめる家族たちの顔が目に映る。自分が取り乱すわけにはいかない。パニックに陥れば助かるものも助からなくなってしまう。


 何とか冷静さを保とうとするイチコ。しかしその視野はかなり狭まっていたようだ。


 何故なら、こういう時に一番頼りになるパートナーの存在を忘れていたのだから。


「……予測発生地点、極めて近く。予測発生規模、小。予測発生時刻、まもなく。かなり曖昧で申し訳ありませんが、現時点ではそれぐらいしか解りません」


「ッ、エトナ!」


 その声は混迷する自分を救い出してくれる女神のものか。


 待ちに待った相棒の登場に、イチコの心は一気に軽くなった。


「遅れてすみませんでした、イチコ。ダウンロードしたデータ量が膨大でして」


「いや、いいんだ。その中に時空の歪みに関することが含まれていたから、色々と分かったんだろう?」


 アクリに分からなくて、エトナが知っていると言うことは、つまりそういうことだ。視界が開けたことで、イチコはいつものように頭が回るようになった。


 しかし、だからこそ気づいてしまう。自分たちがもう、助からないという事実に。


「予測発生地点が極めて近く、ね。避難してる時間も無い。……エトナ、はっきり言ってくれて構わない。時空の歪みが発生した時点で、僕たちが助かる見込みは……ゼロだね?」


 いくら知識を積み上げたところで、時空の歪みと言う超常現象に対処できるはずもない。凄まじい力に吸い込まれて、終わりだ。


 もう完全に生を諦めたイチコの声音は、自分でも意外なほど優しいものだった。そしてその事に安堵する。


 人間は追い詰められた時に本性が現れると言う。その本性が、怒りや悲しみに支配された醜い姿でなかったことに安心したのだ。


 きっとそれなりに満足できた人生だったのだろう。それもこれも、不甲斐ない自分を支え続けてくれた家族やエトナのおかげだ。それならば最期まで、そんな人生に導いてくれた皆に恥ずかしく思われないような自分でいたい。


 覚悟を持ってその時を迎える決意を固めるイチコ。だがそんな覚悟を、よりにもよって彼のパートナーが一蹴する。


「情けない」


「っ……!?」


 まさかの言葉にイチコの身体が揺れる。エトナからこんな冷たい言葉を掛けられたのは初めてだった。


 収まらない衝撃の中、エトナの言葉が続く。


「らしくありませんね、イチコ。何を勝手に諦めているのですか。確かに生存の確率は低いと言わざるを得ませんが、決してゼロではありません。時空の歪みが発生するにしても、それがどの程度続くかによって生存率は大きく異なります。死ぬと決めつけるのはまだ早いはずです」


「そ、それにしたって、本当に一瞬で終わらないと……」


 なまじ、エトナの言っていることがただの希望的観測に過ぎないことが分かってしまうため、イチコは反射的に反論する。しかし、動揺したままの言葉は、あまりにも弱々しい。


 この時に於いて、イチコは死ぬことよりもエトナに嫌悪されることの方が怖かった。胸の奥に押し込めていた負い目や劣等感たちが顔を覗かせ、たった一言でぐらついてしまったイチコの覚悟を観てゲラゲラと嗤っている。これ以上口を開けば、みっともない言葉が転び出そうだった。


「イチコ」


 惨めな気持ちから、いつの間にか下を向いていたイチコにエトナの落ち着いた声が掛けられる。


 何を言われるのだろうかとイチコは警戒した。これ以上エトナに否定されたら、いよいよ耐えられない。


 たとえ内面がぐちゃぐちゃだろうと、せめて外面だけは最低限の体裁を保っておきたかった。もう手遅れかもしれないが、それが家族に対するイチコなりの最後の恩返しでもあったから。


 而して、イチコの願いは叶えられる。


 決して忘れてはならない。嬉しい時も、苦しい時も、楽しい時も、悲しい時も。エトナはいつだって共に歩んできたサポートAI。


 イチコの最高のパートナーである。


「私はまだ、あなたと一緒にいたいです」


「…………ッ!!」


 イチコの目が大きく見開かれる。


 イチコが密かに、ずっと言ってほしいと思っていたこと。ずっと不安だったこと。エトナはたった今、それに答えをくれた。


 心の中に一陣どころではない風が吹く。強くて清涼な風は、イチコを蝕んでいた負の感情全てを吹き飛ばした。


 抱えていた苦悩だの助かる確率だの、そんなものは一瞬にしてちっぽけに思え、今となってはどうでもいい。


 口が戦慄く。ともすれば男らしくない嗚咽がこぼれそうだった。


 目が潤む。それ以上はいけない。一雫でも垂れたら絶対に止まらなくなるから。


「……ぁりがとう。ありがとう、エトナッ」


 震える唇を強引に捻じ伏せて、イチコは無理やり言葉を出した。


 パートナーにここまで言われたら、いつまでも俯いているわけにはいかない。右腕で雑に両眼を擦ると、イチコは勢いよく前を向く。その瞳は、今までで一番強く、頼りがいがありそうなものになっていた。


「それでこそ……」


 エトナが認めてくれるなら、怖いものなど何もない。イチコは一つ頷いていて応えると、勢いのままに家族に告げた。


「皆、僕一人で勝手に諦めちゃってごめん。やっぱり僕は生きたい。でも、それは『皆で』が良い。皆がいないと嫌だ! だから、僕の我儘に付き合ってほしい!」


「あったりめーだ!!」


「っ……」


 間髪を容れずにサイレンをかき消すような返事をしてくれたのはイチコの父。その後も続々と続く。


「つーか、俺より先に死のうとするんじゃねー! それだけは絶対許さねぇからな、一番最初に死ぬのは俺だ!!」


「あなた、イッ君は皆で生きたいって言ってるでしょ?」


「ヒューヒュー、全く、見せつけてくれちゃって! さぁお兄、心の準備はできてるよ! 何すればいいの?」


「皆……」


 再びこみ上げてくるものがあった。しかし今は感傷に浸っている場合ではない。


 時空の歪みが発生するまで、もう時間が無いはずだ。超常現象対策としてはあまりにも馬鹿馬鹿しいが、塵一つ分でも可能性を増やすため、イチコは指示を出す。


「がっちり固定されている物にしがみついて! エトナ、他に何かある?」


「そうですね、祈ることぐらいでしょうか」


「ははっ、じゃあ僕はエトナに祈ろうかな?」


「光栄ですね。では私の信徒に加護を与えましょう」


「お、やったね。それなら何が来ても大丈夫だ」


 状況は笑ってしまうぐらい絶望的だ。でも、冗談が言えるくらい皆が明るい。


 絶対に助かる。


 そんな予感なのか願望なのか区別がつかない気持ちを胸に、イチコは近くにあった銀の柵を抱え込んだ。


 見れば家族は全員テーブルの近くに固まっている。イチコもできればそちらに行きたいが、もういつ歪みが発生してもおかしくないので動けない。


 サイレンが鳴り止まない中、運命の瞬間を待った。そして、ついにその時がやってくる。


 ピシッ……。


 サイレンの音に紛れて微かに何かが割れるような音がした。


 ――始まった。しかしあらかじめ待ち構えていたイチコに動揺は無い。


 予定通り、抱え込んでいる腕に力を込めて死の耐久レースに備えようとする――が、直前で思い留まった。何故ならば、その音が聞こえてきた場所に問題があったからだ。


 イチコは、ガバッと顔を向ける。音の発生源、顔のすぐ横にあった柵の方へと。


 すると、そこには柵も空中も関係なく横断する、卵の殻に入った罅のような黒い線。奈落の扉が、今にも開こうとしていた。


「クソッ!!」


 柵を手放すと、悪態を吐きながらイチコは走った。向かう先は、無意識の内に家族の元へ。とにかく間に合えと、ただそれだけを思って走った。


 大したことないはずの距離がやけに遠い。長く感じる時間の中、イチコはふとおかしなことに気づいた。


 自分の左右を、後ろから追い越していく物体がある。


 それは最初、小さな欠片だった。だが、段々とその欠片も大小入り混じったものになり、やがてひしゃげた銀の棒のようなものも目に付き始める。


 前を見れば、歪みの発生にいち早く気づいたニコが、テーブルの脚にしがみつきながらも必死の形相でイチコに向かって手を伸ばしていたのだが、今やその腕は縮み、何故か恐怖に怯える顔をしていた。


 その目線はイチコの方を向いていながらもイチコを捉えていない。一体、どこを見ているんだという疑問がイチコの頭をよぎった時、ソレは唐突に視界に現れた。


 イチコの左右、そして頭上を、黒くて大きな何かが通り過ぎていく。しかしそれは一定の位置まで進んで止まると、反転。


 一気にイチコに迫った。


「ガッ、ァ…………ゥッ」


 およそ人間の身体が鳴らしてよいものではない、鈍い断折音を響かせながら、凄まじい力で四方八方から押し潰される。


 イチコの身体はその力に耐えきれず、外圧から身を守るための骨の鎧はいとも容易く砕かれ内臓を傷付ける刃となった。喉からこみ上げるものはあっさりと口から逆流し、赤い液体を垂れ流す。


「お兄ぃぃッ!!」


「イチコッ!?」


 痛覚から伝わるとんでもない衝撃の大きさに気を失いかけたイチコだったが、誰かの声でどうにか意識を繋ぎとめることに成功する。


 今もなお、押し潰さんと身体中に圧力が襲い掛かる中、まとまらない思考が現状分析を開始した。


(なんだ、これ……。握ってる、のか? 手……?)


 黒い何かのせいで半分以上の視界を奪われているが、目を下に向ければソレを見ることができた。


 岩のようにゴツゴツした黒いものがイチコの身体を覆っている。こうなる直前の光景を繋ぎ合わせると、とても考えづらいことではあるが、これが何かの手であるように思えた。


 ただ、それがどうしたという話だ。


 そこから先のことを考えるのはとても面倒で、どうでもいい。


 何が何だかよく分からないし、瞼も段々と重く、頭も霞がかってきた。耳はまだ活きているが、入ってきた情報は何も頭に残らない。そこからは全てが子守唄だった。


 ドカドカと土足で家の中に入り込んでくるような複数の足音も。


 ムラサキ・シンという単語も。


 「撃て」という言葉から始まった音の暴力も。


 誰かの悲痛な、叫び声も。


 最後に、何もかもを置き去りにするかのように身体が後ろに引っ張られる感覚がして、イチコの意識は完全に沈んでいった。

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