第3話 少し先の未来 三

 リビングに着くとコーヒーメーカーから音がする。もう何度も繰り返されてきたルーティーンに、イチコは慣れた手つきで湯気の立つコーヒーカップを手に取った。


「ありがとね、エトナ」


「どういたしまして」


 鼻を近づけると香ばしい香りが頭の中を駆け巡る。それを充分に堪能した後、ひと口コーヒーを口に含めば、程良い酸味と苦味が舌を刺激した。


 持ち歩いても溢れない程度に量を減らすと、光に吸い寄せられる虫のように窓際に寄る。そこからの眺めは、いつもイチコを魅了して止まなかった。


「あー……。今日もいい天気だなぁ……」


 雲一つない快晴のもと、どこまでも広がる大海原は小波が陽の光を反射して白くきらめいている。そして広大な海に彩りを添えるのは、これまた遠くに見える緑の大陸。


 今の季節を象徴する自然の鮮やかな命の色は、イチコたちの住まいがある高度三千メートルから見下ろしてもその美しさに翳りはない。時間や時期によって全く違う表情を見せる空と海と大地のコントラストは、同じものが二つとしてない、その場限りの一点物だ。


 美味しいコーヒーを飲みながらその景色を心行くまで堪能しようとするイチコ。しかし残念ながら、イチコのやろうとしていることは許されるものではなかった。


 ピピピ、と不意にリアクターから考えを逸らすようなアラームが鳴る。


 あ、と思ったのも束の間、エトナから注意喚起が飛んだ。


「地上に対する興味指数が基準値を超えています。視界から遠ざけてください」


「はいはい、了解。反省してるから中央管理局への報告はやめてね?」


「……報告が必要なほどの問題ではありません。ですが、最近になってイチコはまた基準値越えの回数が多くなってきているので気をつけてください」


「善処するよ」


 肩をすくめながら外の景色に背を向けるイチコ。何でもない風を装ってはいるが、今日の景色は非常に良かったのでとても残念だった。


(あーあ。興味指数を増やさないようにしながらこの絶景を楽しむ方法ってないもんかね。折角ご近所さんが少ないところに家があるのに、これじゃ魅力激減だよ)


 毎度の事ではあるのだが、内心で愚痴らずにはいられない。地上を見ても何ともない人が大多数なのに、自分が見るとすぐ警告が入るのは不公平だ。


 イチコはこんなややこしいシステムを作って自分の楽しみを奪っていく過去の人たちに文句を言いたかった。


 不平不満を募らせるイチコだったが、而してそんな気持ちもすぐに紛れる。


 視線切って、窓の近くに設置してある転落防止用の銀の柵に寄りかかっていると、外から風を切るような独特な電子音が聞こえてきた。


 どうやら出かけていた家族が帰ってきたらしい。オートパイロットの空を飛ぶ車、飛行車がゆっくりと駐車スペースに着陸した。


 そこからいの一番に飛び出した人影を見て、イチコは思わず口元が緩んだ。


「たっだいまー! って、そこにいたか。お兄、また外を見てたの? よく飽きないよねー」


「お帰り、ニコ。全然飽きないよ。まあ、またエトナに怒られちゃったから今日はもうおしまいだけどね」


 テンション高めに家の中に入ってきたのはイチコの妹であり家族の元気印、ネノヒ・ニコ。大きめのキャスケットに半袖半ズボンと言う簡素な姿は女性というよりも女の子と言う印象が強い。


 成人を迎えているにもかかわらず、色気というものが感じられないニコは兄の返答を聞いて呆れた様子を見せた。


「お兄の趣味をどうこう言うつもりはないけどさぁ。通報されて逮捕だー! っていうのはやめてよね!」


「そこは弁えてるよ。逮捕されたら、もうこの景色が見られないからね」


「ハァ……」


 ニコはあからさまにガクッと両肩を落とす。そのコメディー染みたやりとりは互いの反応に慣れているからこそ。


 そんなことをしていると、ネノヒ家お決まりの風景に笑い声が添えられた。


「ハハハ。諦めろ、ニコ。何といってもイチコは高校入学まであと一歩のところまで行った秀才だからな。父さんたちとは考え方や感じ方が違うのかもしれん」


「イッ君、気分を悪くしないでね? ニコちゃんは、ただイッ君を心配してるだけなんだから。最近はフルダイブじゃない昔のゲームを遊んでいるからって、話せる機会が多くて喜んでるのよ?」


「お母さん!? そ、そんなことないし!!」


「なんだ、そうだったのか。ニコ、今度一緒に地上の美しさについて語り合うかい?」


「興味ないッ!!」


 ニコは顔を赤くしながらズンズン家の中を進むと、冷凍庫から乱暴にアイスクリームを取り出してガツガツ食べ始めた。


 少し揶揄い過ぎたかと思ったイチコは、ニコの機嫌を回復させるべく話題の転換を図る。父親にわざとらしい説明口調で話しかけると、案の定ニコが釣れた。


「それで、どうだったの? バベル・アジアイーストを代表するトップ層ワーカー、ムラサキ・シンは見れた?」


「ん? あぁ、半し……」


「見れた!! なんかね、こうオーラが違うっていうか! ひと目見て『あ、凄い』って感じ!? 近寄りがたい神聖さすらあってさぁ、ボディーガードそんなに要らなくない? って思ったね! いやホント、まさかムラサキ・シンがこんな下層に来るなんて。有名人見る滅多にないチャンスだったんだから、お兄も来ればよかったのに!」


 身振り手振りを交えながら、捲し立てるニコを見ればイチコの作戦が上手くいったのは疑いようがない。その事に安堵しながらも、ニコのミーハー具合に父親と顔を合わせて苦笑いした。


 ムラサキ・シンほどの世界的に名が知られるワーカーともなれば、是が非でも見に行きたくなる気持ちも分からなくもない。まだ大学を出たばかりだと言うのに、最近では実現性を帯びた時空間転移理論を発表したこともあり、まさに時の人だ。きっと、これからもその名声は高まっていくのだろう。そんな超有名人が、現在バベル下層に降りて来ていると話題になっていた。


 その情報は当然、ミーハーなニコによってネノヒ家でも周知される。皆で見に行こうと言う話になったのだが、イチコは適当な理由を言ってついていかなかった。


 怖かったからだ。


 叶わなかった夢を目にすることで、自分の心に僅かに残っている負の感情が暴走してしまうことが。


 華々しき、人々が尊敬して止まない、ワーカー。


 AIが発達し、経済に人の手がほぼ必要なくなった世界でもなお、必要とされる精鋭集団、ワーカー。


 そんなワーカーへの道が、後もう少しで。この面接さえ通れば開かれると言うところで閉ざされてしまったイチコ。


 手応えを感じていただけに失望は大きく、当時の未練がましい気持ちは八年経った今でも完全に無くせてはいない。


 情けないと思う。ネノヒ家がバベルから遠く離れた、こんな辺鄙な場所にあるのも、辛い気持ちを少しでも忘れられるようにと両親が気を遣ってわざわざ引っ越してくれたからだ。ニコにしたって、賑わっているバベル周辺の方が良かっただろうに、こんな兄のために文句も言わず了承してくれた。


 それなのに。


 もう、忘れてしまいたかった。いい加減、前に進みたかった。


 少し無神経だけど、決して悪気は無くて、心のそこから子供たちを誇りに思っている父。


 ほんわかしているけれど、周りをよく見ていてそれとなくフォローしてくれる母。


 自分と違って、高校に入れなくても全く気にした素振りを見せずに、変わらず元気だった強いニコ。


 大好きな家族と、一緒に同じ方向を見て生きていきたい。


 ただ、あと少しだけ時間が欲しかった。


 昔は自分のことばかりで精一杯だったことを考えれば、着実に良くはなってきている。そうでもなければ、自分からワーカーの話を振ったりはできないだろう。


 人から見れば笑ってしまうような小さな前進だけど、イチコにとっては大きな進歩だ。頼りない自信を胸に、明るく振る舞えている。


 しかし、家族は騙し切れないようだ。ニコがあっさりと話を変えることで、それを痛感させられる。


「あ、そうそう! お兄、家に戻ってくる途中でね? また飛行車事故があったの! しかも結構近くだよ!? 軽いやつみたいだったけどさ、怖いよね!」


(あたかも今思い出したかのように振る舞ってるけど、目線の動きに一つ無駄があったね……。声もいつもより少しだけ高いし、何より表情に不自然な硬さがある。……はぁ、指摘する分には簡単なんだけど、実践するのが難しいんだよなぁ。特に表情。もっと上手く演技できれば気を遣わせずに済むのに……。でも、ありがとうニコ)


 表情が硬くなるのは、嘘をついている自分を相手がどう見ているかを無意識レベルで気にしてしまうからだ。不自然にならないように、相手から目を逸らさないようとすると、余計に力が入る。これが自然体を邪魔する正体だ。


 その人を見ながらも、焦点が全体になっているか点になっているか。たったそれだけの違いで、分かる人には分かってしまう。ニコは普段から一緒にいるだけあって、その変化は間違えようがなかった。


「なんだって……?」


 ニコの気遣いに感謝しつつ、もっと精進しないとなぁとか思いながら、それはそれとして何でもないかのように応じる。


 実のところ、ニコが齎した情報は純粋に驚くに値するものだった。


 空を飛ぶ車が事故を起こす。それが大変不味いことなのは誰だって想像がつくだろう。


 人命や建物被害、考えることは色々ある。しかし、今回の事故で一番の問題は別のところにあって、イチコが驚いたのはそれが原因だった。


 飛行車は、万が一が無いように何重にも対策が施されている。オートパイロットなのもその一環で、行き先を指定するだけで勝手に高度やルートが決定し、後は寝ていても到着する便利な乗り物になっているが、それを制御しているのは飛行車ごとに搭載されているセンサー……などではなく、飛行車を制御するためだけに作られた管制司令塔独立AIだ。


 その性能は、各バベルに存在するマザーAIの演算能力に匹敵すると言われており、これが一日二四時間、三六五日、全ての飛行車の航空ルートを管理・効率化し、人々の安全を守っている。


 このAIが実装されてからの事故発生率はバベル内で年に一回もない程度。驚異的という言葉すら生ぬるいほどの実績を残し続けている。


 加えて、飛行車は稼働時自ら点検を行い、何か問題点が見つかればそれを直すまで決して運転できない仕様だ。


 システムと機体、両面から対策を施すことによって極限までの安全性を実現していた。


 そんな飛行車だが、今年に入ってからこのバベルだけで既に二回も事故を起こしている。いずれも軽い接触事故だったとは言え、明らかに異常だ。


 そして今回で三回目。この前代未聞の事態に鑑みれば、殿上人のワーカーがこんな下まで降りてきたのも納得できると言うもの。


「どうやら上にいるだけじゃ原因が分からなかったみたいだね。司令塔がおかしくなったわけじゃないってことかな」


「でも、これだけ続いてると飛行車側の問題っていうのも考えづらいよね? こっちに来て何か分かるのかな?」


「まさか解決の糸口すら掴めてねーって言うんじゃねえだろうな。困ったもんだぜ」


「長期化しそうなのかしら。降りてきたワーカーが一人っていうことを考えると、そこまで深刻な問題でもないのかなって思うんだけど。どうなの、イッ君?」


 全員の視線がイチコに向く。その目には、イチコの言うことなら素直に受け入れると言う信頼の色がある。


 いつの頃からか、イチコは家族の中で意見のまとめ役のような立場にいた。別に最終学歴は変わらないし、まだまだ人生経験が不足しているが、それでも家族が期待してくれているのなら、イチコはそれに応えたい。この話題に区切りをつけるために結論を述べた。


「うん。分からないね」


 あっさり言い放った後、冷めてきたコーヒーを飲む。ニコたちはそれをぽかんとした顔で見ていた。


「長期化の可能性も高いと思うけど、それでも確かなことは言えない。そもそも、僕たちには正解に辿り着けるだけの情報が無いしね。ここは無理をしてどっちかに決めるんじゃなくて、長期化に備えて準備しておくのがいいと思うよ」


「……くッ、正論すぎて何も言えない件。弄ばれた! 考察フェイズかと思って話に乗ったら、ちゃぶ台ひっくり返されたぁ!」


「ちゃぶ台って、よくそんな昔の物が出てくるな。あと、話の発端はニコだからね?」


「だがまぁ、イチコの言う通りだな。確かに考えたって仕方がねぇ。できることをするだけか」


「うふふ、いつもイッ君は頼りになるわねぇ。帰ってくる時に原因のことばっかり話し合っていたから、頭の中がそれだけになっちゃってたわ」


「あぁ、そうだったんだね。なら仕方ないよ、とりあえず役に立てたのならよかったかな」


 話を締めくくるイチコ。その頭の中では、既に異常事態が長引いた場合に予想される影響と、調達が困難になりそうな日用品のリストアップを始めていた。


 しかしまだ考えが切り替わらないのか、ソファーに座っていたニコは背もたれに身体を倒すと、伸ばした手足を悔しそうにじたばたさせる。


「あーあ、今回こそはお兄と一緒の考えになるように頑張ったのになぁ。アクリにも聞きまくったのに、こういうことには全然答えてくれないし! ねぇ、お兄。ぶっちゃけアクリよりもさあ、エトナの方が性能良いよね?」


「はは、そん……」


「――心外ですね。我々の性能に差があるわけではなく、単にあなたが私を使いこなせていないだけです」


 ニコからの問いかけを否定しようとしたイチコだったが、どこからともなく聞こえてきた声に遮られる。

 

 次の瞬間にはニコの後ろに長身のメイドが立っており、ニコに冷たい眼差しを送っていた。


「うわ、出た!」


「チッ。……ごきげんよう、イチコ。早くコレと主人を代わってください」


「コレ!? いきなり出てきておいて、何と言う言い草!」


「自演乙」


 突然現れてニコと辛辣なやりとりをしているのは、ニコのパートナーAI『アクリ』だ。イチコと違い、流行りにはしっかりと乗っていくスタイルのニコは、細部にまで拘ったアバターを用意していた。

 

 おおよそ今の時代ではあまり聞かない言葉遣いをするのは、結構変な知識まで持っているニコの影響だろう。メイド服で見事なカーテシーを披露するアクリに、イチコは朗らかに返す。


「やあアクリ。今日のコンビネーションもバッチリだね。そんな仲の良い二人の間に割って入ることなんて、とてもじゃないけどできないよ」


「……爽やか。好き」


「おうお前おめえ、お兄に色目使うのに夢中でセリフ忘れてんじゃねーぞポンコツ」


「チッ!」


 もはやただの舌打ちではなく、セリフで舌打ちを表現するアクリ。不承不承といった体で喋り始めたのは、おそらく台本で決めてあったであろう言葉ではなく、ただのネタバラシだった。


「ご主人様、どうやらこの小娘は私を利用することにより、『恋に堕ちる』と『地上に落ちる』を掛けて小賢しい注意喚起を促したかったようです。乙女の恋心をギャグ同然に扱うとは許すまじ。どうかコレをパラシュート無しのスカイダイビングをさせる際には、リアクターを外してからでお願い致します」


「ガチでネタバレしたな!? 一生懸命考えたのに!」


(あぁそういうことか。なんともニコらしいね)


 ニコを見ているとついつい微笑んでしまう。要するに、『飛行車の運転を控えよう』と言うことを面白おかしく伝えるために、あらかじめネタとして仕込んでおいたのだ。


 先程の会話の感じからすると、どういう話の流れになるかまでは分からなかったはずだから、きっと他にもネタを用意していたに違いない。


 ニコは常に周りを楽しませようとする傾向があるが、そのための目に見えない努力は単純に凄いと思う。そして、そんな努力を怠らない妹が兄として愛おしかった。

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