前略、初出社です。
内定の通知を受けた翌週、俺はホロエコ本社に正社員として足を運んでいた。
「……ふひっ」
おっと、明らかにやばいやつが出す声が出てしまった。平常心平常心。
「ぶひっ」
おい、もっとキモくなってるぞ灯織漣! 平常心をどこにやった!
「えーっと、今日は研修だから…研修室に行くのか」
エントランスの案内板を見ながら俺はこの建物の構造を頭に入れておく。
「よし、じゃあ行きますかね」
そう思って足を目的地のある廊下に向けた矢先、
「あれ、漣じゃん! 久しぶりだな!」
「…その声は、
ふと声をかけられ、振り向くと髪の短い青年がいた。記憶を漁り、その人が大学時代の先輩だということに気づいた。
大学時代の数少ないサークル繋がりの先輩だ。
「おう、久しぶりだな。まさかこんなところで会うとは思わなかったぜ」
大学時代は比較的髪が長かったので一瞬気づかなかった…。
「今日からこの会社に転職することになりまして」
「おー! そうなのか! ちなみに俺、研修担当だから、わからないことがあったら何でも聞けよ!」
「はい。よろしくお願いします!」
よかった。この人が研修担当なら気兼ねなく質問ができる。
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研修室に案内され、早速研修が始まる。中途採用でタレントーマネージャーを志望したのは俺だけだったようで、研修室には俺と先輩しかないなかった。
「よし、まずはタレントマネージャーの基本的な仕事を言ってみろ」
「タレントのスケジュールの調整。プロジェクトの進行、社内外の調整や交渉です」
「ああ、そこから、タレントのメンタルケア、モチベーション管理。自己実現のサポートなど、まあ言ってしまえばタレントの重要なパートナーだ」
「はい」
「俺たちの仕事はタレントの夢を支え、彼または彼女たちのために全能力を使う。そんな仕事だ」
「理解してます」
「よし、なら座学終わり! あとは実践あるのみだ!」
「え、いきなりですか」
こういうのはもっと座学をするイメージがあるぞ。
「習うより慣れろ、まずは俺の仕事を手伝ってくれ。それを通してある程度慣らす、俺がもう大丈夫だと判断したら研修終わり。OK?」
「相変わらず大雑把ですね。上の人に怒られるんじゃないですか?」
「研修は責任者が形式を自由に決めていいことになってるからな。多少の審査はあるけど、こういうのが一番やりやすい」
「まあ、先輩がいいならいいんでしょうけど」
「よし、じゃあ俺の担当タレントのところに行くぞ!」
移動中、先輩が色々話しかけてきてくれた。
「そういやよ、この会社で
五味というのは大野先輩と同じサークルの先輩だ。
「五味先輩もいるんですね。分かりました」
「ま、あいつも今特に忙しいし、ゆっくり話す機会は少ないだろうがな」
「何かあったんですか?」
「……ちょうど、あいつの担当タレントが燃えててよ。まだ小火だからいいけど、念入りに火消ししないといけなくてな」
炎上はVの世界ではそれほど珍しいことではない。ただ、炎上することによってタレントや事務所のイメージダウンにつながるので、対応は慎重かつ徹底的にしなければならないと聞く。
「さ、この部屋の中に俺の担当タレントがいるんだが……今もホロエコの配信は見てるのか?」
「ああ…ここ数週間でまた見始めました。前の仕事のときは忙しくって」
「そうか…じゃあテストがてら、誰の担当をしているのか当ててもらうぜ。俺が担当してるのは…この子だ」
そう言ってある部屋の扉を開ける。
「おはよう鞍馬さん」
「あ、おはようございます大野さん。…後ろの方は?」
ボブカットの女性が、透明感のある声で先輩に質問する。
「俺の大学の後輩です。新人研修ってことで俺の手伝いさせてます」
「ひ、灯織といいます、よろしくおねがいします」
俺は先輩の後ろから深々と頭を下げる。
「お前、まだ女性が苦手なのか? Vは好きなのに」
「Vtuberはほら、画面から出てこないじゃないですか。本物の女性はめっちゃ動くし近づいてくるので苦手です」
「なに訳のわからないことを……んで、はい。俺が誰の担当してるか、分かったか?」
「おっ、クイズですか。緊張しなくていいですよ灯織さん。私はまだわかりやすいでしょうし」
「え、えーっと」
女性の声を反芻しながらホロエコのVの声を重ね合わせる。現在ホロエコは3期生までの13人が在籍している。そのなかでこの声に似ている人は…
「……2期生の、
「正解! こんばあんばー! ホロエコ2期生、橙瞳琥珀の中の人、
「名前は本名なんですね。よろしくおねがいします」
「というわけでしばらく後輩が手伝いするから。そこのところよろしく」
「了解でーす。じゃ、収録行きますか」
「あ、これから収録なんですね」
「おう、漣も来い。vtuberの職場っていうのがどんなのか、実際に感じてみろ」
そういうわけで、俺は早速鞍馬さんの収録に同行することになった。
「あ、運転お前な漣」
「初日の新人に運転任せるのはどうなんです?」
「私がちゃんとルート教えるから大丈夫だよ」
「そこは先輩が教えるんじゃないの!?」
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鞍馬さんが道案内をしてくれたおかげで、俺はスムーズにスタジオにまで運転することができた。
「ここがスタジオですか…」
車から出た俺は始めて撮影、収録用のスタジオというのを目にした。
「結構大きいでしょ?」
「はい…」
さすがはホロエコが23億円をかけて建てた最新鋭のモーションキャプチャー、音響、その他諸々撮影に必要なものすべてを兼ね備えたスタジオだ。存在感が違う。
「先輩、鞍馬さんはなんの収録なんですか?」
「えーっと、今日は『歌ってみた』の収録だな。鞍馬さん、8番ってどこのスタジオ?」
「大野さん……ここ来るの何回目ですか? こっちですよ」
呆れたように鞍馬さんが歩き出す。
「灯織くんも離れちゃダメだよ? 同じような景色が続いて迷いやすいからね!」
「は、はい」
鞍馬さんなら運転のときのようにしっかりと案内してくれるだろう。そう思って俺は先輩と一緒に鞍馬さんの後をついていった。
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「……」
「……」
「……なあ、この通路、さっきも通ったよな?」
歩き始めて数分後、先輩がそんなことを言い出す。
「い、いや、そんなはず無いじゃないですか。方向音痴の大野さんならともかく、私が道に迷うなんてこと……あるはずが…」
数秒の重苦しい沈黙。そして先輩がこう結論づけた。
「……迷ったな」
「ふえええええん!! 迷っちゃったよー!」
「まずいな、収録時間まであとちょっとしか…」
あたふたする2人を尻目に俺は途中途中にあったスタジオの番号を思い出す。
「あの…先輩、鞍馬さん。多分こっちだと思います」
「えっ、灯織くんわかるの!?」
「さすが俺の後輩だ!」
たしか…さっき通ったのが12番スタジオだから…
俺は二人がついてきていることを確認して来た道を戻る。
「……知らないうちに通り過ぎてたみたいですね」
目の前には「8」と書かれたスタジオの扉が。
「…ま、まあ後輩に花を持たせるのも先輩の仕事だしな」
「大野さん。言い訳、いくない」
「よくやった漣。お前のおかげで俺たちは遅刻をせずに済んだぞ」
「まあ、鞍馬さんが遅れなくてよかったです」
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