烏山藩の救済

 ここに烏山藩の様子をみてみましょう、『二宮翁夜話』巻五、全体の第百九十「烏山領救荒取扱の說話」にその様子がみえます。


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)がおっしゃいました。


「私が烏山藩やその他に施行した飢饉の救助方法は、まず村々にさとして、飢渴にせまられたものの内を引き分けて、老人・幼少・病身等の力役につき難きもの、また婦女子でその日の働きが十分にできないものを残らず取りしらべさせた。寺院かまた大きな家を借りうけて、このところに集めて男・女を分かち、三十人、四十人ずつ一組となして一つのところに世話人一名か二名を置いた。


 一人につき一日に白米一合ずつと定めて、四十人なれば一度に一升の白米に水を多くいれて粥にして炊いて、塩を入れてこれを四十椀に甲・乙なく平等に盛りわけて一椀ずつ与え、また一度は同じようではあるけれど菜をすこしだけ混ぜて味噌を入れて薄い雜炊とし、前と同じ量に盛って一椀ずつかわるがわる、朝より夕まで一日に四度ずつとさだめて与えたのである。


 そうすれば一度に二勺五才の米を粥の湯になしたものとなる。これを与えるときにねんごろにさとさせて申しおいた。


「汝らの飢渴については深く察している。まことに愍然(あわれむべき)のことである。


 今、与えるところの一椀の粥湯は、一日に四度に限っているので、まことに空腹にて堪えがたいものであるだろう。


 そうではあるといっても大勢の飢えた人々に十分に与えることのできる米・麦は天下にないのだ。この些少の粥湯では飢えをしのぐに足らないだろうし、まことに忍びがたいはずであろうけれども、今日は国中に米穀の売りものはないのだ。


 金・銀があっても米を買うことのできない世の中なのである。そうであるのに領主の君公(烏山藩・大久保忠保侯)は莫大の御仁惠をもって食(救い米)を開かせられ、御救いとしてくだされたところの米の粥である。一椀であるといえども容易なものでない、厚くありがたく心得て、夢々不足に思うことのないように。


 また世間には草の根・木の皮などを食させることもあるけれども、これはたいへん宜しくない、病を生じて救うことができなくなるだろう。死するものが多く、たいへんに危いことである、恐るべきことだ。世話人に隱して、決して草の根・木の皮などを少しであっても食べることがないように。


 この一椀ずつの粥の湯は、一日に四度ずつ時を定めてきっと与えるものである、そうすればたとえ身体は痩せるとも、決して餓死するような患いはない。


 また白米の粥であるので、病の生ずる恐れも必ずない。新麦の熟するまでのあいだのことであるので、なんとかして空腹をこらえ、起臥も運動もゆるやかにして、なるだけ腹の減らぬようにして、命さへ続けばそれをありがたいことと覚悟(心構え)しなさい。


 よく空腹をこらえて新麦の豊熟を天地に祈って、寝たければ寢るがよい、起きたければ起きるがよい、日々何もするにはおよばない、ただ腹のへらぬように運動し、空腹をたえる(堪える)をもってそれを仕事と心得て、日を送るべきである。


 新麦さえみのれば十分に(食事を)与えることができる、それまでのあいだは死にさえしなければありがたい、とよくよく覚悟し、かえすがえすも草・木の皮・葉等を食べることがないように。


 草・木の皮・葉は毒がないものといっても、腹に馴れないがために多く食したり日々食すれば、自然毒のないものも毒となってそれがために病を生じ、大切な命をうしなうこともある、必ず食することがないように」


 そうねんごろにさとして空腹に馴れさせ、無病であらしめるこそ窮民を救うための上策であるだろう。


 必ずこの方法にしたがい、一日一合の米粥を与え、草木の皮・葉などは食せよとはいわず、また食させないのである。これがその方法の大略である。


 また身体が血壮の男・女は別に方法をたてて、よくよく説きさとして、平常は五厘の縄・一房を七厘に、一錢の草鞋を一錢五厘に、三十錢の木綿布を四十錢に買いあげて、平日は十五錢の日雇の賃錢は二十五錢ずつはらうことにより、村中の一同が憤発・勉強して、(仕事に)勤めて錢を取てみずからの生活を立つべきである。


 繩・草鞋、木綿布等はいかほどにても買いとり、仕事は協議・工夫をもってしていかほどにても人夫をつかうことにするのならば、老・幼・男・女を論じないで身体が壮健のものは、昼はいでて日雇賃を取り、夜はいりて繩をない、沓・草鞋を作るべきである。


 そう懇々と說諭して勉強させるべきである。


 さてその仕事は、道・橋を修理し、用水・悪水の堀をさらい、溜池を掘り、川よけ堤を修理し、沃土を掘りいだし、下田・下畑に入れ、畔の曲れるものを真っ直ぐになおし、せまき田をあわせて大にするなど、その土地、土地についてよく工夫させるのならば、その仕事はいかほどもあるはずである。


 これは私の手に十圓の金を損して、彼らに五十圓、六十圓の金を得させ、ここに百圓の金を損して彼らに四百圓、五百圓の利益を得させ、かつその村里に永世の幸福をのこし、その上に美名をものこす道である。


 ただ恵んで費やさないだけではなく、すくなく恵んで、大利益を生ずるの良法である。窮乏のはなはだしいのを救う方法は、これよりよいものはないだろう、これは私が実地に施行した、大略である」


『二宮翁夜話』は続きの文章、巻五、第百九十一でも同じ話題を取りあげています。これは先の文章の補足になります。


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)はまたおっしゃった。


「天保七年(1836年)、鳥山候の依賴によって同領内にて右の方法を施行したる大略は、一村、一村にさとして極難のものの内、力役に就くことのできるものと就くことができないものとを二つに分って、力役に就くことのできない老・幼・病身等の千有余人を鳥山城下なる天性寺の禅堂・講堂・物置やその外の寺院、また新たに小屋二十棟をたてもうけて、一人・白米一合ずつ、前にいった方法にて、同年(天保七年・1836年)十二月朔日ついたちより翌年(天保八年・1837年)五月五日までお救い(の食事を)つかわした。


 飢えた人々の鬱散のために藩士の武術稽古をこのところにて行わせて縱覧を許し、折々には空砲を鳴らして鬱気を消散させたのである。そのうち病気のものはみずからの家に帰らせ、また別に病室をもうけて療養させ、(天保八年・1837年)五月五日の解散のときには一人につき白米三升、錢五百文ずつを渡して帰宅させたのである。


 また力役につくことのできる達者なものには、鍬一枚ずつ渡しつかわし、荒地一反步につき、起こし返し料・金三分二朱、仕付け料・二分二朱、合せて一圓半、ほかに肥し代・壹分を渡し、一村が「限り出精」(ここ意味とれず)にて、ことに幹(幹事)となるべきものを人選し、入札にて高札のものにその世話方を申しつけて、荒田を起こしかえして、植えつけをさせたのであった」


 ここでも金次郎さんが工夫をして人々に食事を配給し、飢饉が終わったあとも利益となるように人々の働かせかたを調整して、飢饉をのりきることに気を配られているのがわかります。


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