天保の飢饉

 では『報徳記』の天保の飢饉の記述をみていきます。


 さきに天保四(癸己)年(1833年)の初夏、時気が不順であって霖雨(長く続く雨)が止みませんでした。


 金次郎さんはある時に茄子を食されたところ、その味が常と異なっており、あたかも季秋(秋の終わり)の茄子のようでした。箸を投げられて歎いておっしゃいました。


「今の時は初夏にあたっている、そうであるのにこのもの(茄子)はすでに季秋(秋の終わり)の味がすることはどうしてただごとであるだろうか


 このことをもって考えるに陽発の気が薄いために陰気がすでに盛んとなっている、どのようにしてか米穀が豊熟することができるだろうか、あらかじめ非常に備えなければ百姓は飢渴の憂いにかかるだろう」


 ここにおいて三村の民に令しておっしゃいました。


「今年は五穀の熟作はできない、あらかじめ凶荒の備えをなすべきである。一戸ごとに畠・一反步はその年貢を免ずるだろう、すみやかにひえを蒔き、飢渴を免れるための種としなさい。ないがせにすべきではない」


 おおくの民はこのことを聞いて笑って申しました。


「先生(二宮尊徳翁、金次郎さん)に明知があるといえども、どうしてあらかじめ年(収穫)の豊・凶を知ることができようか、戸ごとに一反歩の稗を作ったならば三村にはあまたの稗ができるはずだ、どこのところに稗を貯えよう。


 かつ稗なるものは、旧来から貧苦に迫ったとしてもいまだこれを食べたことはない。今、稗をつくったとしても食べることができない、そうであるならば無用のものというべきである。


 たとえ人に与えるとしても、誰がこのようなものを受けるだろう、詮なきことを令するものであるな」


 そう嘲ったものでした。


 そうではありますが(藩が)年貢を免れるために作らせたのです。これにそむけば必ず令を用いていない咎めがあるだろうと、止むことをえずしてにわかに稗をつくって、無益なことをなすものだ、と怨望するものがあるまでに至りました。


『報徳記』はそのように金次郎さんの命令を残しています。たくさんの稗、これがのちに大きな役割をはたします。


 この天保の飢饉の対応については、『二宮翁夜話』の巻五、全体の第百九十六「天保兩度の凶歲に付て用意件々」の記録にも内容がみえます。


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)がおっしゃいました。


「天保四年(1833年)、同じく七年(1836年)、両度の凶歲は七年(1836年)がもっとも深刻だった。


 早春より引きつづき季候が不順であって、梅雨より土用に降りつづき、季候がたいへん寒冷であって陰雨と曇天のみで晴れの日はまれであった。晴れたと思えば曇り、曇ったと思えば雨が降った。


 私は土用の前からこのことを憂い、心を用いていたのだが、土用にさしかかって空の気色が何となく秋めいてきて、草木にふれる風もなんとなく秋風めいてきた。折節、ほかより新茄子が到来したのをぬか味噌に漬けて食べたのだが、自然の秋茄子の味があった。


 これによって意を決し、その夕より凶歲の用意に心を配り、人々をさとしてその用意をなさせて、その夜は終夜(一晩中)で書状をつくって、諸方に使いを発して凶歲の用意を一途に力をつくさせた。


 その方法は空き地はもちろん、木綿の生いたちたる畑をつぶして、荒地や廃地を起こして、蕎麥・大根・菁蕪かぶ菜胡あぶらな蘿蔔にんじん等を十分に蒔きつけさせ、粟・稗・大豆等のすべて食科になるはずのものの耕作と培養に精細をつくさせて、また穀物の売りものがあるときは、どのようなものに限らずみなそれを買い入れ、すでに借り入れの抵当がなくなったので、貸し金の証文をも抵当に入れて金を借用したのだった。


 この飢饉の用意をあちこちの方面に通知したうち、厚く信用してよく取りおこなってくれたのは谷田部・茂木の領邑であった。この通知をえると、その使い(が戻るの)と同道して、郡奉行がみずから馬に鞭を打って来たり、その方法を問うて急ぎかえって、郡奉行・代官役等が屬官をひきいて村里にのぞみ、懇懇と説諭せつゆして、まず木綿畑をつぶし、荒地を起し、廃地をあげて、食料になるべき蕎麦・大根の類を蒔きつけたとのことだった。極端なものとしては堂寺の庭までも説諭して蕎麦・大根を蒔かせたという。


 下野国・眞岡の近隣は、眞岡木綿を生産する土地であるので木綿畑がもっとも多い。その木綿畑をつぶして蕎麦に蒔きかえることを愚民にはことのほかに歎くものがあった。また苦情を鳴らすものもあった。


 そこで愚民に明らかにするために、所々に二畝ずつ、もっとも出来できかたのよろしき木綿畑をのこしておいたのだが、綿の実は一つも結ばずに、秋にいたってはじめて私の說を信じたと聞いている。愚民のさとしがたいのにはほとほと困却したものである。


 また秋の田を刈りとったその田に、大麦を手のまわるだけ多く蒔かせ、それから畑に蒔いた菜種の苗を田に移し植えて、食料のおぎないにした。


 凶歳のときは油断なく手配りして食物を多くつくりいだすべきである。これは私が飢饉を救った方法の大略である」


 このようにして金次郎さんは多くの人を救ったのでした。『報徳記』は、先ほどの稗をつくる命令の続きに飢饉の進行を記録しています。


 そうである(農民たちが金次郎さんを嘲ったこと)のに盛夏といえども降雨が多いままで冷気がおこなわれ、ついに凶歳となりました。関東・奥羽の飢民は枚挙することができませんでした。


 この時にいたって、三村の民は稗をもって食の不足をおぎない、一人の民も飢えにおよぶものはなく、はじめて先生の明鑑であらかじめ凶荒をはかって、下民を安んじようとされた深意を知りました。自分の知の浅かったことを悟り、かつては(金次郎さんのすることを)無益のこととなし、活命の令であったことを嘲けったことを悔やみ、大いにその德を称賛したのでした。


 翌・午年(天保五年・1834年)にいたって、(金次郎さんは)再び令を下されておっしゃいました。


「天運には数があって飢饉となることは遅くして五・六十年、早くして三・四十年、必ず凶荒はやってくる、天明の度(時)以来をかんがえるに、飢饉はきたるはずである。


 去年の凶荒ははなはだしくはなかった。いまだその(備蓄の)数にあたるには足りていない、必ず今一度、大凶作がいたるであろうことは近年にあるはずだ。


 おまえたちは謹んでこれに備えよ。今年より三年のあいだ、畠の年貢を免ずること去年のようにするだろう。家々は心をもちい、稗を植えてあらかじめ飢渴の憂いをまぬがれるべきである。


 もし怠るものがあるならば、名主がこれを察して私に告げよ」


 そう命じられました。


 三村は去年の前見があきらかであったことに驚き、かつ飢渇の害をまぬがれたので、謹んで命にしたがって、糞養をつくして稗をつくりました。このようにすること三年にして、三村の稗は数千石の備えがあるようになりました。


 同(天保)七(丙申)年(1836年)にいたって、五月より八月まで冷気があり雨天して、盛夏といえども北風の寒いことははだを切るがようで、常に衣を重ねねばなりませんでした。この年に(人々は)大いに饑えました。実に天明の凶年よりもははなはだしいところもありました。関八州・奧羽において饑民はおびただしく、餓莩がひょう(飢えた民)は道路に橫たわり、行く人もどうしようもなく面をおおって過ぎさるにいたりました。


 『報徳記』の記述によると、ここに至ってひどい飢饉の様子が現れてくるようになってきました。金次郎さんはどうしたのでしょうか。



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