金次郎さんの歩み

 さてここまで萬兵衛さんのところへあずけられてから、金次郎さんの結婚まで駆け足にみてみました。しかし実は金次郎さんが萬兵衛さんの宅にあずけられたのが金次郎さんが十六歳のときで、そして金治郎さんがはじめの結婚(のち離婚)するのが三十一歳のときでした。ですので十五年の月日が、このあいだには流れています。昭和初期の『二宮尊徳選集』鴇田ときた惠吉先生 編(読書新報社、1943年)にはある程度の年譜がのこっています。また報徳二宮神社、報徳博物館も年表をしるされているので、それを照合しながら少しこのあいだのこともしらべてみたいと思います。


 金次郎さんがお母さんを亡くし、萬兵衛さんのところへあずけられたのは十六歳のときでした。十六歳から十八歳までのあいだを萬兵衛さんのお家ですごし、菜種の油をえて勉学にはげんだのも、捨て苗をひろって米一俵あまりをえたのもこの頃のことのようです。


 十八歳になられると、二月に親戚である岡部伊助さんという人のところへ奉公にはいられることになったようです。ですから二年ほどで萬兵衛さんのお家ははなれられたのかもしれません。そしてこの岡部伊助さんから農耕のひまに習字・読書の手ほどきをうけたとあります。そして先年えた米一俵を五俵にふやしたといいます。この年が文化元年(1804年)です。


 ついで次の年にはもう岡部伊助さんのお家を辞して名主の二宮常左衛門さんに仕えられたということです。岡部伊助さんのところでも、この二宮常左衛門さんのところでも給金をいただかれていたようです。また米の収穫は二十俵になったとあります。米をつくる腕もあがったのでしょう。


 そして次の年に空になっていた家にもどられます。金次郎さん二十歳のときです。そして質にはいっていた田九畝十歩を三両二分のお金で買いもどしたとあります。またお母さんの実家が苦しいとのことで一両を助けたり、余暇に俳句をならったりされていたように書かれています。この年が文化三年(1806年)です。


 次の年になるとまた奉公にでられます。田は小作にだしたという記述もどこかの書籍にはあったようですが、小田原藩の藩士・岩瀬佐兵衛(千石)さんのもとにご奉公されるようになります。これが小田原藩とのかかわりの始めのようです。また弟の富次郎(末弟)さんが疱瘡を病んで亡くなり、善榮寺に葬られたとあります。


 次の年は文化五年(1808年)です。岩瀬家を辞められて、槙島惣兵衛(四百石)さんのもとに仕えられます。母方の家が家計がくるしくまた助けをされています。


 ここまで奉公先を次々とかえられています。そしてお給料をもらわれ、そのお給料で田を買いもどしていかれています。そしてその奉公の基礎になっているのがおそらくみずから菜種をつくってまでしていた夜学にあったのかもしれません。


 さて次の年、文化六年(1809年)になりました。この年、八両一分で田二段六畝十二歩を買いもどされています。貯金をされていたのでしょうね。そして小田原藩の家老である服部家に雇われることになられます。また追加で質にはいっていた田を買いもどし、二畝七歩に二両一分を払ったとあります。


 文化七年(1810年)、次の年です。一段歩を質から買いもどし、四両二分を払ったとあります。こうしてみると相当の田が質にはいっていたことがわかります。この年、六月に富士山へ登山し、十月に江戸見物にでかけ、十一月には関西方面へ、伊勢神宮、京都、奈良、高野山、大阪、讃岐の金毘羅と長い旅をされています。金次郎さん、この時、二十四歳でした。これだけの余裕がでた、ということは、このころにようやくお父さん、お母さんのいた家の再興がなったと考えてもいいのかもしれません。


 そしてここからは小田原藩家老の服部家のお話になります。


 金次郎さんの伝記、『報徳記』によって金次郎さんの歩みをみてみます。ここまでは伝聞なども入りまじえて書いてきましたが、ここからは伝記の文を直接に使います。


 時に小田原侯(小田原藩主)の大夫(家老でした)の服部十郞兵衞さまは世禄・千三百石で代々重役の家であって、一藩がみな服部さまを敬しておりました。そうではありますが家事が思いのままにならないようになって、借財が千有余金におよび、元本も利子もともに償還することができませんでした。百計でこの問題をのぞこうとするのですが、適切なすべをえませんでした。貧困のためにその職を辞そうとされました。


 そう『報徳記』にあります。


 時代は文化の年間です。一番はじめに述べましたが、この前の寛政の時代に松平定信公が棄捐令きえんれいというものをだされ、一旦借金をなしにする命令をだされていました。これにより、札差ふださし(米の取引商)などが破産しました。はじめは借金がなくなったので武士は楽になりましたが、のちになると商人がお金を貸してくれなくなり、武士たちは困窮にあえぐことになったのです。


『報徳記』の続きをみます。


 ある人が服部さまに告げておっしゃいました。


「栢山村の金次郞なるものは、極貧の家に生れ、早くに父母を亡くし、家産はことごとく他人のものとなったのに、縁者の救助をもって生活をし、千辛萬苦をつくしてわずかに米一俵をつくりだしてから、この一俵を種としてついに廃れてしまった家を再興したともうします。それだけではなく、幼若の時より他人をあわれみ、身の艱苦をうれえない所行は天性不凡の性格であって、常人の及ぶところにありません。あなたはこのもの・金次郎をたのみ、厚くこれを遇して一家の再復を任せれば、彼は必ずその義に感じ、心力をつくしてあなたの家を復興することでしょう、(あなたの家の復興は)彼の掌中にあるでしょう」


『報徳記』というのは二宮尊徳翁、つまり金次郎さんの伝記なのですが、その娘婿で弟子にあたる富田高慶という人によって書かれています。ですので、他人からの伝聞によって記述された部分があります。


 金次郎さんは偉大な人でした、しかしその行いは慎重にみる必要があることもあるかもしれません。ともかく『報徳記』の続きを見てみましょう。


 服部さまはおおいによろこんで、すみやかに人をして厚く金次郎さんに依賴をさせました。金次郎さんは固辞してもうしあげました。


「このことは容易なことでありません。私は農夫でありまして、農力をつくし廃家を興すことができたのはもとより農夫の道をつとめたがためであります。今、服部さまは世禄は一藩に冠となっております(多うございます)。それではあるのにこの借財が生じ、衰貧がきわまっているのは士の家を治めるの道を失われたるがためにございませんか、農夫であるのに士の家を興す、どうして私が知るところでございましょうか。あなた(紹介者)は私のためにこのことをお断りしてくださいませ」


 そういってがえんじませんでした。

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