37 騎士長マルルと大広間
ばしゃばしゃと水を蹴る足音と、カツカツと石を蹴り鳴らす少女の足音。
「ちょ、なんでアイツ、壁走ってんの⁉ 怖いんだけど!」
「ほんとだよねー」
普通に床を走ればいいものを、何故か壁を伝って走る少女に恐怖すら覚える。
ゼノは流れる水路のうえを走っていた。右にはリィグが並走している。
だが裏目に出た。これではこちらだけ水を吸った靴で走っているだけだ。
急いで、浅い水路から出る。
「拙は水が苦手なのじゃ! 昔、川で
「いやいや! だからって壁は走らないだろ!」
どういう物理法則なのか、マルルの足は器用に壁の平面にくっついている。
「うわー、女の子があんなに足を広げて走るとか。はしたないよ、あの子」
「そこ⁉」
リィグの着目点に、前を向きながらゼノは突っ込む。
森の時も思ったが、よく後ろを見ながら走れるものだと感心する。ちなみに「兎柄かぁ」という呟きは、聞かなかったことにした。
「うはは! 楽しい狩りの時間じゃ!」
ゼノの隣に追いついたマルル。
風のように走り、頭上のリボンを揺らしながら、楽しげに笑った。
その直後、槍が飛んでくる。
「わっ!」
「え? ちょっとマスター!」
槍を避けた拍子にリィグとぶつかり、雪崩るように水路を転がる。
「うわ、ぐっしょり……」
不快を帯びた声が耳に届くが、いまはそれどころじゃない。
「こっちだ!」
「うわぁっ」
リィグの手を引いて、小路地へ入る。そのまま全力で駆け抜け、もはやどこを走っているのかさえわからない。
(それでも……!)
足をとめるわけにはいかない。
これはただの感だが、あれには関わらないほうがいい。
脳内で
「ねぇ! どこまで行くの!」
「ひとまず外に出るまで!」
こんな暗がりで戦うのは不利極まりない。
ゼノは地上を求めて走り続けた。すると暫くして、ひとつの場所に辿り着いた。
行き止まり。しかし、そこは何かの入り口だった。
「な……んだ? この、巨大な、扉は……」
息を切らしながら上を見上げれば、天井まで届く大きな扉がある。
民家一件、とはさすがに言えないが、城の王の間よりも縦幅のある扉だ。
「開けてみようよ」
リィグが扉を押す。びくともしない。
当然だ。手で押して開くようなものではないのだろう。
「待って、これ」
近くの壁に、取手のようなものがついていた。
青白く輝くそれは、暗い闇のなかでもよく見える。
取手を握り、上から下へと位置を下げる。
がごんと、石がぶつかる音がして、重い石扉がズズズと動いた。
両端の溝に収納されるように、二枚の扉が移動する。
「お、開いた!」
リィグが感嘆の声をあげるとともに、大広間が現れた。
「広っ……」
神殿を思わせる広大な空間は、それこそ王立研究所が丸ごと入るくらいに広かった。
太い円柱が四方に立ち、平らな一面の中央には大きな紋様が描かれている。
部屋の両端には、一本ずつ水路が流れており、部屋の外まで続いていた。
ところどころに見える燭台には、暗闇の中で淡い光を発する石が置かれている。夜光石だ。おかげで広間の中はほんのりと明るく、その全容が見渡せた。
「これ、魔法陣か?」
結晶が置かれた台座をぐるりと囲むように、巨大な円が走り、なにか黒い文字が書かれている。どこの言葉だろうか。見たことが無い文字に、ゼノは首をかしげる。
「読めない。なんて書いてあるんだろ、これ——」
文字の近くにしゃがむ。その瞬間だった。
「マスター! うえ!」
「へ?」
鋭い声に、うえを見上げれば、空を跳ねるうさぎがいる。マルルだ。
両腕で槍を頭上に構え、そのまま落下というところで、ゼノは前に転がった。
うしろで石の割れる音がした。振り向けば、槍が深々と床に刺さっている。
ぎりぎり魔法陣の外側に突き立った槍を引き抜き、マルルは右肩に
右、左、うえ。
すんでのところでかわし、羽ペンを槍に変え、マルルの猛攻を弾き飛ばす。
押されながら後退するうちに、ドンと柱に背中がぶつかった。
「ふ、しまいじゃな!」
マルルが勢いよく、腕を後ろにひく。突き出される槍。
まずいと思ったそのとき。氷の矢が飛んできた。その矢をマルルは相殺し、二歩後ろへ飛んだ。まるで追尾するように、とす、とす、と彼女の足元に矢が刺さる。
そのたびにマルルはひらひらと
「そんなもの拙には——」
最後の矢がマルルの足もとに突き立ったときだ。
ぱきぱきと音を立てて、床が凍ったかと思えば、彼女の右足を捕らえた。
「なんじゃとっ⁉」
氷漬けになった右足を引き
「リィグ、助かった!」
「どうもー」
のんきなリィグの声が広場に響く。
「く、あの金髪の童。なかなかにやりおる——じゃがっ!」
マルルが左足をだん! と強く踏みしめた。途端に蜘蛛の巣のようなヒビが床に走り、マルルは天高く跳躍した。
「嘘だろ、足凍ってたよな? いま」
「うん、そうだね……」
あっけに取られたゼノとリィグは呆けた顔で少女を見た。
「うむ……
足を上下にぶらぶらと振り、氷を落とすマルル。そして、
「こら、
「えー、でもマスターと僕は
「その言い方はやめて」
絶対に人前で言ってほしくない言葉だった。
「まぁよい。なら同時に相手してくれよう」
マルルが槍を宙に浮かせた。ふわふわと彼女の頭上に槍が浮かぶ。
「え、浮いて……」
どういう原理なのだろう。間抜けにも口をぽかんと開けた瞬間、ゼノの足もとに一撃、マルルの拳が入った。床が放射上にうがたれ、素手だというのに、あり得ないヒビの入り方をしている。
いっぽう浮いた槍は、くるくると回転しながらリィグを襲う。まるで意志を持ったひとつの生物のようだ。
「よそ見をする暇などないぞ!」
「おま、なんつー力……それにいきなり拳って」
「ふ、ふーん。拙は
自慢げに言い放ちながら、なおも拳を突き出すマルル。槍杖で弾き返し、ゼノは彼女の猛攻を受け流す。そこで嫌な音がした。
「………っ⁉」
ばきり、と岩が割れるような音がして、からんと槍の柄が石畳のうえに転がった。
「折れた⁉」
「ほほう、これがいわゆる〝ちゃんす〞という奴じゃの」
驚くのも束の間、マルルがぱちんと指を打ち鳴らす。
「いまさっき、よそ見をするなと言ったはずじゃ。うえをみよ!」
楽し気に笑うマルルと、自身の頬からピッと吹き出す血のしぶき。
宙に浮かぶ槍が飛んできて、右の頬に掠めた。薄皮が裂けて、思ったよりも血が流れたらしい。斬られた箇所が、どくどくといっている。
そこにまたもやマルルの拳が入り、ゼノは転がるように避けた。
「うーむ……なんというか、戦いがいが無いのう。そなた先ほどから避けてばかりではないか。そこのリィグとやらのように、拙の首を狙うくらいしてみせよ」
そう言われて視線を斜めに流せば、飛び交う槍を器用にかわしながら、氷弓を引き絞るリィグの姿が目に入る。
とうぜん矢を放ったところで、少女はダンスを踊るように矢から逃れている。正直あまり意味はない。
(どうするか……)
ひとまず少女の異常なまでの脚力はわかった。
観察する限り、足になんらかの魔法を付与しているとみえる。ならここは、彼女がまっすぐ向かってきた時に、腹でも殴って気絶させるのが一番てっとり早い……っと思って、ゼノはすぐにその考えを頭から消し去った。
(いや駄目だ。なるべく傷つけないようにしないと……)
相手は子供で、それも少女だ。
女子供に優しくあれ。アウルがよく言っていた。だから——
「むむ? なんじゃ、もう降参か? つまらぬのう……」
残念そうなマルルの言葉を聞き流し、目を閉じて短くなった槍杖を横一文字に構える。
(集中……)
魔法を押し出す感覚。ペリードの戦いで覚えた、あの体感を呼び覚ます。
——水。波ひとつない、静かな水面。
そこにぽたりと一滴のしずくが落ち、波紋が広がる。
(——ここだ!)
「捕らえろ!
唱えた瞬間。ぶわっと水の塊がゼノの後方から押し寄せる。
それは蛇のように形を変え、いくつもの手となり、マルルを捕らえようとその身を覆う。
が、マルルは天高く飛び、水の魔手をしのいだ。
その下には、行き場の失った水の塊が丸く寄せ集まっている。
「ふふーん! それしきの水魔法——なに⁉」
マルルの驚く声とともに、水がうねりをあげ、天井まで一気に伸びあがる。彼女は水の柱に捕縛された。
「ごぼっ、水は……」
苦しげなうめき声を出して、マルルが水中でもがく。
「これで詰みだ」
勝利を確信したときだった。
ぱんっと、風船が割れるような音がして、水が
ざぁっと冷たい雨が降り注ぐ。床に落下し、
「赤い瞳……?」
まさか。あの獣男や、ペリードのようなやつか……⁉
ゼノはわずかに腰を落とし、すぐに動けるよう構えた。
「……ふ、ふふ。それで、こそだ。やはり狩りは楽しいのう」
ゆらりと立ち上がりながら、にたりと口元を歪め、
「追い、追い詰められ、双方が倒れるまで戦う。
「……っ!」
マルルが顔をあげた。右頬が白い鱗で覆われ、眩い銀の髪がゆらゆらと宙に舞った。
迸る魔力。輝く光の粒。黄の風が、その足元から迸る。
あれは、化物だ。
逃げなければ殺される。ごくりと喉奥に
「——そこまでだ」
凛とした声だった。
灰銀の髪がたなびき、自身の前に立ちはだかる。
「遅くなってすまないね、ゼノ」
振り向きざまに、穏やかな笑みを浮かべるその人は、武装した王佐ロイディールだった。
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